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癒奏術・響庵

華厳の道 第一章 『天上天下唯我独尊 第六義』

2026.02.14 06:16




天上天下唯我独尊ー第六義 分離から調和へ




神様が守ってくれる

神様に守られてる

仏さまも守ってくれる


昔の人には無い「認識」「感覚」である。


「願いを聞き届ける」というのはあっても「守ってくれる」という感覚はいつからなのだろうと思う。



そもそも自分を守るのは「自分」しかない。

ということを昔の人は幼少期からの生育過程で「それ」を身につける。


しかるに現代人はどこかしら「保護」を前提とする。


いつからだろうか?



恐らく「自分の人生を生きられなくなった」時からだろう。


人は本来自分を守るために他者も保護する。

そういう「当たり前」が前提にあるものだ。


だがそれが失われたから「拠り所」として「守護」を求める。



宗教の教義の中で「守護」を約束する時

それは「隷属」というものの中に自分が居るのが前提である。

「人同士が助け合わない」

ゆえに「守り」が無い。

助け合わないよう「分断」され、「従わざるを得ない」状況を作り出すことが「隷属」の始めである。

だがその状況に身を置いていることの「認識」が無い。


この状態の人は非常にコントロールし易いわけである。



「褒める」と「叱る」という方法で人は教導する。

だがそれは「弱い子供」という時期のもの。

自分で自分を守れぬ段階のものである。


だから思春期という大人に変化する時に反抗期があるわけで、それはいわゆる「脱皮」であり「羽化」である。



「自分で自分を守る」ということを学んでいない者は、だから「自分で自分を守る」という場合、『自分一人で生きていくことだ』などと勘違いする。


そんな勘違いさえも「隷属」の教導なのかもしれない。



自分を守れる者なら「他者の力を借りて自分を守る」ということも「知恵」であるとわかるが、「自分で自分を守る」ということを学んでこなければ「他者の力を借りるのは甘え」などと解釈する。

そして、自ら「分断」の罠にはまり込む。



「自分で自分を守れる」者は、他者を助ける意識が自然とある。

それは「経験」という学びから得た絶対の真理であるからだ。


他人の力を借りずに一人で生きている者など居ない。

それはもはや「獣」と同じ状態である。

言葉も必要とせず、ただ食らい寝て生きるということ。


人間社会の中で生きている限り、他者の助けは求める以前にそこにある。

だが、「他人の力を借りて自分を守る」ということを「学んでいない」者にとって、目の前にある事実すら『見えない』のである。


そして『見えない』から「自分勝手」になるわけである。

「自分勝手」とは『自分は一人で生きている』という思い込みから来る行動。

そして『迷惑をかけてはいけない』という「恐れ」。


そういった「意識の分離」が『隷属』を強固にする。




誰かを「助け」「助けられ」するのは「無意識」にある本能であり、それは特別なことではない。

川の流れの「一部」であるというだけのこと。


誰かから渡された「水」と、次の誰かに渡し、渡した誰かは次の誰かへ渡す・・・というだけの連鎖である。

特別な「意識」が必要なわけではなく、特別な「意味」も必要ない。

それが「当たり前の巡り」というものであり、だから「自分を守るのは自分である」とわかっている者は、この『連鎖の川』の自分が「一部である」ということを認識しているわけである。



そこから意識が分離してしまった者は、だから人間社会で生きているにも関わらず「自分は誰にも守られない」という思い込みとなる。


そうして、流れの中にありながら「自分は守られない」という孤独を勝手に想像し、「守護される」という意識を最後には『神』に託す。


だが、思い通りにならなければ「神に見放された」という妄想へと飛躍してゆく。




そもそも人と人との横のつながりの「流れ(救い救われ)」も理解できていなければ、神と人の縦の「流れ」も理解できないだろう。

縦の「流れ」も人と人の巡りと同じであり、意識せずとも「流れ」の中にある。

だが意識が「分離」しているから「救われない」「守られたい」という「人同士」の意識そのままとなる。


神と人の「守護」というものは、生きて命がある段階ですでに「助けられ」ているわけで、川の流れから水を「受け取っている」わけである。

その「受け取った」ものを「どこかへ渡す(流す)」ことをしなければ「巡り」とはならないが、自分が受け取っているという認識がないから、誰かに「渡す」などという発想も生まれない。



縦の川・・・つまり「神」からの流れは「魂」に注がれ、本来「自然体」であれば勝手に「行動」へと転化されるものである。

だが人は自分自身でその流れをせき止めている。

ゆえに「神」からも『分離』した状態なのである。




「人」からも守られない、「神」からも守られない。

その「分離意識」が「救い救われ」という人同士の流れの認識を間違い、「神の守護」というものを間違う。



人との巡りの中で、無意識に「救い救われ」しているから生きているわけで、それと同じく神とも「救い救われ」するのが「巡り」というものである。


だから「神に救われたい」のなら「神を救う」ことである。

それは特別なことではない。

「流れのままに」あることだけ。


「神の意」の雫が「魂」に落ち、その雫の「波紋」を広げるだけのこと。

だから「命」があるのだから。

その流れを「塞ぐ」ということは、命そのものを途絶えさせること。

自分自身でそれを塞ぐから、人は恐れ、飢え乾き、あらぬ方からの「誘惑」に迷う。



そんな「流れ」を塞ぐものを昔の人は「岩戸」と呼んだのである。




それらの「流れ」から「分離」しているから「恐れ」「孤独」「飢餓」が生まれ、貪・瞋・痴の三毒が心に湧き立ち、それが漏れ出て人を傷つけ殺めることとなる。

それは「巡り」を失った川が「淀む」ということ。

流れをせき止めているのは自分の意識である。

ゆえに「岩戸閉め」と言う。


そして、その「岩戸」によって「淀み」が生まれ「穢れ」が湧く。

だから「穢れを祓う」というのは「巡りを戻す」ということに他ならない。

それ以外の「祓い」など無いのである。


意識が「分離」しているから「祓い」を間違う。

分離させ淀みを作っている元である「岩戸」を祓う(掃う)のである。



ゆえに「祓い」は「儀式」ではなく「施術」なのである。



身体の巡りが戻れば回帰するように、霊の巡りが戻れば魂は回帰する。

だが「意識」に岩戸がある限り、「淀み」は生まれ続ける。

その「意識」が生まれるのは「記憶」からであり、だから自分自身で「記憶」をリセットしなければならない。

それは『誰か』にしてもらうことは出来ないのである。



自分と他者の「流れ」を知り、生きているということの中に「救い」があることを知らなければ、「岩戸」は開けず「淀み」は生まれ続け「三毒」は湧き続ける。

その巡りを取り戻せば、縦の「流れ」の「岩戸」も開けるだろう。


その時、「分離」した意識は世界と調和して、「隷属の檻」から抜け出すことが出来る。

そしてそれが『天上天下唯我独尊』という状態である。



そうすれば、「神の守護」について間違うこともないだろう。