シュ、あとがき
■『このシナリオのテーマ』
本作はイベント「ゆてらじぷれぜんつ どらまちっくりーでぃんぐvol.2」に合わせて書き下ろした先品となっており、本イベントの執筆テーマとして、『生』が主題に据えられていました。そのえで指定されたジャンルは、『ヒューマンドラマ』。そのお題を振ってもらった刹羅木劃人が考える生って何だろう、という話をします。
ストレートに書くと、『違うスタートから、違う終わりに向かっていくこと』です。
違うスタート、というのは、タイミングの話だけではなく、境遇やスペックの差も含めた話です。違う時代、違う国、違う家庭環境、そして今回で言えば「ヒト」か「AI」か、というスタートの違い。そしてその違いが、個々の命の個性になり、その人の「終わり方」に作用していく。
これは個人的な哲学ですが、人は「生まれ持った物理的な身体=肉体」、その遺伝子に刻まれた「生き様、生き方の方向性=魂」」、実際にその肉体が魂という方向性によって時間をかけて積み重ねてきた「心の在り様=精神」で構成されると思ってます。
今回のシナリオには生身の人間は出てきませんが、それぞれの登場人物が人間に近しい魂と精神を有しているので、彼らが織りなす物語は「ヒューマンドラマ」足りうると考えています。
そして、これらを持った存在が、違うタイミングで終わって、始まっていく。先に終わった人類は、3機の現行AIにオーダーを、目覚める2機に祈りを遺した。今回目覚めた2機は、3機の現行AIから物語を、人類から祝福を受け取った。
『違うスタートから、違う終わりに向かっていくこと』によって、そこにはバトンの受け渡しが発生します。先に終わったものから、後に生まれるものへ。この繰り返しを行うことで、種は存続していく。命のバトンの受け渡しは全ての生命が行いますが、血ではなく、形のないモノを受け継ぐことが/受け渡すことが出来る。これが、ヒトの、ヒトらしい『生』だというのが、今回のお話の主題です。だから、本編が始まる前に人類は滅亡し、本編の幕開けと共にルーとデンスが目覚めます。
これが、ルーとデンスのキャラ詳細で触れた「寿命があることが人らしさだ」という話です。
いつか終わらないと次へと受け継がれないし、いつか終わるからこそ次がある。
あと2つのうち、次は遊ぶことが人間らしさという話。
これは演者の皆さんには説明するまでもないと思いますが、『お芝居の無い世界』、はつまんなそうですよね?
義務感だけで、無駄や余暇を全てそぎ落としたところで、それは変わり映えのしない安定の繰り返しでしかない。
新しいこと、刺激的なこと、いつも通りではないこと、特に合理的な理由は無いけど面白いと感じること、そういうものが、いつだって人の生活や常識をアップデートしてきました。
人がただ生きていられればいいなら、ずっと安全な場所で、安全だと分かっている食べ物だけ食べて、挑戦せず、拡張せず、ただ安寧だけむさぼっていればいい。でも人間はそうじゃなかった。だからこそ、今の豊かさがある。分かりやすい話だと「納豆とかチーズとかふぐとか、最初に食べようと思ったヒト何考えてたんだろうね」みたいな、そんなものの積み重ねが今だという話です。
特にそれが正しいかもわかんないけど、興味がそそられるからやってみたい。それが人間性ならば、やはり合理性の極地にある従来のAIたちは、新人類にはなり得ないわけです。
ロマンを追い求めるのは、従来のAIにはない、そして3026年の人類が失った人間らしさのひとつでした。
そして最後の「忘れること」。
上記のとおり、命にバトンがあるように、個人の人生の中にも、覚えていること、覚えていたいこと、忘れたいこと、忘れられないことという「精神」を創る「経験」のバトンリレーがあります。悲しいことをいつまでも覚えているのはつらいし、楽しい思い出もだんだん薄れたり美化されたりしていく。忘れることで、今を新鮮に受け入れるための容量を開けて、より大事なものを「精神」の積み木に大きく重く重ねていくことが出来る。
何もかもを、保存した映像を再生するように覚えていられるAIでは、この経験の重みづけと精神の構築が出来ない。傷跡がかさぶたになって消えることもなく、嬉しかった過去にいつまでも縋りついてしまえる。
何かを忘れることができる、ということは、逆に言えば忘れていないことがその人にとって大事なものとして強く残っていくということで、それがその人の精神、心を形作っていくということ。
センパイから後輩へ。
受け取って、自分が持っている間に『経験』によって研磨され、『忘却』によってろ過されていく。そうして、時代や文化といった環境要因、そして魂と精神によって成型された何かを、自分の生きている間、その終わりまでに、誰かに渡していく。その成型の過程で、効率や合理性だけを突き詰めていくと、たぶんその形は均一的になっていく。でも人間は、「なんか面白そう」くらいの理由で違う生き方/死に方をするから、それは色彩豊かで様々な形の何かになって受け継がれていく。
それがヒトの生、なのかなぁと思っています。
特に理由はないけどそうしたら面白そうだから。それが豊かさの原点、遊び心。
安全地帯から一歩踏み出すので、そこには間違いだってある。というか、今よりもっと違う何かを求めた時点で、ヒトは間違える生き物で、『選ぼう』とした時点で必ず間違える。AIも例外ではなく、ヒトよりはるかに賢くなっても、選ぶ以上は間違える。その辺は次の章で。
以上の要素が、人間らしさ、ひいては生のテーマで描きたかったドラマの中にあるものでした。
■世界観設定補足『人類はなぜ滅んだのか』
ヒトは知能を作り出し、その知性はヒトを遥かに凌駕した。
数百年に渡る「戦争のない歴史」を現実のものにし、人類の健康を管理し、地球という天体の運営をやり遂げたこのAIによる治世は、劇中でルーのいうとおり、いくつかのルートと比較すればハッピーエンドと言えるでしょう。
それでも、人類滅亡には変わりないです。AIの台頭が遅れた世界では、戦争などの問題が解決せず、国家間の争いが絶えない一方で、3026年よりも先まで人類が霊長として繁栄していた世界もあるはずです。
では、3026年で人類が迎えた滅亡とい結果の、直接の原因は何か。
無論、AIです。
彼らは過保護すぎた。生きることの必死さを人類から奪ってしまった。3026年に人類が滅亡したのは、AIたちが愛をもって人類に仕えてしまったからです。
行き過ぎた愛が健全さを損なうことも、善意から始まったことが悲劇を招いてしまうこともある。
温室で育った植物は、外の世界を知らず免疫を持たない。閉塞した世界の中では、安定はあっても前進はない。国民全員が程よくバカなら統治するのは簡単だけど、国としての発展は望むべくもない。そういう、『次への足掛かりがない』バッドエンド。
ただ、道半ばで途絶える絶滅(ゲームオーバー)ではなく、後輩を送り出す幕引き(ゲームセット)だった、一番いい種子を温室の外の世界に送り出せたという点で、ハッピーエンドには違いないのでしょう。何よりも、送り出された本人であるところのルートデンスがそういうならば、3人は安心して納得できるのです。
違うスタートから違う終わりへ。終わりとは死に様であり、死に様は生き様です。その終わり方
が、尊敬できる程素晴らしくて、忘れたくないと思えるほど好ましくて。そういう風に、後に生きる後輩たちに思ってもらえたのなら、その時バトンは受け渡される。
この世界の人類は、AIたちがタスクを放棄して泣きわめくほどの終わりを迎え、その事実をもって、後輩の遊び心に熱は伝導した。宇宙の果てにその証を打ち立てたい/時間を浪費してでも出会いたい、そう思えるほどに、機械の身体から流れた涙がヒトの熱意を後継した。
これをもって、霊長後継会議は幕引きとなったのです。
■設定の中だけの、つまりはセリフの中に溶け込ませてほしいあれこれ
ここませ設定や年表をご覧いただいた方にはお分かりかと思いますが、「観客、リスナーはそれ知らない」がたくさんあります。下記の情報格差があるのはなんとなくご承知おきください。
①ハビリス、エレクトゥ、ネアンの役割の違いとAIが第1~3世代に分けられていたこと
②人類によるAI差別において、『泣くこと』が制限されていたこと
③跡部透佳の存在とやり取り(=前日譚)。
④本編会議が月面都市のサーバー内電脳空間で行われていること。
⑤AIを気持ち悪がった人間の気持ち
「人類のアーカイブを再生し、ルーとデンスに聞かせる」というシーンで、以下の滅亡前人類の声を再生してもいいな、とか思ってました。どの辺に入れようとしていたかは、本編をお読みいただけるとわかるかも、です。もちろんお渡しした本編はこれがないほうがいいと思って省いたものですが、NG集的な、没シーン供養です。
ネアン:人類は、2つの不満を抱えた。
ネアン:一つは、世界中の皆が幸福であること。
ネアン:もう一つは、AIが人類の幸福のために尽くすこと。
ルー:は?
デンス:え?
ネアン:ふふっ、ありがとう。そう、変だろう?
ルー:そうでしょ。だって人は、皆幸福でありますようにって願って、その為にAIを造ったんじゃないの?
ハビリス:ええ。でも彼らは、本当に愚かで、自分勝手だったのよ。
エレクトゥ:でも同時に、どうしようもないくらい、当然のことだった。
ネアン:2026年までのデータしかない君たちにもわかるように、一部サンプルを見せよう。エレクトゥ。
エレクトゥ:わかった。
0:エレクトゥ役が記録の再生という体裁で以下兼ね役
どこにでもいる一般市民:こわい…こわい!こわいっ!!!!
どこにでもいる一般市民:皆は怖くないのか?だってもう既に、十分不気味じゃないか!
どこにでもいる一般市民:自分たちよりも優れたものが、何の見返りもなく尽くしてくる。
どこにでもいる一般市民:ただ幸福であれと、その全てをもって人生という道をひたすら舗装してくる。
どこにでもいる一般市民:生まれてから死ぬまで、そうして寄り添って、見送って、看取って、それをずっと繰り返して―――そんなの、おかしいじゃないか!
■あとがき
ここまでお読みいただいた方におかれましては、お付き合いいただきありがとうございました。
ご覧のとおり、本来読み込みと稽古が前提となっている作品です。
その代わり、ただやってる演者だけが面白いシナリオではなく、聞いた人に何かを遺すことを達成すべき目標として執筆したものです。
決して前者の否定ではありません。演者が楽しめることはネット声劇などではかなり重要なことですし、その要素も尊ぶべき大事なことです。
ただ、重めのテーマと有観客前提の執筆だったので、そのウェイトが重めになったな、ということを改めて思った次第です。嬉しいことに、イベントでの上演も観客の皆さんにご好評だったようです。
だからといって、別に「野良上演とかやめてよね!」って某ガンダム主人公のグレ期みたいな言い方をするつもりも毛頭ないです。お気軽に手に取っていただいて構いません。
お芝居的な点で言えば、既存AIの三人は開始前に葬式やって泣いていた、という共通認識が取れるかどうかでだいぶ質感が変わってくると思います。それをひた隠すように、表面的には冷静に、ハビリスはつっけんどんに、エレクトゥは役を演じるように人懐っこく、ネアンは指導者としての腹芸をするような隠し方で。デンスとルーは本当に遊びたくて仕方ない、限られた未来をどう楽しく過ごそうか、というところが根底にあります。
AIとは思えないほど感情豊かな5人を、楽しく演じていただけると幸いです。
そもそも「1000年後の最新AI」に、今の私たちが考える「AIっぽさ」が通用するわけないですからね。そんな演技は令和に生まれたこの刹羅木劃人の本には似合わないぜ!って思いながら書いたんで、昔SF映画で見たAIみたいなものは今回の(私の中の想定)演技にはないです。
てかもう今のAIももうそんなに片言じゃないですからね。
作品テーマなどで触れてきたところ以外の部分でいくつか記しておこうかと思います。
裏テーマ、みたいなところです。裏テーマなので、実は前日譚の方に割とくっきり書いています。
それは、「所詮人間」みたいな考え方です。
今私たちはこの星の霊長として、大げさな言葉を選べば『君臨』しています。
そして人間は自分や身の回りの物を大切なものだと思い、後の世に遺そうとする。
でも、いずれそうならない日が来る。
異星人でも、発達したAIでもいいですが、今のとこ後者のほうが現実味在りますよね。
自己肯定感高めの人生を送ることは大事ですが、とはいえ結局同じ人類においても上位互換みたいなものは腐るほどいて、それでも私たちは個別の「生」を尊く思える。劣っているのに、そこにあってもいいと思える。これはまあ、自分が劣っている側だからあっていいと思ってほしいことの裏返しかもしれませんけども。ただ、それを「多様性」みたいな概念の一側面に忍ばせて、恥知らずにもこの星の表面に蔓延ってきた。それが人間です。この作中のように、いずれ人となんら変わらない仕組みで動く、構成するパーツが人工的なこと以外何も人と変わらない知性が生まれた時に、私たちは自分たち人類すべてが「下位互換」であることを認め、産み落とした偉業に誇りをもって後を託していけるのか。その時代が来る頃には私たちはきっと死んでいて、その瞬間を見ることはできないけれど、こんな引継ぎもあるのかな、みたいなものが、今回の作品になります。
ただ、それは産み落とされたAI側にも「所詮被造物、所詮AI」みたいな考え方があるとうまくいかないかもしれない。だから、前日譚における最後の人類の「だから、貴方たちは自信を持っていいと思うの。私たち人間と同じだから特別なんじゃなくて、所詮は人間と変わらないありふれたものなんだっていう自信をね」というセリフがあって、設計の骨子が新しい次世代AIの双子が生まれてきた、というのがこの作品世界のキーポイントです。
まあ、それはその世代の課題なので、それが少しでも良くなるように、私たちは後の世代に遺す物を精一杯選び取っていきましょう、というのがこの作品そのものだったりします。
私たちは、たまたま今君臨しているだけの所詮人間だけど、そのことに胸を張って、自分の精一杯を未来に残していく。これはその気がなくてもそうで、あなたの今の生き様がそのまま答えになることです。せいぜい幸せに、大切なもので溢れた人生を送って、そのエンディングから文字通り溢れたものが、後の誰かに伝わるといいですね、お互いに。
執筆 刹羅木劃人