Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 291 (12/02/26) 石垣市 旧宮良間切 (1) Shiraho Village 白保村

2026.02.13 14:32

宮良間切 白保村 (シィサブ、しらほ)

小字 嘉良岳 (カラダギ)

小字 竿根田原 (ソンタパリ)

小字 崎原 (サキバル)

小字 野地原 (ヌージバル)

小字 竿原(ソーバレ)

小字 嘉手刈 (カチガラ)

小字 白保 (シィサブ)

小字 東嘉手刈 (アリィカチガラ)

小字 兼久原 (カネグバル)

小字 座原 (ザーバル)

小字 前原 (メーバル)

宮良間切 白保村 (シィサブ、しらほ)

白保村は琉球国時代は宮良 (メーラ) 間切の南東にあり、石垣方言ではシィサブ (シィサ= 白い)、沖縄本島方言ではシラブといい、現在では日本語読みでは「しらほ」となっている。

白保村は東は太平洋に面し、海域はアオサンゴなど世界有数といわれるサンゴ礁が広く発達している。南北に長い村域の中央部には轟川 (トゥドウルキガーラ) が流れ、北部に遠見番所があった標高136mのカラ岳、南端には古くは嘉崎 (カサキ) とよばれ白保崎 (シィサブザキ) があり、その海岸には1771年 (明和7年) の明和大津波が成因という巨礫の散在する礁池 (イノー) が広がっている。

白保 (シィサブ) の名の由来については不明。白保と宮良は兄弟村と伝えられ、その村立てについて次の様な伝承が残っている。

昔、水嵩 (ミズダキ)に西瓦 (インナーラ) と東瓦 (アンナーラ)という兄弟が住んでいた。この兄弟はやがてセツコマに移転し、さらにフタマラという所に移転した。そこから永住の地を求めて兄の西瓦は現在の宮良村の地に移り、弟の東瓦は現在の白保の地に移転した。この兄弟を慕って人々が移り住み、現在の宮良村と白保村ができたという。村ができ、猪の害を防ぐためと、村の境を決めるために兄の西瓦は高山から、弟の東瓦は川の河口から猪垣を築き、両方が接した地点をもって村の境とすることにしたという。兄は丁寧に石垣を積んでいったが、弟は大雑把に石を積んでいき仲盛の地で合流した。それで、白保村の土地は宮良より大きく囲うことができたといわれている。この二人を神として祭る嶽が1988年 (昭和63年) に宮良公民館敷地に接して建てられており、宮良では兄は西嘉和良 (インナーラ) と弟は東嘉和良 (アンナーラ) と漢字があてられている。

白保村の行政区についての変遷について、資料では以下の様にある。

人口推移を見ると、本土の離島は激しい人口減少に苦しんでいるが、白保村も含め、石垣市は人口が増加している事は驚きだ。石垣市は観光リゾート地としての人気があり、それに係わるサービス業、ホテル業、建設業の求人が堅調で、移住者が増えている事、2023年の陸上自衛隊の駐屯地開設に伴う隊員・家族の転入等が背景にあるといわれている。コロナ禍以降もリモートワークなどを活用した新しい移住トレンドが続いているという。2025年には石垣市は人口5万人に到達したが、自然増加数は縮小、合計特殊出生率は 2.06 (2013年) と高水準だが人口置換水準の2.07には達していない事、近年は転出が転入を上回る状況が続いている事、大学進学は沖縄や本土になるのだが、現在ではUターン者は60%と比較的高い数字だが、15歳未満の年少人口は減少傾向にある事等から今後の人口トレンドは、これをピークに人口は減少していくと予測されている。石垣市としても今後の人口問題対策として、Uターン、Iターンの増加を目指して婚活イベントや地域おこし協力隊導入はしているが、これはどこの地方自治体も行っており、抜本的な解決策にはなっていないように思える。

石垣市の平均年収は約250万円〜370万円と全国平均年収460万円に比べ極めて低く、物価や家賃など生活コストも本土や沖縄本島に比べ高く、決して経済的には魅力はない。Uターン、Iターンを促進するには、医療、福祉、教育等の生活環境を魅力的にする必要があるだろう。ただ、現在までの人口増加の要因が何なのかははっきりとは分からず、この後、石垣島各地を訪問するが、その答えも探していきたい。

上の表の人口の推移を見ると、三つの大きな出来事が見えてくる。1964年から1972年にかけて人口が激減しているが、これは本土復帰により、石垣島から本土への出稼ぎや移住が増加したことによる。1771年の明和大津波による大災害 (本レポートで後述)、沖縄戦当時からの戦争マラリヤによる大幅な人口減少になる。

1945年 (昭和20年) から人口が減っているが、これは1945年 (昭和20年) 6月に旧日本軍の避難命令で、白保村住民はマラリヤ有病地帯の白水等に強制疎開を行なっている。この地でマラリヤに罹患し、終戦後に帰村後も死者が多く出ている。この惨事は戦争マラリヤと呼ばれる。八重山諸島全体でマラリヤ罹患者数は人口の53% (16,884 人) にのぼり、その内22% (3,647人) が死亡している。当時の人口の11.5%が亡くなった事になる。戦争による空襲や艦砲射撃等での戦死者は178人だったので、この戦争マラリヤが如何に大きな悲劇だった事がわかる。マラリヤは1950年代にも流行が続き、キニネなどの投薬や、蚊の駆除、栄養失調の改善による体力の回復等により抵抗力の持ち直しが功を奏し、1962年 (昭和37年) にマラリヤは根絶された。




那覇空港からANAとソラシドエアーの共同運行便で石垣島に向かう。約1時間の短いフライトなので、離陸して暫くすると飲み物のサービス、眼下に宮古島 (右上) と下地島 (左下) を見ながらコーヒーを楽しむが、飲み終わる前に石垣島 (右下) が見えてきて着陸準備の降下が始まった。



小字 嘉良岳 (カラダギ)

石垣空港があるのが小字 嘉良岳 (カラダギ)で域内に禿げ山の嘉良岳 (カラダギ)があることから小字名となっている。「カラ」は空とか枯れを意味している。


南ぬ島石垣空港

石垣空港に到着。乗客は多くなく、機内預け荷物の自転車の受け取りもスムーズ、折り畳み自転車なので、今までの自転車の様に分解組み立ての手間がかからず便利だ。石垣空港の正面入口では記念撮影の人が多く、その入れ替わりの隙間に撮影。空港駐車場脇には石垣市のゆるキャラの「ぱいーぐる」 がいた。ぱいぬしま(南ヌ島)」と特別天然記念物の「カンムリワシ」つまり「イーグル(鷲)」を組み合わせでできたマスコット。なんとなく時間が過ぎてしまい、出発は2時になってしまった。今日の午後はこの石垣空港がある白保を散策して宿に向かう予定だったが、これでは白保の史跡などは全部は見てないだろう。(やはり半分も見れず、残りは石垣島から那覇に帰る日に再訪している。白保村訪問記は両日の訪問を合わせている)

石垣空港は2006年 (平成18年) 10月に着工、2013年 (平成25年) 3月に新石垣空港として開港し、2025年 (令和7年) に現在の南ぬ島石垣空港に改称している。

それまでの石垣空港は真栄里村にあった。滑走路が1,500mであるため、中型ジェット機の運行ができず、貨物量や旅客数が制限され農林水産業や観光業の発展の障害となり、空港周辺で市街地化が進行して騒音問題も深刻になっていた。1982年 (昭和57年)に南西航空石垣空港オーバーラン事故が発生し、危険性が顕在化したことから、中型機が離着陸できる2,000メートル級の滑走路を有する新空港の移転建設が決定された。

計画案は住民の反対運動で何度となく変更されている。



小字 盛山 (ムレーマ)

現在は字白保の小字となっているが、かつては現在の小字の東牛種子 (アリィウシタニ)、西牛種子 (イリィウシタニ)、南ウロン、外ウロン、牧那真 (マキナマ) と共に盛山村 (字 盛山) を形成していた。この小字 盛山には村の村敷があった。


旧盛山村跡の御嶽

南ぬ島石垣空港の駐車場を出てすぐのところに旧盛山村跡の御嶽がある。盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の新川村富崎に移住して出来た村だったが、土地の生産性が低く、人頭税を納めることが困難だった。そこで、1785年に肥沃な桃里村の属地だった盛山に再移住して村立てを行った。そして、出身地の竹富島の御嶽の神を勧請して、ここに御嶽を創建したとされる。その後、風土病やマラリヤや伝染病などにより、1873年 (明治6年) には人口17人 (戸数9戸) にまで減少し、1877年 (明治10年) には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し村の維持を図るも、人口減少は止まず、1917年 (大正6年) に廃村となっている。かつて石垣島に存在した幾つかの村が、盛山村と同様に廃村になっている。廃村の最大の原因はマラリヤとされ、それ以外にも農地としての1戸あたりの可耕農地の問題や当時の人頭税などの税制、医療問題等が複合していたと考えられる。



小字 竿根田原 (ソンタパリ)

旧盛山村の北が小字 竿根田 (ソンタパリ) で、域内にソンタバリと呼ばれる田地があったので小字名となっている。


白保竿根田原洞穴遺跡

石垣空港の敷地内西側に白保竿根田原洞穴遺跡があるので、行ってみることにした。中には入れないのだが、雰囲気でもと思った。Google Mapにも出ているし、訪問した人が写真をアップしていたので難なく行けると思っていたが、甘かった。二つのルートでトライしたが一つは途中で道が閉鎖されていた。もう一つは道が途中で消滅していた。多分あの森の中か先にあるのだろう。

この遺跡は2010年 (平成22年) に、新石垣空港建設地内の旧石器時代から16世紀頃にかけての複合遺跡である白保竿根田原洞穴遺跡 (さおねたばる、ソンタパリ) で日本国内最古の約2万7千年前の人骨 の頭、脚、腕などの骨9点が発見され、その後の調査で1,000点以上の人骨片が出土し、国内で初めての旧石器時代の墓域と確認されている。その他、完新世初期 (約 9000 年前) の土器や石器、食べるために石器で解体した傷が残るイノシシの骨、下田原期の土器や石器、牙製品、崖葬墓、中森期 (約500 年前) の炉跡や中国・タイ産陶磁器、土器などが確認され、長期間にわたって洞穴が利用されていたことが判明している。



小字 崎原 (サキバル)

轟川下流域の南方一帯が小字 崎原 (サキバル) になる。


轟川 (トゥドゥルキカーラ)、とどろき海岸

白保竿根田原洞穴遺跡探しで時間をかなり費やしてしまった。道を引っ返し、とどろき海岸を目指す。石垣飛行場の南には東水岳、西水品を源流として河川全長3.1kmの轟川がとどろき海岸に流れ込んでいる。

昔は川の北側には 盛山村、白保牧場が存在していた。河口近くの滝音が響くので轟川の名がついたと言われている。

昔、大早越 になったとき、いくら雨乞しても雨が降らず、白保の老女の助言にしたがい、伊集の木の皮を剥いでササとして轟川に渡したところ、大量の川魚が死んで浮いた。それをそのまま放置しておくとその臭気が天まで届き、神様は臭くてしかたがないので、この臭気を取り除くために雨を降らしたという民話が残っている。

この川に架かる轟橋の下流と上流は景色が異なる。上流側(写真上) は田園風景、下流 (写真下) はマングローブ群となっている。


轟川マングローブ林

轟川下流両岸にはマングローブ林が広がっており、樹高4m前後のオヒルギとヤエヤマヒルギが生育している。川には水鳥が群れをなしていた。


とどろき海岸

川沿いを下り海岸に到着。ここで小休止。今日は真夏の様に暑く、自転車を漕いでいると、大粒の汗が落ちてくる。那覇より気温は高い様だ。ここで長袖から半袖シャツに着替える。海岸は景色は良いのだが、海から打ち上げられたゴミが散乱している。多くはペットボトルなどプラスチックだ。ここにゴミを投棄しているわけでもなく、誰のせいでも無いのだが残念。多分清掃が追いつかないのだろう。



小字 野地原 (ヌージバル)

小字 崎原 (サキバル) の南、国道390号線の西側は小字 野地原 (ヌージバル)で、この域内にはヌージと呼ばれる田畑があった。


白保飛行場跡

国道390号線を南に進み小字 野地原 (ヌージバル)に入った辺り、国道の東側には沖縄戦直前の1944年6~8月に日本陸軍が長さ2000m、幅50mの滑走路を持つ飛行場を建設していた。この一帯の土地を強制的に僅かな価格で購入し、白保の70才以下の村人を現行場建設に狩り出して建設にあたった。この飛行場が建設された事で、白保は連合軍の目標となり、たびたび空襲をうけた。

現在ではこの飛行場の遺構もなく、農地となっている。



小字 竿原(ソーバレ)

小字 崎原の南方に続く沿岸一帯は小字 竿原 (ソーバレ) になる。域内の北部にはソーバレと呼ばれるところがあったことから小字名となった。


白保アオサンゴ・トラスト

小字 竿原 (ソーバレ) の海岸沖には世界最大級の青珊瑚群集がある。2015年にこの地域が日本ナショナルトラスト協会に寄付され、白保アオサンゴ・トラストとして同協会が管理している。海岸は綺麗に保たれて降り、ゴミや流れ着いたペットボトルなども見られない。

青珊瑚群集は海中にあるので、公開されている写真を載せておく。



小字 与那原 (ユナバル)

轟川中流域の南方一帯は小字 与那原 (ユナバル) になる。域内にユナムリィと呼ばれる丘があり、小字名の由来と言われている。


ビッチュムイ

国道380号線から道を西に外れ白保では標高が最も高いユナムリィ (与那岡) 周辺は上野地と呼ばれいた所のある高さ約4mほどに石積みのビッチュムイに向かう。ここへの道の途中にも牛牧場や山羊小屋があった。

標高40mと表示されたユナムリィ (与那岡) に到着 (写真右上)。ビッチュムイは多原嶽の拝所、米や粟の貯蔵庫、見張り場所と様々にいわれているが、一般的には遠見台 (火番所) と考えられている。(石垣島では平久保と川平にも残っている)また、この地にはユナムリ武士がいて、このビッチムリで弓の練習をしていたという伝承もある。ビッチムリの建造時期は不明だが、遠見台だとすると、琉球王府が遠見番の制度を設けたのが1644年なのでそれ以降だろう。当時、沖縄本島諸島の場合、遠見番は船を発見すると首里の王府への通報していたが、八重山では登野城の蔵元への通報となりっていた。


ユナムイ

1771年 (明和7年) 3月の八重山地震による大津波で、白保村は壊滅的被害にあっている。この大津波で、当時の八重山人口28,992名の内、10,295名 (35.5%) が犠牲になり、白保村は最も悲惨な状況で、1,574名中1,546名 (98.2%) が亡くなった。村落も壊滅してしまった。生き残った僅かな村民28人は村を捨て、白保で一番高い上野地 (標高60.8m) に移転、そこへ波照間から418名を寄百姓させ、白保の生存者28名とともに村が再建された。

ビッチュムイの南側の上ヌ村にはユナムイと呼ばれ、直径30mの楕円形のような形で、幅約50 ~ 70cm、高さ約50 ~ 80cmの野面積石垣で囲まれた所があった。当時の上ヌ村の集会所だったという伝承があり、中央あたりに4等水準点が設置され、南側が役人席で北側が村人の席だったという。また、遠見台のビッチュムイと関連して狼煙をあげる場所だったのではという説もある。元の白保集落にあった三つの御嶽 (嘉手刈御嶽、田原御嶽、真謝御嶽) も上ヌ村に再建されている。上ヌ村の北の外れは、轟川下流南側から続く上牧 (ウイマシ) と呼ばれた牧場があり、その中に牛ヌ御嶽があった。上牧が戦後まもなく廃牧になって牛の御嶽も放置されていた。牛の御嶽の東側には津波で亡くなった人達を葬った千人墓があったそうだ。千人墓は横穴式の自然壕を利用した墓だったが、沖縄戦で旧日本軍が将校用避難壕として使用するため、遺骨を運び出して埋めてしまったという。この村での生活は22年間続き、1793年に再び旧集落のあった現在地に戻っている。

ユナムイの場所は遺構もなく分からないのだが、ビッチュムイの南というので、林に囲まれた畑地帯その辺りを撮影した。



小字 嘉手刈 (カチガラ)

小字 与那原の南東は小字 嘉手刈 (カチガラ)で、域内にかつて嘉手刈御嶽 (カチガラオン) が小字名の由来という。


牛の御嶽 (ウシィヌオン)

かつて存在した上牧 (ウィマシ) の一部、白保小学校の北のウナタ原のサトウキビ畑の中に牛の御嶽がある。(ビッチュムイ北の牛の御嶽とは異なる。) 馬蹄形の野面積み石垣の境内には北に向かって子・丑の神、西に向かって申・酉の神、東に向かって寅・卯の3つの香炉が置かれ、旧暦2月には牛の産れの願い、旧暦9月には耳判をした日と年2回拝みがあり、牛を殺して供物としていた。旧暦8月8日のユーニガイの日には牛馬の健康・繁栄や集落の発展を祈願をするウナンタヌウシヌウガン (ウナタニンゲ) が、牧場の方に向かって行われていた。ウナタニンゲイは1943年 (昭和18年) 以降途絶えていたが、1998年 (平成10年) に復活し毎年実施されている。牛の御嶽には牛が獅子の様に丈夫であるようにとの思いから獅子が安置されていたそうだ。

村を散策していると来週2月15日にウナタニンゲ (牛馬祭 ) が催されるとのお知らせがあった。

畜産は石垣島では琉球国時代から明治初期まで盛んで、各地に牛の御嶽も置かれていた。

白保村は戦前までは八重山諸島では最も畜産が盛んな地域で、轟川 (トゥドウルキカーラ)南側に何ヶ所かあった上牧 (ウィマシ) と下流北側の下牧 (シィムマシ) が明治時代以前から置かれていた。上牧は戦後まもなく廃牧になり、下牧に吸収され白保牧場となったが、白保牧場も1964年 (昭和39年) に廃牧になり、耕作地に姿を変え、牧場は更の北に移っている。


トゥンジーヌ井戸 (トゥンジーヌケー)

牛の御嶽から南の白保集落に向かう途中に石組の井戸があり、トゥンジーヌ井戸 (トゥンジーヌケー) と呼ばれている。以前は畑の中のぽつんとある井戸だったが、今では周りに家が建ち並び、その間にある。1793年に、上の村から現在地に集落を戻すときに飲水を確保するために掘ったと伝えられている。水元の井戸として飾場御嶽 (カツァリバオン) からここを遥拝している。



小字 白保 (シィサブ)

白保村の中心で、昔から集落があった地域が小字 白保 (シィサブ) で、白保海岸に面している。


白保小学校

国道380号に出ると道沿い西側には白保小学校がある。低い石垣で囲まれ、石垣島の学校という雰囲気が出ている。校庭には、アコウ、ガジュマル、デイゴのいずれも衝齢100年を超える巨樹があり、三本木と呼ばれ親しまれ、白保のシンボルとして白保公民館指定文化財にもなっている。この三本木の周りでは授業が終わった児童達が元気に遊んでいる。白保集落を巡ると、この三本木をデザイン化したマンホールがある。(このレポートの冒頭にその写真を載せている) この白保小学校の生徒が応募したデザインが採用されたそうだ。

白保小学校は1890年に宮良村と白保村を校区として白保簡易小学校として創立され、同年まもなく石垣南尋常小学校白保分教場となっている。1891年には大川尋常小学校白保分校となり、1901年には大川尋常小学校白保分教場となり、1906年に白保尋常小学校として独立し、同時に伊原間に伊原間仮教場が置かれていた。

1914年白保と宮良の学校を合併して白良尋常小学校 (下の写真) となり、伊原間仮教場は廃止し、宮良に仮教場が設置されている。1926年に白良尋常高等小学校となり、宮良仮教場は宮良分教場となる。戦時下では、1941年に白良国民学校と改称、更に1942年に白保国民学校と改称し、宮良分教場が独立している。戦争中は日本軍山田部隊 (工兵隊) が白保小学校を使用していたために、民家やオーセで授業が行われていた。戦後、1949年に白保小学校となり、1950年には伊野田分校を設置し、1953年に伊野田小学校して独立した際に白保小学校の分校だった伊原間分校と平久保分校は伊野田小学校の分校となっている。


鍛冶屋の井戸 (カンジャーヤーヌケー)

国道380号を南に渡ると白保集落になる。国道380号から集落に入った所に井戸跡がある。この井戸の西側に鍛治屋があったことからこの名がついたという。


嘉手刈御嶽 (カチガラオン、カデカルオン)

集落のほぼ中心に嘉手刈御嶽 (カチガラオン、カデカルオン)がある。琉球国由来記 (1713年) には、当時、白保は宮良村内の一集落だったと思われ、白保村内の他の二つの御嶽と共に宮良村内の御嶽と記され、神名は仲盛、御イベ名はナリ大アルジとなっている。

八重山では各御嶽 (オン) にはヤマニンズ (山人) と呼ばれる本土でいう氏子がいる。このヤマニンズは血縁に基づいており、その地域住民全てがヤマニンズという訳ではない。沖縄の御嶽は各集落のクサティーとして一つあり、村の住人の殆どが氏子に相当しており、血縁よりも地縁に基づいている。この点が、沖縄本島と八重山諸島の違いになる。この嘉手刈御嶽のヤマニンズは38世帯だった。嘉手刈御嶽は豊年祭 (プーリン 沖縄本島のウマチに相当) が行われる四つの御嶽の一つで、初日には神司 (カンツカサ、巫女) が取り仕切るブープーリン (御嶽豊年祭 オンプール) が行われ、ヤマニンズのみの参加で、海や山、田畑で取れた産物を供え、その年の収穫に感謝を捧げる。二日目は村人総出のムラプーリン(村豊年祭 ムラプール) が行われ、来年の五穀豊穣を祈願する神事の後、旗頭の奉納、奉納舞踊、ミルク (豊作神) 行列、綱引きなどの様々な奉納 (バンプトゥギ) が行なわれている。

嘉手刈御嶽は、元々は村の北方の嘉手刈原 (カチガラ) にあったが、1771年 (明和7年) の大津波で流壊した。村人は高台の上野地(ウイマキ)に移り、波照間島からの強制移住者418人を加えて村を再建した際に、この嘉手刈御嶽も上の村に再建立されていた。22年後に元の白保集落に戻った後に嘉手刈原 (カチガラ) の旧地に戻っている。ただ、参詣には遠いことや祭祀準備に不便だったから、1953年 (昭和28年) に、神司が同じだった馬真謝の墓を祀る飾場御嶽の敷地内のこの場所に移設されている。境内鳥居の側に石で囲まれた拝所があり、二つの香炉が置かれている。資料には記述はなかった。お通し (遥拝所) だろうか?


飾場御嶽 (カツァリバオン)

嘉手苅御嶽境内の奥、イビの隣り南側に飾場御嶽 (カツァリバオン)が置かれている。先に触れた様に、ここは元々は嘉手苅御嶽の敷地だった。この御嶽は琉球王府から派遣され、1771年 (明和7年) の大津波で埋まった真謝井戸 (マジャンガー) を再掘したと伝わる馬真謝の墓だった。馬真謝は死後、水元の神として崇拝されていた事から、御嶽として拝まれる様になった。イビの北側には真謝翁の墓碑が置かれている。


真謝井戸 (マジャンガー)

嘉手苅嶽境内の道向かいには、降り井戸 (ウリガー) の真謝井戸 (マジャンガー) が残っている。かなり急な降り階段で危険なのだろう立ち入り禁止になっていた。白保村ができた頃に掘られたとされ、古くから白保村の共同井戸だった。伝承によれば、1771年の明和の大地震による大津波で埋没していたが、琉球王府より派遣された馬真謝が再掘したとある。この井戸は1950年代に白保の各戸に水道が導入されるまで、村民の飲料水として使われ、「命の水」として祈願されている。

馬真謝は琉球王府より派遣された役人と前述したが、この地に伝わっている逸話ではその身分について少し異なっている。

第二尚氏第14代琉球王尚穆王の馬の係りだった事から“馬”真謝でと呼ばれていたという。王の娘が馬真謝に好意を寄せ、このことを心配した王により馬真謝は八重山に流刑になり、白保に住むようになったと伝わっている。


金嶺家 (アラガネ) 住宅、ゆらていく文庫

海岸に向かう。途中に白保公民館指定文化財となっている金嶺家 (アラガネ) 住宅がある。近年にはゆらていく文庫として使われていた。白保村の地域活動の一環として、集落内に、赤瓦、福木、石垣のそろった民家を利用して「ゆらていく文庫」を設置し、本を読んだり、読み聞かせが行われているそうだ。

「ゆらてぃく」とは、地元民謡の白保節の囃子の言葉で、「寄って. らっしゃい」を意味する。白保村では、伝統ある白保村の歴史、文化、生活、自然を次世代に継承おし、より一層の発展を図るため村人が団結し取り組むべき決まりとして村づくり7箇条からなる白保村ゆらてぃく憲章を制定している。

  1. 白保の文化を守り、未来につなげます
  2. 世界一のサンゴ礁を守り、自然に根ざした暮らしを営みます
  3. 石垣、赤瓦、福木を愛し、きれいな街並みをつくります
  4. 恵まれた自然を活かし、村を支える地場産業を育成します
  5. 地域の教育力を高め、次世代を担うたくましい子どもを育てます
  6. スポーツや健康づくりに励み、心と体の健やかな長寿の村をつくります
  7. ゆらてぃくの心で団結し、平和で、安全な世界に誇れる白保村をつくります

憲章の標語だけでなく、それぞれの具体的活動まで掘り下げている事には感心した。本来の村の活性化とはこの様に行う事が必要だろう。地域活性化のモデルとも言える。白保村を散策すると、この白保村ゆらてぃく憲章は根付き、実践されている事はよく分かり、素敵な村と思える。


真謝御嶽 (マジャオン)

白保集落内に入り、真謝御嶽 (マジャオン) に向かう。真謝御嶽は琉球国由来記 (1713年) には宮良村の御嶽ととして神名は中原神本、御イベ名はミヤライシと記されている。白保集落の豊年祭 (プーリン) が行われる四つの御嶽の一つで、この御嶽のヤマニンズは92世帯で、村内の四つのヤマニンズでは最も多い。1771年 (明和7年) の明和の大津波でこの御嶽も含め白保集落全体が壊滅し、上の村で村再建がされた際にこの御嶽も上の村で再建され、1793年に村が元の地に戻った際には、この場所に再建されたという。


サコダ浜 (パマ)、舟着場跡

真謝御嶽 (マジャオン)の前の道を海岸に向かい、サコダパマと呼ばれる海岸に出る。サコダ浜は舟着場 からオーセ (番所) までの海岸で、一班と二班地域の海岸になり、スム (下) の浜とも呼ばれている。

海岸沿いを少し北に進むと、海辺に石囲いがある。ここは白保の港の船着場だったという。1771年 (明和7年) の大津波で海岸にうちあげられた岩で囲んだだけの港だった。その後、上ヌ村建設の為に波照間から強制的に白保に移住させられた人々の上陸地という伝承が残っている。


ニンゲ石 (願い石)、ブーイシ

舟着場の石囲いに隣接して北側の波打際に一対の石がある。ニンゲ石と呼ばれ、「願い石 (ニガイイシ)」と書かれ、この石から沖に向かって、海の遥かかなたのニライカナイを拝む目印で、石自体が拝所ではなく、御嶽でいう拝殿の様な役割をしている。昔、上納船が沖縄に行くときや帰った時、ここを拝んでいた。また、旧暦8月8日のユーニガイの行事、雨乞の祈願、健康祈願や牛の害虫防除等、更に海難者鎮魂でも、ここから拝んでいたという。

さらにその奥にはブーイシト呼ばれる岩もある。


舟溝開砕記念の塔、エジンバラ公訪問記念碑

舟着場の護岸にセメント製で碑の上部にはサバニを形づくった舟溝開砕記念の塔が建っている。1950年代に建てられ裏面には建設に協力した33名の寄付者名が刻まれている。白保の海岸から、沖のリーフを抜けて舟をだすのに海中のサンゴ礁を破砕して舟の通れる水路を築いた事を後世に伝えている。当時、水路は完成したのだが、水路が海水の流れでウルなどが入り込みすぐ浅くなってしまったそうだ。

舟溝開砕記念の塔の隣にもう一つ記念碑が置かれている。1992年 (平成4年) に英国エジンバラ公フィリップ殿下 がWWFの総裁としてこの地を訪れ、白保海域のサンゴなどを視察し、この白保船着場に植樹を行ったことを記念する碑になる。石垣飛行場建設予定地にあった珊瑚礁の保護運動が高まり、国際的に関心を持たれていた最中のエジンバラ公の訪問で、白保のサンゴ保護が国際的に取り上げられるようになり、飛行場建設地も変更となっている。

記念碑の横に建てられ、漁民の休憩所でもあった東屋の奥にはハーリー船が2艘置かれている。この浜では旧暦5月4日にこ白保のハーリー (海神祭) が行なわれている。


多宇家の御嶽 (トーヒヌオン、トイヌオン)

白保集落の西側、海岸に近い場所にトイの御嶽と呼ばれる拝所がある。大きな珊瑚石が二つ置かれている。どの資料にもこの拝所の説明をしたものは見つからなかったが、石囲いには多宇家の御嶽と書かれていたので、多宇家の先祖を祀っているのかも知れない。


オーセ (番所)

トイの御嶽のすぐ近くにオーセの拝所がある。オーセとは琉球国時代の番所 (役所) の事で、ここにあった火の神を祭る場所となっている。沖縄本島の地頭火の神や村ヌ火の神に相当するようだ。番所が廃止になった後、明治時代の一時期には小学校低学年の教室として使われ、大和言葉も教えていた。白保村の教育の発祥地でもある。この御嶽でも、昔から豊年祭 (プーリン) が行なわれている。


馬が道 (ンマガミチ)

オーセの前の道は神聖な道とされる馬の道 (ンマガミチ) が海岸と国道390号線の間に伸びている。この馬が道は宮良へ通じる潟原道の一部でもある。

この道では11月に種子取祭(タニドゥリ) で邪気払いのために馬を走らせ、馬の毛並みを競うカタバリが行われていた。カタバリは潟原と書き、昔は海岸の干潟で走らせた事から来ている。種子取は稲作が盛んだった頃、元々は稲の種子を取り出す事だったが、次第に種蒔きの行事となった。水田が砂糖黍などの畑に変わって行き、稲作は昔ほど盛んでなくなり、種子取祭(タニドゥリ) も廃れてしていた。白保村では1990年代に村行事として復活させている。


しらほサンゴ村

オーセの前の馬の道 (ンマガミチ)を挟んでしらほサンゴ村という施設が建てられている。WWF(世界自然保護基金)ジャパンが2000年に南西諸島の生物多様性保全のために開設している。きっかけは新石垣空港建設問題で、世界的に貴重な資産の珊瑚礁の保全運動にWWFが参加し、1992年 (平成4年) に英国エジンバラ公フィリップ殿下 がWWFの総裁としてこの地を訪れた際に、同行していたWWFジャパンがこの地にサンゴ村設置を表明した事による。会館後、様々な活動が行われてきた。環境保全活動としてアオサンゴ群集、魚類、ウミガメ等の生態調査、オニヒトデ駆除、海岸清掃・漂着ゴミ回収、赤土流出防止、文化・資源保全活動ではサンゴ礁文化の発掘・継承、伝統漁法 (インカチ、海垣) の復元、サンゴ礁文化体験等があるが、これら活動には地元や周辺地域の協力が必要で、地域住民、漁業者、事業者、学校などが協力する体制づくりや2013年からはNPO法人夏花などによる地域主体での活動への移行支援も行い、2021年には施設を地元自治組織へ譲渡、地域が主体となった運営体制へ移行している。



小字 東嘉手刈 (アリィカチガラ)

小字 嘉手刈の東側に隣接した地域で、嘉手刈と同様にカチガラと呼ばれている。


クシヌオン

小字 東嘉手刈の白保集落の北側端にはクシヌオンがあり、ここでは6月にオースクマの神事 (写真下) が行われる。オースクマとは、青い稲穂を意味し、稔り始めた初穂稲穂を八つのバリ (水田) から持ち寄り、各御嶽の神司 (カンツカサ) が豊作を祈願する。この神事より前に収穫する事は禁止されていた。この神事はメープーリンで、神事の後に神司達で持ち寄った稲穂の膨らみ具合により、豊年祭 のブープーリン、バンプトゥギ、ムラプーリンの日取りが決められる。


ナカチムヤ井戸 (ナカチムヤケー)

クシヌオンの南に釣瓶井戸がある。ナカチムヤ井戸 (ナカチムヤケー) と呼ばれている。


多原御嶽 (ターバルオン)

クシヌオンからサコダ浜へ向かう、未舗装の道があり、その道沿いに多原御嶽がある。白保集落では最も規模は小さいが、最も古い御嶽で、琉球国由来記 (1713年) には宮良村内の御嶽として神名を神根付、御イベ名を大ヒルカメヒルと記載されている。1771年 (明和7年) に起きた明和の大津波でこの御嶽も含め白保集落全体が壊滅し、上ヌ村で村再建の際には、この御嶽も上ヌ村に再建され、1793年に村が元の地に戻った際に、この場所に再建されている。ここも白保集落の豊年祭 (プーリン) が行われる四つの御嶽の一つで、この御嶽のヤマニンズは36世帯だそうだ。


波照間御嶽 (アスクオン)

多原御嶽のすぐ近くにも波照間御嶽 (アスクオン) がある。1771年 (明和7年) に起きた明和の大津波で壊滅した白保集落に、琉球王府の命令により波照間島から強制移住、上の村で白保村の再建を行った島民が、郷里の冨嘉集落の阿底御嶽 (アースクワー、波照間では御嶽をワーと呼ぶ) の分霊を祀ったと伝えられている。白保集落の豊年祭 (プーリン) が行われる四つの御嶽の一つで、この御嶽のヤマニンズは38世帯になる。この御嶽は鳥居から境内へは立ち入り禁止となっていたので鳥居の外から撮影した。拝殿の奥にイビを祀る本殿の石垣 (写真右下) が見えている。



小字 兼久原 (カネグバル)

小字 白保の北、小字 東嘉手苅の東に位置し、海岸に面した砂浜一帯の地域が小字 兼久原 (カネグバル) になる。カネグはカネクー (砂地) からきている。との意がある。


柳田國男の碑

舟着場から砂浜の海岸を北に歩いて行った所の草むらの中に広場があり、そこに柳田國男の歌碑が置かれている。日本民俗学の父と呼ばれた柳田國男が1921年 (大正10年) に石垣島を訪れたことを記念して、2001年 (平成13年) に建てられ、碑には

あらたまの まさごにまじる たから貝
むなしき名さへ なほうもれつつ

と柳田國男の歌が刻まれている。

柳田國男は民俗学者として北海道のアイヌ文学や沖縄に高い関心を持ち、沖縄学の伊波普猷との交流もあった。伊波普猷は沖縄のルーツ、柳田國男は日本のルーツを探るといる事で、それぞれの文化を研究し、世界に知らしめて行った。彼により、八重山の民俗研究の礎が築かれたという。八重山の人々も、彼らの功績により、八重山の文化への誇りが持てたと思える。この碑はそれに対しての感謝なのだろう。



白保集落巡りも終盤になり、今回の宿がある石垣市中心部の方向にある史跡に向かう。


小字 座原 (ザーバル)

白保村の西側に位置し、宮良村に隣接していた地域は昔からザーバルと呼ばれ、小字名となっている。


白保公民館

白保小学校の北に白保公民館が建っている。白保集落では1916年 (大正5年) に、最初の自治組織の白保字会が組織され、その後、1940年 (昭和15年) に白保区会、1946 年 (昭和21年) に白保部落会となり、1953年 (昭和28年) に琉球政府の公民館設置が奨励され、白保公民館となっている。

白保村では戦後の一時期に村内で対立が起こり、二つの公民館が併存するという混乱期があった。それは、1982年 (昭和57年)に白保の海岸沖が石垣飛行場建設予定地になった事が契機で賛成派と反対派の対立が起こっていた。補償金を得た漁民中心の賛成派と空港建設予定地内に世界的に貴重な青珊瑚が確認され、それを保護すべきだとする反対派の対立だった。この対立は村を二分する事態に発展して、遂には1984年 (昭和59年) 白保公民館が分裂し、賛成派が1985年 (昭和60年) に白保第一公民館を結成するという深刻な亀裂が生まれた。その後、石垣飛行場建設予定地は何度となく変更されて、宮良案が提出された頃の1994年 (平成6年) にようやく両者が和解し、白保第一公民館解散して、元の公民館一本化となった。村ではこの様な村内対立が二度と起こらない様にと域内の交流を強めている。

公民館の庭の木の根元に酸素ボンベがあった。沖縄本島の公民館では良く見かけたが、石垣島でも戦後、緊急時や連絡用に使われていたものだ。多くの村が戦後の米軍統治の難しい時代を記憶に留めるために保存しているのだ。



小字 前原 (メーバル)

北に小字 座原、東に小字 白保と隣接した地域は前原 (メーバル) と呼ばれ、白保村の西の端になる。


出雲大社先島本宮

白保集落の西の外れに社殿の屋根が見える。これは出雲大社先島本宮で1978年に出雲大社の分霊を招いて出雲殿が造られた。大国主命を祀っている。沖縄県には出雲大社の分社は二つあり、本島では那覇の古島に出雲大社沖縄分社があるのだが、こちらの出雲大社先島本宮は閉鎖されて、老朽化で立ち入り禁止になっていた。



出雲大社を見終わり、登野城の宿に向けて進む。途中、スーパーマーケットで今晩の夕食用の弁当を買い無事宿に到着。2月半ばとは言え、気温は24度で夏の様な気候で暑く、汗が噴き出してくる。宿に着き、オーナーさんと話すと、今年は異常に暑いという。去年は4月まで寒い日が続いていたと言っていた。



参考資料