イーサン・ホークを見に行った『ブルームーン』
イーサン・ホークが出ている。しかも監督は、リチャード・リンクレイター。
それだけで、私には十分だった。
実は、『嵐が丘』より先に、こっちを見に行こうと思った。内容を比較したというより、この組み合わせを先に見たい、と思ったのだ。
私にとってイーサン・ホークといえば、やっぱりまず『ビフォア・サンライズ』シリーズだ。
『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』
ただ会話しているだけのようなのに、ずっと見ていられる映画。ヴィエナにあるロケ地のカフェまで行ってしまった。言葉を交わしているうちに、その人の過去も、未練も、欲望も、未来も、全部そこに滲んでくる。
あのシリーズが本当に好きなので、今回もかなりその流れで観に行った。
最初、イーサン・ホークはかなり別人に見えた。
目の色が違う。身体の重心まで違う。あれはカラコンだろうか。それとも、役のために体型ごと変えたのか。
とにかく、ちゃんと役の人になっていた。
『ニコラ・テスラ』の時もそうだったが、この人の「なりきり方」は、表層じゃなくて内側から変わっている感じがする。見た目を変えているのに、見た目を変えた感じがしない。
それが怖いくらいうまい、ということなのだと思う。
映画の設定は、一夜だけ。
その限られた時間の中で、イーサン・ホークはほぼ喋り続ける。長まわしの台詞を、途切れさせずに。
あの人、本当にそれが得意だ。『ビフォア』シリーズでも感じたが、今回はさらに密度が高かった。
字幕を追いながらだったので、会話の細部を全部受け取りきれたわけではない。英語でそのまま聞けたら、もっと違う体験になっていたと思う。
それでも、残るものはあった。
たぶん私は、この映画の内容を理解しようとしていたというより、対話の時間そのものに、身体で反応していたのだと思う。
言葉の意味より先に、その場の空気の揺れ方が来る。
対話って、そういうものだ。そしてリンクレイターは、その「揺れ」を撮るのがうまい。
最近、私は対話そのものを前よりよく見ている。クライアントとの会話を読み、その構造を見ることも増えたし、対話をもとにしたコンテンツも作り始めている。
だからこそ、この映画はよく刺さった。
対話って、その人の脳内の旅でもあると思う。
表面上は、ただ喋っているだけ。でも実際には、その数時間の中で、感情が上がったり下がったり、昔に戻ったり、未来に飛んだりしている。
ずっと同じトーンでは進まない。揺れる。戻る。また出る。
リンクレイターの時間の撮り方は、あらためて極端だなと思う。
『6才のボクが、大人になるまで。』では12年をそのまま追う。『ビフォア』シリーズは一作ごとに一日か数時間だけ。それでも三作合わせると、約20年分の時間が積み上がっている。
短く切り取ることで、長い時間を描く。
今回の『ブルームーン』も、一夜だけの話だ。でも、その一夜の中に、一人の人間のかなりの部分が入っていた。
事件を大きく動かさなくても、それが成立してしまう。場面が大きく変わらなくても、対話の中で人間は十分に動く。
映画って、事件が起きなくても作れるんだなと思った。
『ブルームーン』を観ながら、ずっと思っていたことがある。
人間は、語り続けると何が起きるのか。
饒舌になる。見栄を張る。ほころびる。また取り繕う。でも、もう遅い。
そのサイクルが、会話の中でぐるぐると回っていく。
そしてそれを、最後まで目が離せない形にしてしまうのが、イーサン・ホークだ。
ただ長く喋るのではなく、長く喋ることで、その人物の見栄や弱さや未練が少しずつ混じってくる。台詞の量というより、長く喋ることで人間が剥き出しになっていく。
私はたぶん、ロレンツ・ハートを観に行ったのではない。イーサン・ホークを観に行った。そして、リンクレイターが切り取る「数時間の中の人間」を観に行った。
映画を観ていたというより、その過程をずっと観察していた感覚に近かった。
そこが、あとからじわじわ来ている。