Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 295 (16/02/26) 石垣市 旧大浜間切 (3) Ohama Village 大浜村

2026.02.17 13:21

大浜間切 大浜村 (ホーマ、おおはま)

小字 南大浜 (ハイホーマ)

小字 上屋敷地 (ウイヤシキ)

小字 船着原 (フナスクバル)

小字 大道原 (ウードーバル)

小字 カンド原

小字 フルスト

小字 牧場 (マキィバ)

小字 武那田原 (ブナタバル)


今日は宿がある登野城から国道390号線を4km東に進んだ大浜村を散策する。 


大浜間切 大浜村 (ホーマ、おおはま)

大浜村 (ホーマ) は、宮良湾の南から西側の内陸部にかけて形成されており、石垣市の中心市街地の四カ村から約4km程に位置している。西は平得村に嵩田原 (タカダバル) で、真栄里村に南大浜原 (ハイホーマバル)、東は宮良 (メーラ) 村に大道原 (ウードーバル) で、北は於茂登山系で字存海と接している。

1604年 (慶長16年) 頃には大浜間切は大浜村と平得村の二村からなっていたが、それ以降、1628年 (寛永5年) 迄の間で、崎原村と大城村が形成されていた。崎原村は、1678年 (延宝6年) に大浜村の直轄となり、大城村は1681年 (天和元年) に洪水で流失し、大浜村に合併された。口碑や屋敷跡から、これ以外にも消滅してしまった黒石 (コルセ) 村、フルスト村、南大浜 (ハイホーマ) 村が存在していたとされるが、その時期など詳細は不明。

大浜村は、古くから石垣島東部域の政治経済、交通の中心地であり、1914年 (大正3年) に八重山村が三村に分村した際に、大浜村の役場が置かれていた。宮良橋 (メーラバシィ) の西方には磯辺集落があり、戦前から製糖工場が設置されていたことなどから次第に集落が形成され、交通、水利の好条件と相まって戦後、製糖、パイン缶詰製造、養鰻などの事業が勃興した。

また、南方約2キロに平真部落があり、その間の国道沿いには、八重山支庁をはじめ、スーパーや店舗、施設が建つようになった。大浜の住宅地も南に延びている。

大浜域内には宮良川 (メーラカーラ) が流れており、肥沃な耕地と広大な原野、牧場があり、古くから開拓事業が行われていた。産業は、農業と畜産業が主で、特に、黒糖と牛馬は八重山の主要な産品ともなっていた。

大浜村の人口推移は他の地域と同じ様な形になっている。1771年 (明和8年) の明和の大津波、1945年の沖縄戦による戦争マラリア、1970年代前半の円高不況やオイ ルショックにより不況となり、本土への出稼ぎや移住等で、人口が大きく減少を経験している。1970年代後半から、人口は増加に転じ、人口増加は現在でも続いている。石垣市の中心部の四字 (登野城、大川、石垣、新川) の人口は住宅が飽和状態になっているのか、横ばいもしくは減少傾向にあるが、四字の東の2㎞ ~ 4km に位置する平得、真栄里、大浜は人口増加傾向にある。

1771年 (明和8年) の明和の大津波では旧大浜集落全土が浸水し、集落は壊滅している。それにより村人口の92% (1,287人) を失うという壊滅的打撃を受け、生存者は僅か115人だった。その後、波照間島から419人の寄百姓として大浜村に移住させて村が再建されている。再建に当たり、南大浜 (ハイ ホーマ) 村、黒石 (クルシ) 村、フルスト村などの小村も合併されたと思われる。

もう一つの悲劇は沖縄戦で旧日本軍による命令で、マラリア有病地域の於茂登岳南東、宮良川沿いの武名田原への強制疎開で、湿気の高い地域で避難後、数日にしてマラリアが発生し、またたく間に広まっている。罹患率は大浜住民の96.7%にまで達した。マラリアの特効薬であるキニーネは旧日本軍上級兵士にのみ支給されず、疎開住民には行け渡らず、食糧不足と相まって罹患者の26.5%の479人が亡くなっている。 


小字 南大浜 (ハイホーマ)

大浜集落の西南地域で西に字 真栄里に隣接しているのが小字 南大浜 (ハイホーマ) になる。大浜集落の南方域一帯はハイホーマと呼ばれ、かつてはハイホーマムラ(南大浜村)と呼ばれた村落があったといわれる。


真栄里海岸の銃眼跡

県道390号線を東に進み字 大浜の小字 高田原に入り、道を南に逸れて小字 南大浜 (ハイホーマ) の真栄里海岸に行き、戦争遺構を見学する。

沖縄戦で、日本軍は敵の上陸を石垣島の南側からと想定し、水際での防衛のための施設を構築していた。真栄里から大浜にかけての真栄里海岸には琉球石灰岩の段丘を利用して多数の銃眼や塹壕、戦車壕などが造られていた。真栄里海岸には銃眼が4か所残っており、ここはその一つ。



上屋敷地(ウイヤシキ)

上屋敷地 (ウイヤシキ) は大浜村の南西地域に位置し、西に高田原、南西に下屋鋪地に接している。ウンターとも呼ばれている。「ウイ」は上の意味。上屋敷地 (ウイヤシキ) の南側にかつての大浜集落が広がっていた。


大浜村 (町) 役場跡

県道390号線に戻り、道を進み小字の上屋敷地 (ウイヤシキ) に入る。入った所は下屋敷地 (スムヤシキ)と交わる場所で、かつての大浜集落の西の端だった。道を更に進んで昔の大浜集落に入る手前にはかつての村役場が置かれていた。この場所には2014年 (平成26年) に大浜町役所跡の碑が建てられている。この辺りは現在では幹線道路が走り民家や店舗が密集しているが、町役場の時代は数軒の民家がある程度で閑散としていたそうだ。1914年 (大正3年) に八重山村が4村に再編され、石垣島東部の旧大浜間切と宮良間切が合併して大浜村となった。村役場はこの場所に設置されていた。1947年 (昭和22年) 町に昇格し大浜町となって村役場はそのまま町役場となっている。1964年 (昭和39年)石垣市に編入合併され、大浜町は消滅し、町役所は石垣市役所大浜支所として使用され、更に1972年 (昭和47年) に本土復帰の際に大浜支所は大浜出張所となり、2003年 (平成15年) まで運用されていた。


井戸

県道390号線を進むと、道の右側に大浜郵便局があり、その脇に井戸跡が整備されている。資料にも掲載されておらず、特に井戸の名もなく個人宅の井戸だったのだろう。この井戸は「まちなか親水広場整備事業」で整備された五つの井戸の一つ。登野城村で二つ見たのでここは三つ目だ。



小字 下屋鋪地 (スムヤシキ)

下屋敷地 (スムヤシキ) は大浜村の南部に位置し、西は上屋敷地 (ウイヤシキ) に隣接している。下屋鋪地はスムッターとも呼ばれる。「スム」 は下、「ヤシキ」 は屋敷の意味。海岸部には多くの拝所が置かれ、域内北部は大浜小学校、崎原公園となり、それ以外の地域がかつての大浜集落で北の上屋鋪地に広がっていた。


大浜公民館

大浜公民館入口の左側には、平和で豊かな活力ある村を目指し、2005年に建立され憲章碑が置かれている。琉球国時代から明治時代には大浜村の番所 (オーセー) が置かれていたが、番所が廃止になり、その後1955年 (昭和30年) に公民館が建てられている。


番所ヌ井戸 (オーセーヌカー) (未訪問)

大浜公民館の西北隅にある。この井戸は、現在の公民館の場所にあった旧大浜村番所の飲料水や遣い水に利用されてきた。


黒石御嶽(クルセオン)

公民館の南東に黒石御獄 (グルシオン) がある。所縁は不明だが、琉球国由来記と八重山島由来記にはコルセ獄と記され、神名は大コルサ、御イベ名は月ノマシラへとある。この御嶽黒石村の鎮守としての御嶽 (オン) だったと伝えられている。この辺りは、かつて黒石森 (グルシムリイ) と呼ばれた森林地帯でそこに黒石村 (クルセ) が存在していたが、黒石御獄も含めて1771年 (明和8年) の大津波で流された。御嶽は1773年 (安永2年) に古里山 (フルスト原?)に奉遷し、その後、旧跡に再建されている。大津波の後、波照間島から419人の強制移住が行われ大浜村が再建された際に。黒石村を含め南大浜村、ふるすと村などの小村も合併され、黒石村は消滅している。


大石御嶽 (ウイヌオン)

道を少し進むと大石御嶽 (ウイヌオン) がある。この御嶽は明和の大津波後に波照間島名石部落の大半の住民が強制移住で、フルスト原のフルスト村に大浜村を移し再建された際、波照間島からの稲福、大浜、田盛の三兄弟が中心となり、波照間島名石部落の大石御獄 (ブイシオン) から分神を勧請して一門の氏神として建立された。大浜集落の北のフルスト原にあったため、上の御嶽 (ウイヌオン) と呼ばれていた。

フルスト原の旧跡には、波照間から神を遷座棒持してきたという初代神司の墓もあるという。その後、大浜村が旧地に戻った際に、フルスト村は大浜村に合併吸収され消滅している。大石御嶽 (ウイヌオン) はフルスト原に残されていたが、1951年 (昭和25年) に現在地に移されている。


火ヌ神御嶽(ピィナカンオン)

大石御嶽 (ウイヌオン) から更に道を進むと火ヌ神御嶽(ピィナカンオン)がある。かつては村番所 (オーセー) 内の西北にあったが、1903年 (明治36年) の番所廃止のさいに、番所敷地内に小屋を建て火ヌ神を移して村の守護神として祭祀を行っていた。その後、1955年 (昭和30年) に旧番所跡地に公民館が建てられる際に、この場所に移されている。鳥居を潜った先に祠があり、火の神を表す三つの石が置かれている。前方右は野原の神の「阿波連加那志(アハレンガナシ)」、前方左は山の神の「陽天加那志 (ヨウテンガナシ)」、中央奥は海の神の「宇部加那志 (ウブガナシ)」という。(火の神の石それぞれが神で名が付いている事を知ったのは初めてで、本島ではその様な記述には出くわさなかった) 村の諸祈祭は番所から始まっていた。現在でも豊年祭 (プーリイ) や部落の年中行事は、この火ヌ神御嶽(ピィナカンオン)を中心に、古式に則り取り行われている。


オヤケアカハチ顕彰碑

大石御嶽 (ウイヌオン)と火ヌ神御嶽(ピィナカンオン) の間には2000年 (平成12年) にオヤケアカハチ没500年記念事業として建てられた遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) の像が置かれている。その碑文には遠弥計赤蜂の乱について下記の様に記されている。

1500年 (明応9年) に赤蜂は当時の琉球王府に対し年貢を拒否し反旗を翻し反乱を起こした。赤蜂は並外れた力持ち大男で抜群の赤茶の髪に精悍な顔つきの若者と伝えられている。正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向ったと言う。この赤蜂は大浜村の人々にとっては英雄で、その気概は大浜村の人々に「アカハチ精神」として受け継がれている。大浜村の郷友会は「大浜アカハチ会」と、その名をつけているほどだ。また、大浜地区では毎年旧暦3月3日に慰霊祭が執り行なわれている。

遠弥計赤蜂の乱についてその背景と経緯をもう少し詳しく調べてみる。

15世紀末の琉球は第二尚氏尚真王の時代で、八重山は群雄割拠の時代だった。西表島は慶来慶田城用緒 (ケライケダグスクヨウチョ)、石垣島平久保は平久保加那按司 (ペーブグカナアジ)、川平は仲間満慶山英極 (ナカマミツケイマエイギョク)、大浜は遠弥計赤蜂堀川原(オヤケアカハチホンガワラ)、石垣は長田大主 (ナアタフゥズ)、波照間島は明宇底獅子嘉殿 (ミウスクシシカドゥン)、与那国島はサンアイインバが勢力を伸ばしていた。

オヤケアカハチの乱の前後の動きは以下の様なものだったと推測される。

❶ 大浜を拠点とする遠弥計赤蜂は石垣島での勢力拡大か、琉球国に対抗する為に反琉球国同盟豪族を増やす為かははっきりとはしないが平久保の平久保加那按司と同盟を結んでいる。この後に起こるオヤケアカハチの乱の背景や動機については諸説ある。

宗教弾圧説: 琉球国尚真王が1487年に八重山の宗教だった伊里機屋安員理 (イリキヤアマリ神) 信仰を禁止した事が事の発端で琉球国の八重山への干渉に反発したというもので、これが通説になっており、八重山では八重山を琉球国から守る為に立ち上がった英雄とされている。(ただ、禁止後にどの様な弾圧されたかは不明で、村民がその事で苦しんでいたかは分からない。確かに、琉球国が八重山支配の政治的政策で、これに危機感を感じたのかもしれない。琉球国に反発をした豪族がほぼ遠弥計赤蜂のみというのも気になる)

琉球国搾取説: 琉球国の重税に耐えかねたとし、上記の宗教弾圧説と合わさって乱勃発の原因としており、これも通説となっている。この時代は八重山は琉球国へ朝貢しており、1930年の察度王時代に琉球附庸国とされている。それ以降150年も経っていたので、琉球国の干渉は何らかの形で、かなり強くなっていたと思われる。琉球国は八重山を属国と考えていたようだ。一方、八重山は各豪族がそれぞれで朝貢する関係と考えていただろう。遠弥計赤蜂は次第に強くなる干渉に三年間朝貢をしなかったという事だろう。重税に耐えかねたとの説だが、琉球国から租税を課されることと、朝貢は矛盾がある。朝貢ではなく納税を三年拒否したという事かも知れない。

八重山統一抗争及び琉球国との交易権抗争説: 八重山諸島に乱立していた豪族の覇権争いが首里王府の介入となったというもの。個人的にはこの説ではないかと思える。反琉球国派の遠弥計赤蜂と親琉球国派の宮古島の仲宗根豊見親の八重山統一の抗争。下の図は大まかに時系列で番号を振って当時の動きを作ってみた。遠弥計赤蜂が琉球国と戦ったのは最後の段階で、それも宮古島の酋長の仲宗根豊見親の要請で派兵されたという。地域抗争への支援という形になっている。皮肉にもこれが琉球国が八重山支配の糸口となってしまった。

❷ 15世紀末に牧畜を中心に民を圧迫していた平久保の加那按司 (遠弥計赤蜂と同盟を結んでいた) を貿易で生計を建てていた西表島の慶来慶田城用緒が討って平久保住民を解放した。

❸ 慶来慶田城用緒は平久保からの帰途に長田大主に会って同盟を結んでいる。

❹ 遠弥計赤蜂は敵対していた長田大主を攻め、長田大主の弟二人 (那礼塘 [ナレタウ]、那礼嘉佐成 [ナレカザナリ]) を討ち取っている。この時に長田大主の妹の古乙婆を捕らえて妻にしたという説もある。(遠弥計赤蜂懐柔の為に政略結婚だったとの説もある)

❺ 敗れた長田大主は西表島に逃れている。

❻ 西表島で長田大主は同盟を結んでいた慶来慶田城用緒は石垣島で勢力を拡大する遠弥計赤蜂攻めの機会を待っていた。

❼ 遠弥計赤蜂は長田大主を駆逐した後に、川平の仲間満慶山英極、波照間島の明宇底獅子嘉殿を討ち、石垣島をほぼ手中におさめる。

❽ 親琉球国派の宮古島酋長の仲宗根豊見親は遠弥計赤蜂と会談を行い、琉球国への帰順を促すが、拒否される。当時の石垣島での勢力を拡大傾向にあり、仲宗根豊見親は遠弥計赤蜂が更に宮古島への侵攻するのではとの危機感を持った。この事で、仲宗根豊見親は首里王府に遠弥計赤蜂討伐の派兵を要請している。資料によっては長田大主が要請したとあるが、長田大主は仲宗根豊見親の庶子なので、この要請はお互いに申し合わせた可能性は高いと思う。首里王府は要請に応じ、3000の兵を送り?宮古島で仲宗根豊見親の兵と合流して、石垣島の新川と登野城の二ヶ所に分かれて上陸。西表島から慶来慶田城用緒と長田大主が合流して、圧倒的な戦力で遠弥計赤蜂を攻め討ち取っている。

❾ アカハチの乱平定後、宮古島酋長の仲宗根豊見親は首里王府と合意の上で、遠弥計赤蜂の家臣的存在だった嵩茶、与那国島のサンアイインバを討っている。これで八重山諸島は事実上、仲宗根豊見親と長田大主親子の統治下となっている。これ以降、暫くは仲宗根豊見親が八重山を治めていた。琉球国を利用して八重山を統一した仲宗根豊見親だったが、琉球国の方が一枚上手で、その後、次第に琉球国の介入が強化され、完全に琉球国の支配下となっていく。

以上の様に、八重山の勢力争いが首里王府介入の口実になったとも見れるが、遠弥計赤蜂はいずれは琉球国の侵攻あると予測し、八重山の主権を守るためには親琉球国勢力を一掃し、八重山の統一が不可欠だったことより親琉球国の豪族との戦いには至ったと思っている。その意味では遠弥計赤蜂は八重山を守ろうとした英雄なのだろう。


民ヌ井戸 (ミンヌカー)

オヤケアカハチ像の道を挟んで大浜小学校があり、その敷地内の東方に民ヌ井戸 (ミンヌカー) がある。この井戸は南の井戸 (ハイヌカー) ともいわれ、村民の飲料水に利用されていた。


崎原御嶽(サキバルオン)

火ヌ神御嶽の先にも御嶽がある。崎原御嶽 (サキバルオン) で、元々は崎原村にあった。琉球国由来記には崎原村の御嶽とあり、神名は崎原神根付、御イベ名はフシカウカリと記されている。崎原村は1678年 (延宝6年) に大浜村の直轄となっている。崎原御嶽 (サキバルオン) は、1771年の明和の大津波で一旦フルスト原に移転し、その後、大浜村が旧地で再建に再建された際に、現在地に戻されている。

この崎原御嶽には次の様な伝承がある。

当時は島には鋤、鍬、鎌などの鉄製農具は無く、昼捲伊 (ヒルマキィ) と幸地玉金 (コウチタマガネ) 兄弟が、農具を手に入れるため船出し、坊之津(鹿児島県) に着いた。その地では白髪の老人に出会い、鉄の農具を求めて八重山からやって来たことを告げると、八重山に崇敬する神があるか、なければ授けようと言い、封印された櫃を渡して、この櫃は洋中にて鳴るので、鳴る方へ船を向ければ無事に島に着だろうと言った。兄弟は神のご加護と悦び、友綱を上げて洋上に乗り出すと櫃が鳴り出した。奇妙に思い、櫃を開けると突然に風向きが変わって船出した坊泊へ逆戻りしてしまった。そこで、また白髪の老人が寄ってきて、洋上で櫃を開けたのかと聞かれたので兄弟は正直に話すと、老人は櫃を封じて兄弟に渡し、洋上では決して開けてはいけないと付け加えた。兄弟は、再び船を漕ぎ出し、櫃の鳴る方へ舳先を向け、順風に乗って大浜村崎原に帰着した。兄弟は伯母姉妹と櫃を開け、降臨した神を拝むようになったという。

八重山で唯一の鉄器伝来の伝説をもつ御嶽で、御嶽旧地境内からは、外耳土器に混じって鉄屑や石炭がなども出土したことから、御嶽が設けられる以前には鍛冶工の作業場があったと推測されている。


神ヌ井戸 (カンヌカー)

崎原御嶽(サキバルオン) と道を挟んで崎原公園が整備されている。この公園辺りが、昔、崎原集落があった場所になる。1628年 (寛永5年) 迄存在していたが、この年に大浜村の直轄となっている。

崎原公園内の北側に神ヌ井戸 (カンヌカー) がある。この井戸は、北ヌ井戸 (ニスヌカー) とも呼ばれて、大浜に鉄製の農具を伝えた昼捲伊 (ヒルマキィ) と幸地玉金 (コウチタマガネ) 兄弟が飲料水として使用していたとの伝承がある。また、村の東方に位置していることから、東ヌ井戸 (アンヌカー) とも呼ばれる。雨乞いで謡われていた大浜古謡に歌われるており、正月の若水はこの神ヌ井戸から汲んで各御獄 (オン) に供られたと伝わる。


津波大石 (ツナミウフイシ)

神ヌ井戸 (カンヌカー) のすぐ東側に津波大石 (ツナミウフイシ) と呼ばれる岩がある。これは1771年 (明和7年) の八重山地震による明和大津波による津波石と考えられてきたが、表面に付着しているサンゴの年代測定の結果から、約2,000年前の先島津波によって現在の場所に打ち上げられたものであるということが判明している。


中道 (ナカミチ)

大浜小学校と崎原公園の間の道がかつての大浜集落の中心を走る中道 (ナカミチ) だった。


オヤケアカハチ之碑

公園の中心にはオヤケアカハチ之碑と、その右隣には古乙婆 (クイツバ) 之碑が建てられている。オヤケアカハチ之碑の側に碑文が置かれている。

オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも稱した豪勇衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた。文明18年(1486) 中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した。ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した。アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた。時は明応9年 (1500) 今から454年前のことである。アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義観をもって戦ったのである。戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう。ここに碑をもってその偉徳を讃えるゆえんである。


古乙婆 (クイツバ) 之碑

ヤケアカハチ之碑の隣の古乙婆 (クイツバ) 之碑は、2000年 (平成12年) オヤケアカハチ没500年記念事業の際にここに移設されたもの。

登野城村の美崎御嶽 (ミシャシオン) で触れたが、古乙婆 (クイツバ) は長田大主の妹で神女でもあった真乙姥 (マイツバ) の妹になる。長田大主が遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) を懐柔するために、古乙婆 (クイツバ) を遠弥計赤蜂に嫁せたといわれている。(別の説では遠弥計赤蜂が長田大主を攻めた際の戦利品としての略奪婚だったとも)  この懐柔策は効果がなく、長田大主と赤蜂は対立する事になった。遠弥計赤蜂に攻められて、西表島に逃亡し、その地の豪族の慶来慶田城用緒のもとに身を置いていた長田大主は来慶田城用緒と共に首里王府へ軍派遣の要請を行った。これにより首里王府軍が石垣島に進軍し、遠弥計赤蜂とその妻の古乙婆は、首里王府に忠誠を誓った兄の長田大主と姉の真乙姥 (マイツバ) と戦うということとなり、遠弥計赤蜂が打ち取られた後には、反逆者の妻として不遇の人生を送った。(戦いの後殺害されたともある。)

古乙婆 (クイツバ) 墓は元々は新川村の真乙婆御嶽 (マイツバオン) 境内にあったが、古乙婆の墓はツダミ墓 (蝸牛墓) と呼ばれ、墓を踏みつけてもよいとされていた。死後何年もそのような屈辱の環境だったが、(大浜は遠弥計赤蜂と古乙婆が住んでいた場所といわれ、古乙婆の墓の状況を哀れんだのだろうか?) 2000年に大浜のオヤケアカハチ500年祭実行委員によってオヤケ赤蜂之碑の隣に移されている。


大浜海岸、オヤケアカハチの足跡 

崎原公園から大浜海岸に出る。

海岸南側に奇妙な形の岩が広がっている。海岸を覆う岩には窪みが幾つもあり、オヤケアカハチの足跡ともいわれている。これは堆積物が固まるときの成分の違いで、堅い成分は球形にかたまり (ノジュールという)、柔らかい成分の堆積物がその周りにあったが侵食されてこの様になっている。ノジュールが取れた所は、メガネや足跡のような凹みとなっている。写真中ではその両方が見られる。


カースンヤーヌカー (井戸) (未訪問)

大浜海岸の北側のカースンヤーの浜の洞窟内にカースンヤーヌカーがあるそうだが、その場所は探すが、分からなかった。この井戸は城間屋 (グスクマヤー) の祖が掘ったと言われ、水量は少なかったが、飲料水に利用されていたという。機会があれば、もう一度探してみよう。


東崎浜願所 (カースンヤーハマニンガイジュ)

崎原公園の南側海岸には願所 (ニンガイジュ) が置かれている。ここには海に向かって五つの石が並んでおり、其々が大石御嶽、大底御嶽、潤水 (水元) 御嶽、黒石御嶽、崎原御嶽の五御嶽の願所となっている。元々は波打ち際にあったが、台風で動いたり砂に埋まったりするため、1954年 (昭和29年) に現在の位置に移転建立されている。この場所は願所は、昼捲伊 (ヒルマキィ) と幸地玉金 (コウチタマガネ) 兄弟が薩摩坊泊へ鉄の農具を買うため船を造り、東崎浜から出航し、その家族や親戚が航海の無事を祈った所と伝わっている。

大浜の豊年祭 (ムラプール)では、神司達がこの祈願石の前で五穀のみのりに感謝し、来夏の豊作と安全を願うカースンヤー願いが行われている。


魚供養之碑

大浜海岸を南に進むと魚供養之碑が建てられている。この場所ではアーサが採れるそうだ。魚供養之碑は1988年 (昭和63年) に大浜の海岸を守る会により、命を育む海と、生きる糧となる魚介類に感謝、そして安全を祈願して建てられたそうだ。



次は旧大浜集落だった上屋敷地、下屋敷地から離れ、字大浜の北地域にある史跡等を見ていく。


小字 船着原 (フナスクバル)

下屋敷地の北、宮良湾に面した一帯は小字 船着原 (フナスク) になる。この地に流れるウラバルカーラが宮良湾に注ぎ込む入江付近はフナスクと呼ばれていた事からこの小字名になった。


舟御嶽 (フナオン)

小字 船着原の中に木造の朱塗り鳥居と小祠の舟御嶽 (フナオン) と呼ばれる拝所が置かれている。舟着御嶽 (フナツキオン) とも呼ばれ、潤水御獄 (ミジィオン) より分神して祀ったと伝わっている。また、かつての舟着村の御嶽という説もある。この一帯は、かつての舟着場で、丸木舟を新造した際にこの御嶽に供え、浜かずらをのへさきに巻き付け、供物を供えて神司により命名と航海安全を祈願をする 「舟のマタシツキ」 の祭事が昭和初期頃まで行われていた。元々は大浜舟着場入口の北側左岸にあったが、国道390号線改修工事によって、国道の東側沿いに移されている。

舟着御嶽 (フナツキオン) の前に広がる宮良湾にはポーガカク (魚垣 写真 右上) が微かに見えている


高こるせ石 (タカコルセイシ) (未訪問)

小字 船着原の国道390号線に面した畑地に津波石が残っているのだが、そこへの道が分からずたどりつかなかった。2000年前の先島津波で黒石御嶽 (コルセ御嶽) へ流された石が、1771年の明和大津波で、そこからこの地に約600mも流されたという。とふりやの高こるせ石と呼ばれている。黒石御嶽にあったもうひとつの石が沖合に流されている。津口北の端の高こるせ石と呼ばれている。



小字 大道原 (ウードーバル)

小字 船着原の北から宮良川付近に至る一帯は大道 (ウードー) と呼ばれていたので、この小字は大道原と呼ばれている。「ウー」 は大きいの意があり、「ドー」は低地、産地の意味と考えられる。


シーサー像

小字 船着原から国道390号線を北に進み、小字 大道原に入った所にのコンビニ駐車場の隅にコミカルなシーサー像が置かれている。本島でも近年は昔の伝統的な険しい顔のシーサー像から、この様な可愛らしいシーサー像が作られ人気がある。



カンドー原 (カンドーバル)

小字 大道原の東に隣接してはカンドー原 (カンドーバル) になる。大浜集落の北方一帯の称。域内には、大底御数と潤水御嶽があり、この小字内に、かつてはカンドームラと呼ばれた村落があったといわれ、小字名の由来という。


潤水御獄 (ミジィオン)

カンドー原 (カンドーバル) 内に二つの拝所があり、その一つが潤水御獄 (ミジィオン) になる。琉球国由来記と八重山島由来記にはヲノミチ御獄と記され、神名は大ラノミチ中ノ原、御イベ名はケンサウジムカノアジとある。潤水御獄 (ミジィオン) は、カンマンガー大川福利氏の始祖の大川親雲上が、大浜村の水の神として社をこの場所に建てたのが始まりという。1771年の明和大津波で流潰したために、崎原御嶽や黒石御嶽などとともに1773年 (安永2年) にフルスト原に奉遷されたが、その後、再びここ旧地に戻されている。


大底御嶽 (ウフスクオン)

潤水御獄 (ミジィオン) のすぐ西側にもう一つ拝所が置かれている。大底御嶽 (ウフスクオン) で、琉球国由来記と八重山島由来記には大城御獄と記され、神名は大城神根付、御イベ名はモトノキンキサノキンとなっている。大底御嶽は、前盛屋の先祖の大底親雲上が、ここに社を建て崎原御獄から分霊を迎え創建し、当時この地にあった大城村の御嶽となった。大城村はいつ頃からあったのかは不明だが、1628年 (寛永5年) に三間制になった際には、既に大底のこの地を含めフルスト原北方の低地までに存在していたという。大城村は1681年 (天和元年) の洪水で流潰し、大浜村に合併されてたと伝えられている。1771年 (明和8年) の大津波で大底御嶽は被害を受けたのか (?) 平久保半島の安良村に奉還され、旧大城村の大底御嶽の氏子は崎原御嶽に合流している。その後、大底御嶽の旧跡にはしばしば不思議な火の神霊現象がおこり、関係者が協議の上で大底御嶽を旧地に再興している。


宇根井戸 (ウニンガー)

大底御嶽の西側にはフルスト原に沿って北から船着原海岸に流れ込む川がある。この川沿いの道を北に少し進むと、川をわたり林への入口がある。この奥に宇根井戸 (ウニンガー) と呼ばれる井戸が残っている。鵯が水遊びをしているのを、ある字根主 (ウニシュー) が見つけ、掘って井戸を造ったのが名の由来と伝わっている。早魃の時にも水は枯れることはなく、非常用の飲料水として使われた貴重な井戸だったという。


旧海軍平得飛行場弾薬庫跡

大底御嶽の西側にはフルスト原に沿って北から船着原海岸に流れ込む川がある。この川沿いの道を北に少し進んで、橋を西に渡った所の旧海軍平得飛行場弾薬庫跡への駐車場がある。

フルストの丘陵の南西の段丘下には沖縄戦当時、8つの旧日本軍海軍壕があった。北には1933年 (昭和8年) に造られた海軍補助飛行場の平喜名飛行場 (海軍石垣北 石垣第1飛行場 現在の国際農林水産業研究センター 熱帯・島嶼研究拠点)、南西には1943年 (昭和18年) に運用開始された海軍平得飛行場(海軍石垣南 石垣第2飛行場 旧石垣空港) があり、この二つの飛行場の弾薬を補完していたのがこのにある海軍壕だった。

八つの海軍弾薬庫壕は、殆どが密林内でに埋まっているが、この駐車場近くにある壕は戦争遺構として保存されている。



小字 フルスト原 (フルストバル)

大浜集落の北西方にある高台一帯がフルスー又はフルストバルと呼ばれていた。フルストの意味は不明。


フルスト原遺跡

大底御嶽 (ウフスクオン) の北西には丘陵があり、その上でフルスト原遺跡が発見されている。

旧海軍平得飛行場弾薬庫跡の上にあるのだが、直接は行けず、道を北に進んで北入口から南に進み遺跡に到着。

フルスト原遺跡は、広い敷地に跡崖上に石垣が連なり、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽で構成されていた。遺跡は広い敷地でに広がる高い石積みが伸びている。

フルスト原遺跡は、一見、グスクに類似しているが、発掘調査では土器や中国産の青磁や白磁の碗や皿の陶磁器などの生活用品や装飾品、イノシシの骨や貝殻の食糧残滓が発見されたが、武器が出土しておらず、現在の研究では城郭では無く、石積を配して防御性を備えた集落だったと考えられている。 13世紀から16世紀にかけての屋敷囲いの石積を伴う集落跡で、その最盛期は14世紀後半から15世紀中と考えられている。その後、琉球王国時代の18世紀から19世紀頃には、一部が墓地や拝所となっていた。沖縄戦当時は海軍南飛行場の軍事施設用地としても使用されていた。

遺跡調査では石塁遺構が15基確認されたが、1943年 (昭和18年) に建設された海軍飛行場 (旧石垣空港) が米軍に攻撃され損傷を受けた際の補修の為にフルスト原遺跡石塁の石灰岩塊を使用され、また近隣の畑でも利用された事で石積みはかなり形を変えてしまったが、復元作業が行われ、7つの石塁を見ることができる。



次は字 大浜の更に北に行く。フルスト原遺跡から、北側を見ると全面農地か放牧地になっている、写真に見えている山の麓に開拓集落があるので、そこを訪れる。何も史跡はないのだが、開拓集落に石碑がある。観光だと石碑などは素通りされるのだが、石碑はその地の人が何らかの理由で後世に伝えたいという思いで建てられている。その地の歴史を知るには欠かせない場所と考えている。石碑を訪れ、碑文を見、その周辺を見渡すとその背景や歴史が浮かび上がってくる。


小字 牧場 (マキィバ)

小字 牧場 (マキィバ) は文字通り、かつてこの一帯には、大浜牧場 (ホーママキィ) と呼ばれた牧場地があった。


川原 (かわら) 集落入植五十周年記念碑

大浜村北部の小字 牧場と小字 内原にまたがった場所には、明治中期頃に失業した旧琉球国士族による開拓事業が行われたが、途中で挫折している。その後、1941年 (昭和16年) に沖縄県振興15ヵ年計画により、沖縄本島から14名 (豊見城から7名) が入植し川原集落を創建している。当時は沖縄県の移住政策が取られ、沖縄各地に開拓集落が造られていた。石垣島ではこの川原と開南集落がそれにあたる。当初七世帯が二軒の家に分かれて居住し、自給用作物栽培のための開墾と家屋建設にあたった。農業基盤が完成した後は防風林を整備し、マラリアなど風土病などで廃村になった集落もある中、川原集落は風土病を克服して生き延びた。日本政府のパイン缶詰の関税優遇措置や琉球政府のパイン産業育成政策により、本土資本のパイン缶詰工場進出が助長され、1950年代後半から60年代はパインブームで好景気となり、川原集落のパイナップルの産業も盛んとなり、農地を拡大し増産に取り組んだ。この時期には川原集落之人口は激増している。1970年代になると冷凍パインの貿易自由化、台風・干ばつの自然災害と生産環境の悪化による離農、沖縄施政権返還後の円高不況やオイ ルショックなどの影響を受け、パイン産業は斜陽産業へと転落し、1980年代には次々と缶詰工場が閉鎖され、原料買取価格も低迷し、1990年代には石垣島で操業していた最後の缶詰工場が閉鎖されている。これを境に、生産者は缶詰工場での加工処理を前提としないパイナップル生果の生産に切り替えていった。川原集落では、元々生果販売を主に行っていたことで、他のパイン生産者に比べダメージは少なかったようだ。以上のような背景は人口の推移にも表れている。パイナップル産業衰退で人口はピークの1964年488人から、2003年には150人にまで憲章したがその後は少し持ち直し、2023年 (令和5年) 末では236人となってる。しかしながら近年は人口は減少傾向にあり、近くにある川原小学校等社会インフラの維持に危惧がある。

2023年に開設された陸上自衛隊石垣駐屯地では、2026年度に電子戦部隊約70人が増員予定で、その隊庁舎候補地に川原集落の内の小学校前の畑となっている。川原地区で子ども数の減少を懸念する役員らは、隊員とその子どもたちが川原に居住することによる地域活性化に期待を寄せているが、陸上自衛隊石垣駐屯地開設時には反対運動も起こり、集落内では容認派と反対派が存在し、調整に苦労しているようだ。

集落南側の集落センター敷地内には、集落への入植50周年を記念して1991年 (平成3年) に碑が建てられている。


三和 (さんわ) 集落 和の碑

川原集落の東に隣接して開拓集落の三和 (さんわ) 集落がある。1950年 (昭和25年) に沖縄本島、宮古、地元八重山の三者の協力によって、東西南北の道が交わる交通の要衝に自由移民集落として三和集落が創建された。三和集落は人口過剰に悩む宮古島平良市や日本本土、八重山諸島の他地域、台湾からの7世帯が開拓・入植している。三和集落の人口推移は川原集落の傾向トほぼ同じだが、1989年に人口が76人から122人に増加、その後、2006年に96人から37人に減少している。この間の人口推移の理由はわからなかったが、三川 (第一) 市営住宅がこの期間にあったという不確かな情報もあった。(川原集落と三和集落を合わせて三川地区と呼ばれている。) 現在は小さな集落になり、世帯当たりに人数も1.6人で過疎化が進んでいる集落の様だ。

集落の北側、県道209号線と211号線の交差点の三和構造改善センターに集落創設60年を記念して石碑が2010年 (平成22年) に建てられ、「和 創設60周年」 と刻まれている。

この三和集落から、東側を見ると、遠くに石垣空港が見えている。そこまでの間は全面農地になっており、民家はほとんど見られない。



小字 武那田原 (ブナタバル)

大浜村の最北端の地域、真栄里ダムとその後方山林を含む一帯の小字が武那田原 (ブナタバル) になる。武那田原南部にブナタバルと呼ばれる田地があった事からこの小字名となった。


真栄里ダム碑 (未訪問)

小字が武那田原 (ブナタバル) には真栄里ダムが造られている。三和 (さんわ) 集落の更に北にあり、そこへは登坂になっている。今日は一日中炎天下の元で色々な所を巡ったので、力尽き、真栄里ダムへは次回の石垣島訪問時に訪れることにした。真栄里ダムは沖縄県で一番高い標高525.8mの於茂登岳 (おもとだけ) を源とする二級河川の宮良川の上流に建設された多目的ダムになる。ダム建設以前の宮良川は疎通能力が著しく低く、しばしば氾濫を起こし、多大な被害をおよぼしてきた。また、宮良川は農業用水や都市用水の最大の水源となっていたが、渇水時にはしばしば水飢饉が起こっていた。排水事業による農業振興とともに、都市用水の安定供給を図る目的で、1972年 (昭和47年) から調査が開始され、総事業費45億6千万円を投じて1984年 (昭和59年) に完成している。この竣工を記念した碑が真栄里ダムの左岸に置かれている。




大浜村 訪問ログ


参考資料