2026年 3月8日
先週頃までは春の陽気が定着したのかと思うような、のびやかな暖かい日が続いたが、このところ寒さが戻ってきている。それでも、地面からは少しずつ緑が生え始め、木々にも少しずつ芽吹きが現れてきた。
年度末とあって、いろいろと行事がある。3月の下旬に篠原と牧馬地区の自治会の総会があるが、その前に牧馬地区の地区会があった。こんな時に牧馬の住人が集まって、この土地ならではの問題や課題を語り合う。でも一番大事なのは、こうして顔を合わせて交流する事自体に価値があるのだろう。
今日は篠原の里で防災の集まりがあった。そこで、防災に関する専門家に来てもらって、いろいろと興味深い話をしてもらった。あいにく、私自身は途中で体調不良を感じて早退してしまったけれど。
その話で印象深かったのが、地震や大雨などの災害で住民に被害が出た際に、救出される人々に関する、ある割合の話。何の割合かと言うと、被災者が救出される場合、自力で何とか助かるのが3割程度で、家族や近隣の住民の助けで救助されるのが6割程度。で、消防やレスキュー隊による救助者の割合は、2パーセントにも満たない数値だそうな。
これは決して消防署員の能力が低いと言う話ではなく、大規模な災害が発生した場合は、まずは現場の人間で何とかしなければならない割合が、圧倒的に多いという事だろう。
また前回の日記の続き。前回は、貴族性や君主制から民主制への進展が、民衆の総力を結実させる結果になり、他の政体を圧倒する勢いで力を発揮したことについて書いた。
人々は平等であり、奴隷のような虐げられた身分を否定する民主制は、人類の理想の形でもある一方、強さも持ち合わせていた。結局、人々の願望が集中するような制度や仕組みは、多くの支持を得て勢力を拡大する。こんな事は遥か昔から繰り返されていて、紀元前219年頃に北ギリシア(現マケドニア)で刻まれた碑文にこんな文言がある。
「ローマは解放された奴隷に市民権も与えている」
ギリシアとローマが戦争しても、ギリシアの奴隷は戦争に勝っても負けても奴隷のまま。でもローマに行けばいずれは市民になれる。この状態を進めれば、ギリシアは奴隷がローマに逃げて人口が減っていくし、いずれローマに力で負けていく。碑文はそんな未来を危惧しての警告だったが、歴史はその通りに後を辿った。
だらだらと書いてきたが、結局、人々の喜びが多く、大きい方が、その組織は発展し、力も付けるという事だろう。
ここで確認しておきたいのは、理想は決して無力ではない、ということだ。
現状よりも、喜びの多い世の中。これを考え、想像し、創造する事自体、決して無力では無く、逆に旧来の世界を一変させる力強さも備えている。これは人間の歴史だったし、今後も変わる事はないだろう。
では、今以上の喜びのある世の中の形とは、どういうものだろう。
政体としては、民主制以上のものは現れないと思う。となると、政体とは違う分野で、新しい動きが現れるかもしれない。 人々の理想や喜びを汲み上げて、それを実現へと導く手法。それは、どのような形で現れるのか。
ここらで、「ブラックかホワイトか」という発想が出てくる。例えば、民主制にだって、ブラックな民主制もあれば、ホワイトな民主制もあるだろう。ではブラックな民主制とはどんなもので、ホワイトな民主制とはどんなものか。
ここで私なりの考えは書かない。私が言いたいのは、こんなふうに「ブラックな〇〇、ホワイトな〇〇」と考え方を設定すると、何かを考えるきっかけとして便利だという事。便利なので、私は昨年あたりから「ブラックな〇〇、ホワイトな〇〇」という設定を良く使う。
そして、私だけでなく、このような設問の形をとると、改めて、多くの人々に対しても考えるきっかけになるのではないか。
以前、正義にも「ブラックな正義とホワイトな正義」があるのではないか、と書いた。同様の設問を他の分野にも広めていくと、そもそもブラックな世の中とは、ホワイトな世の中とは、という問いに広がっていく。
今必要なのは、誰にでも気軽に参加可能な、考えるきっかけなのだと思う。
次は、もうちょっと具体的に、ホワイトな世の中の在り方について書いてみたい。