イランにおける女性規制は宗教の名を借りた人権の抑圧である
あイランど?
今月に入りイラン政府が長年の懸案だった女性へのオートバイ免許の交付を解禁した。イラン国内では政府に対する不満からデモが頻発している。今回の措置はイラン国民の政府への不満を受けての対応であることは想像がつく。女性の自動車の運転は認められていたがオートバイは免許の交付対象になっていなかった。テヘラン市内は交通状態することが多く女性のオートバイ免許取得の需要は高まっていた。イランでの女性に対する規制は単なる服装規定や文化的慣習の問題ではない。国家権力による宗教解釈を通じた女性の身体、行動、人生の選択を制度的に管理する構造的な人権制限である。象徴的なのが公共空間でのヒジャブ着用義務だ。頭髪を覆わなければならないという規定に違反すれば拘束や再教育の対象となる。服装の自由が奪われているだけでなく女性の身体そのものが国家の監視下に置かれていることを意味する。これは信仰の自由ではなく信仰の強制である。規制は外見にとどまらない。公共の場での男女の接触、女性の歌唱や踊り、混合イベントへの参加など日常的な表現や交流が厳しく制限されている。女性が単独で歌うことが禁じられている現実は表現の自由の否定にほかならない。法制度に関してはより深刻な不平等が存在する。結婚や離婚、親権、相続において女性は明確に不利な立場に置かれ、裁判での証言価値も男性より低く扱われる分野がある。海外渡航や就労に家族の同意が必要とされる場合がある点は女性が法的に主体性を認められていないことの証左である。さらに、スポーツ観戦や政治的発言といった公共的領域からの排除も続く。女性活動家や記者は特に拘束のリスクが高く、SNS上の投稿すら摘発対象となる現状は沈黙を強いる統治の手法と言わざるを得ない。2022年以降、女性の尊厳を求める抗議運動は世界の注目を集めた。しかし、取り締まりの緩和と再強化が政権判断で繰り返される状況は問題の本質が未解決であることを示している。宗教や文化を理由に個人の自由と尊厳を恒常的に制限する体制は国際社会の理解を得られるものではない。イランの女性が求めているのは特権ではない。基本的人権としての自由と平等である。その声に耳を塞ぎ続ける限り体制の正当性は揺らぎ続けるだろう。