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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.179 「江戸の北斗七星結界」について

2026.03.09 20:30


豆田マジメというアホらしい名前の別人格に、端折った部分を指摘され、やり直しを命じられたので、しぶしぶ書く。いや、本当は当初この部分も書きかけていたのだが、「こりゃ分かりやすくまとめるのは骨が折れるぞ」と危険察知してガッツリ割愛したのだ。畜生あの野郎、見てやがったか。


ちなみに、この話題、かなり都市伝説的な要素満載なので真に受けないように。つっても、将門の首が飛んだ時点で誰も真に受けちゃいないか。




● 「天海」による江戸の都市開発プロジェクト

東京にある平将門に関係する場所をつなげると、ある形になる

徳川家康が江戸を護るために平将門のパワーを利用しようと、将門が信仰していた妙見菩薩が北方の守護神だったことから、将門に関係する場所を「北斗七星」になるように結界を作って江戸を護り、世界に類のないミラクルピースが訪れたそうな(という都市伝説)。


あっそ。てなもんだが、偶然そんな形になったわけでもなかろうし、話半分くらいは調べておいて損はないかも。で、この都市計画の家康さん付きオブザーバーが、そこそこ有名な「天海」さん。実は生きていた明智光秀が天海になったんじゃないか説(信憑性なし)もあり、いきなり胡散臭さが増しますが、まあ江戸開発におけるご意見番だったのは確かなようで。陰陽道にある「四神相応」の考えを元に、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したと云われている。


江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わりますが、その途中で他の設計者が亡くなっていく中で、天海はなお存命し、江戸の都市計画の初期から完成まで50年近く関わったんですと。


特に、天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らした。江戸城の北東(鬼門)には寛永寺を築き、自ら住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味する。天海は、平安京の鬼門を護った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築いた。また、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙った。(芸が細かい)


上記の他、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し家康を祀り、もともと大手門付近にあった神田明神を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされている。


江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍・徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に日枝神社(日吉大社から分祀)を移すなどして、江戸城の鎮護を意図したとされる。(こだわりが強い)




● 家康によって神と祀られた平将門


さて今、神田明神の名が出たが、なんと将門は江戸の守護神として神田明神に祀られている。将門を神として神田明神に祀ることを命じたのは、徳川家康である。のちに神田明神を現在地に遷座させたのは、天海である。そして、天海によって配置された神社群は、“北斗七星の形を描いている”と囁かれるようになる。


① 鳥越神社(台東区)

→ 勝軍地蔵を祀り、将門軍の武運に由来。

② 兜神社(中央区)

→ 将門の兜を埋めたとされる兜塚跡。

③ 平将門首塚(千代田区大手町)

→ 首が飛び戻ったとされる将門塚。今もビルの真ん中に立派な塚が存在している。

④ 神田明神(千代田区)

→ 将門公を正式に御祭神として祀る神社。

⑤ 筑土八幡神社(新宿区)

→ 江戸時代以前から将門伝承が残る古社。

⑥ 水稲荷神社(新宿区)

→ 将門の霊を鎮めるため創建されたとも。

⑦ 鎧神社(新宿区)

→ 将門の鎧を納めたとの伝説あり。


けれども、なんで朝敵とされ首切られた逆賊が「神」として祀られ、星のかたちに将門縁の神社が並んでいるのか? 普通に考えれば不思議な話である。ここに浮かび上がってくるのは、徳川家康の“したたかな戦略”だという。


理由① 民の心をつかむための“神格化”戦略

将門は関東の民衆にとって、逆賊どころか“開拓者”であり、“庶民の味方”だった。平安時代、重税と役人の不正に苦しむ民衆を救うために、朝廷から派遣された役人を排除し、新王として名乗りをあげたのが平将門。まさに、民衆にとっての英雄だった。家康は、そんな民の信仰心を自らの政権維持に利用するために、将門をあえて神として神田明神に祀ったと考えられる節がある。朝廷にとっては敵、しかし家康が本拠を置く東国では英雄⸻平将門を神格化することで、西の朝廷に対する牽制と、東国の民衆の心をガッチリ掌握するという、一石二鳥の戦略でもあったのかもしれない。さすが戦略家の徳川家康。そう思えてくる。


理由②風水都市・江戸の設計意図

江戸は、風水や陰陽道の思想に基づいて設計された。日光東照宮に天体の運行が意図的に取り入れられているように、江戸の地にも星の守りを写した可能性は極めて高い。北斗七星の配置に将門ゆかりの神社を配置するのも、英雄の霊力を借りて都市を守る──そんな家康の見えざる戦略の一つだったのかもしれない。

江戸幕府の創設者・徳川家康は、平将門の祟りを恐れ、むしろ“封じる”のではなく“守り神”として祀ることを選んだ。それが神田明神への将門合祀であり、その後に配置された神社群が、江戸の都を北斗七星の結界で守る役割を担うようになった──。将門を“祀ることで封じ”、そして“祀ることで江戸を護る”という二重の意味を持つ星の布陣だったのではなかろうか。




● 天海が完成させた、その配置


将門公の身体の一部や身につけていたものを祀った神社や塚は他にも江戸の各所に存在するが、それらは全て主要街道と「の」の字型の堀の交点に鎮座している。首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門に置かれた。


これら主要街道と堀の交点には橋が架けられ、城門と見張所が設置されて「見附」という要所になったが、天海はその出入口に将門公の地霊を祀ることによって、江戸の町に街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったのである。


この「の」の字型の町割は、他にもいろいろな利点があった。敵が容易に城に近づけないので攻められにくい、火災の類焼を防げる、物資を船で内陸まで運搬できる、開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる、などなど。江戸では平城京や平安京のような方形の条坊制を採らず、螺旋状に発展する機能性に富んだ町づくりを行なったのである。


このように、江戸の町は街道や掘割といった機能面での仕組みに加え、天海の真骨頂である陰陽道の地相と鬼門封じ、そしてさらに地鎮信仰まで用いてデザインされた。これらソフトとハードの両面での発展の仕組みがあったからこそ、江戸は世界で有数の百万人都市となりえたのではないだろうか。




● 将門は神になれたのか


江戸の大地にきらめく北斗七星についてはじめて公言したのは、作家の加門七海氏である。加門氏は平成5年(1993)に刊行された著書『平将門は神になれたか』の中でこの問題を検証し、詳細に論じている。


加門氏によれば、この北斗七星になぞらえた霊跡の配置は、江戸幕府の「呪術プロジェクト」であり、「将門は大いなる祟り神ゆえ、幕府は慎重に祀る一方、江戸外に彼が逃げないように、呪術の石垣を築いた」のだという。いうなれば、江戸に北斗七星による結界が施されたのだ。


忌まわしい怨霊を江戸に閉じ込めることは、かえって不幸の種を将軍のお膝元にため込むようなものではないかとも勘繰ってしまうが、加門氏は、この呪術プロジェクトの本質を「封じ祀り」と評している。怨霊をたんに封じるのではなく、さらに祀り上げることで、その強力な霊的パワーを自分たちの加護と繁栄に転用させてもらおう、という発想である。


また加門氏は、同書の中で、この江戸の北斗七星についてユニークな分析も加えている。


これら7つの霊跡は、①将門の首に関係するもの(鳥越神社、兜神社、将門塚、神田明神、築土神社)、②将門調伏に関係するもの(水稲荷神社)、③将門の胴に関係するもの(鎧神社)の3つに分類でき、地図で見ると、②の水稲荷神社によって、将門の首(①)と胴(②)が断ち切られているように映る。加門氏によれば、これは偶然ではなく、将門の強烈な霊力をコントロールしようとした幕府の意図的な仕掛けであるという。




以上、人様のWEB記事からコピペ多用させていただきましたが、それでもかなり肩が凝りました(もしや祟りではなかろうか)。


なんでも、徳川幕府が終わりを迎え、明治天皇が東京へ拠点を移す際、「かつての朝敵を神として祀ってるだと?ギロリ」な雰囲気にビビった寺社が、公式にはそれを否定したり、俗説としてしまっているところが多いらしく、「本当は確かに将門とゆかりがあるが、朝敵とされた将門との関係を喧伝することが憚られたのでそれを隠し、公的な記録から消した」というケースも少なからずあるようで。実際、神田明神は明治初期、天皇の参拝にあたって将門を本殿の祭神から外したことがあるのだとか


それゆえ、なんとなく真偽の定かでない都市伝説的な立ち位置になっちゃったみたいですね。でもこれ本当ならば、結構すごい。どんだけ平将門パワー持ってんねんて話ですよ。呪術廻戦の宿儺みたい。さすが日本三大怨霊のひとり。


ともあれ、なんだかんだで、徳川家康や、江戸の街に関する知識がまた増えましたし、わざわざ平安時代まで戻った甲斐がありましたな。


「ふう、ここまで調べりゃ文句ないでしょ?」


「よし、合格だ。な、調べて良かったろ?」


「、、、ああ、まあ、勉強にはなりましたね」


「、、、じゃ、ついでに7神社まわって来たら?」


「まじかよ」


「まじだよ」




参考
https://ameblo.jp/fujisan3216/entry-12089319534.html
https://oedo.site/wp/archives/693

https://note.com/rootsofjapan/n/n56aac711c7c0

https://kuramaejinja.tokyo/history/江戸の北極星信仰/

https://tree-novel.com/sp/works/episode/20b3c93cf271ab76bac17404c5dbd114.html

https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1389?p=1#google_vignette

https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1389#goog_fullscreen_ad

https://web-mu.jp/history/17378/