にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険 ~ディスクール~・第4話『猫の恩返し―聖域のマスコット―』
日本の民俗学者・文化人類学者である關敬吾が、日本の昔話の話型を分類し、カタログ化した『日本昔話の型』【著:關敬吾(小澤むかし話研究所)】という本があります。
例えば有名な「わらしべ長者」というお話は、本書では「一〇 到富 二二九 藁しべ長者〔一五五〕」に分類されます。日本に広く分布している物語には地域性が反映されていたり、登場人物やオチが異なったりするものもありますが、そのような場合は、(a)(b)といったパターン分けがなされています。
その本を紐解いている時に、ふと気がついたことがあります。
「三 人間と動物 D 動物報恩」、つまり、動物が人間に恩返しする話型の中には、猫が報恩する物語が4パターン採取されているのに対し、犬が報恩する物語はわずか1パターンしか存在しないということです。
「犬は人間の大切な友達」というキャッチコピーが広く流布されている現代の感覚からすれば、忠義な犬の物語の方が多いはずだと思ってしまいますが、これは一体どういうことなのでしょうか。今回はその件について考えてみました。
『D 動物報恩「一四七 猫檀家」「一四八 猫又屋敷」「一四九 鼠退治」「一五〇 絵猫と鼠」』としてサンプリングされている物語には、ある共通点があります。それは、舞台のほとんどが「寺」であるということです。
寺は、それぞれの宗派が布教の拠点として建立したり、権力者がその威信を誇る記念碑(モニュメント)としたりした、いわば政治的な一面を持ちます。その反面、村落共同体にとっては、過酷な日常から一時的に逃避する装置、あるいは救済を求めるシステムでもありました。
豪奢な寺院にしろ、村の小さな山寺にしろ「聖具や経文」を鼠害から守る猫は、次第に〝聖獣〟的な立ち位置を獲得していったと考えれば説明はつきますが、猫は十二支にも入っていない、いわば「聖」的な秩序からは埒外の動物です。猫は聖別されないがゆえに、かえって〝マスコット〟化、つまり語りの対象となっていったのではないでしょうか。境内という聖域でのんびり昼寝する姿は、人々の心の緩衝材(マスコット)になりやすかったのでしょう。寺が各地に作られるにつれ、猫のマスコット化も全国化していき、猫の恩返しのお話も伝播していったのでしょう。
一方、「一五四 忠義な犬」で描かれている犬は猟犬であり、悲劇的な結末を迎えます。かつての村落共同体において「血」は強い忌避の対象でした。どんなに忠義な犬であっても、当時の人々は、その背後にある「猟犬=血=穢れ」という既成概念を突破することができなかったのではないでしょうか。
本来、その手が最も血で塗れているのは、戦を生業とする武家のはずです。しかし、武家が権力を握るにつれ、民衆の不満を逸らすための「スピン」として、狩猟採集民は辺境の民として〝穢れ〟を全面的に押し付けられていきました。「一番の友達」であるはずの犬は、有能な猟犬であるがゆえに、その構造的差別の渦中に巻き込まれてしまったのです。
そして今、世界では再び不穏な「スピン」が始まっています。歴史の中で繰り返されてきたこの「スピン」という技法は、決して過去のものではありません。
米国とイスラエルによるイラン空爆。これは、世界を揺るがしている「エプスタイン文書」から人々の目を逸らすための戦争だとする見方もあります。今も昔も権力者は、自らの不都合を隠蔽するために「生贄」を作り出します。
私たちは、権力者が自分たちの都合の良いように作り出す〝構造〟を、冷静に分析しなければなりません。二度と「大切な友達」を見捨てないためにも。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。