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Bellydance Najm Fukuoka

未完の踊りを持って、エストニアへ

2026.02.15 01:12

土台は、定期的に壊さなければならない。

そう気づいたのは、コンペまで残り2週間の今だった。

わたしは今年最大の挑戦を前に、基礎からやり直している。

それも、間に合わないと分かりながら。

それでも、やると決めた。

2026年になって、あっという間に1か月と10日が過ぎた。ミラノオリンピックも始まり、季節は冬の底から春へ向かおうとしている。夜の始まりが、少しずつ遅くなっていく。

あと2週間後、わたしはエストニアへ渡航し、ベリーダンスの国際コンペティション、プロフェッショナル部門に出場する。


本来ならこの時期、踊りの仕上げに入り、踊り込みながら精度を上げる反復練習を重ねているべきだ。けれど現実のわたしは、基礎の基礎——重心の位置、膝や足首の使い方にまだ苦戦している。


チャレンジを選ぶことに躊躇はない。

ただ、期限が迫ると毎回思う。

なぜ、わざわざ苦しくて逃げ出したくなる道を選んでしまうのだろう、と。

ただステージで踊るだけなら、きっと楽しめる。以前はそうだった。

「楽しかった」

「お客様が喜んでくださって良かった」

趣味としてなら、それで充分だった。

踊ることは本来、楽しみであり、喜びであり、快楽だ。好きなことを楽しむ。それだけでいいはずなのに、なぜかわたしはそれでは満たされない。

自分の踊りを何度も反芻し、「その時点」での選択が最善だったかを何度もシミュレーションしてしまう。


・曲と振付のチョイスは場にふさわしかったか

・練習は充分だったか

・衣装と振付・音楽は合っていたか

・当日の感情の流れや動きの導線に整合性はあったか


動画を何度も見返しては、深く落ち込む。


なぜわたしの踊りはこうなのだろう。ダメなところばかりが際立ち、心がざわつく。

日々のルーティンと化した朝練を重ねてきたこの3年間、わたしは自分の「持ち味」を活かすことに特化してきた。ターンや表現、ウクライナスタイルのオリエンタル、和の音楽、さまざまなジャンルでの即興、ファンベールを使った振付。

過去の映像を見ると、当時のわたしは今よりずっと拙い。それでも、できなかったことができるようになり、動きも少しずつ滑らかになってきた実感はある。


だけど、コンペとなると話は別だ。


自分なりの表現やダンススタイルは、必ずしも評価項目に噛み合わない。ショーを意識した踊り方が、コンペという「評価の場」にふさわしいとは限らない(少なくとも、わたしの場合は)。


今のままでは、参加の意図すら曖昧なほど、ジャッジ項目とかけ離れた独りよがりの踊りをしているに過ぎない。

だからこの渡航を機に、一度徹底的に壊し、土台を作り直す必要があった。


気づかぬまま積み重ねた練習は、癖をさらに強固にし、焦げつきのように残っていた。自分では「踊っているつもり」だったけれど、実際には少しも踊れていなかった。

2週間ほど前、わたしの師である世界的ダンサーからビデオレターが届いた。そこには根本的な間違いがいくつも指摘されていた。

さらに、異ジャンルのスポーツ指導者からも「重心」という観点で鋭いアドバイスをいただいた。ベリーダンスを始めた頃から今に至るまでの大きな課題を、別の角度から見透かされた。


この2つの言葉は、わたしが積み重ねてきた「得意を伸ばす」という方向性を、土台から覆す力になった。


基礎は、定期的に見直し、必要なら壊して再建しなければならない。古い土台の上に新しい構造を重ねても、どこかに歪みが生じる。

わたしの不安定さや音楽とのズレは、この土台の脆弱さの現れだった。

コンペまでに修正は間に合わない。新しいやり方を試せば、ちぐはぐになるだろう。

それでも、自分本位な踊りを続けるより、ぎくしゃくしていても基本に忠実であろうとする未完の踊りを選びたい。未来につながるのは、きっと後者だ。


コンペで勝ちたい気持ちはある。順位を知れば悔しさも湧く。それは人間として自然な感情だ。

だけど今は、「足るを知る」。

このコンペは、自分の踊りともう一度きちんと向き合うための機会だ。

極限の緊張の中で踊り、その踊りに評価をいただくために、わたしはエストニアへ行く。

明日も早朝から基礎のやり直しだ。


ただ立つ。

ただ重心を移動する。

それだけのことが、今のわたしには難しい。

落ち込む。苦しい。投げ出したくなる。

それでも、朝練を始めた頃に誓った。


自分の身体が続く限り、真摯に踊りと向き合うと。

言い訳はしない。

ただ前を向く。

未完の踊りを持って、エストニアへ行く。