Indo Monolog 25 - 2026年の3月11日 -
2011年の3月11日は静岡の海辺で知人とボーッとしていた。
当時の大阪は特に何か影響があったようにも感じられず、
スーパーのものがなくなることもなくごくごく平和な日々が送られていた。
3月の末に信州の大学で卒業式があったが、
正直あまり参加には乗り気ではなかった。
「そんな金があるのならしかるべきところに回すべきだ」と思って渋々卒業式に参加していたのを覚えている(それでも卒業式で先生がくれた言葉には感謝しかなかったが・・・)
2011年の4月から二本松のとある訓練所へ入所予定だった。
急遽二本松の訓練所は避難所になって、私の訓練は大阪で行われることになった。
wifiも談話室も大浴場も体育館もない。
思い描いていた訓練とは全く違うものだった。
「世界へ行く前に日本でするべきことはあるのではないのか?」
そんな言葉も当時はよく飛び交っていたように思う。
訓練が終わってから、東北へボランティアへ行っていた同期もいた。
私は勇気がなくてそこには行けなかった。ずっとそれが心残りだった。
モンゴルに派遣されて出張で内モンゴルの国際学会に行った時、
まず発表の冒頭に感謝の意を述べた。
たくさんの国の人たちが日本を心配して祈ってくれていたことに。
「誰よりも早く世界にありがとう」を言ってくる。
それが自分ができる、自分が今世界にいく使命だとあの時は思っていたからだ。
それから2025年の4月に縁があって、二本松の訓練所に入所した。
訓練としてここにくるのは初めてで
「14年ぶりにお世話になります」とそんな気分だった。
今回のスタッフの人に、前回の大阪の訓練を担当してくれていたスタッフもいて
昔話に花を咲かせた。
時間がある時には下まで降りて、商店の人たちと話をして
14年の月日をタイムスリップするように色々な話を聞いた。
私が14年間自分の中で止まっていた時間も、
当たり前のことだけど現地の人たちには進み続けている時間である。
どのようなプロセスを辿ってきたか、よそ者の私には想像はできないが、
それでも心に何か残しながらも時折笑い話にしてくれることが私にはそれが救いだった。
退所前の壮行会でとある主賓が14年前の話をしてくれた時に珍しく涙が止まらなくなってしまった。
あの時の自分の選択を肯定してくれたこと、
また今回の自分の選択もきっと間違っていないと背中を押してくれたこと。
14年越しに二本松の人たちと関われたことは私にとってありがたいことだった。
二本松でたまたま知り合ったおっさんがいた。
たまたまそのおっさんの店でエナジードリンクを買って油を売っていただけであったが、
意気投合したのか街の色々なことを教えてくれた。
そしてこの人にならいいかと思って14年前の話をした。
おっさんは何も言わずに車の中で話を聞いてくれた。
そして退所日に地元のミニバスケットボールでクリニックする段取りをつけてくれたのである。急なスケジューリングだったけどミニバスのコーチも保護者もわざわざ足を運んでくれた。コーチが他のチームも呼んでくれ、合同でクリニックをすることができた。
短い時間であったが、子どもたちは楽しんでくれたように思う。
最後に保護者の方に話をする時間をもらった。
きっと保護者の方はバスケットボールの話をすると期待していただろう。
でも、私が話をしたかったのは、独りよがりになってしまったかもしれないが、
自分の14年前の話だった。
私はあの時に勇気がなくて福島に来ることができなかった。
こようとすれば来ることもできたのに自分が世界に行く心がブレるのが怖くて来れなかった。そして中途半端にボランティアに行くことは迷惑をかけることだと考えていたからだ。
10分間だけ、どういう想いで私が今回クリニックをすることを決めたかを話して、
私は基本的に泣かないはずなのだが、気づけばずっと泣きながら話をしていた。
保護者の方は引いていたかもしれない。
部外者が何をいきなりきて自己満足で泣き始めたんだと思われたかもしれない。
それでも小学生を子に持つ親御さんはきっと私と似たような世代の人たちだろう。
14年前は間違いなく3月11日を同じような気持ちで、私よりももっともっと現場に近いところで14年を過ごしてきた人たちなのだから。
子どもたちは14年前をきっと知らないかもしれない。
それでも私が今回二本松に戻って来れて、二本松でクリニックできたことは、
私の中で止まっていた時計を14年ぶりに彼らが動かしてくれたのである。
私は被災していない。被災した人の気持ちなど理解することはできないし、
理解しようとすること自体おこがましいことかもしれない。
それでも私にはやはりあの年のあの日は私の人生を少なからず変えた3月11日だった。
2025年の7月3日に子どもたちが、14年前の何もできなかった無力な新卒の自分を救ってくれた。
そんなことを2026年の3月11日に思い出したのである。
今はインドネシアで子どもたちにバスケを教えながら、二本松のでの日々を思い出した。
子どもを教えるのが間違いなく得意とは言えないが、
少しずつ少しずつ子どもたちと関わりながら、
我慢強く子どもたちを教えている。
世界は本当に理不尽で残酷な容赦のないセカイである。
今もどこかの国が戦争を初めてたくさんの人たちが毎日死んでいる。
今のどこかの国で天災が発生してたくさんの人たちが犠牲になっている。
理不尽なセカイを嘆きながら、どこか遠い世界のように感じて私たちは生きている。
大阪で暮らしていたら東北のことなどきっと他人事だっただろう。
私の友達がイランとドバイとドーハにいる。
もしも友達がそこにいなければきっと今回も他人事で調べることもせずインドネシアでのうのうと暮らしていただろう。
私の活動は戦争を止めることはできない。
私の活動は天災を防ぐこともできない。
それでも私の活動は「子どもたちの未来を守ること」だと最近思うようになった。
もしも彼らが世界中の子どもたちと友達になれたならもしかしたら無知によるエクスクルーシブは減らせるかもしれない。
もしも彼らが地域の子どもたちと友達になれたなら天災があった時も他人事にならずに助け合えるようになれるかもしれない。
もしかしたらバスケットボールがその役目を担えるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に馳せながら今も活動している。
バスケットボール自体に何の意味もなければ彼らの生活に役に立たないものかもしれないけど、バスケットボールを通して彼らに「生きる力」を少しでも与えることが私の今回のインドネシアでもらったミッションだと思う。
国際協力は本当に微力かもしれないが、
戦争を減らすことができる。
国際協力は無力かもしれないが天災の被害を減らすこともできる。
「なぜあなたは日本じゃなくて世界にわざわざ今いく必要があるの?」
と14年前と同じように聞かれたら今の自分はなんと答えられるだろうか。
高尚な理由は何ひとつ持ち合わせていないが、
「日本のあなたに世界を伝えたい」
「世界の君に日本を伝えたい」
世界のすべての人が1秒でいいから笑顔を共有できるセカイであってほしい。
そんなことは無理に決まっていても、無理だと嘆いたとしても、
「ただただ惰性で生きるのは嫌だ」それだけなんだろうきっと。
「平和」という言葉が世界に存在する限り世界が平和になることは一生ない。
平和という言葉をなくすために国際協力も一生なくなりはしない。
きっと私の今年の3月11日は穏やかにインドネシアで、
いつもの同僚や仲間たちとありきたりの日常を過ごすのだと思います。
ありきたりのたわいもないこの生活を現地の人たちとしっかり守っていきたいと思います。
ただただ世界の片隅で
与えられた環境で
自分ができる限りの活動で
時には命懸けで
自分の世界を守ること
それが14年前にできなかった自分へ課したミッション
世界がどれほど残酷でも
それでも目に映る君を愛せるように。
何を犠牲にしてもそれでも君を守れますように。
あなたたちががただただ健やかに成長してくれることを願います。
3月11日を忘れることなく、
前を向いて大切に過ごしてください。
帰国したらまた二本松に帰れたらと思います。
また会えることを楽しみにしています。