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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.187「後北条氏」について

2026.04.19 20:20

足利家も室町幕府も機能不全で、いよいよ時代は戦国前夜。

そんな折、江戸のスーパーヒーロー太田道灌が暗殺されて居なくなり、上杉家は内輪揉めでゴッタゴタ。下剋上の嵐が吹き荒れる中、果たして次なる関東の覇者は誰になるのか??




● 初代 俺様ファースト「北条早雲」


室町幕府の幕臣であった「伊勢新九郎(早雲)」の姉「北川殿」は、駿河国の守護大名「今川義忠」に嫁いでいた。その今川義忠は「応仁の乱」の混乱のさなか討死してしまい、今川家では家督争いが起きる。室町幕府に仕えてした早雲は、すぐさま駿河国に下向し、北川殿の子で甥にあたる「龍王丸(後の今川氏親)」を支援して家督を相続させた。


明応2年(1493)、初代・堀越公方「足利政知」の遺児であり、素行が悪いで有名な「茶々丸」を堀越御所から追放。この事件を「伊豆討ち入り」といい、この時期に東国の戦国期が始まったと考えられている


伊豆一国を領する戦国大名となった北条早雲は、「韮山城(現伊豆の国市)」を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち従った。そして、それまでの重い税制を廃して、四公六民の租税を定めると領民は歓喜。「伊豆一国は30日で平定された」と言われる。


「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである。


その後も早雲は、敵も味方も裏切りも入り乱れる群雄割拠の関東にて、様々な戦いを繰り広げながら領土を拡大してゆく。相手は上杉両家のみならず、甲斐の武田家とも、三河の松平家とも戦っている。勝ったり負けたり奪ったり奪られたり、ややこしいので途中経過は割愛する。


結果として、まず早雲は、扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返った「大森藤頼」を討ち、小田原城を奪取。次に、扇谷上杉氏から独立し、相模の名族「三浦氏」を追い詰めに追い詰めて滅ぼして相模全域を平定する。この三浦氏を滅ぼした「新井城の戦い」では、海が三浦一族の血で染まり、油の壺のように真っ黒に染まったことから、現在の地名でもある「油壺」と呼ばれるようになったとか。


最後に、伊豆国最南部の深根城へと逃げて抵抗を続けていた茶々丸が、明応の大地震で被害を受け抵抗不能となっていた隙をついて少数の手勢で討ち取り、茶々丸を擁していた城主らも皆殺しにした。


かくして関東地方において、後北条氏が覇権を握る基礎が、北条早雲によって築かれた。




● 勝ってセカンド(再び)兜の緒を締める「北条氏綱」


北条氏綱は、永正15年(1518)頃に家督を譲られた際、印判「虎朱印」を創出。後北条氏の権威を象徴する家印として、同氏の当主が発給する文書に捺印された。他にも様々な新しい支配体制を整備し、姓も伊勢氏から北条氏に改めた。かつて鎌倉幕府の執権であった北条氏と同じ姓を用いることで、武蔵国など関東を支配する意思を示し、その正当性を主張しようとしたのである。


そして父が没すると、武蔵国への領国拡大を実現させるために奔走。北条軍の接近に危機感を持った扇谷上杉家は山内上杉家と和睦して氏綱に対抗しようとするが、氏綱は伊豆、相模全域から兵を出し1万以上の軍で武蔵に攻め込んで、権現山城、世田谷城など、扇谷上杉氏方の城を次々と攻略


激怒した扇谷軍も出陣し、目黒川を渡った高輪原で激突(高輪原の戦い)するも、兵力で上回る北条軍が扇谷勢を撃破。敗走した扇谷軍は居城の江戸城に逃げ帰るが、氏綱はこれを追撃し江戸城を包囲した。当時の江戸城は改修前とはいえ堅牢な作りで、簡単に攻略することは難しかったが、北条軍に決戦で敗れたことで兵力が少なく、さらに以前より扇谷上杉家の政策に不満を持っていた「太田資高」が北条方に寝返ったため、総攻めを行い江戸城を攻略する(江戸城の戦い)。


これらの戦いにより、武蔵国を拠点としていた扇谷上杉家を「河越城/川越城」(埼玉県川越市)に敗走させ、武蔵や駿河、下総国(現在の千葉県北部、及び茨城県南西部)にまで領国を拡大。後北条氏を名実共に戦国大名として発展させた北条氏綱は、天文10年(1541)、「勝って兜の緒を締めよ」など、5ヵ条から成る家訓を嫡男・北条氏康に書き置いて亡くなった。




● サード上杉バスター「北条氏康」


父・北条氏綱の没後に家督を継承した北条氏康は、その翌年より、いわゆる「代替わり検地」に着手。さらに、税制改革を実施し、軍役など、家臣達の役負担を把握するために「小田原衆所領役帳」を作成。様々な制度を整備して内政面での優れた手腕を発揮し、領国支配を本格的に確立させた。


天文15年(1546)の「河越城の戦い」に大勝し、扇谷上杉家を関東から排除することに成功。加えて天文21年(1552)には、関東管領の「上杉憲政」を平井城(群馬県藤岡市)に敗走させる。永禄2年(1559)に次男・北条氏政に家督を譲って隠居し、後見となった。


永禄12年(1569)、北条氏政と「上杉謙信」の間で、武田氏を討つことを目的とした軍事同盟である「越相同盟」が締結されるが、これは、北条氏康の主導によるものであったと言われている。しかし、北条氏康が亡くなる際には、これを破棄して、武田氏と同盟を結ぶように遺言したと伝えられている




● フォースと共にあらん「北条氏政」


北条氏政は、父・北条氏康が存命中に家督を継承。「上杉謙信」から何度も小田原を攻められたが、これをすべて撃退して領国を拡大。また、駿河へ侵攻していた「武田信玄」からも攻撃を受けたため、前述した越相同盟の締結に尽力した。ところが、父が亡くなると北条氏政は、この同盟を絶つことに。


父の遺志を継いで、後北条氏の勢力をより拡げるために武田氏との間で「甲相同盟」を成立させ、「織田信長」とも手を結んでいる。天正8年(1580)には、嫡男の北条氏直に家督を譲ったが、変わらず実権を握り、後北条氏の最高権力者として君臨した。


また北条氏政は、天下統一を進めていた「豊臣秀吉」から上洛要請を受けていたが断固拒否。これが小田原の役を招き、北条氏政は籠城策を採って豊臣軍を退けようとする。同合戦は数ヵ月に亘って続いたが、最終的には降伏し、豊臣秀吉の命により小田原城下で自刃した




● 残されたフィフスエレメント「北条氏直」


北条氏政と武田信玄の娘「黄梅院」の間に生まれた北条氏直は、天正8年(1580)に家督を継承。天正10年(1582)に武田氏が滅亡し、「本能寺の変」により織田信長が横死した直後に、北条氏直は上野国(現在の群馬県)へ侵入。織田信長の代官「滝川一益」を追って、「神流川の戦い」で破った。


さらに信濃国(現在の長野県)に入って甲斐国(現在の山梨県)に進むと、旧武田領を巡って「徳川家康」と対陣。和睦を結ぶ結果となり、北条氏直は徳川家康の次女「督姫(とくひめ)」と結婚した。「徳川氏」との同盟を締結し、下野国(現在の栃木県)や上総国(現在の千葉県中部)などにも勢力を拡大。父と共に、後北条氏の最大版図を完成させたのである。


その後、小田原の役で敗北を喫したが、徳川家康の娘婿であったことから助命され、高野山へ送られることに。天正19年(1591)に豊臣秀吉より赦免され、1万石を賜って大坂に移ったが、同地で病没。90年に及ぶ後北条氏の関東支配は、終焉を迎えることになった。



と、言うことらしいですが、私全く知りませんでした。

そもそも鎌倉時代の北条氏の子孫なのかと思ってましたけど違うんですね。そんな勝手に人の苗字パクったりとかアリなんだ。私がいきなり「田中あらため武者小路です」て言い出したら、みんな「どうかしたんですか田中さん」てなると思いますけどね。


それはさておき、しかし強かったようで。まさに戦国時代を始めた男という名に相応しい戦いっぷり。そのあまりの強さに「おのれ〜北条め〜」って、周囲もいつの間にか改名受け入れちゃってる有様。「あいつホントは伊勢のくせに〜」って誰も言わない。いや言ってたのかもしれないけど「俺が北条つったら北条なんだよ!」って押し通されちゃった感がスゴい。おかげで、私のように鎌倉時代の北条氏と同族だと思ってる人が、世の中にどれほどいることか。


ともあれ、太田道灌がせっかく作った神社をずいぶん消失してくれながらも上杉家を追い出して、新たなる関東の覇者に成り上がったのは、後北条氏でしたーってことで。次いきまーす。



参考
https://kojodan.jp/info/story/2789.html
https://kojodan.jp/info/story/2793.html

https://www.touken-world.jp/tips/98166/#:~:text=「後北条氏」(ご,とも呼ばれています%E3%80%82

https://ja.wikipedia.org/wiki/後北条氏

https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht001430