説教20251005マタイによる福音書20章1-16
「ふさわしい代価」ー 神の国のシンフォニー
聖書
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
説教
この譬えはもう少し付け加えて「天国のふさわしい代価」と名付けてよいでしょう。でもじつはこの物語はそれまでの主イエスの8つの話を振り返ってみると、それらの「まとめ」となるような内容を持っているのです。振り返って8つの話とは第18章以降の、イエスが語った様々な言葉ですが、それはすべて「天国の譬え」または「天国の教え」といえます。第1は「天国でいちばん偉い者」の話でした。第2は「小さい者をつまづかせる者」の話でしたが天国の代わりに「命」が出てきます。第3の「迷い出た羊」には「天の父」が、第4「兄弟への忠告」には「天上」が、第5「仲間を赦さなかった家来」の譬えには「天の国」、第6「離縁の問題あるいは結婚しない者」のところでも「天の国」、第7「子供の祝福」は「天の国はこのような者たちの」と語られ、第8「金持ちの青年」では「金持ちが天の国に入るのは難しい」とあります。そしてこの第20章では冒頭からイエスは「天の国は次のようにたとえられる」と明確に「天の国」を表わされるのです。
しかしここで一つのことに気づかされます。これら9つの「天の国」についての話を前後から挟むように「イエスの受難と死」の2度目と3度目の予告が語られていることです。「天の国」を囲うような「受難」。それはどういうことでしょうか。「天の国」がまさに都エルサレムに入って実現するというのでしょうか。そうではありません。そのエルサレムこそは「天の国の主」を苦しめ、死へと追いやる受難の都となるでしょう。「受難」の都エルサレムでは支配者が律法や掟によって人々をがんじがらめに規制し、さらには神殿も律法そのものも彼らによって縛られ拘束され、ついに神の子までも受難へと追いやられるのです。
さて、これは天の国になぞらえられたぶどう園の情景です。ところがその天の国であるぶどう園にとてもギクシャクとした問題が生じました。それは賃金の支払いのことでした。「ご主人、賃金の支払いがおかしい。不公平じゃないか」というのです。というのもこの主人は天の国であるぶどう園の働き手を何回か時をおいて働き手を雇い入れたのでした。最初は夜明けに、次に9時そして12時と3時に最後は農作業の終わりも近い5時に、5回に分けて雇いました。その時ごとに主人は「なぜ、何もしないで立っている。あなたたちもぶどう園に行きなさい」そして「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って1デナリオンの約束で雇ったです。待ち望んだ賃金は最後に雇われた働き手たちから順に支払われました。朝早く最初に雇われた者たちは夕刻最後に雇われた者たちが1デナリオンずつ受け取っているのを見て、自分たちはもっと多く支払われるだろうと思いました。ところが自分たちの番になって与えられた賃金は同じ1デナリオンだったのです。期待を裏切られた彼らは主人に喰ってかかったのでした。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。「おれたちのほうがあいつらよりどれほど長く多く働いたことか。もっと多く支払え」と。しかし主人はこう答えました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。なるほど、自分より明らかに短時間の労働の人間に自分と同額の賃金が支払われるなんて許せません。より長く働いたからより多い賃金と思うのは自然です。主人の言ってることはおかしいと感じます。それで今日の労働基準法見てみると、おや、こういった法律が無いのですね。「賃金5原則」といって「通貨で・直接に・全額を・毎月1回以上・定期日に」という法律はありますが、労働時間や内容の差に応じて賃金は差を付けるべし、というような法律は無いのです。キツイ、キタナイ、ナガイ仕事はキレイで楽で短い仕事より高賃金にすべしという法律はありません。そう考えるとこの主人の言うことはまったく正しいのです。「あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」。時間や内容に応じて賃金を、というランク付けのような法律はありません。賃金は労働の内容によってではなく、賃金を出す雇う者と労働する個々の人間が互いに交渉した末の合意の約束で決まるのです。他人が自分より短い労働時間なのに自分と同じ賃金であったとしても、それは彼と雇い主がそのように約束をしたからです。代価は「約束」によって決まるのです。
しかしこの「約束」に目をとめると、そこに驚くような情景が浮かび上がってくるのです。主イエスはこの「ぶどう園」の譬えでその「約束」を強調します。この「約束」の原語は「シュンフォネオー」です。それは現代で言う「シンフォニー(交響曲)」につながる言葉です。その意味は「約束」以外に「一致、調和、同意、合奏」などあります。立派な合奏の音楽では素晴らしく豊かな音が聴けます。「共鳴」とか「共振」というそうです。ある音が鳴るとそれと同じ周波数を持った別の楽器が何もしないのに鳴り出すのです。そして二つの楽器は同じ音楽を奏でる。これこそ天の国の「約束」の代価です。神はわたしたちに「ふさわしい」代価として愛の恵みを与えてくださるのです。それが神とのシンフォニーです。シンフォニーは「感謝」を生み、「信仰」そして「祈り」や「奉仕」となります。神の国の代価とは神が「これこそあなたがたにふさわしい」と呼びかけて与えられる「大いなる恵み」そのものなのです。神がわたしたち一人一人を創造されたとき、神はその愛を「あなたにふさわしい」と言われたのです。その「約束」からシンフォニーが神とわたしたちによって奏でられ、響き合う「天の国」が映し出されます。
平均的な日本人の生涯年収はおおざっぱに2億円だそうです。すごい金額ですね。でもそれを人生の代価と言えるでしょうか。ある人はそれを「稼ぎ」という、ある人は「達成」という、ある人は「財」という。でも「シンフォニー」という人はいるでしょうか。もしわたしたちが人生を神の国のぶどう園のように生き、そこに神の約束に招かれて歩むなら人生のすべてがシンフォニーのように共鳴して響きわたるのではないでしょうか。