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霊性への旅

『臨死体験研究読本』出版までの道のり

2019.03.09 04:38

■本は出るか…その遠く、けわしい道のり

臨死体験についての本を10年来書きためた原稿を世に出したいと出版社に働きかけ、苦労のすえ一度は出版社が決まったが、交渉がまとまらず、1年数ヵ月後に白紙に戻る。そして、インターネット上で多くの賛同を得られれば本になるという読者参加による出版化をめざしてドリームブッククラブで再挑戦、3年越しの夢がかなうまで。 最終的な署名は『臨死体験研究読本』(アルファポリス刊)となった。  


■30社に原稿を送ったが、反応なし

 1999年の夏、 臨死体験についてこれまで書きとめていた原稿がある程度まとまったので、いよいよ出版社にはたらきかけてみようと思い立ちました。アマチュアの無名の人間の原稿を世に出してくれる出版社など、そんなに簡単に見つかるはずはないことは、わかっていました。

 しかし、自分の書いたものに自信はあるし、もしかしたらその価値をわかってくれる編集者が一人くらいはいるかも知れないという期待(いや実をいうと確信)をもって、いくつかの出版社に原稿を郵送しはじめたのです。

 しかし結果はなかば予想したとおりでした。

 

  分厚い原稿(原稿用紙で560枚)を全部コピーして送るのはたいへんなので実際はその1/3の200枚分を郵送したのが、およそ30社。自分の原稿の価値をわかってくれる編集者がかならずいるという信念をもってやっていたから、この作業そのものは大変とは感じませんでした。

 しかし、結果はほとんどの出版社がナシのつぶて。まったく反応がありません。それは当然でしょう。無名の人間が、いきなり原稿を送り付けたって、そんなものにいちいち目を通すほどヒマな編集者はいないのです。4~5社から返答があり、なかには郵送料をはらってわざわざ原稿を送り返してくれる出版社もありました。その手間まで考えるとこれは本当に頭の下がる思いです。

 しかし、返事はどれも冷たいものばかり。たとえば「我が社にはそぐいませんので、別のところを当たってください」の一言です。

 原稿が届いた、その日にすぐ返事をださなければ届かないような早さで返事が帰ってくる場合もあり、要するにまったく読んでいないのがはっきりとわかるのです。まさに門前払いです。


■少しだけ希望が

 ところが11月の下旬になって、NHK出版から1通の手紙が届きました。第一図書出版部のKさんという方からでした。「内容的に弊社のイメージにそぐわないような気がいたしました。残念ですが、ご返送いたします。ヴォイスという出版社があり、そこの出版社のラインには合っているかもしれないので、そこの企画制作部長にこの手紙を同封して送ったら」というものでした。

 同封して返却して下さった私の原稿は、ホチキスでとめたところにくっきりと折り目がついており、一枚一枚めくって読んでくださったらしいことがはっきりとわかるのです。 これはもう感激でした。

 忙しいなかを、とにかく原稿をていねいに読んでくれた編集者がいたんだ。しかも他の出版社の紹介までしてくれている。やはり、自分の原稿の価値をわかってくれる編集者がいることは事実なんだと、たいへん勇気づけられたのです。

 

  ヴォイス社は、チャネリング関係の『バシャール』というシリーズを出している出版社で、私も『バシャール』は大好きで、かつて愛読していました。

 そこで、Kさんの紹介文とともにヴォイス社にも原稿を送らせてもらったのですが、残念なことにヴォイス社から何の返事もありませんでした。

 そんなこんなで、少し本を出すことへの気持ちも弱まっていました。そんなとき、少しだけ希望がもてる手紙がまいこんだのです。 それが1999年12月です


■ちょとほめすぎじゃないか

 その日、B社から一通の手紙が届きました。新聞でよく「あなたの原稿を本にします」と宣伝している、あの出版社です。一般の出版社が、ほとんどまったく原稿を読んでくれさえしないので、ここならとにかく原稿を読んでくれるだろうと思い、ちょっと前に郵送したのです。その返事が一週間ほどで来たのです。

 その返事を読んで、鳥肌が立つような興奮を覚えました。激賞、絶賛に近い内容なのです。いままでひとつの本をこんなに褒めちぎった文章を読んだことがないほどです。審査委員会を何度か開いて検討した、その時の委員たちの評だということです。ひとつ例をあげましょう。

 「これまでの発言の受け売りや分析ではなく、自らの考察と知識に即した真にオリジナルな論文である。現代社会において、精神的世界に心のより所を求める人が多く存在していることも事実であり安易に新興宗教への道を選ぶものも少なくない。そうした人々が本作品に出会うことで、精神的にプラスの方向へ持っていけるだけの力を備えている。著者の、本作品におけるテーマを研究する真摯な姿勢が伝わる渾身の作品であった。出版された暁には世に衝撃を与えると同時に、ある種の意識革命を促す作品として広く迎え入れられるに違いない。」

 こんな調子なのです。他の審査員も、

 「 世俗的なテーマに汲々とし閉塞しきった観のある論壇への、強烈な起爆剤になることは間違いない。」

 「…行き詰まった唯物論者たちの襟を正す、真に画期的な仕事として高い評価を得るだけでなく、生きる指標を失った一般社会の人々にとって恩寵的な役割を果たすと思われる。」

 まさにこれ以上はないと言ってよいほどの評価なのです。

  にもかかわらず、「今まで刊行実績のない方の著作、つまり販売見込において確実とはいえない作品を世に送り出すことには」慎重にならざるをえないとのことで、協力出版として出版したいというのがB社と提案でした。協力出版とは、著者が製作費を、出版社が広告費と流通費を分担して本を出すというもの。

 父親などは、「ほめぎって、その気にさせて、金を出させて、だまそうとしているんじゃないか」と心配しだす始末。

 私自身も、審査員の評はいくらなんでもほめすぎたと思いました。作者をの気にさせるために誉めるという手法なのでしょう。しかし、自分のの書いたものに自信があったので、全くの出まかせとも思えませんでした。ただ、その自信によって私は、B社には依頼せず、出版社に全面的に負担してもらう企画出版の道をもう少し探るという方向を選びました。


■カッパの本の光文社からの手紙 

 実は、 12月にB社から手紙をもった5日後に、あのカッパの本の光文社からも手紙がとどていたのです。

 「たいへん熱意のこもったお原稿と存じ、できるだけご企画の実現をはかる立場から、部内で検討させていただきましたが、わたしどもカッパの本の線には乗りかねる点がございますので、残念ながら、このたびはご辞退させていだくことになりました。」という中身でした。

 光文社に原稿を送ったのは8月下旬でしたから、何と社内で3カ月半も検討していたらしいのです。結果的には出版には結びつきませんでしたが、これもB社の評と合わせてかなりの自信になりました。B社の評の中にも「かつてない熱気に満ちた論文」とあり、その辺は共通して伝わるものがあるんだなと思ったのです。 


■出版社が決まった!

 出版社は、思わぬ展開によって決まりました。 私は、ある高校の教師をしていますが、当時その学校の国際理解教育の係をやっており、とくにマレーシアとの交流にかかわっていました。マレーシアにも2回ほど行き、マレーシアからの30名ほどの交流団のもてなしもしました。そんな関係で、高校の文化祭でも、マレーシア関係の展示の顧問になっていました。

 1999年の秋、その展示室へ、その高校の同窓会役員をやっている二人の卒業生がたちよってくれました。彼らもアメリカへの留学経験があり、国際交流に関心が強いので、母校の国際交流にもできるだけ協力したいというのです。

 そんな彼らが最初にもってきた企画は、母校のホームページ作りを援助し、インターネットでマレーシア等との国際交流に役立ててほしいというものでした。文化祭でお会いした役員の一人N氏が、システム開発関係の会社を経営しており、その関係で自分がやっている小さなサーバーを無料で提供したいというのです。

 当時、わたしはパソコンへの知識はほとんどなく、ホームページのホの字も知らなかったのですが、私が受けた話だし、他にやりそうな教員もいないので、何と私がホームページ作りの係になったのです。

 学校のHP作りは、1999年9月から始めたのですが、悪戦苦闘の連続でした。何も知らないところからの出発だったし、紹介されたHP製作用のソフトもかなり高度だったので、まったく手探りの状態だったのです。

 分厚い解説書を、何度も必死に読みました。それでも分からないところは分かりませんでした。

 学校での時間は限りがあるので、自分の家での練習のために、試しに自分のホームページを作ってみようと思ってやりはじめたのが、1999年の11月ごろでしょうか。

 伝えたいメッセージはたくさんあるので、自分のHPもだんだん大きくなって行き、出来上がったのが、今ご覧いただいている、このHPというわけです。 同時に学校のHPも ほぼ完成しました。

 ところが2000年の1月になって、文化祭でお会いしたもう一人の役員H氏から、Eメールがとどきました。

  「HPを見た、先生が本の出版を考えているのを知ってびっくりした。すぐに原稿をおくってほしい」

というのです。

 彼は、数人の友人とともに小さな出版社を経営していたのです。私も、彼がそういう関係の仕事をやっているらしいことは知っていましたが、 自分の本の出版と結び付けて考えることはなかったのです。

 夜中の12時過にメールで送った3分の1ほどの原稿を、その夜のうちに夢中で読んだというH氏は、すぐに残りの原稿も読んでくれて、大変興味を持ってくれました。

 「仲間の経営者を説得して、なんとかうちの企画出版として出したい」と云ってくれたのです。

 考えて見れば、私が同窓会の人々の申し入れを受けて学校のHP作りを始めなければ、自分のHPを作ることもなかっただろうし、たとえ作っていたにせよ、同窓会のもう一人の役員であるH氏が、私のHPを見てることもなかっただろう。そう思うと、何かとても不思議な気がしました。

 最初から、同窓会の人達との不思議な「えにし」をめぐって、この話は動いていたのでは、とすら思えました。

 この話は、結局、実現しないまま最近終わったのですが、しかし、こういう経過があったからこそ、ドリームブッククラブでの出版化に挑戦する気持ちになったのだと思っています。


■6月刊行の予定だったが‥‥

 その後はあわただしく話が進み、出版社のH氏と何度か打ち合わせを重ねました。6月刊行の予定で準備を進めているので3月末までに原稿を仕上げてくれと言われました。私の作品にかなり熱を入れており、タイトルはどうするか、装丁や表紙のデザインはどうるするか、仲間たちと議論を戦わせながら話を進めている様子でした。初版は3000部でいきたいとのことでした。私は、多忙の中で原稿の完成を急ぎました。

 しかし、 6月刊行というのは、出版社側の経理上の事情で急いでいたという側面があったようです。その期日は、私にとっても出版社側にとっても無理があったようで、原稿も完成せず、結局間に合いませんでした。

 6月刊行が無理となれば、もう必ずこの日までという期日はないも同然なので、ゆっくりよい原稿に仕上げてほしいという話になりました。その後も何度か出版社側のスタッフと合い、原稿の内容についての検討を重ねました。表紙のデザインの試作品については私も注文を出し、作家により何度か描きあらためられました。

 数ヶ月ほどいろいろと検討をしていくなかで、私の原稿の内容をよく理解しないまま、この辺は理論的に矛盾しているから手直しすべきだと言われ、若干感情を害したこともありました。

 そうしたやりとりの中で出版が遅れていったのは、元の原稿を3割削ってほしいという出版社側の新たな要求にたいして、 私が再びやる気を起こすのが著しく遅れたためです。刊行がいつになるかわからない状態で、原稿を見もしない状態が何ヶ月か続きました。やっと少しやる気が出たのは、原稿をメールマガジンとして発行しながら、手を入れていこうというアイデアが浮かんでからでした。


■なかなか返事がこない

 2001年の5月になって私は、『精神世界の旅』というメールマガジンの発行を始めました。 内容は、本の原稿を少し手直ししながら分かりやすく整理したものでした。最初は350名ほどの購読者で出発し、700名、800名と購読者は増えていきました。読者からのいろいろな反応をいただきました。また出版社が難しいと指摘していた部分になっても読者数は減らず、逆に増えていたので、自信を持ちました。

  2002年の2月中旬、本の内容部分の連載を終え、出版社にも最終原稿を送付しました。やや理論的に過ぎる、ある章を削りましたが、3割削減とまではいきませんでした。これOKがでるか分かりませんでしたが、ともあれ本の出版がいつごろになるかをメールで問い合わせました。ところが、出版社からは全く返事がないのです。

 3月になっても返事が来ないので、本の出版はおおよそ何時頃と考えているかと、再三にわたって問い合わましたが、全く返事がありません。

 3月も下旬になったのでそろそろ待つのも限界かと、何度か電話を入れて、やっと連絡がとれました。 話を聞くと最近いくつかの本の出版予定が立て込んでおり、なかなか私の本の計画に入れないとのことでした。H氏もどうしたらよいのかこまっていることは電話口からも感じられました。  

  私は、いつまでに出せるのか、あるいは出す意志がなくなったのか、その辺をはっきりして欲しいと伝えました。

  「ダメなら、インターネットのドリームブッククラブでの出版化にチャレンジする、あるいはオンデマンド出版を考えるなど、いろいろ試みたい。そちらがはっきりしてくれないと、こうしたチャレンジのタイミングを失うので、とにかく出版の意志と時期をはっきりして欲しい」 と。

 H氏は、書き直した私の原稿を読んでから判断するとのことでしたが、その判断の時期を明確にして欲しいというと、4月15日までにはとの返事でした。


■予想外の返答に出版を断念

 約束の15日には少し遅れましたが、19日に出版社からEメールが届きました。その内容は予想外のものでした。 これまではこちらが出費をせず全面的に出版社側の負担による出版ということで話が進んでいたのですが、今回は次のような条件が出されたのです。

 定価を2400円で設定し、その際著者(私)が1500冊の買取を1年以内にする。その時の条件は、1500冊を私が定価の60%の)値段で購入すること。 私は予め216万円の買取金が必要になるということです。出版社側は5000部のうち3500を売るということ。1500部買取りは、私のサイトを通して販売すれば、何とかなるだろうというのが出版社側の予想でした。

 予想外だったのは、これは一種の「共同出版」で、そういうことをやる出版社をかつて社長は痛烈批判していた記憶があるからでした。

 私は、1500部を自分でネット上で売り切ることは、何年もかければ不可能ではないと思いました。しかし、注文に応じて一つ一つを包装し、発送したり、あるいは金銭上のトラブルに対応したりという手間を考えると、お断りしたほうがよいと判断しました。


■ドリームブッククラブでのチャレンジへ

 私のなかには、ともあれこれまでの出版社との話をダメならダメとはっきりさせて、読者支援による出版化にチャレンジしたいと

いう気持ちがかなりありました。

 その背景には、これまでのホームページ作りとその管理を通して、きっとかなりの読者が支援をしてくれるに違いないという自信もあったからです。100名の購入予約者を集めるのは、それほど困難ではないだろうと感じていました。

 ところが、私がチャレンジを始めるほぼ直前にドリームブッククラブのシステムが変わったのです。一冊の購入予約で1ポイント、一口1万円の出資で5ポイント、合わせて300ポイントで出版化! これは、なかなか厳しい条件だと思います。

 しかし、これまで長い間、自分の本の出版をめざしてきたのですから、ここでまた新たな気持ちでチャレンジすることは、 何ということもない。むしろ、またひと踏ん張りするのは、楽しいことでもある、そんな感じでぶつかることにしました。

 結果はどうあれ、 出来るかぎりのことをしてみようと思います。


■出足好調、中盤で足踏み:多くの人に支えられて

  アルファポリス・ドリームブッククラブでの挑戦は 2,002年4月30日から始まりました。期限は 7月29日、3ヶ月間です。出足は好調でした。2日目にはすでに10万円の出資をしてくださった方がおり、購入予約を含め58ポイントとなっていました。

 また、いくつかの掲示板で自主的に宣伝してくださる方も現われました。まずは K氏が竹の間:掲示板に、そして「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ17」と言う掲示板には「良書出版応援団」という方が 「その原因やインパクトについて、諸説が乱れ飛ぶ臨死体験に興味を持つ方には、必読の一冊。‥‥良質の本を世に出しましょう」 とそれぞれ宣伝してくださり、胸の熱くなる思いでした。

 精力的に宣伝活動をして下さったお一人に、相互リンクしている「医療気功・真氣光 ≪真氣で得る事学ぶ事≫」の管理人S氏がいました。S氏は、いろいろ支援したいと申し出て下さり、上のサイトのトップページで大々的にPRをしてくれました。その文面も好意に満ちたもので、読んで感激しました。「HEAL ROOMカワシマ」の川島さんもリンクページのトップで宣伝してくださいました。 私の知らないところで、いろいろな掲示板に宣伝して下さった方も何人かおられたようで、こうしたご支援は予想の喜びでした。

 そんな理由や、ポイント状況への関心もあってか、サイトへのアクセス数も急増し、多いときで230、ほぼ200前後という日が続きました。ポイント数もほぼ確実に伸び、5月19日には、また10万円の出資をして下さるかたが出て、合計166ポイント、その後も、購入予約よりも出資者の数が伸びて、5月25日には、ついに204ポイントとなりました。そして6月3日には250ポイントを超えました。

  一ヶ月を待たずして必要なポイント数の3分の2を超え、そして残り2ヶ月弱で50ポイントを獲得すればよいのですから、これは楽勝かなと一時は思いました。ところがその後伸びがばったり止まってしまい、2週間かかっても8ポイントしか伸びません。この時期は、さすがに心配になり、大学時代の旧友やかつての同僚などに、電話やメールで「気に入ったら予約してくれ」とお願いしたりしました。

  ところが、6月22日ごろ、ポイント数が264を超えたことから、また出資者が多くなって急速に伸びはじめ、7月3日には278ポイント、7月4日には290ポイント、7月5日はついに301ポイントとなり、7月29日を待たずして規定ポイントを超えることができたのです。

 必要なポイント数を獲得できたことは何よりの喜びでしたが、同時にメールや掲示板で多くの人々に励ましやご支援をいただき、交流できたことが大きな収穫でした。インターネットでのチャレンジを試みて本当によかったと思いました。


■出版決定

 その後、10日間ほどの期間で出版社側の最終審査がありましたが、本の内容への高い評価をいただき、出版が決定しました。その後出版社アルファポリスのK氏とは2度ほど打ち合わせ。K氏の強い希望でタイトルは『臨死体験研究読本』と決まりました。 タイトルについては、掲示板等で読者のみなさんに様々なご意見をいただき、私としてはそれらを参考にして『臨死体験・いのちと悟り』を最終案としていたのですが、これでは人目を引かないというのがK氏の意見でした。

 みなさんからいただいたご意見を生かせなかったのは心残りですが、 『臨死体験・いのちと悟り』は、サイト内でのタイトルとして生かしていきたいと思います。


■ついに刊行

 11月3日、完成した本が自宅に届きました。下の画像のような赤い表紙の本です。色は、前から思っていたイメージとはちがいましたが、およそ350ページの厚みと重さに、自分のこれまでのこれまでの努力が形となった喜びをかみしめました。

 11月20日には、全国の大型書店に並び始めました。私もさっそく、東京駅の八重洲ブックセンターに行き、平積みされている自分の本と感激の対面。