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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 292 (13/02/26) 石垣市 旧大浜間切 (1) Tonoshiro Village 登野城村 (1)

2026.02.14 12:06

大浜間切 登野城村 (トゥヌスク、とのしろ)

小字 天川(アーマー)

小字 山原 (ヤマバレー)

小字 糸数 (イトゥカジ)

小字 村内 (ムラウチィ)

小字 赤生 (アコー)

小字 仲道原 (ナカドー)

小字 仲須目 (ナカスメー)

小字 小波本 (クバントゥ)

小字 田原 (タバル)

小字 マチャフチャ

その他


今日は宿の近くから登野城村の史跡や観光スポットを巡る。旧登野城村の地域は南北に長く、1日では全ては見れないので、今日は字の南に位置していた登野城集落を中心に巡る。



大浜間切 登野城村 (トゥヌスク、とのしろ)

登野城村は石垣島中西部に位置する。海岸近くから沖縄県最高峰の於茂登岳南側までが含まれ、南北に長く延びた広大な地域になっている。

登野城村発祥については、言い伝えがある。

バンナ岳の裾野の石城山に三兄弟が住んでおり、マサシモトタイという神が三兄弟の姉のマタネマシツを通しお告げを発し、マタネマシツは、それに従って、弟のナタハツと平川 (ピーサガー) カワラと共に宮鳥山付近に移住し、そこに拝所 (宮鳥御嶽 在石垣村) を造った。毎年豊作に恵まれ、次第に人がこの地に集まり、後に現在の登野城村と石垣村が広がっていったという。

1675年に登野城村と石垣村の境界が確定している。

登野城 (トゥヌスク) の語源に関しては所説があるが、はっきりとはしていない。

殿宿説は昔偉い人が宿をとった事から殿の宿 (トゥンヌシュク) からとし、低地石塞説は低い地 (トゥ) に緊急警報の狼煙を上げる為の石塞 (スク) が設けられた事が起源とし、もう一つがトゥノー木起源説でトゥノー木 (あかてつ) が群生していたからとしている。

登野城村と石垣村の中心部は後に1757年に分離独立した大川村と新川村も含め石垣読四箇村 (シイガムラ 1908年 [明治41年] 以降は四カ字) と呼ばれる。かつての四箇村 (シイガムラ) 地域は現在では、人口が集中し、石垣市の地方行政施設、公共施設、主要な企業などがある。16世紀から17世紀にかけての登野城村には幾つかの小村存在していたと推測され、それぞれの小村が、ハカと呼ばれる行政区域になったと考えられている。四箇村のハカは1757年に登野城村から大川村、石垣村から新川村が分村した際と明和の大津波 (1771年)後の災害復興で多少の増減もあり、21のハカに区画されていた。

登野城村には五つのハカに区画され、ナリトーナリカサナリトゥノーパカは、1500年のオヤケアカハチの乱で王府側についた長田大主 (ナータフージィ) の二弟で、オヤケアカハチに殺害された那礼糖 (ナリトー)、那礼嘉佐成 (ナリカサナリ) の名を冠したもので、通称トゥノーパカ (登野城村) と呼ばれていた。また、ウヤキドゥムリィカニムリイパカは、明和の大津波 (1771年) 後に、その東端の南北一屋敷並みを残し、廃道の上、他はキチィパカ (岸若村) に統合されたという。ミュトゥパカは近代の設定とみられ、そのためにトゥニムトゥ (刀禰本 宗家) がないといわれている。

登野城村は琉球王国時代当初は石垣間切に属していた。宮古・八重山両島絵図帳 (1645年-1648年) には殿城村と記されている。

字登野城は石は岸の中で最も人口の多い地域で、総人口の約20%を占めている。 登野城は石垣市の中心部でもあり、1970年代までは石垣市の中で最も人口増加率が突出していたが、それ以降は1990年代までは人口は減少している。石垣島は移住者も多く、便利な旧四箇村地区に集中し、住宅の供給が飽和状態にあることが原因かも知れない。世帯当たりの人口が2.0人で本土の都市部と変わらないのは、若い移住者が増えている事を表しているだろう。近年は人口は横ばい状態が続いている。

上の人口グラフでわかるように、この登野城村も明和ノ大津波 (1771年) では大きな被害を出している。当時の登野城村人口 1,141人の約55% (624人) がこの大津波に飲み込まれて命を失っている。

歴史的な大惨事は沖縄戦でも起こり、人口減少に影響があった。1945年 (昭和20年) 6月に旧日本軍の避難命令で、住民は登野城の北側のマラリヤ有病地帯だった白水に疎開を行なっている。避難民はこの地でマラリヤに罹患し、終戦後に帰村後も死者が多く出ている。この惨事は戦争マラリヤと呼ばれる。八重山諸島全体でマラリヤ罹患者数は人口の 53% (16,884 人) にのぼり、その内、22% (3,647人) が死亡している。当時の人口の11.5%が亡くなった事になる。戦争による空襲や艦砲射撃等での戦死者は178人だったので、この戦争マラリヤが如何に大きな悲劇だった事がわかる。登野城集落でも当時の人口3,804人のうち 1,760人が罹患し (罹患率 46.27%)、 その内の633人 (罹患者死亡率 35.97%) が病死している。登野城集落人口の16.6%が亡くなったことになる。マラリヤは1950年代にも流行が続き、キニネなどの投薬や、蚊の駆除、栄養失調の改善による体力の回復等により抵抗力の持ち直しが功を奏し、1962年 (昭和37年) にマラリヤは根絶された。




小字 天川(アーマー)

天川御嶽と石垣島気象台を含む一帯で天川原 (アーマーバル) と呼ばれていた。語義は未詳。


天川御嶽(アーマーオン)

古くは天川原 (アーマーバル) と呼ばれていた地域には1705年に編纂された八重山島由来記の記載では天川御嶽(アーマーオン、あまかわうたき)がある。八重山と本島を行き来する船の航海安全を祈願する旅御嶽 (タビオン) の七嶽 (ナンオン) の一つで、神名は天川ハナサウ、イベ (威部) はアマイラ本主 (ムトゥアルジ) で、登野城村の伝承では、天川御嶽の神元だった新城家 (アーマーヤー) の祖先で霊験 (セジ) 高く篤農家でもあった野佐真 (ヌサマ)が天川原の霊石 (威部 イビ) を信仰していたことから、毎年豊作豊漁に恵まれ、明和年間 (1764 ~ 1772年) と思われる飢饉の際にも、この野佐真だけは豊作に恵まれ、食料を島民に分配し救済した。また、野佐真のタイラーギ (漁業施設) では常に大漁で、魚を島民に配っていた。そのため村人たちは、野佐真を崇敬し、野佐真が常に拝んでいた霊石をも尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになったといわれている。野佐真はその篤行により、首里王府から親雲上 (ペーキィン) の位を賜っている。この野佐真に関わる逸話が伝わっている。

ある晩、野佐真が垣から網を下ろしていると、海岸に多人数の者が舟を陸揚げする掛声がしたので、垣の上からジーと眺めると頭にカムロをかぶった異形の者共であった。不思議に思い、おそるおそる近よって行き、かれらと協力して三隻の舟を陸揚げしてやった。カムロをかぶった異形の彼等は、野佐真の厚意に感謝して「私共は厄病神 (パナシィキィヌカン) である。この島に来たのは、この島では今でも神を敬まわず信仰を知らず、人の道をはずれて弱い者をいじめ苦しめる野蛮な人間がいるから、これらをなくする為に天神の命を受けて来たのである。然し今回はあなたの厚意にあまえて、親せき知人らだけは許してやるから、門に縄 (チビナーツナ) を張って目印にしなさい」と教えられたので、早速その旨を村中に知らせて災を免れさせた。
彼等は不思議な粉をふりまいて帰ろうとしたとき、野佐真は厄病神に向って、「この島の人々に敬神と信仰の道を私が責任をもって指導するから、今後はこの島を襲わないようにしてほしい」 と申し入れて約束させ、土産物としてパダライズ(とうごろいわし)を三隻の舟に積んで出発させた。その話を聞き伝えた島びとは、その後敬神の心が厚くなり、蛮俗も矯正されたという。

首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する航海安全を祈る石垣島にある七嶽 (ナナオン) の一つであり、登野城村 (トゥヌスク) の村公事の豊年祭や海神祭、雨乞い、疫病除けの祈願祭といった多くの神事が行われる。野佐真と村人が協力して建てたと思われる天川御嶽は 1771年 (明和8年) の大津波で流されてしまい、村と共に大川村の高台の文嶺 (ブンニ) に移されたが、1775年 (安永4年) に元の場所に戻り、天川御嶽も再建されている。天川御嶽の拝殿は1874年(明治7年)に戌年台風 (インヌトゥシィタイフウ) で倒壊したが、同年に茅ぶきで建立され、その後何度か改築され、1963年 (昭和38年) の改築以降老朽化が進んだため、2010年に135年ぶりに建替えられている。鳥居をくぐり境内に入る。本土の神社の構成と酷似している。沖縄本島では見られない。八重山で独自に発展したのか、明治以降の皇民化政策の影響なのか?境内正面奥に拝殿が置かれ、前方両脇には燈籠、境内脇には舞台、神社の神楽殿に相当する。また、1964年 (昭和39年) に作られたコンクリート製鉄棒が置かれている。

拝殿の奥にはイビを安置している場所で石垣で囲まれ、香炉が置かれている。この中には女性の神官しか立ち入る事が許されていない。本土の神社の本殿にあたり、イビは御神体に相当するのだろう。この神社との類似性の背景が気になる。八重山博物館を訪問した際の質問事項の一つ。

この天川御嶽では12年に一度、寅年に登野城の結願祭が行われている。結願祭は、五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災など諸々の祈願を総まとめした願解きの儀礼になる。1日目は夜籠りの願い、2日目は旗頭や弥勒行列、太鼓、婦人部の胡蝶の舞、木遣り、棒術や獅子など、町内を練り歩く「道すない」の後、天川御嶽で奉納芸能、祝宴が行われる。言い伝えでは八重山で最初に弥勒神が現れるようになったのは登野城の豊年祭という。1791年、首里大役をしていた大浜用倫氏が、公務で八重山から首里に向う海路で嵐に遭い、安南 (ベトナム) に漂着した際に、当地の豊年祭で祀られていた弥勒の面と衣装を譲り受けた。その後首里に辿り着いたが、すぐに八重山に戻ることができなかったため、随行員であった新城家 (アラスクヤー) の祖先の新城筑登之氏に面と衣装、彼の作の弥勒節を託し八重山に伝えたという。その様子がやいまタイムという地元情報サイトに掲載されていた。下の写真はその一部で雰囲気がわかる。


東小屋 (アガリグヤ) 跡

天川御嶽 (マーオン) の東と南一帯には東小屋 (アガリグヤ) と呼ばれる集落が形成されていた。

明治時代初期には民家はなく、屠殺場 (1885年 明治18年) があるのみだったが、明治中期頃に大川の海岸付近に住んでサバニで沿岸漁業を行っていた糸満系の人々が、四カ字の海岸沿いに、明治20年代頃から定住するようになり、登野城にはおよそ50戸の東小屋 (アガリグヤ)、石垣と新川には合わせて50戸の中小屋 (ナカグヤ) と西小屋 (イリグヤ) が形成されていった。現在でも行われている旧暦5月5日のハーリー (爬龍船競漕) は移住してきた糸満漁民によって1906年 (明治39年) に始められたと伝わっている。戦後、前の海が埋め立てられ、昔の面影はなくなってしまったが、昭和初期の東小屋の写真があったので、雰囲気が分かるので掲載している。


石垣島地方気象台、百年観測所認定碑

天川御嶽の少し北東には石垣島地方気象台が置かれている。女性の職員がいたので、この気象台の話を伺った。ここでは与那国島含み八重山諸島の気象を観測している。敷地中央には降雨計等、鉄塔上には風速計が置かれ、この情報が建屋3階の分析室に送られ予報が作られるそうだ。

石垣島地方気象台は、1896年 (明治29年) に中央気象台附属石垣島測候所として観測を開始している。1897年 (明治30年) にこの地に移転し百年以上の長きにわたり気象観測を行っている。2017年 (平成29年) に世界気象機関 (World Meteorological Organization WMO) より長期観測所として認定され、その百年観測所認定プレートが屋外観測場所の露場の側、岩崎卓爾像の前に置かれている。


岩崎卓爾像

石垣島地方気象台露場南側のフェンス沿いに、石垣島に生涯をささげた岩崎卓爾の胸像が置かれている。岩崎卓爾は、1869年 (明治2年) に仙台藩士の家に生まれ、1891年 (明治24年)、北海道庁札幌一等測候所に入所し、札幌や根室測候所で勤務。1896年 (明治29年) に北海道庁測候所を依願退職し、翌年に中央気象台 (現 気象庁) の入管。1898年 (明治31年) に中央気象台付属石垣島測候所 (現 石垣島地方気象台) へ転勤となり、石垣島に着任。間もなく、初代所長が依願退職したため、着任3か月後、29歳の若さで第二代所長となる。それ以降、67歳で没するまでの約40年に渡り石垣島に住み、気象業務に従事するかたわら八重山研究にに没頭し、多数の著書を残し、八重山研究の基礎を築いた。特に生物研究においては積極的に採集を行い、数多くのイワサキという名を冠した新種昆虫や爬虫類を発見している。(イワサキクサゼミ、イワサキコノハチョウ、イワサキゼミ、イワサキヒメハルゼミ、イワサキタテハモドキ、イワサキワモンベニヘビ、イワサキセダカヘビなど23種類)また、当時は迷信にたよっていた住民に、気象現象の科学的とらえ方の啓蒙を行った。八重山の自然や人情を愛し、八重山の多岐にわたる分野に貢献した卓爾は、地元住民からは「天文屋の御主前(テンブンヤーのウシュマイ)」(測候所のおじいさん)」と慕われていたと言う。1932年 (昭和7年) の退官後に、その功績を称えるために島の人たちや全国の気象台及び卓爾と親しい学者からの寄付金により、岩崎卓爾の胸像が建立されている。


小字 山原 (ヤマバレー)

石垣島気象台の東方一帯はヤマバレーと呼ばれ、かつては平坦な原野で、バンシュル (蕃柘榴) などの潅木が繋っていた。この地名が字名となっている。


山原貝塚 (貝塚公園)

小字 山原の中に貝塚公園が整備されている。名前の如く、この場所周辺では貝塚が発見されており、山原貝塚と呼ばれている。12〜16世紀のグスク文化前期の遺跡で発掘調査では石組遺構や溝状遺構、土器、須恵器、中国産磁器(白磁、青磁)、石器、勾玉等が検出されている。



小字 糸数(イトゥカジ)

糸数御嶽を含む海岸一帯は糸数原 (イトゥカジ バル) と呼ばれていた。昔は、石垣島気象台とその東南方一帯をイッチュバルと呼んでおり、小字名の糸数はイッチュ (絹、糸) に由来する。


糸数御嶽 (イトゥカジィオン)

登野城村天川原東隣の糸数原 (イトゥカジィバル) に御嶽がある。登野城村の七御嶽 (ナナンオン) の一つだが、イベ (威部)は置かれず、神名もない様だ。この糸数御嶽は1733年 (享保17年) に黒島から野底への強制移住者の一人である舟道石戸 (フナドウイシト) が創建したと伝わっている。舟道石戸は許可を得て大川村の高台地に居を構えて住んでいた。この事から頂ㄡ家 (チジイヌヤー) と呼ばれ、後に辻野と当字されて辻野姓となったという。舟道石戸は神仏への信仰が厚く、念仏経や祭式の法で祭祀を司り社会に奉仕した。この社会的功績によって首里王府から親雲上 (ペーキイン) の位階を授けられ、辻野親雲上となった。辻野親雲上は公用でたびたび首里に上京し、家族はその度毎に彼の命により、糸数原の山中に参籠して航海の安全を祈願した。首里上京の旅を無事に果すことができたので、その場所は航海を司る神の霊所であるとして祠を建てて信仰し、次第に一般村民も尊崇するところとなり糸数御嶽となった。後に平得村の管轄となり、神司も平得村の辻野家から出ていたが、1771年 (明和8年) の大津波で流され、1773年 (安永2年) に小波山森に奉遷したが、1775年 (安永4年) に再び旧跡に戻った。大津波で真栄里村も全潰し、黒島から313人を強制移住させて村を再建させた。このときに元の真栄里村民が糸数御嶽を崇敬したいと申出、当時の蔵元の差配により、真栄里村管轄だった地域御嶽 (ギシュクオン) を平得村の御嶽とし、平得村管轄だった糸数御嶽を真栄里村の御嶽として交換したという経緯がある。



小字 村内(ムラウチィ)

登野城小学校と八重山高等学校付近から南方、美崎浜へと続く一帯は、かつての登野城村域の中心地だった事から村内(ムラウチィ)と呼ばれていた。


美崎御嶽 (ミシャシオン)

天川原の西隣が小字本内 (ムラウチィ) で登野城村の中心地だった。この中に美崎御嶽 (ミシャシオン)があり、尚真王 (在位1477 - 1527年) の頃に登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するために創建され、神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。登野城村の七嶽 (ナンオン) の一つ。御嶽の由来については、1500年に石垣島大浜を拠点に勢力を誇っていた豪族遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) が琉球王府への貢納を拒絶し反旗を翻した。首里王府は約 3000人の王府軍を派遣し乱を鎮圧し、アカハチは征伐された。乱の鎮圧後、王府軍の兵船の那覇港への安着を祈願して、長田大主の妹で神女の真乙姥 (マイツバ) が籠もり断食祈願をし、その願いが叶えられたことから、美崎山は霊験あらたかな場所として美崎御嶽 (ミシャシオン)が創建されたといわれている。その後、代々、八重山では最高の神格の御嶽とされ、王府の公的な儀礼を行う拝所として、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)とされた。この御嶽では、王府より派遣された在番や在番筆者など役人の離着任時、現地役人が旅立つ時、農耕儀礼などに高官や大阿母 (ウフアム) によって拝されていた。1757年に登野城村から大川村が分村した際に大川村の村構い (村拝所) として移管され、その後は大川住民の信仰地となっている。

御嶽の周囲は石垣がめぐり、境内正面には拝殿が建てられ、イビの前と呼ばれている。

拝殿奥には本殿にあたるイビが安置されている場所で、石垣で囲まれ、拱式 (アーチ) の石門がある。石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。イビ門は二つあり、左が美崎御嶽のイビ門、右の門は真泊御嶽のイビ門でその石囲いの中にイビ (イベ 威部) が置かれている。真泊御嶽のイビ門がここに残っているのは、真泊御嶽(マドゥマリィオン)は 1902年 (明治35年) の道路工事の際にこの地に移築され、その後、御嶽は元の場所に戻されたが、イビ門はそのまま美崎御嶽境内に残ったという。イビは厳密に言えば、御神体ではなく神が降臨する場所だが、御神体としているケースも多い。本土でいう本殿に相当する。

沖縄本島の御嶽では拝殿や鳥居が建てられているものはほとんどなく、本土の神社の構成と似ている。本土の神社の初期形態と酷似している。イビには現在でも女性の神官しか立ち入りは許されていないので、イビの写真は遠慮した。美崎御嶽や先に訪れた天川御嶽は境内には入れるが、御嶽によっては鳥居を入れるのはその御嶽のヤマニンズ (山人) のみとされている事も多い。この沖縄本島も以前は同じだったが、久高島などを除き、近年では男性や一般人も自由に見ることが出来る。離島という環境で、昔からの風習が根強く継承されているのだろう。


美崎御嶽内井戸

美崎御嶽の拝殿の左側前方に井戸がある。祭祀のために使用されたと思われる。


美崎火ヌ神御嶽 (ミシャシピナカンオン)

美崎御嶽の鳥居を入った境内左手(北側)に美崎火ヌ神御嶽 (ミシャシピナカンオン) がある。ユーヌピナカンとも記されていた。安全、平和、健康、繁栄などを祈願した火ヌ神 (ピナカン) が祀られ、各家庭に分けられ、かまどに祀っていた。この火ヌ神の由来が伝わっている。

1500年の遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ ) の乱当時、赤蜂と対立していた長田大翁主は二弟を殺され、激しい賊勢を避けて崎枝に逃げ、一人のアーパ (老婆) の家に身をかくした。然し赤蜂の追及はきびしく、遂にそこにも赤峰は姿を現わした。その時アーパは、穴を掘って長田大翁主をかくし、その上に土をかぶせ、かまどを作って火の神を祭り、火を焚いて物を煮ていた。赤蜂はそれを見て 「火々々、水々々、金々々、土々々、長田大翁主は死んでいる」 と自ら占ってそのまま引返した。赤蜂鎮定後、長田大翁主はあの危機を脱し得たのは火の神の御守護によるものと深く感謝し、ここ美崎山に祠を建てて祀ったといわれている。写真右は昔の火ヌ神。


蔵元ヌ火ヌ神御嶽(クラヌビナカンオン)

美崎火ヌ神御嶽と美崎御嶽の間に蔵元ヌ火ヌ神もある。この火ヌ神はオヤケアカハチの乱 (1500年) の後、1524年に西塘が竹富島に初めて蔵元政庁を創設した際に建立したと伝えられ、琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を祈るものだった。当時はウラカイズという地に置かれたのでウラヌピヌカンと呼ばれていた。その後、竹富島は土地が狭く、不便と言うことで、1543年 (天文14年) に石垣島に蔵元が大川村に移設されるのに併せて火ヌ神も移された。下の絵は蔵元の様子を描いたもので、蔵元の奥 (写真左上の隅) に 火ヌ神が見られる。

1633年 (寛永10年) には火ヌ神はそのままでも蔵元のみ登野城村の現在の八重山博物館を含む一帯に移されている。1771年(明和8年) の大洪水で火ヌ神は流され、1816年 (文化13年) に蔵元内に再建された。1953年 (昭和28年) に道路拡張工事で美崎御嶽の境内に移転され現在に至っている。火ヌ神信仰は現在でも根強く残っており、毎年、1月の石垣市新春消防出初式や年末の防火デーではの防火祈願は、この蔵元ヌ火ヌ神御嶽の神前で行われている。祠の前には手水鉢が置かれている。本島の御嶽ではお目にかからないもの。祠の中には火ヌ神の三つの石と、その前には鏡餅が供えられている。やはり、本土の神社に似ている。


船着御嶽 (フナツキィオン)

美崎御嶽 (ミシャシオン)の南側、登野城漁港の護岸沿いに船着御嶽 (フナツキィオン) がある。創建時期や縁起等は残っていない。

かつては、宮良湾の入江はこの御嶽の場所付近まで入り込んでいたそうだ。この場所はフナスク (船着場) という地名が残り、海上交易の拠点となっていた。明治時代までは、この地域には東小屋 (アガリグヤ) の糸満系漁民たちが多く住んでおり、この御嶽はこの地の糸満系漁民の精神的支えともなっているた。現在でも漁民の祈願所となっており、旧5月4日のユッカヌヒーの海神祭 (ハーリー) には爬龍船が祭られ、海の恵みに感謝するとともに豊漁と航海安全が祈願される。

船着御嶽は、戦後しばらくまで木々が茂り荒れ果てていたが、その後、この場所が明和の大津波で没した霊力 (セジ) の持ち主だった新城武那津の祈願所と判明した。そこで、1948年 (昭和23年) 頃に御嶽が再興されている。1993年 (平成5年) には老朽化した拝殿が撤去され、新しく鳥居や拝殿が建てられ今日に至っている。拝殿奥にはイビが鎮座している。

この御嶽の西側の塀に接して東向きに小さな祠 (左下) がある。昔、南山から航海関係の用務を帯びて来島し、この地で亡くなった高貴の人 (氏名も来歴等不詳) を祀っている。境内東側には東南に向けて龍宮へのお通し (右下) が建てられている。この御願所は、古くは東南方海中に航海の目標とされていた岩に向けられているという。


大濱信泉記念館、大濱信泉像

船着御嶽の前の国道390号線 (石垣港線、市役所通り) を西に少し進むと大濱信泉記念館がある。早稲田大学の大隈講堂を模した造りとなっているそうだ。

記念館の中庭に大濱信泉の胸像が置かれている。大濱信泉は登野城出身の石垣市名誉市民で、第七代早稲田大学総長、沖縄問題等懇談会会長、日本プロ野球コミッショナー、沖縄国際大学設立理事会長などの要職を歴任している。

当時はまだまだ八重山出身者は本土では肩身が狭い環境だったが、1925年から早稲田大学総長を3期12年も勤めている。当時の早稲田大学学生の間では、一見とっつきにくくも、豊かな人間味を持った大濱を沖縄のゴッドファーザーとも称されていたとも言う。敗戦後、大濱は戦後の教育政策の策定に携わり、私学の地位向上のためにGHQと交渉するなど、日本の教育界を代表する人物になっている。総長退任後は、就任前から関わり続けていた沖縄の日本復帰問題に注力し、当時の総理大臣である佐藤栄作のブレーンとして対米復帰交渉に協力、海洋博の実現など沖縄問題の解決に尽力している。この様な大濱の本土での活躍は、八重山の人々に希望を与えた事は間違いない。

銅像の台座には大濱信泉の訓が刻まれている。

人の価値は 生まれた場所によって 決まるものではない いかに努力し 自分を磨くかによって 決まるものである


真泊御嶽 (マドゥマリィオン)

大濱信泉記念館の中庭から北への道の奥に真泊御嶽 (マドゥマリィオン) が置かれている。この場所は琉球王府からの三司官や御検視官、在番たちが毎年、公用船の馬艦船 (マーランブニ)で美崎泊に錨を下ろし、小伝馬船に乗り移って上陸した所だった。

真泊御嶽の創建の縁起などは明らかでないが、古くは美崎真泊と呼ばれ、航海安全の神が祭られていた。現在拝殿がある場所には、元々は拝殿はなく、瑞垣の入口に香炉を置いただけの旧式の神神籬形式の御嶽で、周囲に切石の石垣をめぐらし、鳥居もあったという。松茂姓第八世宮良頭当演が1820年 (文政3年) に公務で沖縄へ上国したが、その帰途に台風に遭い、荒海に漂流して正に覆没せんとしたとき、はるかのこの御嶽に祈願をこめたところたちまち風が収まり無事に帰島することができた。当演頭はこの神恩に感謝して、私費をもって立派な石垣を築きめぐらしたと言う。

1902年 (明治35年) に東小屋 (アガリグヤ 糸満部落) への道路工事で香炉と共に瑞垣をそのまま美崎御嶽の境内に移した。その後、神からの霊示があったとして、1957年 (昭和32年) に旧跡に拝殿が建てて移されて現在に至っている。


船浦御嶽 (フノーラオン)

真泊御嶽から道を西に進んだ所に船浦御嶽 (フノーラオン) の場所とあった。1677年 (延宝5年) に石垣親雲上 (ハンナー主) が私費で建設した新式造船所(スラドゥクル)に由来し、龍宮の神を祀っていた。御嶽の南は美崎の浜で、王府時代は首里への御用船を入れる石積みの施設があり、造船、修理などが行われた場所で、これら施設を船浦 (フノーラ) と呼んでいた。この御嶽では造船や船浦の関係者が航海の安全を祈願していたことから、龍宮の御嶽 (リュウグウヌオン) とも呼ばれていた。1874年 (明治7年) の戌年台風によって石積みの施設と船浦御嶽は流され、それ以降は船浦御嶽への信仰は途絶えていた。御嶽があった場所に家が建てられたが、様々なさわりがあり、調べるとかつての御嶽 と分かり、1934年 (昭和9年) に拝殿・神殿が建立されている。拝殿・神殿は1987年 (昭和62年) 頃に撤去され、片隅に香炉 (写真右下) を置いただけになった。今日行ってみると香炉も無くなっていた。


大濱信泉先生生誕之地

船浦御嶽のすぐ北は大濱信泉の生家だった場所になる。先に訪れた大濱信泉記念館は生家に近い所にしたのだろう。


糸盛御嶽 (イチュムルオン)

美崎御嶽近く、国道390号線の北側のマンションの間に糸盛御嶽 (イチュムルオン) がある。

このオンには元々はイビ (威部) はなく、トゥノーパカの御願所で通し御嶽 (トウシオン 遥拝所) の性格をもって建てられたものだったが、永い間に次第に登野城村の村構いとなり、御嶽 (オン) とよばれるようになったと考えられている。現在でも種子取祭、豊年祭、牛の御嶽の願いには供物が供えられ、祈願が行われている。この御嶽には二つの香があり、西側は於茂登照神 (ウムトゥテラス) への御願、東は牛馬の健康願い (ドウハダニガイ) の為に置かれている。古老の伝えによれば、イチュムリィには古くパーマイとよばれる老女が住んでいて、その牧場の牛がよく繁昌したといわれる。このためにイチュムリィは牛馬繁昌のゆかりの御嶽とも伝えられている。

現在の祠は1991年 (平成3年) に竣工されたもの。


八重山島蔵元跡 (クラムトゥ)

糸盛御嶽の西側、美崎御嶽の北側の道を西に進むと、石垣市立八重山博物館がある。八重山博物館の見学は幾つかの集落を巡った後にしているので、今日は素通りとした。

そこから少し西に進んだ所に八重山島蔵元跡の案内板が置かれている。この裏手には広い駐車場があり、八重山博物館敷地も含めてこの一帯に蔵元が置かれていた。

蔵元 (クラムトゥ 蔵許とも記される) は、宮古諸島、八重山諸島及び久米島それぞれに置かれた琉球王国の地方政庁の事で本村の番所にあたる。蔵元は1897年に廃止され、代わって間切役場が設けられた。八重山諸島では、25年にわたって尚真王に仕えた西塘が勲功を認められて1524年に竹富大首里大屋子の頭職に任じられ、当初、出身地の竹富島に蔵元を置いたが、港の整備が困難だったため、1543年に石垣島の大川村へ移転した。

1628年には宮良・大浜・石垣の3つの間切が設けられて頭職が置かれ、1632年には王府から在番が派遣されるようになった。更に1641年には大和在番が置かれ、薩摩藩の役人が駐在するようになったが、7年後の1648年に廃止された。

蔵元はこの案内板の少し西にあったが、1633年に八重山キリシタン事件で処刑された本宮良頭石垣永将の屋敷跡(現在の石垣市立八重山博物館隣地)に移転した。1771年には明和の大津波による被害を受け、一時、高台である大川村の文嶺に移転。1775年に大川村のフンナに移り、1815年には八重山博物館隣地に戻っている。発掘調査によって、17世紀の蔵元跡の遺構が確認されている。明治時代の蔵元の様子を描いた絵が残っている。左上は蔵元での養老式典、右上は式典の様子、左下は亜鈴体操の様子、右下はここの案内板で当時の蔵元の南門/時報楼の写真が添えられていた。


八重山群島政府道路元標

八重山島蔵元跡の案内板がある広場には道路元標の石柱が残っている。道路元標は道路の起終点として、1919年 (大正8年) の道路法で各市町村に一個ずつ、更に1921年 (大正11年) に形状や材料などが定められ、全国の約12,000の市町村の中心に設置された。ここに建っている道路元標はアメリカ統治下時代の1951年 (昭和26年) に建設されたもの。


人頭税廃止百年記念の碑

八重山博物館の敷地内に人頭税廃止百年記念の碑が置かれている。

人頭税は1637年 (寛永14年 第二尚氏八代尚豊王) から1902年 (明治35年) まで琉球全土で成人男女各人 (15 ~ 50才) に課された頭割りの税金で男性は粟、女性は上布 (織物)の納付が課されていた。当時の宮古島や石垣島、竹富島、西表島、与那国島などの島民は天災や役人の不正行為の横行などもあり、その重税に苦しみ、島から集団で脱走した(パイパティローマ伝説など)、堕胎による人口調整 (くぶらばりの伝承) など多くの悲劇を産んでいた。明治時代になって人頭税廃止運動が起き、1903年 (明治36年) に新税法に移行し、各島で行われていた人頭税は廃止された。人頭税廃止から百年を記念して2003年 (平成15年) に石碑がつくられている。石碑には

近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治26年(1903)1月1日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。

更に、石碑裏には長い間の重税から解放され、新しい時代への期待を表した歌が刻まれている。

きゆぬぴぬ さにしや
くがにぴぬ さにしや
うもだくとぅ かなしょうり
にごうだくとぅ しなしょうり

人頭税廃止記念碑は竹富町と与那国町にも置かれているそうだ。

オーセ (村番所) 跡、八重山税務署

琉球国時代には蔵元の南側には登野城村のオーセ (村番所) があった。明治30年) に蔵元が廃止になった際にオーセも廃止となり、村の運営は村民に選ばれた議員による村議会により行われ、旧オーセ は村頭の村事務所となった。この総代制度は大正末まで続き、それ以降は祭事を含め登野城字会が担っていた。オーセー跡に1903年 (明治36年) に八重山税務署が庁舎を新築し、建物は改築されたがこの場所で税務署業務を行なっている。


東仮屋跡 (カリヤー)

国道390号線を少し進み、桟橋通りの分館前交差点に出る。この辺りには首里から派遣された役人や詰医者の官宅、中仮屋、脇仮屋が置かれた東仮屋と呼ばれた宿舎があったそうだ。道を渡ればすぐ蔵元に通勤という場所になる。


岸若御嶽 (キツィパカオン)

桟橋通りは登野城村と大川村の村境だった。

この桟橋通りを内陸部に進むと岸若御嶽 (キツィパカオン)がある。この岸若御嶽には、もともとはイビ (威部) はなく、昔のハカで登野城村内では西の端にあった岸若 (キツィパカ) 部落の御願所で通し御嶽 (トウシオン 遥拝所) の性格をもって建てられたものだったが、永い間に次第に一般的に御嶽 (オン) とよばれるようになったと考えられている。


会所跡 (コージー、コージュ)

岸若御嶽がある場所には1752年に登野城村の村学校がつくられて 子供に読み書きを教えていたそうだ。


登野城公民館 (登野城会館)

岸若御嶽から道を南東に向かった所に登野城公民館が建っている。登野城村運営は旧オーセに村頭の村事務所を置き大正末まで続き、それ以降は祭事を含め登野城字会が担っていた。登野城字会は1957年 (昭和32年) に字共有地一部を売却し、その資金で登野城会館を現在地に建設、その後、1973年 (昭和48年) に会館を一階二階を幼稚園、会館を三階に増築している。


ティンスイ御嶽 (オン) (不明)

公民館の敷地内にティンスイ御嶽 (オン)あると資料にはあったが、それらしきものは見当たらなかった。資料によれば、この付近は昔はトゥノームリィと呼ばれ、広いトゥノー木 (あかてつ) が群生する密林地帯だった。 (トゥノーパカの名の由来でもある) この密林地帯の中に御嶽があり、雨乞いの 時だけ拝まれていたという言い伝えがある。村の拡張にともない、木々は伐採され、屋敷化していき、戦後は、御嶽は放置されていた。1973年 (昭和48年) に登野城公民館が建設された際に、小祠が建てられている。


神の道跡 (カンヌミチィ)

公民館の近く東側に塀で囲まれた狭い空間が南に向かって伸びている。これは神の道 (カンヌミチィ) と呼ばれ、南の天川御嶽 (アーマーオン) に続いていたが、現在ではその一部だけが残っている。神の道は御嶽などが存在する集落ではよく見かけるが、神の道の解釈は様々で、御嶽への参拝道、神が御嶽と行き来する道、ノロ等の神官が祭祀で御嶽を廻る道とかという。登野城では、この神の道はどのように考えられているのだろう?


アマスイ御嶽 (オン)

往昔クバガサをかぶり、蓑を着た不思議な人が天から降りて来たが、亡くなったのでここに葬った。その墓が願所となり、その後、雨乞い等で拝む人が出てきて、水の神を祀り、次第にアマスイ御嶽 (オン) と呼ばれるようになったという。戦後放置され、祭祀も絶えてしまっているそうだ。以前の写真 (右) では石積みが残っているが、現在では更に荒廃して、石積みも消えて御嶽とは思えない程になっている。(左)


島の基井戸 (シィマヌミトゥカー)

再び桟橋通りに出て、この通りを北に進むと、島の基井戸 (シィマヌミトゥカー)が置かれている。昔は降り井戸 (ウリカー) だったそうだ。


小与座 (ククミザー) 跡、登野城尋常高等小学校 (現・登野城小学校)、奉安殿

桟橋通りを更に北に進むと登野城小学校がある。登野城校の場所には八重山蔵元の警察・刑事を扱う小与座 (ククミザー) が1768年に設置され、廃藩置県後1893年 (明治26年) まで運用されていた。

登野城小学校の変遷を見ると、八重山地域では最も古い歴史を持つ小学校で1881年 (明治14年) に石垣南小学校として設立された。1886年 (明治21年) 八重山島高等小学校、石垣南尋常小学校と改称。1892年 (明治27年) に現在地に移転し新校舎落成。1907年 (明治40年) に八重山島高等小学校と大川尋常小学校分離。1910年 (明治43年)登野城尋常高等小学校と改称、尋常科を併置。1941年 (昭和16年) 登野城国民学校と改称。 戦後、1946年 (昭和21年) に登野城初等学校と改称。1949年 (昭和24年) 登野城小学校と改称し現在に至る。1994年 (平成6年) 生徒数増加により、一部八島小学校への分離。現在の校舎は2016年 (平成28年) に建て替えられたもの。

戦前には各学校に天皇・皇后の御真影と教育勅語を安置していた奉安殿が置かれていた。戦後、殆どの学校から奉安殿は政治的に撤去されたが、この登野城尋常高等小学校 (現・登野城小学校)の奉安殿が沖縄県内唯一のものとして残っている。この奉安殿は1931年 (昭和6年) 2月21日に着工し、完成後の同年12月28日に御真影奉遷式が行われた。奉安殿は鉄筋コンクリート造りで、正面には観音開きの鉄扉があり、内部には御真影を安置する檜材の棚が残っている。アーチ型屋根上の正面に天皇家の菊花紋章のレリー フがみえる。1981年 (昭和56年) 頃、校舎の建て替えにともない、当初あった場所から現在の場所に移転されている。奉安殿前に建つ2本の門柱は、当時の登野城尋常高等小学校校門を移設したもの。



小字 赤生 (アコー)

石垣市伝統工芸館の南方及び東方一帯には、昔はアコー(あかてつ)の木が繁っていた事からはアコーと呼ばれ、小字名の赤生になったという。


赤生原井戸 (アコーバルカー)

村内の東に隣接しているのが赤生原 (アコーバル) で、その中に赤生原井戸 (アコーバルカー、阿香原井戸) と呼ばれる井戸が残っている。近くには大きな広場があり、アコウの巨木が二本あったそうだ。登野城村のウキマシィヤー(請桝屋、上地家)の犬が掘り当てたとも言われ、犬ヌ井戸 (インヌカー) とも呼ばれていた。当初は自然のわき水を利用する降り井戸(ウリカー)だったが、後に掘抜井戸として整備された。近くには村の共有地の鍛冶屋があったことから飲料水のほか、鍛冶屋でも利用されていた。近年、道路拡張工事で消滅のおそれがあったが、住民の要望で道路の真ん中にそのまま残されている。

この近くにも幾つか井戸に出くわした。歩道の真ん中にある。この後、他の集落を巡ると同じように、道路や歩道に井戸が残っている。道路世帯の際に住民から保存を要請されてこのような形になっているのだろう。数十年前までは、井戸水は生活の中で重要度が高くそれだけに井戸に対して感謝の念が強く、その思いからこのような形で残っていると思う。



小字 仲道 (ナカドー)

横4号線と国道390号線が交わる地点付近一帯は中の低地を表す仲道 (ナカドー)と呼ばれていた。かつては登野城村から真栄里村に通ずる仲道道 (ナカドーミチィ)と呼ばれた道があった。


キナヤヌカー

赤生原井戸 (アコーバルカー) から3ブロック南に行った仲道 (ナカドー) の住宅の前に井戸がある。キナヤヌカーと記されている。石垣市が2014年頃に市内の湧水や古井戸を市民や観光客の憩いの場、災害時の水源確保のために復活させ、地域の水辺空間を再生する「まちなか親水広場整備事業」で整備された五つの井戸のなかの一つにあたる。


マツムトゥヤカー

更に2ブロック南にも「まちなか親水広場整備事業」の整備井戸があった。マツムトゥヤカーと言って古民家を利用した八重山そばの「まつむとぅ家」に置かれている。


明和の大津波石

まつむとぅ家の奥に明和の大津波 で流されてきた岩が残っている。この様な岩は琉球石灰岩の岩や崖を表わす岸 (キチィ) と呼ばれ、かつては多くしないにあったが、都市開発で多くは消滅している。

案内板には次のように説明がある。

1771年4月24日の午前8時ごろ、石垣島の南南東で発生した地震により、八重山と宮古地方に甚大な被害をもたらした津波のことです。3回もくり返した大波におそわれ、死者約1万2000人、家屋流失2000戸以上という大惨事でした。震源地に近い石垣島では、津波は石垣島の東南から上陸し、川に沿ってあっというまに島の深部にまで浸入し、田畑、家屋、人畜をのみこみながら、名蔵湾方面へと通りぬけました。記録によると、宮良村では波の高さが85メートルにも達したそうです。この津波により、海岸の岩が陸上におしあげられ、黒島、新城島などの離島では、津波の余波が島全体を洗い流しています八重山での被害状況は、全人口2万8992人うち9313人が亡くなり、総人口の32%を失いました。

登野城村も明和ノ大津波 (1771年) では大きな被害を出している。当時の登野城村人口 1,141人の約55% (624人) がこの大津波に飲み込まれて命を失っている。


三番アコウ、なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑

小字 仲道の東の端、字 平得と字 真栄里との境界近くに、アコウ (阿香) の大木がある。こののアコウは三番アコウと呼ばれている。かつては、登野城集落から出て東の真栄里村へ向かう道の分岐点に一番アコウ (登野城集落から約10m)、更に100m先の分岐点に二番アコウ、そして、この三番アコウと続いていた。現在では、この三番アコウだけが残っている。これらは一里塚の様に道しるべで、旅人など人々がアコウの木陰で休憩をとる憩いの場でもあった。三番アコウの近くに石碑が置かれている。以前は三番アコウの根元に置かれていたのだが、木の根が大きくなり、生育に影響があり、碑は2006年 (平成18年) に敷地内の東側に移設された。この碑は八重山民謡の代表歌の「とぅばらーま」を後世に伝えようと1980年 (昭和55年) に、「とぅばらーま」の発祥地と言われるこの地に建立された。

美人と評判の仲筋家のカヌシャマを目当てに通い詰め、相手にされなかった四カ字の若者らの嘆きを歌っている。若者らはカヌシャマを呼び出すためにフクギの実を投げ、一晩で仲筋家の庭はそのフクギの実でいっぱいになったとも伝えられている。

なかどう道から (なかどう道から)
ななけーら (七回)
かようけ (通うけれども)
仲筋かぬしゃま (仲筋家の愛しいあの娘は)
そうだんぬ (語り合うことも)
ならぬ (できない)


小字 仲須目 (ナカスメー)

小字 赤生 (アコー)の北が小字 仲須目 (ナカスメー) で登野城団地を含む一帯になる。昔、オヤケアカハチと仲間満度が会見した場所としても知られる。語義は未詳だが、語尾の目 (メー) は広場の事だそうだ。


牛ヌ御嶽 (ウシイヌオン)

仲須目 (ナカスメー) の中の住宅街の中に雑木林があり、そこには牛ヌ御嶽 (ウシイヌオン) と呼ばれる拝所があるそうだが、その場所に行ったが拝所らしきものは見あたらなかった。 (拝所は見あたらなかったがオオゴマダラが飛んでいて写真におさめた) 登野城に住んでいたある牧場主が、牛馬たちの健康願い (ドゥハダニガイ) の為に、この地に霊石 (イビ) を置き祈願をしたところ、生産量が増えて繁栄していた。牛馬の繁栄振りを見た村民もこのイビを拝んで牛馬の繁昌を祈願する様になり、次第に牛の御嶽とよばれるようになった。その後、村構いの御嶽となり、現在も字登野城では毎年春恒例の行事として祭祀を行っているそうだ。

石垣島では明治時代迄は牛馬の牧畜が盛んで牧場が各地にあった。登野城村も明治時代半ばには牛、豚、山羊の生産では石垣島の10%を占めていた。



小字 小波本 (クバントゥ)

小字仲須目 (ナカスメー)の北は小字 小波本 (クバントゥ)になる。石垣第二中学校の北方一帯にはクバの木 (ビロー) が群生していたので、「クバー」 の「トゥ (低地、産地)」 と意味で小波本 (クバントゥ)と呼ばれていたのが小字名となっている。この地では八重山諸島で初めて稲作がなされた地との伝承があり、域内にはそれに関わる史跡がある。その稲種子を持ってきたと伝えられるタルファイ、マルファイの屋敷跡とされるクバントゥオン(小波本御嶽)などがある。


米為御嶽 (イヤナスオン)

米為御嶽 (イヤナスオン)は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、稲作を伝えた神として尊崇され、マルファイを祭神とした御嶽として信仰されるようになったといわれる。伝承によれば、タルファイ・マルファイ兄妹は安南 (ベトナム) のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原 (クバントゥバル) に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。また、大川集落にある兄タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽 (ウシャギオン) として字大川の人々に信仰されている。


小波本御嶽 (クバントゥオン)

米為御嶽のすぐ側の細い路地を入っていくと小波本御嶽 (クバントゥオン) がある。米為御嶽に祀られているマルファイと兄のタルファイがこの登野城小波本原 (クバントゥバル) に住居を構え、水田を開いて島民に稲作を指導したと伝えられ、住居跡は後に御嶽として拝まれるようになったという。この御嶽は八重山の御嶽によくみられる様な鳥居や拝殿が無く、原初の形態をとどめている。小波本御嶽 (クバントゥオン) は本御嶽 (ムトゥオン)、または大御嶽 (ウフオン) とも呼ばれ、字登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と米為御嶽を中心に執り行われている。また、両御嶽は古くから水元の神としても信仰され、戦前から戦後の干ばつの時には、雨乞い行事も行われていた。



小字 田原 (タバル)

小字 小波本 (クバントゥ) の東が小字 田原 (タバル) で、シードー道の南は石垣市中央運動公園となっている。かつては一面田地であった事から字名の田原 (タバル) となったという。


石垣市中央運動公園

小波本御嶽 の東は石垣市中央運動公園になっている。

1978年 (昭和53年)から公園整備事業を開始し、順次、陸上競技場、野球場、プール、相撲場、庭球場、総合体育館が整備されている。

2008年 (平成20年) からは千葉ロッテマリーンズ二軍の春季キャンプ地として利用され、スタジアムや室内練習場などの施設が順次整備されている。今年は2月1日 から12日まで行われた。昨日が最終日だったので、今日は選手もおらず、公園は閑散としていた。


感謝の碑

石垣市中央運動公園は字 登野城と字 平得にまたがっているが、字 平得側に多良間島住民から石垣市住民への感謝の碑が置かれている。碑文にその背景が書かれている。

多良間島は1771年 (明和8年) に大津波と二度にわたる暴風によって大きな被害を受け飢餓状況に陥り多数の餓死者を出していた。そのような状況の中で二百人余の住民は食糧を求めて宮古島に渡る途中時化に遭い石垣島に漂着した。またくり舟で石垣島に渡り救助を求めたりした。当時石垣島も被害は甚大で食糧事情も厳しいものがあったと言われている。それでも石垣島の皆さんは人命尊重の思いから多くの人々を手厚く保護された上、島に残っている住民への食糧支援までして頂いた。こうした言葉に言い尽くせないご厚情を受け多良間島の住民は生きる力と勇気を得てその後の歩みを切り拓くことができた。そこで多良間村制施行百周年の佳節に碑を建立し感謝の意を表すものである。
2014年 (平成26年) 3月吉日
 多良間村長 伊良皆光夫
 多良間村民一同
 八重山在多良間郷友会


小字 マチャフチャ

登野城小学校の北からシードー線の間は小字マチャフチャになる。マチャフチャの語義は未詳。


登野城星見石 (プシィミーイシ)

桟橋通りの北、農工前交差点手前の道沿いに石灰岩の石柱が立っている。これは高さ約145cmの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石 (プシィミーイシ)と言う。以前はこの辺りは畑で、その中にあったが、この場所に移設している。また、かつてはこれと組になる背の低い石もあったともいう。

星見石は、かつて八重山列島各地でおいて、オリオン座 (立明星) などの星の観測により播種などの農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた。星見石以前は山を基準として星の位置を観測していたが、より精緻な基準として山に代わって星見石を用いていた。星見石には、初期には立石状で、基準として穴が開けられたものと、頂点を基準とした穴のないものがあった。その後、方角を刻んだ方位石も出現し、中央の穴に竿を立て、その先を基準として使われている。古書によれば、八重山の頭職であった宮良親雲上長重が、1670年代から1690年代にかけて立石状の星見石を八重山の各村に立てたとある。

立石状のものの場合、穴のあるものでは穴を通して、また、穴のないものでは頂点を基準として、星を観測した。

方位石の場合には、中央の穴に竿を立て、その先を基準とした。ここに残っている星見石は、組になる背の低い石を用い、2つの石を基準とすることでより正確な観測を行ったものだそうだ。

先に訪れた石垣島測候所 (ティンブンヤー 天文屋) の西口 (旧正門) 付近はかつてはウカバムリィと呼ばれた高台で、そこにも星見石 (プシィミーイシ) が置かれ、星見石 (プシィミー) を行っていたそうだ。


八重山闘牛場

登野城星見石からシードー線を北に渡り、少し進んだ所に1963年 (昭和38年) に造られた八重山闘牛場がある。八重山の闘牛は17世紀頃に農耕用の強い牛を作るため、牛同士をぶつけ合わせた「ウシオーラセー」が始まりとされ、農作業の合間の娯楽として催されていた。現在では八重山闘牛組合が中心となり、観光振興や伝統文化の継承を目指して年に数回、大規模な大会が開催されている。



その他

ビッチリ

集落内を散策していると、沖縄本島と同じように石敢當が道の突き当たりに見受けられる。石敢當には泰山石敢當とか石散當と書かれているのだが、中には何も書かれていない自然石が置かれている。石垣島ではこれをビッチリ (西表島ではビジリ) と呼んでいる。

ビッチリの起源については明らかでないが、御嶽のイビと同様な形の自然石であるところから、両者は何等かのつながりがあり、魔除けの意味をもつ、一種の原始宗教上の遺習と考えられ、石敢當よりも発生の歴史ははるかに古いものと推測されている。昔は畑の中にも立てられており、雨乞いの時には村中のビッチリを一斉に倒して置いたという。豊年、豊作を祈るためのものでもあり、又雨乞いの対象にもなっていたことが想像される。大正の年代頃まではビッチリは村中いたる処に立っていたそうだが、近年はビッチリはすたれつつあり、次第にその姿を失いつつあるという。


築ましや (チィンマーセー)

かつては、写真にあるような道の分岐点に築ましや (チィンマーセー) が造られていたそうだ。沖縄本島ではチンマーサといい、円形の石積みの中心に木が植わっており、道標の役割を果たしていたり、村内では石積みに腰掛けて旅人が木陰で休息を取ったり、村人がここに集まりゆんたくをしていた。石垣島も同じ様だったのかは不明だそうだが、写真の様にちょっとした憩いの場所だったのかも知れない。登野城村内にも何ヶ所かあったそうで、訪問ログの地図に記している。ほとんどは三叉路にあった。そこを見てきたが、現在では築ましや (チィンマーセー) を偲ぶものはなく、何の変哲もない三叉路となっていた。唯一、写真の築ましや (チィンマーセー) が何となく、その雰囲気がある様に思えた。


登野城村には見たいところが多く、今日は昼食抜きで丸一日を使い何とか予定をこなした。これでも登野城村の訪問予定スポットの三分の二で、登野城村北部のスポットは残っている。残りの予定スポットは北の山の中と、山を越えた更に北部にあるので後二日はかかるだろう。 (山のバンナ岳は15日に訪問したが、北部は今回は時間なく、次回4月に訪問予定)


登野城村 訪問ログ


参考資料