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中村鏡とクック25cm望遠鏡

憧れの花山を訪う

2019.03.09 06:40

 「今日こそは、本会へ入会以来、憧れていた花山へ同好者諸兄と飛んでいく日である。前もって中村氏に参観について御依頼してその承諾も得てあった。また殊に僕にとっては、星を知ってより数年来の宿望であったところの、望遠鏡を手にすることのできる日だったので、前夜などは、なかなか嬉しさのあまり、よく眠れなかったくらいである。

 午前11時天満橋集合、一行6人の燃ゆる思いを乗せて、電車はひた走りに走る。各々携えた材料を中に、車中ひとしきり天文談が賑わう。いつの間にか三条着、京津電車に乗り換え蹴上(けあげ)で下車、伊達兄の先導で一路花山山頂へ。

 東海道筋を約5町(500~600m)東行、電車線路を踏み切ると、いよいよ花山道路に入る。道は歩一歩、下界を離れ、迂邉曲折、静寂の中へ我らを導く。

 トレミー曲路、オーマー谷、ブルーノ点、コペルニクス転回などの名も意味深くまた珍しく、初めての僕と池西君とは先頭を切ってぐんぐんピッチを上げて急ぐ。とうとう到着、時に午後1時40分。

 宿舎で案内を乞い、本館に入ってまず中村要氏にお目にかかる。図書室には山本先生もみえていた。地下室に入り中村氏の御厚意で反射鏡や平面の研磨作業を見せていただき、詳細なるご説明を受く。それより同氏の御案内で本館の大30cm屈折鏡を拝観。一同今更ながら其の雄姿に目を見張って驚嘆する。大ドームが片手で移動するのを見ては感心していた。屋上へ出ると四方の眺めの美しいこと、殊に山科方面は眼下に手に取るよう。

 ここには山本先生の御放送のためのJOBKの電線が用意されてあった。次に構内を一巡見物し、本館に引き返し図書室に入り備え付けの潜望鏡で景色の観望に興じた。隕石やサソリの標本に感心したり、天体写真の前に立ちつくしたり、最後にまた地下の中村氏の部屋に帰り、ここにて同氏を中心にして天文談に時を忘れ、打ち解けた話の中に有益貴重な御指導に預かり、すっかり仲良しになって帰るのを忘れてしまう。伊達君は最近始められた月の写真と僕らの少年天文研究会の会誌、MILKY WAYを、僕は間違いだらけの観測ノートを臆面もなく見てもらった。室内の和気あいあいたるに引き換え、外には暗雲低迷して風勢加わり、低気圧の近づくのを思わせる。

 僕の7cmニュートンが中村氏の御厚意で完成していたので、屋上から比叡山の灯などを見てみた。さすがは日本一の中村鏡、小なりと言えどもその映像の鮮明なことは全く驚くばかり。かくて愉快な一日を送った花山にも宵闇が静かに迫ってきた上に風はますます強くなってきた。これでは今夜の例会もおぼつかぬので、用意の夕食をいただき、中村氏に厚く数々のご厚情を謝し、名残惜しい花山を後にした。できることならこのまま泊まりたいという心を誰も抱きながら、僕は7cm鏡を担いで、凱旋将軍のように暗い道を踊る足を踏みしめて下る。伊達君の手には懐中電灯が光る。眼下の町の灯が段々近くなる。ああ、懐かしの花山よ!また会う日まで健やかであれ!

 ああ、僕は決してこの日を忘れることはないだろう。それは僕が夢の間も忘れぬ花山を訪(と)い、また宿望の望遠鏡を抱いて生き甲斐ある身を天に謝したその日である!」

(東亜天文協会・天文同好会発行、「天界」1932年(昭和7)9月号より)

 伊達英太郎氏ら6名が花山天文台を訪れたのは、1931年(昭和6)9月24日でした。「天界9月号」が発行された同じ月の1932年(昭和7)9月24日に、中村要氏は亡くなっています。天文同好会大阪南支部(幹事:伊達英太郎氏)は、1932年(昭和7)年1月7日に中村要氏を顧問として結成されたばかりでした。20歳そこそこの伊達氏らにとって、中村要氏の突然の逝去がどれほど大きな衝撃となったことか。想像を絶するばかりです。

(1枚目:観測着姿の北村重雄氏と愛機7cm反射望遠鏡「ALBIREO」、2枚目:北村氏と友人たち、中央が北村重雄氏、3枚目:左が伊達英太郎氏・右が北村重雄氏、いずれも撮影は1932~1933年、写真は全て伊達英太郎氏天文写真帖より)