vol.183「江戸氏」について
平安末期の「渋谷金王丸」を調べていたら、その親戚に「江戸氏」なる一族がいることを発見した。どうやら源頼朝が挙兵して鎌倉を目指す流れの中で、けっこう大事なポジションにいたようだ。しかも銅像まであるらしい。。
江戸の研究をし始めて2年半経ったが、今はじめて知った、と言うのは恥ずかしいので、サッと調べて「そんなの当然知ってましたけど?」という顔しておこう。
● 時は平安末期、いざ鎌倉!のころ
東京のあたりは「武蔵国」と呼ばれ、当時隆盛を誇っていた「秩父一族」が一帯を治めていたそうな。その中で江戸湾エリアを牛耳っていたのが江戸氏2代目の「江戸重長」。深谷エリアを治めていたのは、あの鎌倉殿の13人で有名な「ザ・坂東武士の鑑・畠山重忠」である(この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになっていた)。
彼ら秩父一族は、治承4年(1180年)8月17日の源頼朝の挙兵当初、平家方として頼朝討伐に向かった。頼朝は石橋山の戦いで「大庭景親」に大敗を喫して潰走。相模国に出陣した畠山勢は、鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦氏一族と合戦になった。三浦氏は幾人かの犠牲を出しながらも本拠地の三浦に戻ったが、畠山勢は重忠の郎従50余人が梟首され、武蔵国へ退却する。
畠山重忠は、この会稽の恥をすすがんがため、三浦氏を襲おうと秩父一族で武蔵検校職の「河越重頼」に援軍の要請。要請に応じた河越重頼に「江戸重長」も加わり、武蔵国の武士団数千騎を率いて、三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、一人城に残った母方の祖父である老齢の「三浦義明」を討ち取った(衣笠城合戦)
『吾妻鏡』によると、頼朝勢に上総氏と千葉氏が仲間に加わったことで、2万7千騎の大軍勢となった。ここに甲斐源氏の「武田信光」や、常陸・下野・上野にもいる源氏たちを合わせれば5万騎は確保したも同然。そこで頼朝は、秩父一族の切り崩しを図って江戸重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ない事だが、以仁王の令旨の通り(頼朝に)従うべきである。畠山重能(重忠の父)・小山田有重が在京している今、武蔵国は汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝える。
房総半島から鎌倉へ陸路で行くには、どうしても武蔵国を通らなきゃいけない。だから武蔵国で一番力を持つ勢力を味方につけようというわけだ。だけど江戸重長は来ないので、やっぱり討ち取っちゃおうかという話になった。そこで翌日「葛西清重」に使いを出した。葛西はその名の通り、現在の東京・千葉の境、葛西地区を本拠地にした豪族。江戸氏と同じ秩父党ではあるが、頼朝には従っていた。そこで葛西氏に江戸氏を討ち取るように命じたのだ。
なお葛西清重は江戸重長を追討せず、説得を続けたとみられる。そのかいあってか、畠山重忠が江戸重長と川越重頼を連れて頼朝の元に参上した。どうやら秩父党は話し合って頼朝の傘下に入ることにしたようだ。おそらく、上総氏と千葉氏の勢力が加わって大軍勢となったことが大きかったのだろう。
しかし江戸氏も川越氏も、衣笠城合戦の時、三浦の祖父様を討ち取った人物。三浦党にとっては棟梁を殺した仇にあたる。頼朝は三浦党にあらかじめ「三浦を討ち取れるぐらい勢力のある者を取り立てなければ、目的は成し遂げられない。私に忠心があるのならば、怒りやわだかまりを残してはいけない」とよくよく言って聞かせたという。
三浦党は源氏重代の家人だからこれに従って、秩父党の面々と目を合わせ、互いに無言で頷き合って、秩父党が頼朝の仲間になることは納得済みで同席した。
翌日には、江戸重長は頼朝から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられた。このときに重長に秩父氏の家督が与えられたとみられる。重長はその後、文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍し「奥州藤原氏」討伐のため鎌倉を出陣する頼朝に従った。
江戸重長は鎌倉幕府御家人となり、その子とみられる「忠重」が元久2年(1205年)6月の畠山重忠の追討軍に参加している。ザ・武士の鑑・畠山重忠の切なくもカッコ良すぎる最後は『鎌倉殿の13人』を観るがよい。泣けるから。
● その後の江戸氏は、、よう分からん
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸氏
↑とにかく読んでも分からんのですよ。なんか色々と派生したり、身内揉めしたり、ごっちゃごちゃで。とりあえず鎌倉幕府が滅亡し、室町時代に入っても江戸一族は存在してて、いろんな騒乱に巻き込まれつつ、なんやかんやで江戸から喜多見に移ったそうな。(で、江戸の地は江戸氏が去った後に「太田道灌」が進出するらしい)
ただ、こっから先がなかなか面白く↓
子孫の江戸勝忠(後の喜多見勝忠)は「豊臣秀吉」による小田原征伐に際して、後北条氏と共に小田原城に籠城したが、小田原城が開城し北条氏が没落すると、替わって江戸に入府した「徳川家康」の家臣となり、世田谷喜多見に所領を安堵され、姓を江戸氏から「喜多見氏」に改めた。
喜多見勝忠はその後、九戸政実の乱で現在の岩手県まで出征し、関ヶ原の戦い・大坂の陣に従軍した功績もあり、才を買われて元和元年(1615年)に近江国郡代となった。翌年には堺奉行となり、後陽成天皇の葬礼を務めるなどの功績を挙げた。子に旗本で茶人の喜多見重勝がいる。
勝忠から数えて3代目の喜多見重政は「徳川綱吉」の寵臣として旗本から累進し、天和3年(1683年)に譜代大名となった。江戸郊外喜多見の地に1万石(のち2万石)の喜多見藩を立藩、初代藩主となり、築城すら許され、その費用を綱吉から与えられた。貞享2年(1685年)には側用人となるなど綱吉の寵愛は深く、生類憐れみの令を施行する犬大支配役に任命され、自領喜多見に犬小屋を建設したとされる。
ところが、元禄2年(1689年)2月2日には「将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かにしている」という名目で突然改易に処され、伊勢国桑名藩主松平定重に預けられ、元禄6年(1693年)7月28日、預かり先の桑名で餓死した。
当時、寵臣であった重政の改易が不可解かつ劇的であったため、様々な臆測によって講談的に多くの創作が行われ、重政改易と前後して多数の将軍側近が失脚している事実から、「柳沢吉保」による陰謀説を唱える向きもある。
また、同時代の「山本常朝」が重政を忠実至誠の武士として称賛していることから、改易の真因は、当初は理想主義的な施政として導入された生類憐れみの令が悪法化する兆しが見えてきたことに対して、重政が忠心から将軍綱吉に何らかの諫言を行ったことが、失脚に繋がったのではないかとも考えられる。いずれにせよ真相は不明である。重政の改易後、生類憐れみの令は急速に厳罰化、悪法化していく。
改易により、喜多見藩の家臣達は一朝にして浪人となり、あるいは他領に職を求め、あるいは武士を捨て土着して帰農した。喜多見の地には帰農した者たちの子孫が多く、『新編武蔵風土記稿』(1804-1821年刊)の喜多見村の項に、「村内に香取、齋藤、小川を氏せる村民四家あり、いずれも喜多見氏の家来にて故あるもののよし……この四家を呼んで土人浪人百姓といへり」と記されている。
いやいやなかなかどうして。『鎌倉殿の13人』から始まり『どうする家康』などの戦国時代を駆け抜けて『大奥』の犬将軍にまで絡んでくるとは、江戸氏すげえな!と。源頼朝の御家人やって、後北条氏に仕え、徳川将軍家に召したてられ、それでいて、こんなにも知られてないってことが、またすげえなと。いや〜、調べたらいるもんですね〜隠れキャラ。
ひとまず、これで江戸氏についてはそれなりに知ったかぶりできるようにはなったかな。よしよし。
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸重長
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=衣笠城合戦&wprov=rarw1
https://ja.wikipedia.org/wiki/畠山重忠
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/204887/https://www.rekishijin.com/28941
https://ponpoko.jpn.org/03_thingsa02.html