白い花の記憶①
二月になると、いつも思い出す花がある。
祖母の家の裏庭に生えていた、小さな白い梅の木だ。
当時の私からすれば、とてつもなく大きな木だった。
けれど今思い起こすと、その木は細く、ごつごつとしていて、どこか華奢な印象だ。
この時期になると、ひっそりと白い花を咲かせていた。
まだ物心がつくかつかないかの私は、庭に出てもその花にすぐには気づかない。
視界よりもずっと上に咲いているからだ。
けれど、香りはちゃんと届いていた。
春の土の匂い、草の匂い、お日様の匂いに混じって、
やわらかな甘い香りが漂ってくる。
その出どころを探そうと、きょろきょろと辺りを見渡す。
そうしてようやく、梅の花が咲いていることに気づくのだ。
小さな丸い花びらが五枚。
ちょこんと寄り添うように咲く、可憐な花。
決して派手ではない。
目を引く華やかさもない。
けれど、冬とせめぎ合う浅い春のなかで、
そっと香りを運んでくれるその姿が、私は大好きだった。
祖母の家の庭は、当時の私にとって世界そのものだった。
やがて祖母は一人で暮らすことが難しくなり、
母と叔母が代わるがわる面倒を見るようになった。
そして家は手放されることになった。
家がなくなってから、ずいぶん時間が経つ。
それでも私の記憶の中では、あの家の記憶が生き生きと息づいていて、事あるごとにふと思い出す。
例えば、こんな二月の晴れた日。
冬から春へ移り変わる空の色を見たとき。
懐かしい匂い、色、景色、光。
私は五感をフルに感じながら、あの庭で毎日遊んでいた。冬枯れた土からそっと顔を出す蕗の薹、ナズナ、ひよこ草の白と黄緑。オオイヌノフグリの深い水色。小さな花々を見ると喜びに似たふんわりと暖かな感情が上がってくる。今でもその感覚を思い出す。
…大人になってずいぶん経ってから
祖母が亡くなった後だが、
私はあの家の跡地を何度か訪れた。
最初に訪れたときは、家こそなくなっていたが、土地はそのままあって、梅の木も残っていた。
訪れた時期が夏だったので、花を見ることはできなかったが、相変わらずごつごつして華奢で、懐かしい佇まいを私に見せてくれた。
二回目に訪れたときも、更地になっていたが、梅の木は残っていてくれた。
ただ行って一瞬眺めるだけなのだが、そこにいてくれるだけでとてもほっとしたのを覚えている。
だけど三回目に訪れたときには、木は切り倒され、駐車場になってしまっていた。
この時の喪失感と言ったら、言葉にできないほどかなしい気持ちになってしまった。
梅の木は幼い頃に遊んだ祖母の家の記憶であり、祖母との思い出であり、
幼かった私が見た景色…世界そのものだったからだ。
何かとても大切なものが壊れてしまったようで、しばらく途方に暮れてしまった。
けれど今、私は思う。
人は大切なものを思い出すとき、記憶の中の何かがトリガーとなり、それが今現在の何かと重なったとき一気に過去の時空へとつながるのではないだろうか。
まるでタイムマシンのように。ワームホールのように。
匂い。
光。
音。
空気の温度。
そして、白い梅の花。
ほんの小さなきっかけで、遠いはずの時間が突然今と重なり、
とてつもなく懐かしく、かけがえのない感情を呼び覚ます。
梅の木も祖母の家も、もうこの世にはない。
それでも私は、二月になると必ず、道々で白い梅の木を探してしまう。
ふと視界の端に白い花を見つけると、
胸の奥が少しだけほどける。
嬉しくて、懐かしくて、
ほんの少しだけ、あの庭に帰った気持ちになるのだ。
失ったのではなく、
きっと自分の中に溶け込んで、今でもいきいきと生き続けている。
白い梅は毎年どこかで咲いている。
そして私は、その花を見つけるたびに、
過去と今がそっと重なる瞬間を味わっている。