自由の難しさ
たいした記事にはならないと思うが、感情の整理のために少しだけ書いてみようかと思った。
「自由に生きる」ことは幸せであるために大事であることは私が言うまでもなく、どの自己啓発本にも書いてあるようなことで、
人生をコントロールしている感覚を持てなくなると、なんだか生きている意味の認識が薄れてくる。そんな時期もあった。
2025年は忙しくて、自分の時間をあまりもてない割には、充実していると感じていた。
毎日律儀につけていた気分の記録をつけるのをいつしか忘れているくらい、あっという間に日々が過ぎ去っていった。
自分は生きていていいのかなんて悩む暇も必要もないくらい、有難い居場所と相手がそばにいて、なんとなく自己肯定感が保たれていた。
社会と繋がっている、誰かに貢献できるということが自分の健康に大事なのだと気づく。
しかし一方で自分を縛り付けるのも社会であるとも思う。
アドラー曰くすべての悩みは対人関係の悩みであるという。
その通りかもしれない。私は完全に自由に人生を決めていると思いたいけれど、本当は誰かからの評価に一喜一憂したり、脅えている。それが疲れ、ストレスにもなっている。
大きな組織で働くこと自体は得意ではないのかもしれない。やりたくないこともやらなければならないし、言いたいことも我慢しなければならない、窮屈な環境にも思えてくる。
その窮屈さによって護られている面もある。自分が密閉されていく。そしてじっとしていればさほど問題を起こさずに過ごすことも可能かもしれない。
しかし護られた環境の中でも、自由を見つけていかなければならない。
「冒険の対義語は母である」という尾田栄一郎先生の言葉がある。
何かを見つけるためには、不確実性に満ちた目の前に広がる世界に自ら足を踏み入れなければならないのだ。
自由であることはそんなに簡単ではない。
自由であるとはわがままでいることとも、与えられる仕事を全部断ることとも少し違うような気がする。少なくとも私はそう感じるというだけで、自分のしたいことだけをしているような人生に憧れもする。
では自分はどう生きるべきなのだろうか。そして何を見つけるために冒険するのだろうか。
その「何か」をぼんやりと夢見ながら、なんとか明日の朝も目を覚まして、
ひとまず現実へと戻っていく。今はそれを続けるしかないのだ。