本物の「ありがとう」は、あとから来る
昨日、ある授賞式の映像を見ていた。
若い俳優が主演男優賞を受賞し、
スピーチの中で、イーサン・ホークに感謝を伝えていた。
昔、ある演劇の場で聞いた言葉が
ずっと心に残っていたのだという。
カメラがイーサン・ホークを映すと、
彼は少し涙ぐんでいた。
ああ、いいな、と思った。
ああいう「ありがとう」。
最近、私は
文章の書き方を少し変えた。
長年、習慣のように添えていた
ある一文を、そっと外した。
悪いものだったわけではない。
ただ、
自分の今の立ち位置と
少しだけズレを感じるようになった。
だから、やめてみた。
すると、不思議なくらい軽くなった。
感謝は、言葉として先に置くものではなく、
時間の中で育つものなのかもしれない。
種のように。
すぐに芽が出るわけではないけれど、
どこかで静かに根を張っている。
そしてある日、
思いもよらない形で
「届いていました」と返ってくる。
あの授賞式のように。
私は、
その種類のありがとうが好きだ。
媚びでもなく、
社交辞令でもなく、
未来への保険でもなく。
人生を通過したあとに生まれる、
少し重みのある、静かな感謝。
だから今は、
言葉を減らし、
余白を残し、
届く人に届けばいいと思っている。
もし、いつかどこかで
「あなたのあの言葉が残っていました」
と誰かが言ってくれたなら。
それで十分だ。
そして、もうひとつ。
この「軽さ」について、
もう少しちゃんと話してみようと思っています。
3月14日。
誕生日の翌日。大阪で。
やり方を増やす話ではなく、
どう立つかの話。
どう頑張るかではなく、
どの前提で生きるかの話。
そして、
人間が軽くなるとはどういうことか。
二十年間、仕事をしてきて、
ようやく言葉になったことを、
静かに話す時間にしようと思います。
もし今、
何かを足すのではなく、
何かをやめることで軽くなりたいと感じているなら。
その夜、どこかで会えたらうれしいです。