承久之乱 1.鎌倉幕府第三代将軍源実朝
承久三(一二二一)年六月一四日、鎌倉幕府の軍勢が上洛。
同七月、後鳥羽院は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へと配流となることが決まった、また、後鳥羽院の皇子である土御門上皇は自ら望んで土佐国への配流を自らに課した。
さらに、後鳥羽上皇の皇子である六条宮雅成親は但馬国へ、冷泉宮頼仁親王は備前国へ配流となり、仲恭天皇は廃位となって後鳥羽上皇の甥である茂仁王が新たに天皇として即位した。後堀河天皇の治世の開始である。なお、仲恭天皇の贈諡は明治時代のことであり、帝位にあったのがわずか七十八日間のみであったこともあって、明治時代の贈諡までは九条廃帝と呼ばれていた。
これが平安時代終結の瞬間である。
四〇〇年間続いた平安時代は鎌倉幕府の成立によって終わったのではない。承久の乱で鎌倉幕府が勝利し、鎌倉幕府が朝廷を制圧したことで終わったのである。承久の乱が終わるまで鎌倉幕府は相模国鎌倉に存在する巨大軍事組織であり、日本国の政治において無視できる存在ではなかったが、日本国の政治を担う存在ではなかった。しかし、承久の乱を終えた後は、鎌倉幕府こそが日本国の事実上の政府となり、朝廷は鎌倉幕府を無視できなくなっただけでなく鎌倉幕府の強い影響を受けることとなるのである。
無論、朝廷に代わって鎌倉幕府が政府として君臨することになったわけでなく、鎌倉幕府は朝廷に仕える一貴族の周囲を固める集団という構図は変わっていない。変わったのは鎌倉幕府の持つ権威と権勢であり、正式な政府である朝廷ですら無視できなくなったほどの権威と権勢へと膨れあがったのである。その意味で、鎌倉幕府は、いや、日本国の歴史における全ての幕府は、一党独裁国家における政党と考えるとわかりやすい。政党の決断がそのまま国政の決断となり、その国において権勢や権力を掴み取りたければ政府ではなく政党の一員としての活躍を見せることが求められる。理論上は政府が国内全域を統治するが、政府組織の一部をなす地方公共団体ではなく、政党が国内各地に配置した支部を通じて各地の統治を促す。政党の構成員の上層部は政府における役職と深く結びついているが、政党の役職に就くことと政府の役職に就くことは必ずしも一致しない。何なら、政党内の序列と政府における序列とが逆転していることもある。そうした政府と政党の関係を思い浮かべていただければ、朝廷と幕府との関係も御理解いただけるであろう。
ただしそれは、承久の乱の後の話であり、それまでの鎌倉幕府は日本国内に存在する数多くの政党の一つ、言うなれば、院や、藤原氏の近衛家や九条家、有力寺社といったこれまでの時代の有力勢力などそれぞれが現在で言うところの政党であり、鎌倉幕府はそうした諸政党のうちの一つでしかなかったのだ。
それが、承久の乱で一変した。鎌倉幕府が唯一絶対の政党となり、幕府という概念が室町幕府、そして江戸幕府へと受け継がれていくのである。
本作は、源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任してから、平安時代の終わりを告げる承久の乱の終結までの一八年間をまとめた、平安時代叢書の最終作である。
源頼家は亡くなったと京都に報告されたが、実際には生きている。当初は源頼家が亡くなったとされた情報が京都に伝わっていたのが後になって訂正されたという経緯もあり、公卿補任の建仁三(一二〇三)年の記録を見ると、従二位源頼家が九月七日に出家したことが記されているのみであり、源頼家の死の報告に関する記録は残されていない。朝廷としての正式な記録は、源頼朝の次男であり、また、源頼家の弟である千幡を従五位下に叙した上で征夷大将軍に任じたこと、そして、未だ元服を迎えていない千幡のために、後鳥羽上皇が「実朝」の名を送ったことだけである。
一方、源実朝が将軍となった後の源頼家の様子については二つの記録があり、そのどちらが正しいのか、あるいは双方とも誤っているのかわからないのが実情である。
一つは吾妻鏡にある記録である。
まず、建仁三(一二〇三)年九月一九日に源頼家近臣の所領などが没収され、それから二日後の九月二一日に源頼家を鎌倉から遠ざけるべきという進言が将軍源実朝のもとにもたらされたという記録がある。進言したのは北条時政だけでなく、政所別当中原広元も絡んでいることから、前将軍源頼家の処遇については、北条時政個人としてだけでなく政所という組織全体としても正式に進言したことが読み取れる。なお、三位以上の位階がなければ設置できないのが政所という組織である。従二位である源頼家がいなくなった後も組織として存続できるかどうかという問題はこの後になって表出化するが、吾妻鏡に従えば、この時点では政所が組織として機能していることとなる。
政所からの進言に基づいて、九月二九日に源頼家の身柄は伊豆の修善寺に移されることとなったというのが吾妻鏡の記録だ。行列の先頭を一〇〇騎の武装兵、その後に女性の騎馬武者が一五騎、その後に神輿が三台続いて、その後ろに二〇〇騎の武装兵が続くというのであるから、単なる移送ではなくちょっとした軍事行動としてもおかしくない。なお、史料に「女騎」とある女性の騎馬武者は、木曾義仲と行動を共にした巴御前や、城一族の反乱で奮闘した板額御前のように実際に戦場で戦うことを求められたわけではなく、騎馬行列の一部を彩ることを求められたようである。もっとも彼女たちは身体に合わせた武具をフル装備し行列に加わっていたことは記録に残っていて、現存する鎌倉時代の鎧の中には女騎用の鎧であることが明言されている鎧もあり、その鎧の大きさはこの時代の女性の平均身長ほどの大きさであることが判明している。
以上が吾妻鏡の記録である。
一方、愚管抄では少し違う。愚管抄では九月一〇日にはもう源頼家が伊豆の修善寺に押し込められていたとあるのだ。歴史資料としての詳しさとなると、いかに同時代史料であると言っても、日本国の通史である愚管抄は、鎌倉幕府の正史を目的とした吾妻鏡と比べて一つ一つの出来事に対する記載が乏しくなる宿命が存在する。また、この頃の慈円は天台座主の地位を追われたがためにかえって自由に振る舞えるようになっていたとはいえ、その行動範囲は京都とその周辺に限られていることから、鎌倉で起こっていることを目で見たわけではなく、京都内外で伝え聞いた話として書き記すこととなる。
つまり、現代の我々が吾妻鏡と愚管抄の二つの歴史資料を開くとき、吾妻鏡は、詳しくて細かいが同時代史料ではなく北条家にとって都合よく編纂されていること、愚管抄は、同時代史料ではあるもののさほどの詳しさは期待できず、また、出来事の舞台が京都から遠くなればなるほど確実性が薄くなってしまうこと、この二つを念頭に置かなければならない。
建仁三(一二〇三)年一〇月三日、鎌倉幕府の使者として、源実朝の従兄でもある平賀朝雅が上洛した。単に京都に行って鎌倉で起こったことを報告することだけが目的ではない。西国の御家人たちに鎌倉幕府の新たな将軍である源実朝の命令下に加わることを求めることが主目的である。そのために、平賀朝雅の上洛とタイミングを合わせるように西国各所の御家人たちに対しても上洛するよう鎌倉から指令が降っており、合わせて、平賀朝雅は京都守護として京都に駐在することとなった。
この時点の鎌倉幕府について忘れてはならない点が二点存在する。一点目は、鎌倉幕府という組織そのものが源頼朝に仕える面々を束ねる組織として発足したこと、もう一点は、源頼朝がピーク時には正二位にまで昇叙した上級貴族であったこと、この二点である。源頼朝が亡き後も存続できたのはかなり早い段階から源頼家が後継者として指名されていたことに加え、源頼家自身も最上位では従二位にまで昇叙していたことから、源頼朝が手にしていた上級貴族としての権利をそのまま源頼家が手にすることについての法的な問題をクリアしていたことは念頭に置かねばならないのである。
一方、三代将軍源実朝はそうではない。征夷大将軍に任命されたものの位階はまだ従五位下であるから御世辞にも上級貴族とは言えないし、それ以前に元服すら終えていない。しかも、源頼朝は源実朝を第三代将軍にすると遺言を残したわけではない。源頼家の身に何かあったときに源頼家の子が継承することならば考えてはいたものの、源頼家の弟が後継者の候補となることを源頼朝は考慮していなかったのである。
つまり、源実朝が第三代将軍に就任したという朝廷の公式見解が示されたことと、御家人一人一人が源実朝に従う義務を有することとは、何の関係もないこととなる。それでも鎌倉とその近辺にいる御家人については源実朝への臣従の確約を得られたが、鎌倉から遠い地域となるとその確約は得られていない。
そこで、平賀朝雅の出番となる。平賀朝雅は平賀義信の四男であり、清和源氏の一員である。さらに、平賀朝雅の母は源頼朝の乳母である比企尼の娘であることから源頼朝と親しい関係にあり、愚管抄には源頼朝の猶子となったとの記録もある。朝廷の公式記録を追いかけても、平賀朝雅の父である平賀義信、兄の大内惟義の二人の後を継ぐ形で建仁三(一二〇三)年一〇月時点で武蔵守に就いていたことが確認されていることから、鎌倉幕府の御家人であると同時に源実朝と同じく清和源氏であり、さらに朝廷官職の一つを有しているという点で、他の御家人と少し違う立場にある人物である。
ただし、平賀朝雅については注意すべき点が一つある。この人の妻は北条時政の娘であるという点、それも、北条時政の後妻である牧の方の産んだ女性なのだ。つまり、平賀朝雅は本人の血筋と経歴でも鎌倉幕府の中で少し特殊な位置付けにある御家人であるだけでなく、北条時政の娘婿という点でも少し特殊なのだ。
これだけを記すと平賀朝雅は単に家系図と妻の実家の権威だけで出世してきた人物のように思えてしまうが、京都に上洛した後の平賀朝雅についての評判はかなり高いものがあった。ただでさえ源頼家の突然死の知らせからの源実朝の将軍就任、さらに源頼家は死んでいなかったものの出家させられて伊豆に流されたというゴタゴタがあった中で、平賀朝雅は京都における鎌倉幕府の責任者としての役割を十分に果たしたのである。
建仁三(一二〇三)年一〇月八日、源実朝元服。
本作ではこれまで源実朝と記してきたが、彼がこの名を名乗るようになったのは一〇月八日の元服からであり、それまでは千幡が彼の名である。もっとも、後鳥羽上皇から直々に千幡の元服後の名は「実朝」としてほしいとの強い要請があったことは周知の事実であり、従来であれば元服を機に名を変えることまではともかく、元服後の名は元服したときに初めて公表することとなるのが通例であるこの時代にあって、源実朝の名は元服前から明言されている。ちなみに、この時代は目上の人の名を呼ぶことなど許されていないので、第三代将軍の名が源実朝であるというのは、知識としてならば知っていても、少なくとも鎌倉幕府の御家人たちが源実朝の名を表立って呼ぶことはあり得ない。ただし、朝廷からの文書となるとさすがに源実朝の方が格下になるので、源実朝の名が書状に記されることとなる。
それにしても、一ヶ月前までは想像もしていなかった急な元服である。
それもそのはずで、この時の源実朝はまだ数えで一二歳、現在の学齢に直すと小学四年生から五年生だ。現在より成人年齢が若かったこの時代でも、現在の感覚ではまだランドセルを背負って小学校に通学している年代での元服は例外的に若い。無論、前例のない話ではなく、探せば同年齢で元服を迎えた者も見つかる。しかし、少年期を過ごすはずの年齢でいきなり大人にさせられたことはその後の人生に大きな影響を与えることが珍しくなく、源実朝も他の者と同様に早すぎる大人を求められたことがこの後の人生に大きな意味を持つこととなる。
話を源実朝の元服に戻すと、源実朝は北条時政のもとから北条政子のもとに移されていたが、源実朝の元服の儀は北条時政が住まいを構える名越の屋敷で執り行われた。
吾妻鏡に従うと、この元服の儀には、中原広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛、中条家長をはじめ、百名を超える御家人達が集まったとある。その中で江間義時と源親広の両名が雑具類を持参して待機。予定時刻を迎えて元服前の源実朝が登場し、北条時政が源実朝の髪を整え、大内義信が源実朝に冠を被せて、この瞬間に源実朝は少年から大人になった。
その後、休所(やすみどころ)に舞台は移り、源実朝のために用意された料理に手をつけた。給仕係は江間義時と源親広が給仕をした。料理を運んでくるのは、結城朝光、和田常盛、和田重茂、千葉重胤、波多野経朝、桜井光高の六名。この六名が選ばれた理由を吾妻鏡は、将軍近侍の者のうち身分の低い者、かつ、両親ともに健在である者を選抜したと書いてある。身分はともかく両親とも健在の者を選抜するというのはどういう理由によるものなのか理解に苦しむが、儀式手順を定めた人間がそうした考えの人間だとするしかない。
その次に、鎧、太刀、馬を献上した。この役割は佐々木広綱と千葉常秀の二名をはじめとする面々が担当した。
これで源実朝の元服の儀が終わり、翌一〇月九日、源実朝の政務が正式に始まった。源実朝が政所に出向き、北条時政と中原広元の両名の指導のもとで政務にあたるのだが、実務は北条時政と中原広元の両名が主導して着々と進めており、この日の源実朝は基本的に御簾の中にいて何もしないでいる。なお、従二位源頼家がいなくなっても政所の存続が許されたのかという疑念に対する回答は後述する。
その後、北条時政が主導して、源実朝は生まれて初めて鎧兜を着用して馬に乗った。このとき実際に武装をサポートしたのは北条時政ではなく、小山朝政と足立遠元の両名である。
同日夜、源実朝の弓始が執り行われた。弓始(ゆみはじめ)は本来であれば新年の神社で開催される儀式であるが、このときの弓始は源実朝の元服を祝う儀式である。この弓始を担当したのは北条時房である。
さて、この二日間に流れで注目すべきところがある。
北条時政の位置づけだ。
源実朝の祖父であると言えばそれまでだが、鎌倉幕府の組織図のどこを見ても北条時政が他の追随を許さぬ職務であることの記録はない。鎌倉幕府の職掌上は伊豆国と駿河国の両国の守護であり、朝廷官職上は遠江守であるので、鎌倉幕府の御家人達の中では有力者の一人としてカウントできるものの、北条時政が源実朝の元服の儀とその翌日の政務開始初日にいる根拠とまではならないのだ。それでいて、北条時政がいることについて誰も何も言わないでいる。それが当たり前のことであるかのように周囲も北条時政を受け入れており、後に鎌倉幕府の初代執権を北条時政とするようになるが、そのあたりの根拠も源実朝元服時の北条時政の行動に行き着くのである。
そこで着目すべきなのが、政所。政所は本来であれば三位以上の位階を持つ貴族のみに設置することの許された家政機関である。ゆえに、ここで政所があるのはおかしな話なのであるが、このあたりはある程度であれば融通が利く。
どういうことか?
源実朝はかなりの可能性で、父や兄と同様に三位以上の位階を有する貴族になる。このような場合、家政機関としての政所はその名称を失い、文書発給についての効力を失うが、その代わりに御教書を発給することで、これまでの政所発給の文書と同じ効力を示すことが可能となるのである。
御教書(みぎょうしょ)とは、三位以上の位階を持つ貴族に仕える家臣が、貴族に代わって署名をして発給する文書であり、裁判となった場合に政所の発給する文書と同等の効力を有する。そして、このときの鎌倉幕府においては北条時政が御教書を発給する権利を有していた。源実朝の実の祖父であり、亡き源頼朝の岳父でもある。そして、自身も遠江守をつとめる貴族でもある。正二位まで昇叙した貴族に仕えていた過去があり、自身の位階は三位未満であっても国司を務めるだけの位階は獲得している人物が、近親者の身に起こった突然の出来事に対応するために御教書を発給するという体裁にすれば、源実朝が政所を設置できる位階に昇叙するまで、北条時政の名による御教書が政所発給の文書と同等の効力を有し、事実上の政所の機能は存続できるのである。
ただし、こうなると北条時政の存在が特別なものとなる。
実年齢はどうあれ、父も兄も正二位まで昇りつめた人物が元服を迎えたことで、源実朝は朝廷から公的官職を得ることとなった。既に征夷大将軍ではないかという向きもあるが、征夷大将軍は源頼朝の懇願に基づいているとはいえ、また、後世には皇帝たる日本国天皇に次ぐ職位として対外的には日本国王として通用する職位になるとはいえ、建仁三(一二〇三)年時点では非正規な職の一つであり、朝廷の任命する官職であるところまでは認識されていても、朝廷の常設職であるとは認識されていない。
建仁三(一二〇三)年一〇月一九日、鎌倉から佐々木定綱と中条家長が使節として上洛した。これにより鎌倉で正式な代替わりがあり、鎌倉の御家人達は源実朝に仕えることが明言されたと同時に、在京の御家人達や西国の武士達も源実朝への忠誠を誓うこととなった。忠誠を誓うと言っても単なる口約束ではなく、起請文を書き記した上での忠誠である。これにより、源実朝へ叛旗を示すことは鎌倉武士達から処罰対象となるだけでなく、天罰を受けることになるとされた。
武士達のこの動きに合わせて、朝廷は建仁三(一二〇三)年一〇月二四日に源実朝を右兵衛佐に任じた。一見すると低い職位に感じるが、右兵衛佐は平治の乱の前に源頼朝が一三歳で任じられた職であり、亡き父の職を息子が継承するという図式を示すことで朝廷は源実朝を源頼朝の後継者と認めたこととなる。
ところが、吾妻鏡を見てみると、公式記録に存在する源実朝の右兵衛佐就任の記録が登場しない。公卿補任にある源実朝在官履歴を追いかけると、佐々木定綱と中条家長の両名が上洛したタイミングで源実朝を右兵衛佐とすることの通達があったはずなのだが、そのことの知らせは鎌倉に届いていないか、届いたとしてもさほど重要なことと認識されなかったかのどちらかなのである。
京都と鎌倉との情報連絡路が劣化したわけではない。それどころか、人の往来が増えたことで情報連絡路はむしろ強化されたことが他の記録から判明している。吾妻鏡の建仁三(一二〇三)年一〇月二六日の記事として、一〇月一〇日に比叡山延暦寺で発生した暴動と、その対処として朝廷が一〇月一九日に発した指令が掲載されているのだから、京都鎌倉間片道七日の情報伝達が健在であったことはわかるのだ。
京都と鎌倉との間は片道七日往復半月、すなわち源頼朝が情報網を整備する前である片道半月往復一月という目安の半分の時間で情報のやり取りができる環境であることは、源実朝が第三代将軍に就任したばかりのこの時点においても変わっていない。それでいて、源実朝が右兵衛佐となったことの情報が鎌倉に届いたことの記録が残されていないのは、いかに源頼朝の後ろを追いかけることであろうと、右兵衛佐では実権のある征夷大将軍と比べて低すぎる役職であると感じたからであろうか。
さて、比叡山延暦寺で発生した暴動とは何か?
建仁三(一二〇三)年八月に発生した暴動が再燃したのである。大和国の宗教勢力と、比叡山延暦寺をはじめとする天台宗の勢力との対立は以前より燻っていたが、八月になってついに比叡山延暦寺内部の騒乱へと発展し、八月二五日には実全が天台座主を辞任して後任の天台座主に真性(しんじょう)が就任するまで至った。真性(しんじょう)は以仁王の子であるため、亡き後白河院の孫にあたるだけでなく、後鳥羽上皇と従兄弟同士にあたる人物である。これほどの人物をトップに据えなければならないほど混迷化していた比叡山延暦寺の暴動であったが、一旦は収束していたのも事実である。
そうして何とか収束していた暴動が、一〇月一〇日に再燃した。比叡山延暦寺の僧兵達が八王子権現に立てこもって威勢を上げるに至ったのだ。それまで強引に抑え付けられていたことへの反動であると同時に、歴史の教科書で必ず登場する鎌倉仏教の萌芽の影響でもあった。
その萌芽こそ、浄土宗の宗祖である法然こと法然房源空である。
法然はもともと延暦寺の僧侶であり、一三歳から比叡山で修行を続けてからわずか五年、一八歳にして法然房という房号を得たほどの優秀な僧侶であった。
そう、優秀であった。
あまりにも優秀すぎて既存の仏教が意味を成していないのではないかと考えてしまうほどであった。
仏教は何のために存在するのか。救いのためなのか。救いのためというならなぜ救わないのか。仏教に救いを求める人は多々いるのに、仏教寺院が救いの手を差し伸べているのは有力者や裕福な人のみで、多くの人を見捨てているではないかと自問し、誰であろうと救うべきであり、救われるべきであるとまで考えるようになったのである。
法然は鎌倉仏教の人物として取り上げられることが多いが、法然が浄土宗を起こしたとされている年は承安五(一一七五)年であり、源平合戦の前には既に鎌倉仏教のうち一つである浄土宗が成立し、浄土宗の信徒が増えてきたことが確認できる。ただし、この時点ではまだ比叡山延暦寺の属する天台宗の一僧侶とみなされており、同時代史料を見ても浄土宗は確認できない。
この頃の法然は比叡山を下りて、醍醐寺や奈良の各寺院を巡り歩く生活をしていたが、このあたりの行動も典型的な延暦寺の僧侶の在り方の一つであったため、特に特異視されることはなかった。特異視されることがあるとすれば僧侶としての優秀さのほうであり、源平合戦の渦中の養和元(一一八一)年、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推薦されるなど、時代における宗教界の有力者の一人と見做されるようになったのである。
法然の唱える教え、すなわち、誰であろうと念仏を唱えれば死後の安寧が約束され極楽浄土にたどり着けるという称名念仏の教えも、法然が始めたことではなく、ルーツを遡れば第三代天台座主である円仁まで遡ることができ、その後も、空也、源信、良信といった僧侶が称名念仏を訴えて活動している。彼らは全て天台宗の僧侶であり、宗派を超越した活動をしていたとしても、多少なりとも延暦寺と係わりを持っている。この意味で法然は特殊ではない。ただ、法然は称名念仏をさらに発展させた専修念仏を主張したことで天台宗の中で特異な存在となっていく。
法然自身は多くの仏典を学び多くの教義を知識として身につけてきた僧侶であるが、法然の説く教えはわかりやすかった。あまりにもわかりやすかった。救いを求める人に手を差し伸べるにしても、他の僧侶が教義に基づく救済をしたのに対し、法然はただ、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へたどり着けるという単純明快な教えを説いたことで、天台宗でも、延暦寺でもなく、法然という一個人に救いを求める人が続出するようになったのである。法然に救いを求める人は身分の差も超えており、その中には九条兼実も含まれていた。
また、延暦寺の僧侶の中から、延暦寺ではなく法然個人に帰依することを選ぶ僧侶達が続出しており、延暦寺としては法然が危険な存在となっていた。延暦寺に救いを求めた結果として法然を選んだとするならばまだいい。しかし、延暦寺を無視してダイレクトに法然に救いを求めるとなると、延暦寺を頼ろうとする人が減るのだ。
一方で、延暦寺の内部にも法然に同意する僧侶は多かった。法然とて延暦寺と全く関係性を持つことなしに活動していたわけではなく、延暦寺の他の僧侶達と時には協力し、時には討論を重ねている。この討論のことを宗論といい、僧侶が宗論に挑むこと自体は問題ない。宗論を重ねることもまた僧侶としての修業の一つである。
ただ、宗論の内容、そして宗論の結果が問題であった。
宗論は公開されており、延暦寺の僧侶達も見守っているほか、一般庶民も宗論の様子を眺め、耳を傾けることができていた。そして、それらの討論はことごとく法然が勝つのだ。特に文治二(一一八六)年に大原で開催された宗論は、顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源といったその時代のトップエリートの僧侶達が集結した宗論であったが、法然は一昼夜に亘って繰り広げられた宗論で相手を完全論破し、詰めかけた多くの庶民が法然を支持するようになっただけでなく、宗論の相手の一人である重源にいたっては法然に弟子入りするほどであったのだ。比叡山の内部にも法然の教えを受け入れる僧侶が続出し、比叡山の中で法然の唱える専修念仏を実践し、さらに教えを広める者まで続出したのだ。これで脅威を感じないとすればそのほうがおかしい。
延暦寺で発生した暴動は、この結末を踏まえてのことに加え、以前より燻っていた比叡山延暦寺内部の不満が暴発したとすべきであろう。法然がいかに延暦寺の中で勢力を伸ばしていたとしても、そして、脅威と見なされるようになったとしても、この時点ではまだ専修念仏は延暦寺内部でのマジョリティとはなっていない。
これに対して朝廷は御家人達を派遣して鎮圧を図るものの、朝廷の指令を受けて派遣された御家人ら、およそ三〇〇名の武士が延暦寺の僧兵達の前に命を落とす結果となった。そうした戦死者達の中には、葛西重元、豊島朝経、佐々木重綱といった鎌倉幕府の有力御家人達の親類縁者も含まれており、こうした指揮官達が命を落としたために、伊佐為宗、熊谷直勝といった、本来であれば副官として軍勢の一部をなす武士が指揮を取ることとなった。なお、源頼朝挙兵時から鎌倉方の一員として活躍してきた佐々木経高と佐々木盛綱の兄弟も参戦したとの記録もあるが、そのあたりは不明瞭である。また、北条時政の後妻である牧ノ方の実兄である大岡時親がこのときの朝廷に派遣した軍勢の中にいたとの記録もある。大岡時親は鎌倉幕府の御家人であるが朝廷の官職も保有し、この頃は検非違使の一員でもあったとの記録もある。
吾妻鏡の一〇月二六日の記事は、僧兵達を捕まえるように朝廷から命令が出たことで終わる。この命令が発せられたのが一〇月一九日で、一〇月二六日の吾妻鏡の記事は、朝廷から発せられた指令が鎌倉に届いた結果の記事である。
なお、この時の吾妻鏡の記事には一つの逸話が存在している。戦死した御家人の一人である佐々木重綱についてである。佐々木重綱として名を残している人物は歴史上二名おり、このときに亡くなった佐々木重綱は佐々木兄弟の四男である佐々木高綱の息子のほうで、このとき一九歳であったと推測されている。もう一人の佐々木重綱は佐々木兄弟の長男である佐々木定綱の孫であり、生誕は承元元(一二〇七)年であるからまだ生まれていない。もしかしたら、彼は元服時に、生まれる前の出来事として伝え聞いていた、非業の死を遂げた従叔父(祖父母のきょうだいの子)の名を継ぐことを選んだのかもしれない。
その佐々木重綱は朝廷の命令を受けて比叡山に赴くとき、二人の伯父、すなわち、佐々木兄弟の次男である佐々木経高と三男の佐々木盛綱の二人の伯父とともに、出家していた父に佐々木高綱のもとへ挨拶に赴いたとある。しかし、父は息子の晴れ姿を眺めたのではなく、息子の姿に落胆した。二人の伯父は佐々木重綱がこのときの僧兵討伐で軍功を残すことになると息巻いていたが、佐々木高綱は息子の鎧兜を身につけた姿を見て、軍功どころか、その逆の結果を招くことになると嘆いたのである。
鎧も兜も立派なものであるが、重い。しかも、これから赴くのは比叡山であり、馬上の戦いではなく徒歩での戦いになる。こうなると鎧兜の重さは身を守る以前に行動を抑制するハンデでしかなくなる。おまけに、手にしている弓は大きい。確かに威力はあるだろうが、接近戦で役に立つ代物ではない。
つまり、立派な武装であることは認めるものの、これからの戦闘に適した格好ではなく、このままでは最悪の結果をもたらすと危惧したのだ。
その危惧は、残念ながら正解であった。
父は息子の晴れ姿ではなく戦死の知らせを受けることとなったのだから。
その一点とは、安達景盛を源頼家のもとに引き渡せという要求である。
それも単に引き渡すのではなく処分させて欲しいという書状なのであるから、これで大人しく伊豆国に安達景盛を向かわせようものならその方がおかしい。何しろ、吾妻鏡の記載に従えば源頼家は安達景盛の殺害を意図したこともあったのだから。
このときの吾妻鏡の記載が全て嘘であるとしても、それはそれで問題である。何しろ安達景盛は母系で比企一族の血を引いており、比企一族滅亡後の武蔵国のパワーバランスを考えたときの重要人物の一人となる。それこそ、これまでの禍根を全て白紙に戻して源頼家を神輿に担ぎ上げれば打倒北条時政の軍勢を起こしてもおかしくない人物だ。書状にある通り処分を求めるものであろうと、書状の内容が偽りであろうと、安達景盛を伊豆国へ向かわせるという選択肢は、無い。
源頼家からの書状に対する鎌倉幕府の返答は、今後はいかなる書状であろうと送ることを禁じるというものである。この返書は三浦義村の手によって伊豆国へと送られることとなった。ただし、我が子を気遣う北条政子が源頼家に向けて書状を送り届けていたことは判明しているので、源頼家と北条政子との間で母と息子との間の私的な書状のやりとりがあったことは類推される。
なお、このときに二つの悲劇が生まれている。一つは、源頼家の側近の一人であった中野五郎らが遠流となったこと、もう一つは、三浦義村の伝える修善寺での源頼家の暮らしぶりである。前者については史料の不整合があるので先に後者を記すと、修善寺における源頼家の暮らしは、とてもではないが二ヶ月前まで将軍として生きてきた人物の暮らしではないというのだ。その具体的な様子は記録に残っていないが、三浦義村は伊豆国修禅寺で目にした様子を北条政子に語ったはずである。吾妻鏡の伝えるところによると、修善寺における息子の暮らしぶりを聞いた北条政子は悲嘆に暮れたとある。
さて、史料の不整合と記した中野五郎らの遠流であるが、吾妻鏡の原文を読むと「入道左金吾近習之輩中野五郎以下可被處遠流之由」とある。つまり、出家した源頼家の側近であった中野五郎らを遠流にするというのであるが、中野五郎を文字通りに捉えると、苗字が中野である者の五男ということとなる。建仁三(一二〇三)年一一月時点で考えると、四年前の建久一〇(一一九九)年四月二〇日に源頼家から特権が発令された源頼朝の側近五名の一人である中野能成が相当する。このときに遠流となったのは中野五郎ただ一人というわけではないから、源頼家から特権が与えられた五名全員、ないしは五名のうちの数名ということとなる。
ここまではいい。
問題は、中野能成らが本当に遠流になったのか?
中野能成をはじめとする源頼家の側近達のキャリアの中に遠流の記録がないのだ。特に中野能成はこの後も鎌倉幕府に使える御家人の一人として何度も記録に登場するだけでなく、比企能員によって奪われそうになった所領を、北条時政が助け出す形で安堵されたという記録もある。このことから、どうやら中野能成は源頼家の側近の一人ではあるものの、裏では北条氏とつながっており、比企能員の変の前後で暗躍していた気配があるのだ。
建久一〇(一一九九)年の記録を調べると、源頼家の側近五名に特権を与えるとした記録はあるものの、その五名の名が判明していない。五名中三名は確定できているものの、残る二名は確定できていない。源頼家が若き武士達を自分の側近としたことは間違いなく、それが世代間対立を利用しての派閥形成へとつながってもいたが、そこまで強固な派閥形成には至らなかったとも言えるのだ。
ただ、ゼロであったとも言えない。強固ではなくとも派閥を構成する過程には至っていたはずである。仮に源頼家が病に倒れることなく健康なままでいたならば、源頼家と同世代の若者達を集めることで一世代前の面々と対抗する形で自らの権力基盤を構成できていたであろう。組織内の派閥を作り上げるときに、理念や信条ではなく、世代を用いることはよくある話である。
その派閥構築は明らかに失敗しつつあり、これから盛り返せるかもしれないというタイミングで源頼家が病に倒れたことで、派閥構築は完全に頓挫した。中野能成ら若き御家人達にとっては晴天の霹靂であったろう。世代を利用しての派閥形成を試み、失敗した後の若者達に残されているのは、あくまでも敵対を続けて敗者となるか、敵対してきた上の世代に対し屈して勝者となるかの二択である。
中野能成は勝者になることを選んだのではなかろうか。それも、北条時政に屈することで勝者となることを選んだのではなかろうか。だとすれば、整合性はとれる。吾妻鏡には遠流と記し、その遠流を北条時政の尽力で白紙撤回することに成功しただけでなく、それまで保有していた所領が安堵された。ゆえに、中野能成は北条時政のために行動するようになった、と。
京都では必ずしも鎌倉での正しい情報を掴めていたわけではない。鎌倉から届いた源頼家の死去の知らせ、それが誤報であったとの知らせ、それらの一連の流れにおける鎌倉の混迷は、現在のように情報がリアルタイムで伝わるわけではないこの時代、最低でも七日間のタイムラグが発生し、そのタイムラグの間に情報が不正確なものへと変貌して京都に伝わる。そして、情報というものは情報そのものが存在するときになってはじめて送信され、情報を受信する側は送信された情報を受け取ることでようやく情報に接することができる。源頼朝のように、情報の有無に関係なく定期的に情報のやり取りをしていた人は例外中の例外であり、この時代の人たちにとっての情報は非定期的な存在である。
情報と書くと二一世紀の現在っぽく捉えることとなるが、この時代にも情報の送受信は存在する。書状がそれだ。私的な手紙にしろ、公的な文書にしろ、情報が紙に書かれ、情報の書かれた紙が運ばれることで情報が相手に伝わる。書状の到着については何の前触れも存在しないため、書状を受け取ることになる人は、書状を受け取るまでそのような情報があることを知らないでいる。
そのため、このようなフレーズが当たり前に使われるようになる。「便(たよ)りのないのは良い知らせ」というフレーズが。
朝廷や後鳥羽上皇が鎌倉で起こっている混迷の終焉を知るのは、混迷が終わったという情報を受け取ったときではなく、情報そのものが届かなくなったときである。
そのタイミングであると判断されたのか、建仁三(一二〇三)年一一月二五日に後鳥羽上皇は奈良の東大寺に臨幸した。源平合戦の中で焼失した東大寺の再建工事の完成を祝う東大寺再建総供養のためである。文治元(一一八五)年八月二八日の後白河法皇による東大寺大仏開眼供養、建久六(一一九五)年三月一二日の源頼朝も列席した東大寺再建供養に次ぐ、三度目の再建供養である。
本来は建久六年の供養で東大寺は復旧したことになっているのであるが、後鳥羽上皇がその状態を良しとしているわけはなかった。何と言ってもそのときの鎌倉幕府の権勢は圧倒的で、朝廷ですら手も足も出ない様相だったのだ。その上で後鳥羽上皇は一つの大義名分を用意した。八年前はあくまでも源平合戦における焼失前の東大寺、すなわち、建立から四〇〇年以上が経過した時期の東大寺に戻っただけであり、天平勝宝四(七五二)年に建立された当時の本来あるべき東大寺の姿に戻ったわけではない。建久六(一一九五)年以降も東大寺の工事は続いており、建仁三(一二〇三)年にようやく東大寺は聖武天皇の時代の再現を果たし、さらには、聖武天皇の時代を越える姿へと昇華したということにしたのだ。
後鳥羽上皇がここまで待ったのには二つの理由があった。一つは何と言っても鎌倉幕府の混迷が続いている間は下手に動けないこと。鎌倉幕府の動揺は関東地方で何かしらの事件が起こっているというレベルの話ではなく、日本国全体の治安問題に波及する話なのである。特に厄介なのが寺社の持つ僧兵達である。この時代の日本中のどこを探しても、鎌倉幕府以外に僧兵と対峙できる武力は無い。鎌倉幕府が動けなくなったら僧兵達が暴れる環境に戻ってしまうのだ。
そしてもう一つ、こちらの理由の方が大きいのだが、南大門の金剛力士像が一一月八日に完成したのである。東大寺の姿が聖武天皇の時代を超えるまでに昇華したことの何よりのシンボルとなるのが金剛力士像であり、運慶や快慶らの仏師の手によって完成した金剛力士像は、大仏とはまた違った形での国威発揚のシンボルになった。大仏は国家予算を投じて遂行された数年単位の国家プロジェクトであるのに対し、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体からなる金剛力士像はわずか六九日間で完成したのである。このスピードは当時の人を感嘆させるに十分であった。大仏と比べれば小さいかもしれないが、それでも像の高さは八メートルを超え、重量は阿形(あぎょう)が六・七トン、吽形(うんぎょう)が六・九トンもある。それだけの大きさの木像をわずか六九日間で完成させるというのもまた国威発揚につながる。
ちなみに、金剛力士像は木像であるものの、大きな樹木を削って作り上げた一木削(いちぼくけずり)の木像ではなく、三〇〇〇を超える部品を作り上げて組み立てることで完成した寄木造(よせぎづくり)の木像である。平成三(一九九一)年の解体修理において、阿形(あぎょう)は運慶と快慶、吽形(うんぎょう)は定覚と湛慶が主に担当し、最低でも二〇名の仏師が製作に参加したことが判明しており、この時代は特に関心を持たれなかったようだが、現代からすると、分業制により三〇〇〇個を超える部品を作成して組み立てることで完遂させたマネジメント力が高く評価されるところである。
話を東大寺総供養に戻すと、後鳥羽上皇にとっては自分が生まれてすぐに焼失させられてしまった東大寺が、焼失前よりも豪奢で壮麗な寺院として生まれ変わり、天平勝宝四(七五二)年の姿を上回る形で蘇ったのである。また、八年前は鎌倉幕府の面々が圧倒的威容を示した供養であったのに対して、今回は後鳥羽上皇の威容を見せつける供養であり、また、鎌倉から上洛していた平賀朝雅が軍兵を率いて守護にあたることで、鎌倉幕府をも従えた強力な上皇であると内外に示すことに成功したのだ。
ここで終われば後鳥羽上皇の計画は申し分ない結果を迎えて終わりを迎えたであろう。
しかし、このときの後鳥羽上皇には不幸が付き纏ってしまった。
二条殿が火災に遭い、新宮社を残して焼け落ちてしまったのだ。なお、藤原定家はこのときの火災について、もともと二条殿は莫大な予算を投じて作った必要以上の贅沢な建物であり、建設そのものが税の無駄であったとした上で、焼け落ちてよかったとまで記している。藤原定家が日記に悪口雑音を書き記していくのは珍しくないとはいえ、言論の自由など存在しないこの時代に、上皇に対してよくもまあここまで書けたものだと感心してしまう。
なお、税の無駄遣いを批判する藤原定家の言葉を無視するかのように、藤原定家の仕える九条家は、摂政左大臣九条良経と、引退した九条兼実の親子が中心となって莫大な予算を投じて新たに宇治御所を造営し、後鳥羽上皇も莫大な予算を投じて京都内外の各地を巡っている。確認できるだけでも、一二月四日に宇治御所に赴いたのち、一二月一四日に比叡山坂本の梶井御所、翌一五日に日吉社に参拝して競馬を楽しみ、二一日には北野社に参詣して再び競馬を楽しんでいる。なお、競馬(くらべうま)は現在の競馬(けいば)と同じく馬のスピードを競う競技であるが、現在と違って公営ギャンブルではなく、当然ながらハズレ馬券が空中を舞うこともない。
現在の日本国をはじめ、多くの国が三権分立を国家体制として確立させている。そして、日本国をはじめ、イギリス、ドイツ、オランダ、カナダ、オーストラリアなどの国々では行政府が立法府の信任によって成立し、立法府が行政府に対して強い影響を与える議院内閣制を導入しており、司法府が少し距離を置いた構図になっている。この構図は特に珍しいものではない。
一方、大統領制を採用し、かつ、大統領に強い権限が与えられているアメリカ、フランス、韓国などでは、行政府と立法府の距離が離れており、しばしば行政府と立法府の対立が見られる反面、行政府が立法府の影響を受けることが少ないためにスピーディーな政務遂行にあたれるというメリットもある。
これらの間に上下関係はない。単に違うというだけである。
では、日本国のこれまでの歴史はどうか?
単純化すると、律令制の頃は行政府と立法府が一体化しており、一体化した立法府と行政府の下部に位置する国家の一機構として司法府が存在するという扱いであった。つまり、司法府が立法府や行政府と同等の組織であると見做されることはなかった。
藤原摂関政治が成立する過程で、藤原氏は立法府たる議政官に過半数の人員を送り込むことで、まずは国家の立法府としての機能を掌握し、その上で行政府の機能を掌握するという図式を成立させた。ここでも司法府は出てこない。立法府の掌握を経て、行政府を掌握している。司法府はその両権力の付随組織という扱いである。
では、鎌倉幕府はどうか?
三権分立という視点で捉えると、行政府と司法府が一体化した組織であると言える。
鎌倉幕府に求められたのは一にも二にも治安維持であり、治安維持のための武力発動こそ、この時代の人達が鎌倉幕府に求めた能力である。要は悪人を処罰してくれという願望だ。短絡的に捉えると悪人をその場で処罰してくれということになるが、世の中、そんなに甘くない。そもそも善悪など簡単に判断できるものではない。そこで司法ということになる。まずは問題を吟味し、どちらに責任があるのかを判断し、結果を伝える。鎌倉幕府成立以降、いや、鎌倉幕府成立前から源頼朝の日常政務の大部分はこうした司法判断に割かれていた。それは源頼朝から源頼家に代替わりしても変わることなかったし、源頼家から司法権をとりあげて十三人の合議制が成立したことが問題になった理由も、突き詰めると鎌倉幕府に帰属する司法権の行使という問題がある。
さらに言えば、これは鎌倉幕府だけでは無い。後世の室町幕府も、その後に誕生した江戸幕府も、司法府と行政府とを統合させた権力組織として日本国に君臨した一方、立法府の権力も一応は存在したものの律令制の頃や藤原摂関政治の頃と比べると弱い。現在の概念で捉えると、法律ではなく政令公布による法の支配と捉えると理解しやすいであろう。たとえそれが概念上の存在になっていたとしても、日本国における法とはあくまでも天皇に基づくものであり、天皇の名で公布されなければ法としての効果を持たない。実効支配をしているために江戸幕府の発した政令は発せられた瞬間に日本中を支配したし、実効支配できなかったために室町幕府の発した政令は発したところで日本を支配するほどの効果を有さなかった。
話を建仁三(一二〇三)年の年末に戻すと、キーパーソンとなるのが源実朝である。いかに現在の学齢でいうとまだ小学生であるとはいえ、鎌倉幕府のトップに立った以上、源実朝も司法権の責務から逃れることはできない。ただ、現実問題として源実朝にそこまでの司法権行使の能力があるか、あるいは法的根拠があるかとなると、グレーゾーンとするしかない。
吾妻鏡の建仁三(一二〇三)年一二月一八日の記録を見ると、そのあたりの苦慮の痕跡が見えてくる。訴訟については文書が提出されてから三日以内に審理開始とすること、審理が始まらない場合は担当者を処罰することの宣告が出ている。おそらく、源頼家が去って源実朝が第三代将軍に就任したあたりで、司法権行使の混乱があったのであろう、訴訟の対応が滞っていたことが推測されるのである。
さらに一二月二二日には、北条時房に対して源実朝の身辺雑務の取り仕切りをするよう命じられたことの記録が登場する。いかに元服を迎えたとはいえ、実際にはまだ幼い少年とするしかない源実朝が将軍職を遂行するには、その他の面でのサポートも欠かせないという判断があったのであろう。
前例にない政治組織である鎌倉幕府が誕生してからおよそ一〇年。経験も実績も位階も地位も申し分ない源頼朝が中軸に君臨することでスタートしたために、鎌倉幕府は組織として発揮できる能力は強力でも、組織の永続性としては弱いものであった。その中軸が源頼家に移り、源実朝に移ったことで、鎌倉幕府の面々がそれぞれの形で、鎌倉幕府をいかに存続させるか、いかに組織としての能力を発揮させるか四苦八苦せざるを得なくなっていたのである。
そんな四苦八苦に対し、一気に現実を突きつける出来事が建仁三(一二〇三)年の年末に発生する。
三日平氏の乱がそれである。
平家は壇ノ浦の戦いで滅んだということになっているが、壇ノ浦の戦いで平家の全員が文字通りこの世から一人残らず旅立ったわけではない。生き残った者もいるし、そもそも壇ノ浦の戦いに参加しなかった者もいる。そうした者の中には平頼盛のように源平合戦の途中で平家一門から離脱して鎌倉方に身を寄せ、鎌倉幕府における有力者になった者もいるが、平家一門の生き残りの多くは、鎌倉方の時代を迎えることとなったときに鎌倉方に従わず、捲土重来を期して身を潜めることを選んでいる。
彼らに言わせれば鎌倉の源頼朝らの勢力のほうこそ国家反逆者であり、正式な天皇は安徳天皇であって後鳥羽天皇ではなく、後鳥羽天皇が譲位した土御門天皇も、そして京都の新たな院政である後鳥羽院も、認めることのできない存在ということになるし、彼らに言わせれば、認められない存在に対する抵抗は悪を倒す善行ということとなる。
それがいつのことか具体的な日付は記されていない。ただ建仁三(一二〇三)年一二月のことと記されているのみである。
何が起こったのか?
伊勢国で伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起したのだ。
彼らは伊勢国の守護で伊賀国の守護も兼任する山内首藤経俊の館を襲撃し、鎌倉幕府に対しての反抗の意を示したのである。
ただ、このあたりの思考や行動は、時代遅れの哀れなテロリストとするしかない。いかに彼ら自身が自分の行動を正当化しようと、やっていることは無思慮なテロリズムでしかない。
伊勢国守護の山内首藤経俊も自分が受けたのは平家の残党の武装蜂起ではなく強盗の襲撃と考えた。京都や鎌倉に送った報告も強盗から襲撃を受けたという内容であり、犯人は員弁行綱であるという報告が一二月二五日に鎌倉に届いたことの記録が残っている。この時代の情報網から考えると、伊勢国守護襲撃事件が起こったのは、一二月一〇日から一二月二〇日のあたりといったところであろう。具体的な日付が残っていないのは、記録を残す側がこの事件を重要視していなかったからともいえる。実際、このときの記録を見ても、捉えられ方は単なる強盗事件の一つというものであり、首謀者が伊勢国員弁(いなべ)郡の郡司進士行綱というのが気がかりな点であるものの、その他の記録は見えない。間違いなくこの時点の鎌倉幕府は、そして朝廷は、このときの襲撃事件が平家の残党の武装蜂起の前兆などと考えていなかったことが読み取れる。
首謀者の名として記されている郡司進士行綱とは員弁家綱の子の員弁行綱のことで、伊勢国員弁郡、現在の三重県いなべ市の人物である。郡の名前をそのまま苗字としていることから地域の有力者であったことは推測されるところまでは多くの意見が一致しているものの、同郡の郡司であったとの説については意見の一致を見ていない。ただ、伊勢国は昔から平氏の勢力が強く、そもそも平家の祖を辿ると伊勢平氏に行き着くほどである。伊勢国の有力者はその多くが何らかの形で平家と絡んでおり、武士であったとは考えづらい員弁行綱ではあるが、員弁行綱も、その父の員弁家綱も、平家との関係はゼロであったとは考えづらい。
ただ、員弁行綱が襲撃事件の首謀者であるとするのはおかしな展開ではある。
員弁行綱の父である員弁家綱については、吾妻鏡の文治三(一一八七)年六月二九日の記事に、伊勢国沼田御厨を所領とすることとなった畠山重忠が、同地の地頭職とすべく代官を現地に派遣したところ、その代官が伊勢国で員弁家綱の召使達の家を襲撃して財産という財産を奪い去ってしまったのでどうにかしてほしいという訴えがあったことの記事が登場している。その際、襲撃事件の訴えが京都の朝廷に届き、朝廷から鎌倉幕府に連絡が届き、鎌倉幕府から伊勢国に騒動の鎮静化のための使者が送られたというのがこのときの記事である。ゆえに、鎌倉幕府に対する個人的な恨みを員弁家綱が、そして、息子の員弁行綱が抱いていたとしてもおかしな話ではない。途中までは。
問題は員弁行綱の経歴である。この人は伊勢国の有力者となる道ではなく、中央政界に身を投じて文人官僚となることを選んだのだ。郡司の息子が中央政界にチャレンジすることは珍しくなく、夢破れて故郷に戻り、父の後を継いで郡司になるというケースも珍しくなかったが、員弁行綱がそういう人物だったとは考えづらいのである。
どういうことか?
吾妻鏡は員弁行綱のことを進士行綱と記している。進士とは大学を出て式部省の試験に及第して文章生(もんじょうせい)となった人物のことであり、形骸化しつつあったとはいえ、地方出身の有力者の子弟が中央政界で身を立てる方法の王道であると同時に、この時代の知的エリートの立身出世手段の王道でもあった。この時代には既に伝説の人となっていた菅原道真のように、藤原氏の生まれでなくても学業の積み重ねで身を立てることは不可能ではなかったのである。その道がいかに細くとも、たとえ菅原道真ほどの栄誉とはならなくとも、武力によって強引に勢力を掴み取るのではなく、律令に定められた正式なコースで自らの未来を切り開こうとしていたのである。
そのような人物が、わざわざ京都を去って故郷に戻り、故郷に新たにやってきた守護の館に襲撃を加えるであろうか? たしかに文章生にまで進んだもののその後の道を切り開くことができずに挫折した者は多い。しかし、過去三例、後鳥羽院で四例目となる院政を調べてみると、院政にはこうした挫折者の救済という側面もあったことが読み取れる。優秀だが中央政界に身を立てることができない者の多くを院は吸収してきた。ある者は院司となり、ある者は院司のキャリアを経て院の推薦で中央政界に身を投じるようになった。員弁行綱が後鳥羽院の庇護を受けることができず、自らの考えたキャリアが実現しないことの焦りからキャリアが実現しない理由を鎌倉幕府に向けたというのは考えられなくもないが、それにしても不合理にすぎる。だいたい、中央政界に身を投じてスタートラインに立つことに成功した人物が、いかに故郷であるとはいえ一地方の一御家人の邸宅に襲撃を加えることに意味を見出すとは考えられない。
意味を見出すとすれば、襲撃をかけた側が勝手に員弁行綱を神輿として担ぎ上げたというぐらいである。故郷出身で中央政界に身を投じた若者で、その父は鎌倉幕府に苦杯を味わされた人物、しかも、建仁三(一二〇三)年一二月時点で満足いく立志を果たしていないとなれば、自分たちのボスとして担ぎ上げるのに都合いい存在となる。員弁行綱としてみれば甚だ迷惑な話であるが、このときの伊勢国で、平家の残党が集結して誰かをリーダーとして担ぎ上げ、かつ、彼らに言わせれば国家反逆者である鎌倉幕府によって破壊された朝廷を立て直し、正しい朝廷に戻した後で自分たちの勢力を食い込ませることを考えた場合、員弁行綱という選択は間違っているとは言えない。
ただし、員弁行綱個人の感情という問題があるが……
年が明けた建仁四(一二〇四)年の正月の鎌倉は、三日平氏の乱につながる暴動のことなど気にもしなかったか、あるいはそのように振る舞ったか、暴動発生のことなど全く感じさせることなく、本来あるべき鎌倉幕府の正月の情景を、新たな将軍である源実朝のもとで再現しようとすることに終始していた。政務としての何かしらの意味のあることをするのではなく、それまで繰り返されてきた儀式を、繰り返すといってもせいぜい一〇年から二〇年程度の歴史しかない浅いものであるが、それでも源頼朝に由来する伝統を繰り返すことに終始していた。
ただし、一点だけ通例と違う情景がある。江間義時が伊豆山に行って帰ってきたという記録があるのだ。
北条氏にとって都合よく編纂された歴史書である吾妻鏡のことであるから後に鎌倉幕府第二代執権として数えられることとなる北条義時を特別視したとしてもおかしくないが、仮に北条義時のことを特別視しなかったとしても、江間義時のこのときの伊豆山詣は特筆に値する話である。
伊豆山に行って帰ってきたということは、かなりの高確率で、出向いた先である人物との接触があったことを示している。
その人物とは、源頼家。
源頼家は将軍職を退いて出家したが、自発的な出家ではなく、ましてや自発的な引退でもない。病に苦しみ横になり、病を克服して目覚めたら、出家させられていて、将軍職から引退させられていて、周囲を固めいてたはずの比企一族が滅ぼされていて、自身も伊豆国の修善寺に幽閉の身にさせられたという境遇である。自らの不遇を嘆く書状を送っては突き返されていたが、それで何もかもを諦めて隠居生活に入ったとは考えられない。かなりの可能性で捲土重来のチャンスを伺っていたはずである。
というタイミングで、江間義時がやってきた。
伊豆山とは現在の静岡県熱海市の一部で、伊豆半島の付け根の東部、現在の熱海駅の少し北のあたりと考えていただければご理解いただけるであろう。温泉も湧き出ており、現在の熱海伊豆山温泉は多くの観光客が詰め掛けるリゾート地でもある。
一方、修善寺は伊豆半島の付け根から少し南に向かった伊豆半島の中腹にある寺院であり、伊豆山からは山岳地帯を挟んで南西方向に位置する寺院である。一見すると距離があるように見えるし、伊豆山から修善寺に一直線で行くとなれば山岳地帯を乗り越えることとなるので直接向かったとは考えづらくなるが、この時代の交通事情を考慮して鎌倉から熱海を経由して伊豆の修善寺に行く手段を考えていただきたい。よほどのへそ曲がりでない限り、鎌倉から東海道に出たのち、熱海までは現在の東海道線に沿って相模湾沿いを進み、そこから山岳地帯を越えて西に向かって現在の静岡県三島市まで出て、三島市から進路を南へ変更して修善寺に到着するというルートを選ぶはずである。そして、三島から修善寺に向かう途中にある場所こそ、伊豆国北条。北条氏の本来の本拠地である。北条氏の後継者たる江間義時が新年に父祖の地を訪ねたとしても誰も何も言わないはずである。たとえ、その地の南に源頼家が幽閉されていたとしても。
吾妻鏡はただ、一月二二日に江間義時が伊豆山より帰還したことを記しているのみである。それだけで意味するところは理解できたとするべきであろう。
建仁四(一二〇四)年二月一四日、前年一二月に伊勢国守護兼伊賀国守護の山内首藤経俊を襲撃した事件の首謀者として、員弁行綱が逮捕された。吾妻鏡はここで員弁行綱のことを、「伊勢国員弁郡司進士行綱」と記している。なお、逮捕は和田義盛が主導しており、侍所別当としての職務遂行としておかしな話ではない。
員弁行綱が本当に真犯人なのかという点以外は。
間違いなく、この時点の鎌倉幕府は伊勢国での出来事を単なる強盗事件、あるいは暴動としか捉えておらず、平家残党の武装蜂起であるとは認識していない。この出来事は戦争ではなく犯罪としているのだ。和田義盛を動かしたのは被害者である山内首藤経俊が伊勢国守護の職務にあるから当然と言えるが、少々大袈裟ではないかというニュアンスも感じられる。鎌倉幕府にしてみれば、鎌倉幕府の一員に向かって犯行を仕向ける者があれば和田義盛を派遣することも厭わないという、一罰百戒のアピールの側面もあったと言えよう。
しかし、鎌倉幕府がそのような対処でいる間、現地では大騒動になっていたのである。
鎌倉に第一報が届いたのは三月九日になってからである。京都守護の平賀朝雅からの伝令が鎌倉に到着し、ようやく現状報告が届いた。伊賀国で平維基の子や孫らが、伊勢国で平度光の子らがほぼ同時に武装蜂起し、伊賀国と伊勢国の守護を兼任する山内首藤経俊が現地に赴いたところ、多勢に無勢であったため話し合いにすらならずに逃亡しなければならなくなっただけでなく、伊勢と伊賀の両国は平家の残党に制圧され、平家の残党は鈴鹿関と八風峠を封鎖したのだ。鈴鹿関は東海道のメインルートの途上であり、八風峠は鈴鹿関が使えない場合の東海道の迂回ルートである。つまり、反乱軍はこれで東海道の要衝を封鎖したこととなるのだ。全てのルートが遮断されたわけではないが、これによって京都と鎌倉との最短経路は塞がってしまった。
平維基は平維盛の子とされるが、この平維盛が平清盛の孫の小松中将平維盛のことであるかは不明である。同姓同名の別人を父とする人物であるとの説もある。もっとも反乱軍にしてみれば平維基の父親が平維盛と同姓同名の人物であろうとなかろうとどうでもいい話であろう。重要なのは平家の総大将として相応しい血筋を持つと主張できる人物を総大将に担ぎ上げることであり、平清盛の直系曾孫となれば、たとえ別人であろうと、これ以上ない存在である。
一方、平度光については素性が不明である。平家の落人伝説の一人ともなっている平盛高と兄弟であったとの伝聞もあるが、平盛高が実在の人物であったかどうかという点ですら怪しいのが現状だ。そもそも平家落人伝説の平盛高は平清盛の子を名乗っているのだから平度光も平清盛の子となるのだが、平清盛の子の中には平盛高という名の者も平度光という名の者もいない。もっとも、平清盛ほどの権勢者ともなれば隠し子がいたとしてもおかしくないし、そうであれば平清盛の子を総大将として担ぎ上げることとなるのだから、軍勢の士気を上げる材料としては適切であろう。
ちなみに鎌倉はこの首謀者の素性を掴んでいたようで、吾妻鏡では平惟基のことを雅楽助平惟基、平度光については中宮長平度光と朝廷官職を付して記録している。まったくの無位無官の者が反乱を起こしたのではなく、朝廷官職を得ている公人の起こした反抗であると記録に残している。その上で、第一報を受けた翌日である三月一〇日に、京都の平賀朝雅に対して京都で集めることのできる鎌倉幕府の軍勢を指揮して伊賀国と伊勢国反乱を鎮圧するよう指令を送っている。
いかに東海道の途中が平家の残党に制圧されていようと、源頼朝の整備した情報連絡網に従えば鎌倉と京都は半月あれば往復できるようになっている。つまり、三月一〇日に鎌倉から京都に向けて出発したならば、半月後の三月二五日には京都から鎌倉に情報が戻ってこなければならない。どこにいようと情報がリアルタイムで伝わる現在の感覚からすると呑気に感じるが、この時代の情報感覚では、情報の往復が完了するまではいつも通りのことをするのが普通である。吾妻鏡の該当箇所に目を通しても、鎌倉では平家の残党の反乱などなかったかのような平穏な日々が続いていることが読み取れる。
しかし、想定している三月二五日を過ぎても情報が戻ってこない。一日や二日のタイムラグは仕方ないとしても、月末になっても何の音沙汰もないのは異常である。
ただ、こうした兆候はもっと前、三月一日時点で鎌倉に届いていた。
二月二〇日に建仁から元久への改元があったとの連絡が届いたのだ。ゆえに、鎌倉幕府の正式な文書のうち、二月二〇日から二月末までに発給された文書については日付が元久ではなく建仁の元号が記され、後の記録から遡る場合は、その時点の鎌倉ではいかに建仁四年の日付の記録であっても、正式な記録に残す際には元久元年に書き換える。
ここまではいい。
問題は、改元という重大ニュースが鎌倉に届くのに一〇日も要しているという点だ。これほどのニュースであれば、改元の正式発令と同時に情報は京都を出発し、遅くとも二月中には鎌倉に届いていなければならない。かつては京都から鎌倉まで一五日を要していたが、源頼朝による整備以降は片道七日が基準だ。それなのに一〇日も要しているのであるから、これは何かあったと考えるべきであった。
その何かというのが平家の残党の反乱であった。
そして、三月一〇日から半月を経ても京都から情報が戻ってこない。
これで鎌倉幕府は事態の重要性を認識した。
情報が戻ってこないのではない。戻ってこれないのだ。
元久元(一二〇四)年三月二九日、京都守護の平賀朝雅に向けた指令の第二報が鎌倉を出発した。
その後も鎌倉では日常の政務が続いている。源実朝が第三代将軍に就任してからまだ半年、初代将軍源頼朝から第二代将軍源頼家の権力継承は上級貴族から上級貴族への権力継承であるためにスムーズに進んだが、第二代将軍源頼家から第三代将軍源実朝への権力継承はどうしても試行錯誤を繰り返さざるを得なくなる。ただし、試行錯誤は必ずしも悪い点ばかりではない。また、平家残党の反乱が起こっている状況下でもある。
ちなみに、この情報交錯の合間に朝廷は北条義時に対する除目を行っている。従五位下相模守に北条義時こと平義時を任命したのである。ただし、このときの任命の記録は朝廷に残っていても吾妻鏡にはない。
この時代の人達が鎌倉幕府に求めたのは、一にも二にも身の安全であり、合わせて、養和の飢饉のような惨事が二度と起こらないことの保証である。戦場にならずに済み、戦争に巻き込まれずに済み、飢饉に苦しまなくて済む暮らしを鎌倉幕府が作り上げてくれることを期待している。北条義時を相模守に任命したのもこの延長線上の話である。北条義時個人の能力を買って相模守に任命したのではなく、源実朝の叔父に従五位下の位階と相模守の役職を与えることで、治安の回復と安全の確保を狙ったのだ。
これを鎌倉幕府の側から捉えると、民心掌握ということになる。
源頼朝は法を完全に遵守することで庶民は減税としながら鎌倉幕府の財政を潤すという離れ業を演じたが、これは何度も繰り返すことのできる話ではない。鎌倉幕府の財政を向上させるには幕府の収入を増やさねばならないが、そうなるとどうしても税負担を増やさざるをえなくなる。かといって、既に減税しているのに税負担を増やすと増税になってしまって、せっかくの減税で獲得できていた庶民の支持を減らすことになるだけでなく、鎌倉幕府への反発と平家の残党の反抗とが結合してしまう可能性もある。
そこでこのときの鎌倉幕府が考えたのが、検地である。要は土地を正しく測量し、それまで脱税できていたところに対して法に基づく納税を課すこととしたのだ。脱税していた側は悔しさを隠せないだろうが、違法である以上表立った反発はできないし、真面目に納税していた庶民からすれば、自分は負担していたのに負担していなかったのがいるとあっては納得できない話になるだけでなく、脱税を摘発してくれてありがとうという感覚にもなる。
人は本質的に、卑怯な手段で自分よりもいい思いをしている人間が懲らしめられるのを喜ぶ生き物である。これで鎌倉幕府は庶民の支持を獲得すると同時に、平家の残党が反幕府感情と結合するのを防ぐことに成功した。
さて、平家の残党が伊勢伊賀両国で反乱を起こしたとの情報に対し、京都の朝廷はどのような対応をしていたのか?
結論からすると、何もできないも同じであった。
鎌倉からは京都守護の平賀朝雅に対して反乱軍討伐の指令が出たが、朝廷や後鳥羽院は鎌倉からの指令の追認しかできなかったのである。
このときの平家残党の武装蜂起の知らせは、鎌倉よりも京都の方がより深い混迷を生み出したはずである。平家残党が武装蜂起したことそのものも恐怖であるが、東海道が封鎖されてしまったこと、特にこの時代の一台穀倉地帯であった濃尾平野から平安京に向かうルートの途中が武装勢力に制圧されてしまいルートが断たれてしまったというのは、源平合戦期の養和の飢饉の記憶を呼び起こすに十分であった。東海道が伊勢国と伊賀国とで封鎖されてしまっても、陸路での物流で言えば美濃国から近江国に出て京都に向かう東山道は健在であったし、海路も考えると北陸道も健在であったので、養和の飢饉の頃よりは物流面で不安が少ないが、それでも物流が万全でないというのは驚懼を生み出すに十分なニュースだ。
それでいて、もはや朝廷にも、そして後鳥羽院にも、独自の武力を動かす武力はない。武装蜂起に対して対処するのはこの時代の唯一の武力ともいうべき鎌倉幕府しかできないのである。
ただし、一つだけ京都でなければできないことを平賀朝雅に与えている。
それは、伊賀国を平賀朝雅の知行国とする指令である。平賀朝雅は既に武蔵守であるため改めて国司に任命することができない。しかし、平賀朝雅を知行国主とすると平賀朝雅が任意の人物を伊賀国の国司に任命することができ、その人物からの軍事派遣要請を受けたという体裁にすれば、平賀朝雅が伊賀国でどのような軍事行動を起こそうと、それは朝廷の認める正式な統治の一環であり、平賀朝雅の率いる軍勢に逆らうことは国家反逆罪にあたることを朝廷が正式に通達したこととなる。実際、平賀朝雅は知行国手の権利を得たとほぼ同時に里見義成を伊賀守に補任している。
もっとも、平家の残党は鎌倉幕府を認めていないだけでなく、正式な天皇は壇ノ浦の戦いのあと行方不明となっている安徳天皇であって、後鳥羽天皇は皇位簒奪者であるという認識だ。退位して後鳥羽院となってもその院政を認めていないし、土御門天皇の即位も認めておらず、平家の残党は、鎌倉幕府だけでなく元久元(一二〇四)年時点の朝廷権力の全てを認めていないのである。
元久元(一二〇四)年三月二二日、平賀朝雅は反乱鎮圧に向けて軍勢を結集し、翌日、伊賀国に向けて出発した。平賀朝雅率いる軍勢は、鎌倉幕府としては京都守護、朝廷としては伊賀国知行国主であると同時に、伊賀守から軍事派遣依頼を受けた合法的な軍勢、すなわち官軍となる。ただし、相手は鎌倉幕府だけでなく朝廷権力も認めていない相手であるため、官軍の資格を得たとしてもその権威だけで圧倒できるわけではない。また、伊勢国は平家の母体となった地域であり、表立っての支持とはならないものの、平家の残党の行動に対する黙認や、秘密裏の協力者もいる。そして何より、平家の残党が制圧したのは交通の要衝である。これを平賀朝雅の立場から考えると、京都から最短距離で反乱地点に向かうのは弓矢の標的になりに行くだけだ。
そこで平賀朝雅は大回りをすることとした。最短ルートを向かうのではなく、いったん美濃国まで出て、反乱地点の北西からではなく北東から攻め込むこととしたのである。遠回りになるが、平賀朝雅率いる軍勢は三月二七日に伊勢国に入って陣地を築き、その上で反乱軍の情勢を偵察させた。この偵察に平賀朝雅は十日以上を要している。
十日以上の日付を偵察に使ったこともあり反乱軍の全容を知ることができた平賀朝雅は四月一〇日に行動を開始。同日、伊勢国朝明郡の富田舘に籠る富田基度の陣営を襲撃し、数時間の戦闘の後に同地を占拠。富田基度とその弟の松本盛光ら打ち取ったのち、同国多気郡に軍勢を進めて庄田三郎佐房とその子らと戦い、平家の残党の多くを戦死に追い込み、河田刑部大夫らを生け捕ることに成功した。短時間での集中攻撃で全線が撃破されたことを知った平家の残党は混乱したが、平盛時とその一族は伊勢国六箇山に砦を築いて幕府軍に対して籠城戦に挑むこととし、前年末に山内首藤経俊のもとを襲撃した若菜五郎は早い段階から伊勢国内に砦を複数箇所築いて抵抗する意思を示していたが、いずれも平賀朝雅率いる軍勢に各個撃破され、戦場に散ることとなった。
逃散した平家の残党がまだいるものの、反乱軍の主だった面々が撃破され、反乱鎮圧に成功したのは四月一二日のこと。わずか三日での作戦完了であり、このことからこの時の平家の残党の反乱は「三日平氏の乱」と呼ばれることとなった。
この功績により平賀朝雅は伊賀伊勢両国の守護を兼務することとなり、同職にあった山内首藤経俊は罷免された。また、討ち取られた平家残党の所領も平賀朝雅が保有することとなり、平賀朝雅はその名声を高めることとなった。さらに、後鳥羽院も平賀朝雅を北面武士に採用して後鳥羽院の殿上人に加えるとしたことで、平賀朝雅は、殿上人、北面武士、武蔵守、京都守護、伊勢国守護、伊賀国守護、伊賀国知行国主を兼ねることとなったのである。
これはあまりにも異例にすぎる厚遇だ。
平賀朝雅は清和源氏であり、本名は源朝雅である。ただし、清和源氏の本流ではなく支流であり、源頼朝のもとに仕えるようになったときには既に清和源氏のトップの地位を狙うことを断念する立場にあった。源平合戦勃発時、清和源氏として平家に反旗を翻すのではなく、源頼朝のもとに集う鎌倉武士の一人として行動することを選んでいるのも自らの素性を考えた結果である。ただし、平賀朝雅の父の平賀義信、兄の大内惟義の後を継ぐ形で武蔵守に就任していることから、無位無官の一般庶民というわけではなく少なくとも朝廷より位階を授けられる立場にあり、最低でも従五位下、順当に考えれば従五位上以上の位階を得ていたはずである。だからこそ京都守護としての職務を果たす際に鎌倉幕府の武士の一人としてではなく貴族の一人として行動できたのであるし、伊賀国知行国主たる権威を朝廷から付与されるのに支障を生じさせなかったとも言える。
また、平賀朝雅の生まれと血縁も鎌倉幕府の御家人の中では異彩を放っていたと言える。平賀朝雅の実母は源頼朝の乳母であった比企尼の三女であり、平賀朝雅の妻は北条時政と牧の方との間に生まれた娘である。つまり、源頼朝と旧知の仲であるだけでなく、初代京都守護の北条時政の娘婿でもある。北条政子や江間義時からすれば甥にあたるため、三代将軍源実朝の従兄であるとも言える。源実朝が将軍に就任した直後に京都守護として京都に派遣されたのも、平賀朝雅の持つ特殊事情を加味すれば、平賀朝雅という選択肢は悪くない選択肢であるといえよう。
ただ、三日平氏の乱における平賀朝雅はあまりにも見事だった。前年の強盗騒動が実は平家残党の反乱で、東海道の要衝を落とされてしまったために京都の東からの物流ルートの一つが封鎖されてしまったという知らせは京都内外に住む人達を恐怖に陥れるに十分であった。養和の飢饉の記憶は未だ鮮明であり、平家残党の武装蜂起という知らせを聞きつけた瞬間に飢饉の記憶が蘇ってしまったのである。このようなタイミングで平賀朝雅に着目が集まり、しかもわずか三日で武装した平家の残党を制圧した。これは京都に一つのムーブメントを巻き起こすに十分であった。
すなわち、二〇年前の源義経の再来というムーブメントである。
平賀朝雅自身が源氏であり、鎌倉幕府第三代将軍源実朝の従兄であるという血筋は平賀朝雅に貴種性を生み出し、平賀朝雅の二四歳という若さは、同じく若くして英雄となった源義経への追慕を呼び寄せた。
後鳥羽院政は、過去三例の院政と大きく異なる点がある。
行使できる武力である。
白河院政にしても、鳥羽院政にしても、源平双方の武力を内包することで朝廷とは別個の軍事力を有することに成功していた。後白河院政の場合は、当初は平家、源平合戦後は源氏を利用して独自の武力をどうにかできた。もっとも、後白河法皇がどうにかしようとした末に招いたのが平家政権であり、その結果としての源平合戦であったとも言えるので独自の武力を期待できたという評価には合格点はつけられないが、それでも院の力で武力を動かすこと自体には成功していたことは認めねばならない。
それが後鳥羽院政となると、鎌倉幕府という巨大軍事組織が登場したことで、院として独自の武力を持つことができない時代に変わっている。後鳥羽上皇は後に西面武士を結集することとなるので院として独自の武力を手にすることとなるのだが、その西面武士とて鎌倉幕府を上回る武力とはなっておらず、後述することとなるが、その武力の供給源を鎌倉幕府に依存している。無論、後鳥羽院の周囲を固めるボディーガードとしての武士ならば西面武士の結成前から存在しており、後鳥羽上皇自身が身の危険を危惧しなければならない状況はない。しかし、周囲を固めるボディーガードに武力発動を命じたところで、その際に動かすことのできる軍勢が過去三例の院政のように国家最大の軍勢となるわけではないというのを忘れてはならないというのが、後鳥羽院政に課せられた宿命なのだ。
後鳥羽上皇という人は、自らの持つ武力の限界を理解していた。ただし、自らの権威については全く疑念を抱いていなかった。平賀朝雅の例にもあるように、鎌倉幕府全体、ないしは鎌倉幕府の一部に働きかけることで、過去三例の院政におけるのと同様に、朝廷から離れた独自の軍事行動を示すことは不可能ではないと考えたのである。
ただし、それは後鳥羽上皇と鎌倉幕府との利害が一致したときに限られる。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府という組織そのものが源頼朝に臣従する武士たちの集まりであることを理解していたし、源頼家や源実朝が幕府のトップに立っていられるのも、彼らが源頼朝の実子であることに由来することを理解していた。すなわち、源実朝が鎌倉幕府のトップであり続ける限り、鎌倉幕府の御家人達が源実朝に逆らって幕府に弓を引くことはないと考えていた。
そこで後鳥羽上皇が考えたのは、源実朝との個人的なつながりである。後鳥羽上皇は京都、源実朝は鎌倉と離れたところにいるため簡単に顔を合わせることはできないし、実際に源実朝は人生で一度も後鳥羽上皇と顔を合わせたことなどない人生を送ることとなるのだが、それでも後鳥羽上皇と源実朝との個人的なつながりを構築することはできる。
元からして後鳥羽上皇は多趣味な人である。それも、皇族としての嗜みだけでなく、狩猟や相撲のようにその趣味を持つ者として最初に連想されるのは武士であろうという趣味にまで手を出している。それらの趣味を介して源実朝との接点を有することができれば後鳥羽院と鎌倉幕府との関係性を高めることができる。
そのあたりの記録として挙げることができるのが、元久元(一二〇四)年五月二〇日のこととして残る記録である。
この年の五月に後鳥羽上皇は自分の詠んだ和歌を春日社に奉納させており、自らの趣味を利用した勢力伸長を内外に喧伝していた。春日社は藤原氏の、特に藤原摂関家の氏神であり、その神社に和歌を奉納したのであるから、奉納の目的も奉納の字句の通りに捉える人などいない。しかも、後鳥羽上皇が使者として春日社に派遣したのは飛鳥井雅経である。飛鳥井雅経の本名は藤原雅経であり、藤原氏の一員である飛鳥井雅経が自身の氏神である春日社に赴くこと自体は何の問題もない。しかし、飛鳥井雅経という人物と鎌倉幕府との関係を考えるとそう簡単に断じることはできなくなる。飛鳥井雅経は、父の難波頼経が源義経と親しくしていたために、父の連座として鎌倉に護送されてきた過去を持つ人物である。ただし、鎌倉で飛鳥井雅経が待っていたのは囚人生活ではなく、和歌と蹴鞠の才能に対する評価であった。名目上の立場こそ罪人ではあったが、実際には源頼朝の息子たちの家庭教師というのが鎌倉における飛鳥井雅経の立場であった。後述するように、源頼朝という人は武家集団のトップではあっても、本質的には貴族趣味の人である。源頼朝自身は貴族趣味にそこまで表立って耽溺するなど許されなかったが、自分の子供たちには貴族趣味を味わわせることを心掛けており、和歌や蹴鞠といった貴族趣味の師として飛鳥井雅経は申し分ない人物であり、だからこそ源頼朝は飛鳥井雅経を猶子としたのである。
飛鳥井雅経は罪を許されたのちに京都に戻ると、後鳥羽院の院司の一人となって後鳥羽上皇の趣味に付き合う人物の一人としてみなされるようになった。後鳥羽上皇が和歌を春日社に奉納するのであるから、藤原氏にして自らの院司の一人でもある人物を春日社に派遣することは不合理な話ではない。しかし、誰がそのような表向きの理由を信じようか。飛鳥井雅経が和歌や蹴鞠の才能を有していたこと、趣味人として申し分ない実績を持っていることは認める。認めるが、前述の通り飛鳥井雅経は源頼朝の猶子なのだ。擬制上の父子関係であろうと、源頼朝の息子と名乗ることの許されている人物を後鳥羽上皇が春日社に派遣したことは、院司の一人を春日社に派遣したこと以上の意味を持つ話である。
さらに元久元(一二〇四)年七月一一日から七月一六日まで、後鳥羽上皇は宇治の御所へと御幸し、狩を楽しんだ後に、一四日には水練や蹴鞠、そして乗馬を楽しみ、一五日に平等院の経蔵に入って宝物を観覧してから笠懸を楽しみ、一六日に久しぶりに和歌会を開くという、ハードスケジュールというか、無理を重ねたというか、何とも形容しがたいことをしている。しかし、宝物観覧と和歌会以外はこの時代の武士であれば誰もが嗜むものであると同時に皇族や貴族が嗜むこともあるという趣味である。一つ一つの行動自体は何らおかしなものではない。ただただ、短期間にあれもこれもと詰め込んだためのハードスケジュールとなっているというだけである。もっとも、後鳥羽上皇のこの行動とスケジュールを鎌倉幕府の面々が耳にしたならば、後鳥羽上皇は自分たちと通じ合う趣味を嗜む御方であるとの評判が立つであろう。また、宇治という場所の選定も悪くない。源平合戦の萌芽である以仁王の挙兵の最終局面の舞台であり、また、木曽義仲と鎌倉方の武士たちの決戦の場でもある。後鳥羽上皇が宇治に赴いて武芸を嗜まれたと耳にしたならば、鎌倉幕府の御家人たちの多くが、後鳥羽上皇への親近感を抱いたであろう。
なお、この宇治御幸時の記録をよく読むと、理論上はやれないことはないことだと頭の中では認めるものの、心情的には認めがたいことを後鳥羽上皇とその近臣たちはしている。それは、七月一四日の水練と蹴鞠、そして乗馬。
藤原定家の残した記録が本当ならば、後鳥羽上皇らはフンドシだけを身につけたほぼ裸体で宇治川に入って水練をしたのち、川岸に上がってからもフンドシと沓と韈だけを身につけた格好で蹴鞠をした後、その格好のまま歩いて平等院の庭に行き、その格好のまま平等院の庭で乗馬を楽しんだとある。沓は靴のことであり、韈は今でいう靴下だ。パンツ一丁で靴下と靴を履いた集団が宇治川の川岸で蹴鞠をし、行列をなして宇治川から平等院へと歩いて行き、平等院の庭で乗馬をするという、これが後鳥羽上皇の一行でなければ明らかに不審者として通報されてもおかしくないことをしているのだ。後鳥羽上皇はそれで平然としていたのか、それとも、このような行動こそ武士たちに受け入れられる行動と考えたのか。この件ばかりは、日記に苦言を書き記した藤原定家に賛同したくなる。
この時点ではまだ表出化されていないが、趣味という視点で捉えると、源実朝もまた趣味人である。
源実朝の実父である源頼朝も本質的には貴族趣味の人間であったが、そこまで貴族趣味に耽溺することはなかった。いや、耽溺することは許されなかった。源頼朝は一三歳まで京都で過ごし、生まれてからずっと貴族趣味に囲まれた人生を過ごしてきたが、平治の乱で敗れて伊豆に流されてからは京都での貴族趣味を味わうこと自体が困難になっていた。伊豆の地でどうにかなるレベルならば嗜むこともできたが、それでも京都の最先端の流行とは程遠い。それに、反平家で立ち上がってからの源頼朝は武士たちに囲まれた暮らしを余儀なくされている。梶原景時や宇都宮頼綱のように和歌への造詣も深い武士もいたし、畠山重忠のように楽器演奏の見事な腕前を披露する武士もいたが、本質的に武士とは貴族趣味に耽溺することを是としない。武士と貴族との共通の趣味である狩猟であれば問題なかったが、和歌や蹴鞠といった趣味に強い関心を示す武士は必ずしも多数派ではなかった。源頼朝もそのあたりは理解していた。
しかし、平家を倒し、自らも正二位まで位階を上げると、源頼朝は貴族として振る舞うことが許されるようになっただけでなく、貴族としての振る舞いが義務付けられるようになった。おかげで、それまで表立っては耽溺できなかった貴族趣味を堂々と愉しめるようになった。それは我が子の教育についても言えており、和歌や蹴鞠といった貴族に生まれた者であれば誰もが嗜む義務を持つ趣味を息子たちに学習させている。もっとも、学習させたのは貴族趣味だけでなく、弓矢をはじめとする武人としての嗜みも学習させている。そして、何よりも大切なこととして学問を履修させている。これは源実朝が将軍に就任してからの話になるが、前年末に鎌倉幕府は京都から家庭教師を務める人として源仲章を招いており、源実朝は源仲章から学問を学んでいる。これは鎌倉幕府という組織の宿命ともいえよう。
ちなみに源仲章という人物に対する評価であるが、これといって優れた文章を書き記す人ではないものの、多くの書を読んでおり学識は豊かな人であったという。これは個人の日記にあるような評価ではなく吾妻鏡に記されている評価なので、これが北条氏の側からみた源仲章に対する評価ということになろう。
後鳥羽上皇と源実朝の二人の趣味人の邂逅は、元久元(一二〇四)年時点では明瞭なものとなってはいない。しかし、その萌芽は既に芽生えていたことが読み取れる。
後鳥羽上皇らが宇治川で繰り広げていた、よく言えば武芸の鍛錬、悪く言えば悪ふざけも、そのまま鎌倉に情報として伝わっていたならば特にどうということはなかったであろう。
ただ、タイミングが悪すぎた。
後鳥羽上皇らの宇治御幸の少し後の元久元(一二〇四)年七月一八日に大事件が起こっていたのだ。
源頼家が伊豆国修善寺で殺されたのである。
吾妻鏡は源頼家の死について、伊豆国修善寺にて亡くなったと、あっさりと記して終わっている。源頼家が亡くなったことの報告が鎌倉に届いたのが七月一九日の酉刻というから夕方六時頃だ。現代日本で元首相や前首相が亡くなったならばその日のうちに大ニュースとなって日本中に届くであろうが、この時代の情報連携システムとしてはこれで適切とするしかない。するしかないのだが、釈然としないところもある。前将軍にして、将軍源実朝の実兄の死なのだ。吾妻鏡には、伊豆国から飛脚がやってきて前日に源頼家が亡くなったことを伝えたとしか記しておらず、鎌倉幕府のトップにあった人物の死に対する記事とは思えない簡潔さだ。
そもそも、吾妻鏡は源頼家だけでなく、源頼朝の死についてですら、そこまで克明に記した歴史書ではない。吾妻鏡というものが北条家の北条家による北条家のための鎌倉幕府の正史であることを考えると、吾妻鏡における源頼家の死の記載についてはそういうものなのだと受け入れるしかない。
ただし、それは吾妻鏡の記載に対する納得であり、源頼家の死に関する納得ではない。
そこで、愚管抄に目を向けると別の答えが出てくる。愚管抄は日本国の通史でありながら、まさに著者である慈円が同時代のこととして体験したことでもあるため、愚管抄は源頼家の死についてもう少し詳しく記している。ただし、著者である慈円が実際に源頼家の死の情景を目の当たりにしたわけではないので、伝聞の転載になることはやむを得ない。
愚管抄によると、源頼家は自然死ではなく何者かによって殺害されたとある。源頼家は風呂場において、源頼家殺害のために送りこまれた送り込まれた刺客と激しく戦い、刺客はあまりにも源頼家が手強いので、源頼家の睾丸を引きちぎった上で首に紐をまきつけて身動きをさせなくした後に源頼家を殺害したとしている。
源頼家、享年二十三。
誰がこの刺客を差し向けたのかを明言している資料はない。ただし、北条家、特に北条義時の命令で送りつけられた刺客であろうとは意見の一致をみている。というより、源頼家をここで暗殺した場合に誰が利益を得るのか、そして、この後の鎌倉幕府の行動を追いかけると、北条家が真犯人であるとするしか結論づけることができないのだ。
さらに七月二四日の吾妻鏡の記事を見ると、源頼家の家来であった面々が鎌倉の近辺に潜んで反乱を起こそうとしているので、北条義時が金窪行親らを派遣して彼らを討ち取り、反乱を未遂に防いだとある。吾妻鏡における源頼家への評価は御世辞にも高いものではない。現在の研究者たちからの評価にしても、吾妻鏡完全準拠とまではいかないものの、肯定と否定の割合で言えば否定の割合の方が高い。だが、源頼家が出家させられ伊豆国修善寺に幽閉される状態となってもなお、源頼家を支持する一定のグループが存在していたことが読み取れるのである。仮に伊豆国に閉じ込めておいたままであったなら源頼家を担ぎ上げる勢力が存在し続け、将軍源実朝に反旗を翻す勢力へと発展してもおかしくなかったであろう。より厳密に言えば、北条時政と北条義時の親子を軸として確立されつつある北条氏の勢力に反発するために、源頼家の復権を前面に掲げたグループが結成されたとしてもおかしくない。
源頼家がここで故人となり、源頼家を担ぎ上げる勢力も霧散したことは、北条家にとってこれ以上なく都合の良い話である。
源頼家が亡くなったことは北条家にとって都合良い話であっても、鎌倉幕府全体で考えるとかなり都合の悪い話である。
そもそも鎌倉幕府の正体を突き詰めると、関東地方の武士たちの集団である。
しかし、公的な存在価値としては、征夷大将軍、すなわち、壇ノ浦に沈んだ三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)こそ征夷大将軍であり、その征夷大将軍が軍事作戦を継続し続けるために必要な組織が鎌倉幕府であるということになっている。
征夷大将軍を文字通りに捉えると、朝廷に従わぬ者を討伐するために派遣される軍勢の指揮官であり、その指揮官はシビリアンコントロールを離れた様々な裁量が認められている。それらの裁量の中には独自の徴税権や司法権も存在する。平時であれば断じて認められないような大権であるか、緊急事態であるとすることで特例的に認められる大権となる。
征夷大将軍に必要な位階は決して高くない。歴代の征夷大将軍を見てみても、藤原宇合や藤原麻呂のように朝廷の中枢を担った人物や、坂上田村麻呂や文室綿麻呂のように後に議政官の一角に座するようになった人物もいるが、本質的にはそこまで朝廷の中枢に食い込むことはなく、就くのに必要な位階にしても従四位下でどうにかなる官職であることは木曽義仲が証明している。
源頼朝と源頼家という二人の正二位の上級貴族が就いた官職であるために上級貴族に相当する官職であるように扱われるようになったが、本来であればさほどの上級貴族である必要はない。実際、元服直後であることを考慮しなければならないという側面があるにせよ、源実朝は従五位下という貴族としての最底辺の位階でありながら征夷大将軍に就任している。
位階がそこまで低いのに源実朝が征夷大将軍に就任できたのは、源頼朝の実子にして源頼家の実弟であるという点に尽きる。征夷大将軍に就くのに求められるのは、貴族としての能力でも、位階でもなく、源頼朝の血を引いた人物であるという点であるという時代になったのだ。
源頼朝の実母は熱田神宮の宮司の娘である。そして、熱田神宮に祀られているのは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)であり、三種の神器として皇室に存在する天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は熱田神宮に祀られている天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)なのである。三種の神器のうちの一つが失われたので、熱田神宮に対して再び天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)を作り出すように伝えた際の回答が、源頼朝が天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であり、征夷大将軍の地位こそが三種の神器のうちの一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)であるとするものである。
この瞬間から、征夷大将軍は従来のシビリアンコントロールを離れた大権であるだけでなく、皇位継承において不可欠な官職を兼ねるようになった。三種の神器のうち二つは皇室にあるが、残る一つはモノではなく人間になっている。人間はモノと違って不死の存在ではないからやがていつかは死を迎えることとなるが、そのときは源頼朝の子孫が征夷大将軍の地位を世襲すればいい。そうすれば、三種の神器は存続し続けることとなり、皇位継承も問題ない、ということになっている。
しかし、今や源頼朝の地位を継承できる人間は源実朝しかいない。まだ幼いなどとは言っていられない。血の継承を考えなければならないのだ。
源頼朝の血を継承し続ける必要性は、鎌倉幕府だけでなく朝廷でも強く認識されるようになっていた。何しろ、後鳥羽天皇、土御門天皇と、二代連続で三種の神器の揃わない皇位継承が続いている。それでも土御門天皇については源頼朝が健在であるために天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)が存在しているという形式を作り出せたが、後鳥羽天皇はそれすらもできなかった。厳密に言えば、平家都落ちの際に三種の神器が平家に盗み出されて京都から無くなってしまったという状況下での即位であって、後鳥羽天皇の即位時点ではまだ、物質としての三種の神器がまだ健在であった。手元になかったというだけで、取り戻すことは不可能ではなかったのだ。
それが、平家滅亡とともに三種の神器が揃わなくなった。三種の神器なき即位は皇位継承の正当性に疑念を生じる話になる。それでも源実朝が健在であれば三種の神器は揃っているという体裁を取ることが可能だが、源実朝の身に何かが起こって征夷大将軍が空席となったならば、その体裁を取ることもできなくなる。
京都と鎌倉はここで意見の一致を見た。一刻も早く源実朝に女性を嫁がせ、一刻も早く源実朝の子を、それも男児を産んでもらうことである。なお、吾妻鏡の元久元(一二〇四)年八月四日の記録として、源実朝の結婚相手として足利義兼の娘が候補に挙がったものの、京都から女性を迎え入れる前提で話を進めていることから、足利義兼の娘を嫁がせるというアイデアが却下されたとの話も残されている。
さて、征夷大将軍に与えられている権利として、司法権と並んで独自の徴税権を記したが、これについて補足すべきことがある。元久元(一二〇四)年八月二一日に石清水八幡宮の所有する荘園である河内国高井田について、地頭駐在を取りやめて石清水八幡宮の直接経営に戻すとした件である。名目としては河内国高井田そのものが源実朝個人の年貢徴収用所領であるため地頭派遣を不要とするというものであるが、それだけでは何とも不可解と言える。
そこで、征夷大将軍に与えられている独自の徴税権に視線を向けると、一つの答えが見えてくる。
源頼朝が征夷大将軍としての権利を獲得したとき、増税と減税の両方を実現させるという離れ業を見せたことは既に記した。もっとも、理屈だけを捉えれば離れ技ではなくなる。すなわち、征夷大将軍に認められている独自の徴税権を行使すると同時に、律令に明記されていない納税を取りやめさせたのである。各荘園によってこれまでの税率が異なっていたので一概には言えないが、大雑把にまとめると、本来の律令では税率一〇パーセントであったところが最大で税率五〇パーセントにまで増やされていた。これではたまらないと、自分の耕作地を有力貴族や有力寺社の荘園とさせることで税率を三〇パーセントにまで減らそうとしていた。これが早期荘園制であり、この状態で社会が推移していた。
藤原道長の時代は全耕作地のうちせいぜい二パーセントから三パーセントしか荘園になるという恩恵を受けられず、残る大部分の耕作地は荘園とみなされず税率五〇パーセントが課されていたのであるが、藤原頼通の時代になると荘園の割合が増えていき、院政がさらに荘園の割合増加に寄与し、鎌倉幕府成立時には荘園ではない土地を探す方が困難なほどになっていった。荘園ではない土地は、荘園となってしまったために税を払わないで済ませている分の税も課されるため、ますます税率が高まっていく。また、荘園になった方が税を安くできるといっても、荘園領主の絶対数が増えてしまったために荘園に課される税はかつてほどの安さではなくなっている。
どういうことか?
一人の荘園領主が一〇ヶ所の荘園を持っていて、全体で一万石の年貢を計算できるとした場合、単純に割ると一つの荘園について一〇〇〇石の年貢を課すこととなる。ちなみに、その全てが荘園領主の手元に残るわけでなく出ていく金額も大きいが、それでも年間で一万石の収入を計算できる。
この貴族に五人の子がいて、それぞれに二ヶ所ずつの荘園を相続させた場合、子が親と同じだけの年収を得るためには一ヶ所の荘園に対して五〇〇〇石の年貢を課さねばならない。貴族の生活水準の移り変わりを見る限りでは実際にはもう少し安くしていたようであるし、また、五人の子の全員が成人して全員が相続にありつけるというのはこの時代の医療水準で考えづらい話であるが、ここではあくまでも理論上の数字としてこのままでいく。
これを荘園の住人から捉えると、年貢がこれまでの五倍に増えてしまったことを意味する。ただ、五倍に増えたとしてもなお、荘園ではない土地に比べれば税負担は少なくて済むのだ。
時代とともに税負担が増えていったところで迎えた平家政権、源平合戦、そして源頼朝の征夷大将軍就任は社会を一変させた。源平合戦後に源頼朝のもとに守護と地頭を設置する権利が付与されたことで、日本中の全ての土地に対して鎌倉の目が光るようになった。そこに源頼朝の征夷大将軍就任に伴う独自の徴税権が発生したことで、各荘園に身を置くようになった、あるいは代官を派遣するようになった武士達は、源頼朝の求める徴税をすると同時に、律令に書かれていない徴税を、武力でもって取りやめさせるという行動に出た。
大打撃を被ったのは荘園領主だ。これまで自分の土地であるがために徴収することのできた独自の年貢が激減した。入ってくるのは律令で示されている税額相当の年貢のみであり、これでは明らかに足りない。しかし、足りないと文句を言おうものなら、待っているのは鎌倉武士達の武力を伴う反論である。しかも、法は鎌倉武士達の行動を正とし、荘園領主達の行動を否とする。
税を納める庶民の側からすれば負担が激減するのだからありがたいとするしかない。本音を言えば地頭の存在など迷惑でしかないが、それでも、地頭が自分たちのことを守ってくれる側面は否定できない。
荘園領主である貴族や寺社にとって鎌倉幕府は憎い存在とするしかないが、ここでもまた、源頼朝は巧妙な手段をとってきた。源頼朝の個人的な裁量で、荘園に対して地頭を派遣しないという選択肢をとれたのだ。貴族や寺社が一丸となって鎌倉幕府に対抗したならば源頼朝とて平然とはしていられなかったであろう。しかし、源頼朝の個人的な裁量で地頭を派遣せずにこれまで通りの荘園経営を許容するという確約が得られるなら、一丸となって鎌倉幕府に対抗するのではなく、個々に鎌倉幕府との接近を図ろうとし、荘園経営の存続を勝ち取ろうとする。分割して統治せよとは古代ローマの地方統治の鉄則であり、また、インドを植民地としたイギリスのやり口でもあったが、当時はまだその言葉そのものはなくても、概念ならば存在したのだ。源頼朝のやり口とは、相手を団結させることなくバラバラにさせ、被統治者が手を取り合うのではなく統治者たる征夷大将軍に個々に縋るようにさせるのだから、これは巧妙とするしかない。
そしてこの源頼朝の個人的な裁量は源頼朝の死後も続いた。あるいはよりシステマティックになったとも言える。源頼朝個人の裁量ではなく鎌倉幕府としての裁量によって地頭の交代や地頭派遣の取りやめが決まるようになったのだ。このときの石清水八幡宮に対する地頭派遣取りやめの宣言は、石清水八幡宮の側から、石清水八幡宮と鶴岡八幡宮との関連を全面に押し出した上での工作があったのであろう。その結果として、源実朝の個人的な年貢地であるということで石清水八幡宮は地頭不在の特権を得ることに成功したのではないか。
鎌倉幕府の側から見ても宗教勢力に鎌倉幕府の側から楔(くさび)を打ち込むことに成功したと言えよう。
それに、北条時政という人は源義経の後任として京都に赴任し、京都における源頼朝の代理人として職務を果たしてきた実績がある。誰を初代京都守護とするかは様々な説があり、それこそ源義経を初代京都守護とする説すらあるほどであるが、北条時政を初代京都守護とする意見はかなり有力な説だ。京都滞在中の北条時政については貴族達の日記にも記録が残されており、これらの記録を追いかけると北条時政は京都でそれなりの人脈を作り上げることに成功していたことが読み取れる。
一方、視点を京都に移すと、京都においても源実朝との婚姻を利用した人脈構築を考えていた人も複数おり、多くの貴族が自分の姉や妹や娘を源実朝の嫁として差し出そうとしていたことがよみとれる。何しろ今や時代をリードする鎌倉幕府の最高権力者が未だ幼い少年であり、その少年の義父や義兄や義弟となったならば鎌倉幕府の勢力や財力をそのまま自らの権威の形成に利用できるのだから、こんなチャンスはそうそうあるものではない。この時代の貴族達にとって近親者の女性の嫁ぎ先として最上位と考えられていたのは皇室、次いで、院。その次に藤原摂関家が来て、その他の藤原氏、藤原以外の有力貴族というのがこれまでの序列であったが、ここに鎌倉幕府という新しい存在が食い込んできた。厳密に言うと藤原以外の有力貴族の中から鎌倉幕府が頭一つ抜け出したようなところか。鎌倉幕府は、藤原摂関家と同格とまでは行かなくとも、源頼朝や源頼家の例を考えると、源実朝も上級貴族として申し分ない地位を獲得することがほぼ確実である上、鎌倉幕府の持つ財力も魅力がある。時代とともに貴族達の暮らしがだんだんと貧しくなってきていたところに、源頼朝の手によって荘園領主としての収入が危機を迎えるようになったのだから、莫大な資産を持つ鎌倉幕府の財力が期待できるのはありがたい話であるし、さらには自身の持つ荘園領主としての権威回復も不可能ではなくなる。
数多くの貴族が源実朝の正妻に自分の近親者の女性を嫁に差し出そうとする中、その地位を獲得することに成功したのは、坊門信清こと藤原信清であった。坊門信清は長寛元(一一六三)年から四〇年近くに亘って朝廷内の官職を歴任し続けながら権大納言までしか進めないでいたのは、坊門信清が藤原氏の一員ではあっても藤原摂関家ではなかったことも理由にあるが、九条兼実がこの人のことを全く評価していなかったことも理由に挙げられる。確かにこの人物の経歴を追いかけると、一つを除いて凡庸とするしかない。
しかし、ただ一つの例外が坊門信清の人生を一変させた。木曽義仲の手に落ちて混迷を極めていた京都にあって、坊門信清は徹底的に後鳥羽天皇を守り続けたのである。何しろ坊門信清の姉が後鳥羽天皇の実母であり、坊門信清は叔父として幼い後鳥羽天皇を守り続けたのである。坊門信清にとっては人生一発逆転のチャンスを狙っての奮闘であったかもしれないが、純粋に甥を守る思いもあったのだ。そして、その守る姿勢は成功した。後鳥羽天皇は命の安全を確保でき、その後も坊門信清は後鳥羽天皇の信頼を獲得して、後鳥羽天皇が元服を迎えたのちも、後鳥羽天皇が退位して後鳥羽院となったのちも、坊門信清は有力な側近の一人であり続けたのである。
その坊門信清の娘の一人に源実朝と同年生まれの女児がいた。坊門信清は、源実朝と同年齢であり、かつ、後鳥羽上皇の従妹である自分の娘を源実朝のもとに嫁がせることに成功したのである。
後鳥羽上皇にとってもこれは悪い話ではない。いかに隆盛極める勢力になっているとはいえ、成立からたかだか一〇年程度しか経っていない新興勢力である鎌倉幕府相手には皇族の女性を嫁がせるなどできない。皇族の女性の嫁ぎ先は、皇族か、それがダメなら妥協して藤原摂関家である。ちなみにこうした感情は藤原摂関家も同じであり、嫁ぎ先が皇族相手ならば問題なし、それがダメなら同じ藤原摂関家の内部で婚姻相手を見つけるというのがこの時代のコンセンサスであり、鎌倉幕府のもとに嫁がせるなどありえない。
一方で、一人の人間としてのこの頃の後鳥羽上皇を考えると、重要な出来事がこの頃に起こっていることを無視できない。後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女性の一人である更衣の尾張局(おわりのつぼね)が元久元(一二〇四)年七月に皇子朝仁を産むと同時に体調を崩していたのである。いかに乳幼児死亡率が、そして、出産時死亡率が高い時代であるとはいえ、我が子や最愛の人の命の危機を仕方ないこととして済ませてよい親などいない。
後鳥羽上皇のこの頃の苦悩は後鳥羽上皇の残した和歌からも読み取れる。そうした苦悩の渦中に繁忙を課すのは繁忙の渦中に限り苦悩を忘却させる効果を持つ一方、繁忙を一瞬でも消化すると苦悩をさらに悪化させることともなってしまうのだ。そうした苦悩のうちの一つが源実朝の婚姻問題だ。問題とならざるを得ないことであるとは頭の中では理解していても、問題として提起させること自体が苦悩を悪化させる一因となる。ゆえに、源実朝の婚姻問題は、誰もが文句を言えない形で解決させる必要がある。それに、解決方法次第では鎌倉幕府をそのまま御鳥羽院の権力構造に組み込むことも夢ではなくなる。
後鳥羽上皇が何らかの形で鎌倉幕府との関係を構築しようというとき、他の貴族と同様に自分の近親者を源実朝の妻として差し出すのは現実的に選びうる選択肢である。前述のように皇族の女性を源実朝に差し出すなどということは許されないが、坊門信清の娘であるならば皇族の女性ではなく藤原氏の女性であるため、後鳥羽上皇としては何ら問題ないこととなる。
また、坊門信清は藤原北家の人間ではあっても藤原摂関家ではないため、大臣位はどうにかなっても摂政関白に就く可能性はゼロに近い。しかし、四〇年近くに亘って朝廷中枢の一翼を担い続けてきた藤原氏の一人であることに違いはなく、後鳥羽院と鎌倉幕府との関係構築を考えたとき、後鳥羽院が送り出せるかなりの有力解となる。
ちなみに、坊門信清の娘の名は伝わっていない。後の歴史資料でも彼女のことを記す際には出家後の通称である西八条禅尼(にしはちじょうぜんに)と記している。これで不自由なかったのかと疑念に思う人も多いであろうが、結論から記すと不便ではあってもどうにかなった。
どういうことか?
源実朝に嫁ぐ前は坊門信清の娘、嫁いだ後は源実朝の妻であることを示す「御台所」で彼女のことが特定できるのである。先に記した西八条禅尼は出家後の通称であり、彼女は出家後にはじめて、自らの個を示す対外的な名を得たこととなる。
間違いなく源実朝は彼女の本名を知っていたはずであるし、プライベートで二人きりになっている場では彼女の本名を呼んだこともあるだろう。だが、オフィシャルな場で本名を呼ぶことはありえない話であるというのがこの時代の常識であり、ゆえに本名が現在まで残されていないのである。
そもそもこの時代、女性の名に関する記録自体が残されていないことが多く、この時代の著名な女性である北条政子という名ですら本名でなかった。もっとも北条政子という名が全く根拠のない名というわけではなく、朝廷が彼女に対して正式な官職を付与するときに彼女の実父の名から一文字を採用して「政子」と名付けた上で位を授けたことの記録が残っているため、彼女の名前を政子とすることが完全な間違いというわけではない。ただ、北条政子のように何かしらの名が残っているのはむしろ例外で、坊門信清の娘のように本名が伝わっていない女性の方がこの時代のマジョリティである。
吾妻鏡の記録を見ても、元久元(一二〇四)年一〇月一四日、鎌倉幕府として坊門信清の娘を源実朝の妻として歓迎することを公式に表明したことが残っているが、彼女の名前は記録されていない。
なお、この日、鎌倉幕府は彼女を京都から鎌倉に迎えるための使者として、北条時政、北条政範、結城朝光、千葉常秀、畠山重保、八田知尚、和田宗実、土肥惟光、葛西十郎、佐原経連、多々良四郎、長井時秀、宇佐美助茂、佐々木盛季、南条平次、安西四郎らを京都に派遣したことの記録が残っている。吾妻鏡では北条時政を使者の中に含めてはおらず北条政範を使者達の先頭に記しているが、京都の貴族の日記によると北条時政も上洛したことが確認できるので、ここには吾妻鏡編纂者の何かしらの意図があったとすべきであろう。
どういう意図か?
このときの使者の先頭に名が記されている北条政範は北条時政が後妻である牧の方との間にもうけた子のうちのただ一人の男児であり、このとき一六歳の若さであった。そして、北条時政はこの頃になると北条家の家督相続を北条義時ではなく北条政範にしようと画策していたとの説もあり、北条時政は息子の北条政範をこの時点で京都に駐在させることで、北条時政の文人官僚としての実績を北条政範に継承させようとしていたのではないかとの説もあるのだ。実際、北条政範は一六歳にして従五位下左馬権助という位階と官職を獲得している。無位無官の武士も珍しくない鎌倉幕府の御家人達にあって、最下位とはいえ貴族の一員としての位階と、重職ではないとはいえ朝廷の官職の双方を獲得しているのはかなりのレアケースであり、自身も遠江守でもある北条時政にとって、朝廷に仕える貴族としての自身の後継者として北条政範を指名してもおかしくない。
その上で、このことを吾妻鏡編纂時点の北条家の立場から捉えるとどうなるかを考えると、吾妻鏡の記録からあえて北条時政の名を外したことの思いが見えてくる。それは、この後の出来事も無関係ではない。何度も記してきたように、吾妻鏡は同時代資料でなく、北条家が権力を握ってから編纂された鎌倉幕府の正史である。吾妻鏡の編纂者は、この後の出来事のことを当然ながら知っている。
それではいったい、どういう出来事があったのか?
北条時政自身も上洛して坊門信清の娘を迎えに行ったわけであるが、この途中で北条時政自身にも想像できなかった出来事が二つ起こってしまったのだ。
一つは、後鳥羽上皇の寵愛していた尾張局(おわりのつぼね)が一〇月一九日に亡くなってしまい、後鳥羽上皇が水無瀬殿に籠るようになってしまったこと。もっとも、こちらは想像もできなかったとはいえ、理解はできる話である。尾張局(おわりのつぼね)の容態が危ういことは話として伝わっていたが、徐々に回復してきているとの話も伝わっていた。北条時政にしてみれば上京した自分達は後鳥羽上皇に問題なく謁見できるであろうと想定していたのである。それが、寵愛する女性を亡くして後鳥羽上皇が引きこもるようになったのは想定外であった。なお、身内の不幸のために籠ること自体はこの時代の通例であり、北条時政は予定を大きく変えなければならなくなったとはいえ、理解できる話となる。
なお、同月に比叡山延暦寺の衆徒が天台座主真性に対して専修念仏の禁止を要求していること、これに対して法然から延暦寺に対して弟子らとともに署名した怠状を送付していること、そして、後鳥羽上皇の近臣の者に法然に帰依する者が増えてきていることの記録も存在する。この時点での後鳥羽上皇自身は不明であるが、後鳥羽上皇の周囲に法然の唱える専修念物が広まっていることが読み取れる。裏を返すと、弱まっている後鳥羽上皇とその周囲の人達のもとに新興宗教が入り込んでいるとも言え、この状況は既存宗教にとってだけでなく、宗教そのものに関心の薄い人からすれば驚異とするしかないが、このあたりのことは元久元(一二〇四)年時点ではまだ社会問題として広く認知されるまでには至っていない。実際、このときに法然が延暦寺に送った怠状は一九〇名の署名が記された反省文のようなものであり、さらに法然は自分の弟子の中でも過激な動きを見せていた法本房行空を破門している。多くの人はこれで法然の動きは鎮静化したと考えたようである。
だが、もう一つの出来事となると、理解とか、想定とか、そのような範疇で片付けることのできる話ではなくなる。
一行が鎌倉を出発したのは元久元(一二〇四)年一〇月一四日、京都に到着したのは一一月三日である。そして、一行が京都に到着してから二日後の一一月五日、北条政範が亡くなってしまったのだ。上洛の途中で病気となり、無理して上洛を果たしたものの京都の地で帰らぬ人になってしまったのだ。
北条政範の死については吾妻鏡の記載に従った結果しか記せない。北条政範が京都の地で一一月五日に亡くなったことは事実であり、鎌倉幕府のもとに北条政範の死の知らせが到着したのが一一月一三日であるから、この時代の情報連絡網を考えると妥当である。
しかし、どうにもタイミングが良すぎる。人の死を良いタイミングと現すのは無礼で下品なことと自覚しているが、それでもあえて記すと、北条家の家督争いだけを考えれば北条義時にとって最良の結果であり、北条家にとっても最良の結果なのだ。
異母弟である北条政範の存在を、北条義時も北条政子も当然知っている。彼が一六歳にして貴族の一員に列せられ、父の北条時政の文人官僚としての業績を継承するのに一歩リードしていることも知っている。北条義時は鎌倉幕府の有力者であり、北条政子は将軍の実母であるが、朝廷との関係という観点から眺めると、源実朝こそ有力勢力のトップであることは認められるものの理論上は数多くの貴族のうちの一人でしかないという前提がある。その前提の上で考えると、北条時政は源実朝の祖父でもある文人官僚と扱われるからまだいいものの、北条政子は源実朝の実母である無位無官の女性、北条義時は従五位下相模守であるから朝廷官職の一員にカウントできる身になってはいるが、それとて就任からようやく半年を迎えようかという話であるだけでなく、このときの北条義時はもう四〇歳を過ぎている。つまり、北条政子や北条義時は父と違って、朝廷との関係があまりにも薄いのだ。一応は北条義時も朝廷の官位官職を有しているものの、朝廷基準で考えると北条政範と北条義時はせいぜい同格とするしかない。
現実問題、四〇歳を過ぎた者が一六歳の若者と同格というのを是として受け入れることは少ない。しかも、北条義時が相模守に就いたのは平家残党が暴れているという緊急時への対応として源実朝の叔父に対して権限を付与したという特例であるから、朝廷との関係を念頭に置いて北条義時が北条政範のことをどう思うかを考えると、このときに北条政範が命を落としたというのは北条義時にとっては最良の結果となるのだ。
鎌倉幕府にとって最上の結果であるかどうかは別問題であるが。
先に記した通り、北条政範の死の知らせが鎌倉に届いたのは元久元(一二〇四)年一一月一三日のことである。このときの知らせは北条政範が京都で亡くなったことの知らせのみであり、どのようにして亡くなったのか、どのように葬られたのかの知らせが届いたのは一一月二〇日になってからである。初七日法要を京都で済ませ、それから鎌倉まで伝令を派遣したと考えれば妥当なところであろう。また、この伝令は北条政範が東山の鳥辺野に葬られたことも伝えており、京都の地で亡くなった北条政範に対する葬礼としては何ら不都合なことはない。と同時に、北条時政がこのときの上洛の集団に同行していたことも読み取れる。北条時政が京都にいたからこそ、実父の手で京都の地に葬ることができたのであり、仮に北条時政が鎌倉にいたならば北条政範の葬礼もここまでスムーズに行かなかったはずである。
ここまではいい。
問題はこのときの伝令が伝えたもう一つの情報である。
北条政範が亡くなる前日である一一月四日、平賀朝雅の屋敷の存在した六角東洞院において開催されていた宴会で、その最中に屋敷主の平賀朝雅と畠山重保とが口論になったというのである。畠山重保は畠山重忠の息子であり、生年は不明であるが、父の畠山重忠が長寛二(一一六四)年生まれの四一歳であること、畠山重保のことが畠山六郎と記されることもあること、兄の畠山重秀がこの時点で二二歳であることから、この時点の畠山重保はどんなに上に見ても二〇代が限度、実際にはまだ一〇代の若者であったろう。一方の平賀朝雅は寿永元(一一八二)年生まれであるからこのときは二〇代前半の若者である。つまり、鎌倉幕府に属する二人の若者が京都で口論となったのだ。
具体的にどのような口論があったのかは記録に残っていないが、現時点で確認できる範囲で記すと、武蔵守平賀朝雅が京都に向かったことで、それまで平賀朝雅が武蔵国で行使していた国司としての職務を北条時政が掌握し、北条時政と、武蔵国を本拠地とする畠山重忠との対立が鮮明化したとある。北条時政にしてみれば娘婿の職務を義父として代行しただけとなるが、畠山重忠にしてみれば自分の勢力圏内と認識している武蔵国に北条時政が手を出してきたことになる。お世辞にも愉快なこととはいえない。このために北条時政と畠山重忠との関係は悪化していることは周知の事実となっており、その話は鎌倉だけでなく京都にも届いていた。何しろ、この年の初頭の藤原定家の日記にも、北条時政と畠山重忠とが争いとなり、北条時政が敗れて山中に身を潜め、中原広元もその争いに巻き込まれて命を落としたという噂が京都に広まったことが記されているのだ。遠い鎌倉での、それも鎌倉幕府の御家人と御家人との間で争いが起こったという噂が広まったのだから、この対立構造はかなり広く知れ渡っていたのであろう。
ここでの口論は北条時政と畠山重忠ではなく、北条時政の娘婿の平賀朝雅と、畠山重忠の息子の畠山重保との間の口論だ。当人でないとはいえ、これでは代理戦争のようなものである。
北条政範が亡くなったという衝撃的な知らせがあったものの、源実朝の妻となる女性を京都から招くことは成功した。源実朝の妻となる女性は後鳥羽上皇とは母系で従妹の関係にある藤原氏の女性であるから、この時代の鎌倉幕府としてはこれ以上ない最高の女性であったろう。
元久元(一二〇四)年一二月一〇日、源実朝の生涯の伴侶となる御台所が鎌倉に到着し、周囲からはママゴトのような情景に見えたにしても、婚姻生活が事実上スタートした。
既に述べたように、彼女の名前は吾妻鏡に残されていない。吾妻鏡における彼女の記載は、御台所、すなわち、源実朝の妻。彼女は坊門信清の娘で後鳥羽上皇の従妹であることはわかっていても、それでも吾妻鏡の中での彼女は「源実朝の妻」としか記されない。それがこの時代である。
なお、吾妻鏡の一二月二二日の記録として、御台所に仕え京都から鎌倉へやってきた男女数名が、将軍源実朝の名で地頭職を拝命している。鎌倉幕府として付与することのできる最上級の褒賞である。それにしてもこの時代の女性に対する扱いというのは、名前を記録に残すことは無いのに、地頭職という実利を伴う権利を付与することは特に何ら問題ないというのだから、男女平等とは程遠いとはいえ、現在の我々が想像しているよりはまだマシというレベルであるにせよ、女性への権利はそれなりに認められていたことは注意すべきであろう。
そしてもう一つ注意すべき点がある。このときの地頭拝命の発給は従来のように政所から書状を発給するのではなく、将軍の名で発給していることである。これは何も特別扱いの結果ではない。この時点の鎌倉幕府は、一時的であるとはいえ、政所がなかったのだ。
教科書などでは鎌倉幕府の組織図の中として政所を記載するものが多いが、政所とは本来ならば三位以上の貴族のみが保持することの許される家政機構であり、四位以下の貴族では政所ではなく公文所でなければならない。この時点の源実朝の位階はそこまで高くないため、源頼家の死と同時に鎌倉幕府の組織として政所が存在することは許されなくなり、多少のタイムラグは許容できても、基本的には公文所と改称するしかなかったのである。
年が明けた元久二(一二〇五)年一月五日、土御門天皇の元服に合わせて源実朝が正五位下に昇叙し、同二九日の除目で加賀介兼右近衛権中将を拝命したとはいえ、これぐらいの位階や役職では政所を保持することなど許されない。しかし、鎌倉幕府は既に政所を必須とする組織となっていたため、この頃の鎌倉幕府は、政所の機構はそのままに、組織名称だけを公文所にスケールダウンさせていたと推測される。政所に勤める武士や文人官僚は源頼家の頃と変わらぬ職務をこなしていたはずであるし、おそらくは給与についても何ら変化なかったであろう。しかし、幕府発給の書状についても、政所としての発給が許された源頼朝や源頼家と違って、将軍としての発給である。
このあたりは鎌倉幕府も問題だと考え、また、後鳥羽上皇も気掛かりになっていたらしく、源実朝に対する相応の位階と役職を求めていたことが記録からわかる。しかし、いかに後鳥羽上皇の従妹の夫であるとはいえ、この時点の源実朝は現在の学齢でいくと小学六年生の男児だ。藤原摂関家の男児でもない民間人が正五位下加賀介兼右近衛権中将であるというのはかなりの高待遇であり、それ以上は後鳥羽上皇の権威を以てしても授けることなど不可能である。
さて、このタイミングで記さなければならないことがある。
一つは既に述べた土御門天皇の元服、もう一つは新古今和歌集である。
まずは前者について記すと動きは前年から見えていた。
摂政左大臣九条良経が元久元(一二〇四)年一一月一六日にいったん左大臣を辞任したのち、一二月一四日に太政大臣に就任したのである。
建久六(一一九五)年生まれの土御門天皇はまだ一〇歳にもなっていない。この時点の年齢表記方式である数え年だとしても、ようやく一一歳、年明けで一二歳。この年齢での元服は普通であればありえないが、例外がないわけでもない。早めに元服させる代わりに、通例であれば天皇が元服すると同時に摂政を務めていた人物が関白となるが、しばらくは摂政であり続けさせて、名実ともに元服を迎える年齢になってようやく摂政から関白に移すという方法がある。このときの九条良経もこの方式の適用が決まった。九条良経は土御門天皇の摂政であると同時に何かと暴走しがちな後鳥羽上皇の最後のブレーキ役を担っていた。左大臣として議政官を制御することで、立法権を駆使できるようにしていたのである。
その人物が太政大臣に就任したのは、一にも二にも土御門天皇の元服のためである。皇族の元服の儀は天皇が加冠することとなっている。幼い土御門天皇も他の皇族の加冠役を務めている。だが、それだと土御門天皇自身の元服については加冠役がいないこととなる。かと言って、自分で自分の加冠役を務めることはできない。誰かが加冠役を務めねばならないのである。
では、誰が務めるのか? 実父である後鳥羽上皇か?
違う。
天皇の加冠役は太政大臣が務めるのだ。
九条良経は正治元(一一九九)年から五年間に亘って議政官のトップである左大臣を務めてきた。つまり、立法府の貴族の中での第一人者を務めてきた。建仁二(一二〇二)年からは摂政も兼任してきたから、法制上の貴族のトップでもある。誰かを太政大臣にしなければならないというとき、摂政左大臣九条良経は最上の存在となる。
元来、人臣の太政大臣は天皇の母系の祖父が務めることになっていた。貴族としての力量や勢力ではなく、天皇との血縁関係に由来していたのである。もっとも、多くの場合、天皇との血縁の濃さと貴族としての勢力の強さとは比例する。ゆえに、血縁で選ぶか、権勢で選ぶかのどちらを基準にしても、同一人物が太政大臣に就くこととなることが多かった。
ただ、時代は変貌していた。特に藤原家の中心が近衛家と九条家とに分裂しているという時代の事情があった。九条良経が太政大臣に就任する前、他の者が太政大臣に就任していたのである。藤原頼実である。
藤原頼実は九条家でも近衛家でもなく大炊御門家であり、当初は後白河院、後に後鳥羽院の権勢を背景に出世を重ねて太政大臣になった、いや、太政大臣にさせられた人物である。キャリアを追いかけていくと、建久七年の政変でいったん右大臣になった後、わずか半年で太政大臣に昇格していることがわかる。藤原頼実が左大臣を経由せずに太政大臣に就任したのには理由がある。
貴族の官職に降格はないのだ。強いて挙げれば昌泰四(九〇一)年一月二五日に菅原道真が右大臣から大宰権帥(だざいごんのそち)になり太宰府に向かったという例があるが、あれは当時の対朝鮮半島情勢を踏まえての例外措置であり、また、大宰権帥は対外関係の都合もあって大臣経験者が就くことは珍しくなく、その場合は現地で大臣相当の権威と権力、そして、給与が保障されている。そもそもちなみに、理論上の太宰府のトップは大宰帥(だざいのそち)であるが、大宰帥は原則として皇族しか就くことができないため、太宰府のトップとして大臣が大臣相当の権力を振るう場面となると大宰権帥ということとなる。
話を元に戻すと、一度でも太政大臣に就任したら、太政大臣であり続けるか、太政大臣を辞任するかのどちらかしかない。摂政や関白を兼任しているのであれば摂政や関白の専任となるという方法があるが、摂政でも関白でもない太政大臣藤原頼実は、太政大臣を辞めたら無官の貴族ということになる。そして、太政大臣は議政官に参加できない。議政官で採択された法案に対する拒否権はあるが、議政官での裁決そのものに加わることはできないのだ。こうなると、権力の中枢から排除したい人物を敢えて太政大臣に昇格させることで、一見すると問題ないような形で排除することができる。九条兼実は藤原頼実のことを無能力者として酷評しており、厄介払いとして藤原頼実を排除したとも言えるのだ。
当然ながら藤原頼実は太政大臣拝命に激怒し政務ボイコットまで選んだ。それでも後鳥羽上皇に接近することで院の権勢を利用した形で政治に介入するようになるが、ここで土御門天皇の元服という問題が出てきた。太政大臣を加冠役とするのであるから藤原頼実にそのまま加冠役を務めさせることも選べたのだが、土御門天皇との血縁関係という問題があった。土御門天皇の実母ではないが、後鳥羽天皇の中宮は九条兼実の娘である。つまり、土御門天皇は九条良経の甥であると言えなくもない血縁関係である。血縁関係による太政大臣を選ぶとなると、藤原頼実ではなく九条良経ということになるのである。藤原頼実は不満を隠せなかったが太政大臣を辞任させられ、空席となった太政大臣に九条良経が就任するという構図が成立したのである。
もう一つの新古今和歌集についてであるが、藤原定家らを撰者として新古今和歌集の編纂が始まったのは建仁元(一二〇一)年七月のことであり、それから三年八ヶ月の歳月を経た元久二(一二〇五)年三月二六日、とりあえずの完成を迎えたのだ。
とりあえずと記したのは、その後も編集が進んでいたからである。
新古今和歌集の編集の時期をまとめると、元久元(一二〇四)年の終わりまでに収録すべき和歌が集まり、それからグループ分けと和歌の掲載順が検討され、元久二(一二〇五)年三月二六日に新古今和歌集が完成したという扱いとなり、完成記念式典である竟宴(きょうえん)が後鳥羽院の御所で開催されたのである。ただし、この段階ではまだ仮名序が完成しておらず、藤原定家はこのときの竟宴(きょうえん)について、未完成なのに完成と称して竟宴(きょうえん)を開催するなど前代未聞のことであると日記に書き記している。なお、藤原定家の日記に悪口雑言がちりばめられているのはこのときに限った話ではなく、この時代を研究しようとする者が史料として藤原定家の日記を手にするときはもれなく、藤原定家の記載の前に藤原定家の暴言を相手にしなければならない宿命を持っている。
それに、藤原定家が新古今和歌集に対してこれから何をしたのかの記録を追いかけると、竟宴に対する悪口雑言をぶちまけたところで、顰蹙ではなく同情を得ることになるだろうと確信できる。何しろ、人生を掛けた仕事をしているのを途中で止められ、それで完成だと囃し立てられ、いざ実物を見てみたらまだ完成していないではないかと文句を言われ、経緯を追いかけると後鳥羽院の強引さに辿り着き、完成したはずの新古今和歌集の編纂の続きをこれからも進めていかねばならないのである。
後鳥羽上皇の思いも理解できなくもない。前年一〇月に寵愛する尾張局(おわりのつぼね)を亡くして水無瀬殿に籠ったばかりである。その後鳥羽上皇が、自らの責任感のみを支えとして政務に復帰し、その一環として新古今和歌集に取り組んだ。一人の人間の思いを汲み取れば、尾張局の死の悲しみから乗り越えるための竟宴(きょうえん)でもあったと言えるのだ。藤原定家にとっても全く理解できない話なわけではない。
ただ、それとは逆に後鳥羽上皇が藤原定家をどう扱っていたかという問題もある。
藤原定家のこの後のキャリアを追いかけると、任官希望が無視され続けてきたことがわかる。新古今和歌集の編纂は後鳥羽上皇の命じた仕事であり、事実上の国家的事業ではあっても理論上は後鳥羽上皇の私的な業務依頼である。後鳥羽院に仕える院司としての仕事をしているため対外的な体裁はつくが、朝廷官職という貴族にとっての最重要事項については後回しにされているのだ。せめて後鳥羽上皇から新古今和歌集完成を評価しての中央政界の任官推薦があったなら救いがあるが、そうした推薦は全く無い。新古今和歌集の完成を認めずに和歌集の編纂を続けているというのがこのときの藤原定家に対する公的な見解なのだ。
なお、どれだけ追いかけてもなかなか出てこない記録がある。それは、藤原定家が新古今和歌集の編纂の仕事をすることでどれだけの報酬を得ていたのかという記録である。おそらくは、藤原定家自身の持つ荘園からの年貢が主たる収入源であり、後鳥羽院の院司を務めることで得る報奨を加えた結果が藤原定家の年収であったろう。その収入は断じて貧困とはいえない規模であったろうが、藤原定家を満足させるに十分とは言い切れない規模でもあったはずである。これは物欲ではなくプライドの問題である。
このときの後鳥羽上皇は、さらなる上積みを求めている藤原定家の期待に応えることなく放置していたわけである。
源実朝が正五位下に昇叙し右近衛権中将を拝命したことで、源実朝は源頼朝や源頼家と同じ道を歩むと誰もが考え、源頼家が亡くなったことで動揺を迎えたかのように見えた鎌倉幕府も安定を取り戻してきたと誰もが考えるようになっていた。
ところが、元久二(一二〇五)年四月を迎えると、徐々に暗雲が立ちこめてくるのである。吾妻鏡の記載によると四月一一日のこととして、鎌倉近隣の諸国で鎌倉に対抗する武装勢力が形成されつつあるという噂が広まったのである。
どういった武装勢力か?
畠山重忠を中心とする武装勢力である。
本当に武装勢力を結集させているのかはわからない。
前年一一月に京都において、畠山重忠の息子である畠山重保が平賀朝雅と口論になったことは既に記した通りであり、元久二(一二〇五)年一月に千葉成胤のとりなしによって和解したという記録もあるが、本質的には対立が継続していたと考えられる。その対立の末に、畠山重忠と北条時政との衝突が起こるのではないかという噂が広まったのである。
検非違使を務めていた大岡時親がそれまでの功績を評価され備前守に任命されたのも、その噂を拡散するのに役立った。大岡時親は北条時政の後妻である牧ノ方の実兄であり、鎌倉幕府の御家人であると同時に朝廷の官職も有する数少ない人物の一人である。ちなみに、大岡時親の本名は藤原時親であり、藤原氏である。ただし、藤原氏ではあっても中央政界に名を連ねる家柄というわけではなく駿河国駿河郡大岡牧を根拠地とする武士団である駿河牧氏の一員であり、駿河牧氏は元々平家に仕える武士団であった。つまり、鎌倉幕府の御家人になりようのない代わりに平家政権下で中央政界とのパイプを築くこと自体は不可能ではないという家であった。実際、さほど高い地位であるとは言えないものの検非違使をはじめとする役職に就く者もいた。そのような家に生まれたのが大岡時親であり、大岡時親の妹の牧ノ方なのであるが、仕えていたのが平家の中でも平頼盛であったことが幸いした。平家都落ちの際に都落ちに同調せず、あるいは平宗盛に見捨てられる形で鎌倉方に身を寄せることを選んだのが平頼盛であり、その平頼盛に仕えていた武士団の一員であれば鎌倉幕府の御家人に加わることも不可能ではなくなる。北条時政が源義経に代わって京都における鎌倉の代理人として赴任した際、北条時政自身が大番役として京都で職務に就いていた経験に加え、後妻の実兄が京都での官職を持つ人物であることも職務遂行をスムーズにさせる要素の一つとなっていたと言える。
実のところ、このときの吾妻鏡の記載は、誰が武装勢力を結成させているのかを明言してはいない。北条時政の後妻の兄である大岡時親が国司に就任したのも、鎌倉幕府の御家人としてではなく、検非違使としてのそれまでの功績を考えると特におかしなこととは言えない。しかし、吾妻鏡を読んだ人は誰もが畠山重忠が武装勢力を結集させているのだと感じ取れる。四月一一日の吾妻鏡の記事は、北条時政が、畠山重忠とは従兄弟同士の関係にあると同時に北条時政の婿の一人でもある稲毛重成を、稲毛重成の所領である武蔵国から鎌倉に呼び寄せたことで終わっている。稲毛重成は建久六(一一九五)年六月に妻を亡くし、その哀しみから七月に出家していたため、このときの稲毛重成は僧体である。ちなみに、建久九(一一九八)年に源頼朝が落馬して意識不明の重体となったのは、稲毛重成が亡き妻を弔うために相模川に架けた橋の落成供養に参列した帰りのことであり、その後、稲毛重成は所領である武蔵国稲毛庄、現在の川崎市高津区から中原区に掛けての地域に身を潜めるように暮らしていた。
その稲毛重成が呼び寄せられた。
鎌倉幕府の御家人達は、鎌倉に住まいを構えていても、それはあくまでも鎌倉での住まいであって自宅ではない。御家人達の自宅は自分達の根拠地に構えている館であり、鎌倉を離れて自分の根拠地に滞在していてもおかしくない。ただし、何かあればただちに鎌倉までたどり着けるよう、鎌倉との情報のやりとりを欠かさないでいる。つまり、鎌倉に御家人達が結集しているというのは鎌倉で一大事が起ころうとしているという情報が広まっていることの証明のようなものであり、吾妻鏡の記載は先に噂があって後で稲毛重成を呼び寄せたことで終わっているが、時系列から考えると逆で、稲毛重成が呼び寄せられたという知らせが先にあり、その知らせに呼応する形で御家人達が鎌倉に参集したというところであろう。
なお、この時点で畠山重忠がどのような動きを見せたのかを伝える記録はない。
幕府としても、畠山重忠と北条時政との対立は把握していても、それが実際に暴発するとは想定していなかったと言える。噂を聞きつけて御家人達が鎌倉に集結しても、目立った動きを見せた者は誰もおらず、幕府は五月三日に、参集した御家人達に各々の所領に戻るよう指令を出している。四月一一日から五月三日までのおよそ二〇日間に何があったのかを伝える記録は無い。噂の発生した翌日である四月一二日に源実朝が和歌を詠んだ記録が残っているだけである。
五月のその後の記録も、六月初頭の記録も特にこれといったことはなく、鎌倉幕府は通常の政務に専念していたことの様子が記録に残されているだけである。
しかし、六月二〇日に事態が動き出す。この日、稲毛重成が畠山重保を呼び出したのだ。畠山重忠ではなく畠山重忠の息子が呼び出されたわけであるが、前年の口論の当事者の一人でもある。なお、呼び出した理由について吾妻鏡は何も記していない。同日、鶴岡八幡宮で臨時の祭礼があったことからその関連で呼び出した可能性は否定しない。呼び出される側からしても、鶴岡八幡宮の祭礼のためだと言われれば受容できる話である。
ただし、その翌日に何があったかを考えると、陰謀のスタートだとするしかないのだ。
では、元久二(一二〇五)年六月二一日に何があったのか?
吾妻鏡の伝えるところによると、北条時政の正妻である牧ノ方のもとに平賀朝雅から讒訴が届いたとある。その讒訴の内容は、吾妻鏡の記述に従うと、前年一一月の口論は口論ではなく、畠山重保から平賀朝雅への悪口であったしている。口論ではなく一方的な誹謗中傷を受けたというのが訴えの内容だ。
現在のマスメディアにおいては、多少なりとも権力を握る立場になったならば悪口を受けなければならないものという扱いになっているのか、政権に対する批判は好きなだけしてもいい一方、政権を批判する面々に対する批判は絶対にしてはならないということになっている。しかし、この時代は、権力の有無に関係なく、陰で言われるだけならまだしも表立って言われるのは到底許容できる話ではないということになっていたし、そのまま黙って耐えているのは寛容の精神ではなく人として失格となる振る舞いということになってもいた。さらに言えば、悪口に対してどのように報復するかは当人の自由裁量なところもあり、世情を揺るがす騒動であったとしても、その騒動の原因が自らの名誉を取り戻すためであるならば許容されることもあった。必ずしも許容されるとは限らないが、放置しておくよりはまだ受け入れられる、そんな時代であった。
牧ノ方から北条時政の元に話が行き、北条時政から北条義時と北条時房の両名に話が行き渡った。前年のこともあり、ここで畠山重保とその父親である畠山重忠を処罰しようというのがそのときの言葉だ。
ただし、北条義時も、北条時房も、北条時政のこの言葉に反対した。畠山重忠は治承四(一一八〇)年に鎌倉方に加わって以来、一貫して源頼朝、源頼家、そして源実朝に忠誠を誓い、戦闘において功績を残し、平家との戦いでも、奥州藤原氏との戦いでも、鎌倉方の一員として活躍を見せ続けてきた人物である。また、二年前の比企能員の変では北条家と協力して比企一族と立ち向かい、戦勝に尽力した人物でもある。ここでどうして畠山重忠を誅せねばならないのかというのがこの二人の主張であった。
この回答を受けて北条時政は二人の前から立ち去ることとなったが、回答を受け入れられないのが牧ノ方であった。彼女は、実兄で備前守でもある大岡時親を使節として北条義時のもとに派遣し、既に畠山重忠の謀叛が発覚しているのに鎮圧に向かわないのは牧ノ方が実母ではなく継母だからなのかという迫り、牧ノ方の言葉を受けて北条義時はやむなく立ち上がったというのが吾妻鏡での記述だ。
六月二一日についての記述は以上の通りであるが、北条家が畠山家を撃とうとしているという知らせが北条家の内部に留まるはずがない。ただ、このあたりは悪辣さとすべきであるが、外部に漏らした情報は謀叛計画ありという情報だけで、誰の手による謀叛計画なのかを明らかにしなかったのである。もしかしたら畠山重忠とその息子のことかと感づいた御家人もいたかもしれないが、多くの御家人は誰が謀叛を先導しているのかを知ることもなく、鎌倉幕府の一員として軍勢を率いて出陣したのだ。ただでさえ二ヶ月前には武装蜂起の恐れがあるとして鎌倉が大騒ぎになったばかりである。鎌倉の御家人達は、いつ、どこで、何があってもおかしくないという考えのもとで待機し続けていたところに、謀叛の知らせが飛び込んできたのだ。六月二二日の寅刻というから現在の時制に直すと午前四時頃、そろそろ太陽が昇ってこようかという頃にはもう、軍勢が由比ヶ浜に向かって殺到していた。
注意すべきは、先にも述べたように、誰の手による謀叛計画なのか、この時点では判明していなかったことである。
畠山父子の謀叛計画であると御家人達が知ったのは、謀反人を討伐しようとした軍勢の中にいた畠山重保を三浦義村率いる軍勢が取り囲んだときである。このとき、畠山重保は従者三名だけを率いて由比ヶ浜に参集していたから多勢に無勢である。抵抗するものの畠山重保は三浦義村に討ち取られ、ここに畠山重忠の謀叛計画が公表され、畠山重忠を討伐せよとの意思統一が成立したのである。
既に畠山重保を殺害したことから、もう後戻りはできなくなっていた。
畠山重保は由比ヶ浜にいたが畠山重保の父親の畠山重忠はここにおらず、鎌倉へと向かってきているとの知らせが届いている。
ゆえに、鎌倉に向かってきている畠山重忠を鎌倉近辺で迎え撃つのではなく、こちらから出向いて畠山重忠を撃つというコンセンサスが成立した。
三善康信ら鎌倉の文人官僚達ができたことは、御家人達がこぞって出陣してしまったために鎌倉の守りが手薄になってしまったことを告げた上で、平将門の乱の前例を挙げて源実朝を守るために御所の警備を固め、四〇〇の兵に鎌倉に戻るよう指示したことだけである。このあたりの指揮は中原広元が主導した。
裏を返せば、四〇〇の兵が鎌倉に戻った以外は、由比ヶ浜に詰めかけた軍勢がそのまま一つの軍勢となって畠山重忠討伐に向かったということである。もはや恒例とも言うべきか、吾妻鏡はこのときの軍勢の一覧を書き記している。
軍勢の総指揮を執るのは北条義時。軍勢の先陣を務めるのは葛西清重。そのあとを千葉常秀、大須賀胤信、國分胤通、相馬義胤、東重胤といった千葉一族が進み、足利義氏、小山朝政、三浦義村、三浦胤義、長沼宗政、結城朝光、宇都宮頼綱、筑後知重、安達景盛、中條家長、中條義季、狩野介入道、宇佐美祐茂、波多野忠綱、松田有経、土屋宗光、河越重時、河越重員、江戸忠重、渋河武者所、小野寺秀通、下河邊行平、薗田七郎といった面々の個人名が記されたほか、大井、品河、春日部、潮田、鹿嶋、小栗、行方といった武士団、さらには、児玉、横山、金子、村山の武蔵七党の者達も出陣した。
これだけでも脅威であるが、更に脅威となるのが、この軍勢はあくまでも軍勢のうちの主陣であり、別働隊が存在していたことである。北条時房と和田義盛の率いる軍勢が別働隊として動くこととなったのだが、この別働隊の軍勢ことを吾妻鏡は「雲霞の如し」と表現している。
謀叛の当事者とされてしまった畠山重忠であるが、それでも武蔵国男衾郡の菅谷館、現在の埼玉県嵐山町を出発して鎌倉に向かっていた。出発したのは六月一九日のことであり、六月二二日に鎌倉まで間もなくという地点に到着していたことは時系列的に不可解なことではない。なお、畠山一族が集結していたわけではなく、畠山重忠の弟の長野重清は信濃国に、もう一人の弟の渋江重宗は奥州にいたため、このときの畠山重忠の軍勢は、畠山重忠と、畠山重忠の次男の畠山重秀、そして郎從の本田近常や榛沢成清といった面々からなる百三十四騎であったと記録に残っている。
出発時は長男の畠山重保が殺害されたなど夢に思っておらず、また、自分が謀反人扱いされているとも想像すらしていなかった畠山重忠であったが、鎌倉まで南下して二俣川の鶴ヶ峰、現在の横浜市旭区のあたりに到着した頃に、北条義時率いる数万騎超の大軍勢が待ち構えているのに遭遇しただけでなく、ここで謀反人と名指しされた上に、長男の畠山重保も討ち死にしたとの報せが届いたことで、百三十四騎は動揺を隠せなくなった。このまま進むのか、それとも引き返して軍勢を整えるのかで意見が割れたのである。
その意見を収束させたのは畠山重忠であった。もはや運命は決まっていると悟ったのだ。かつての梶原景時のように京都に向かって逃走しようとしても討ち取られる。本拠地に戻ったところで討ち取られる。このまま進んでも討ち取られる。ならばせめて最後の抵抗を見せて武士らしく果てるべき。それが畠山重忠の答えであった。
鎌倉を出発した軍勢は、畠山重忠らの軍勢がこちらに向かっていることを把握し、その中から安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入していった。先陣を切っているのが安達景盛であることを知った畠山重忠は、弓馬の友である安達景盛が自分に向かって突撃しているのを最後の餞(はなむけ)と感じて応戦。明らかに人数差のある戦いであったが戦闘は四時間近くに及んだ末、愛甲季隆の射った矢が畠山重忠に当たったことでこの戦いは終わった。
畠山重忠の首がとられて北条義時の本陣に届けられ、畠山重忠の四二年間の生涯が終わった。また、畠山重秀らは自害を選び、ここに畠山一族の命運も決まった。
これで以前から続いていた北条時政と畠山重忠の対立が完全に解決したこととなるのだが、それで全てが完了するほど甘くはなかった。
翌六月二三日の未刻、現在の時制に直して午後二時頃、北条義時率いる軍勢が鎌倉へと戻ってきたが、その軍勢は戦勝の軍勢とは見えなかった。北条時政は合戦の状況を息子に尋ねたが、その回答はそもそも畠山重忠の謀叛など存在していないというものであった。親族が遠くの所領に滞在していたために戦場に赴くことのできた畠山の軍勢は一〇〇騎ほどであり、軍勢の少なさだけを見ても謀叛でないことは明白である。それでも謀叛扱いされ、畠山重忠は死を求められた。それが北条義時からの回答であり、北条時政は息子からの回答に言葉を無くした。
さらに同日酉刻、現在の時制で言うと夕方六時頃、三浦義村が経師谷(きょうじがやつ)入口で榛谷重朝と、長男の榛谷重季と次男の榛谷秀重を殺害。さらに稲毛重成は大河戸行元に討ち取られ、子供の小澤重政は宇佐美与一によって討ち取られた。畠山重忠の謀叛自体が虚報であり、平賀朝雅の畠山重忠に対する私怨から稲毛重成を利用して謀叛計画を練ったというのが、吾妻鏡の伝えるところの真意である。
それにしても奇妙な流れである。
そもそも謀叛でないと早々に理解できたはずなのに、謀叛であるとされて畠山重忠は、そしてその子供達は、死を迎えなければならなくなったのだ。進軍したといってもそもそも謀叛などしていないのだからそのまま鎌倉に引き返せばいい話である。ただし、畠山重保が殺害されたことは無視できる話ではなく、畠山重忠の謀叛が虚報であったと知って軍勢を引き返した場合、畠山重保の殺害の責任問題に発生する可能性は極めて高い。その責任から逃れるために軍勢を進めてしまったとなると、責任逃れの末の蛮行と扱われてもおかしくない。
ただ、一点だけ納得のできる筋書きが存在する。
三浦義村だ。
畠山重忠は治承四(一一八〇)年から鎌倉方の一員であったが、それは治承四(一一八〇)年一〇月四日に源頼朝に降伏してからの話であり、それまでは平家方の一員として鎌倉方に向かい合っていた。特に石橋山の戦いの後で畠山重忠は一族を率いて三浦一族と戦い、激戦の末に三浦義明を破って三浦一族の根拠地である衣笠城を落城させたのだ。
これを三浦義村の視点から捉えると、畠山重忠は自分の祖父をはじめとする自分達の仲間を皆殺しにした人物である。石橋山の戦いの後で勢力を盛り返した源頼朝の前に降伏して鎌倉方の一員となったのが畠山重忠であるが、いくら仲間になったと頭の中では納得していても、三浦義村にとっては心の奥底で忘れることのできずにいた憎しみの相手でもあったのだ。四半世紀という歳月は、肉親を殺害されたことを白紙に戻すに十分な時間ではない。
吾妻鏡は畠山重忠の謀叛を虚報であると明言した。
源実朝はただちに事態の対処にあたることとし、六月二六日には関東諸国の守護や地頭に対して先例に基づく職務遂行を命じて、同月二八日には武蔵国久下郷、現在の埼玉県熊谷市の所領を勝長寿院の弥勒堂領に寄進した。このあたりの政務遂行は鎌倉幕府の将軍として当然のことと言えよう。
ところが、元久二(一二〇五)年七月八日に奇妙な記事が登場する。
畠山重忠の所領を没収し、畠山重忠討伐に功績のあった者に所領を与えるとしたのである。それも源実朝の名ではなく北条政子の裁量である。未だ幼い源実朝の実母として将軍としての政務を代行したというのは一見すると理解可能な理由と捉えうるが、忘れてはならないのは、源実朝はもう元服を迎えているという一点である。すなわち、源実朝は、実年齢はともかく理論上は将軍としての全政務を遂行することが可能なのだ。それも、征夷大将軍としての政務遂行であると同時に、貴族としての位階と役職を有する立場としての政務遂行だ。源実朝でなければできない政務を、いかに源実朝の実母であるとは言え、北条政子が遂行するというのは何ら根拠の無い話なのである。何しろ前述の通り、源実朝は畠山重忠の件の混迷を将軍として文句ない形で処理していたのである。その中には所領の寄進も含まれる。それなのに源実朝が所領の分配について何ら行動を示さないというのはおかしい。
さらに七月二〇日には北条政子に仕える女官に新たな領地が下賜された。誰の保有していた領地であったのかは明言されていないが、敵対して亡くなった者の土地を北条政子が自分の側近である女性達に下賜したと記している。ちなみにこの時代、女性が荘園の所有権や保有権を有することは特に珍しいことではなく、北条政子の側近であるというだけで荘園の保有権を手にすることは問題視されることがあっても、女性であるという理由で保有権の問題が発生することはない。
それにしてもなぜ、このタイミングで北条政子の名で土地を与えたことの記録が吾妻鏡に記されたのか?
忘れてはならない点が二点ある。
一つは、吾妻鏡というものが北条氏の主導により後世にまとめられた歴史資料であるという点。
もう一つは、所領の保有権争いとなったとき、保有権が明確になっていれば裁判においてかなり有利に働くという点。
つまり、吾妻鏡を編纂したあたりの時代に土地の保有権をめぐる争いが起こり、そのときに北条政子が下賜した土地であるという証拠を示した者がいるのではないかと推測されるのだ。
源実朝の手によって所領の保有権に関連する書状が発給された場合、その書状は間違いなく朝廷の公的権力に基づく書状となり、同じ記録が京都にも届けられる。鎌倉で証拠となる記録が残されていなくても京都で記録されているならば、京都から記録を持ってきて裁判に臨めば勝てる一方、源実朝の名の書状を鎌倉で用意できても京都から取り寄せることができなかったら、源実朝の名で発給された書状は捏造された証拠と扱われる。たとえそれが本物であっても、捏造だという指摘がされたら証拠としての能力が乏しくなる。
しかし、公的権威を持たない北条政子の名で発給された書状であれば、そもそも京都に同じ書状が送られることがない。送ったとしてもそれはあくまでも無位無官の一庶民の書き記した私信に過ぎない。それでいて、鎌倉幕府の権威の及ぶ範囲に限定されるとはいえ、北条政子の名で発給された書状とあってはこれ以上ない証拠としての能力を有することとなる。しかも、土地を下賜された経緯というのが、反乱を起こした者の所領を幕府が没収し、その所領が下賜されたという経緯であるから、納得せざるをえない経緯になる。
さらにもう一つ、吾妻鏡が畠山重忠の謀叛を虚報であると明言したのはなぜかという問いが必要である。
畠山重忠を破滅に追い込んだことでもっともメリットを獲得したのは誰かという問いである。
北条時政と畠山重忠との対立が畠山重忠の破滅という形で終わったのだから、北条時政にとって最高の結果であったと言える。
一応は。
もう一点考えなければならないのは、畠山重忠を破滅に追い込むこんでまで北条時政が手にしようとしてきた物事を、本当に手に入れることができたのか、具体的には畠山一族が武蔵国に保有していた所領を北条時政が手に入れることができたのかという点である。そう、既に述べたように畠山重忠の所領は没収され、功績のある者、さらには北条政子の側近である者が土地を手にした一方で、北条時政は何も手にできなかったのだ。
そう考えると、畠山重忠の謀叛が虚報であったという吾妻鏡の記述にさらなる裏が見えてくる。
元久二(一二〇五)年閏七月一九日、今度は北条時政に破滅が訪れた。
北条時政の正妻である牧ノ方が、娘婿の平賀朝雅を源実朝に代わる新たな征夷大将軍に据えようと計画しているという噂が広まったのだ。それも源実朝を暗殺した後で平賀朝雅を将軍に就けようというのだから穏やかな話ではない。平賀朝雅は清和源氏の血を引く人物であり、本名も源朝雅である。愚管抄によると源頼朝の猶子になったとあり、また、源頼朝から朝の一文字を賜ったとあるから、源頼朝の実子以外の清和源氏の中で一つ飛び抜けた存在であったと言える。
また、京都に上洛した後の平賀朝雅の活躍は二〇年前の源義経を彷彿とさせるものがあった。二四歳という年齢も、平家の残党の起こした暴動を鎮圧させたことも、若くして京都のヒーローとなった源義経を思い起こさせるに十分であった。仮に源実朝の身に何か起こったと仮定した場合、平賀朝雅を源実朝の後継者とするのは無謀と言い切れない選択肢でもあった。ゆえに、平賀朝雅を神輿に担いでの鎌倉幕府の乗っ取りも無謀とは言い切れない計画と言えた。
北条時政としては何が何やらわからぬまま勝手に噂が広まり、三浦義村らの御家人が北条時政宅にやってきていきなり源実朝を連れ出したかと思えば、気が付けば北条時政の身の回りの警備を務める武士達が一人残らずいなくなっていたのである。
何が起こったのか把握できたとき、北条時政は自分の運命が終わったことを把握した。
源頼朝の岳父の地位も失った。
源実朝の祖父の地位も失った。
それでも遠江守ではあるのだから無位無官の一庶民というわけではないのだが、鎌倉幕府において他より抜きんでた地位にあったことも、もはや過去の話となった。
何もかもを失ったと自覚した北条時政は、丑刻、現在の午前二時頃に出家を選んだ。このときの北条時政に残されていた選択肢は二つしかなかったとするしかなかったのだ。出家か、それとも自害か。
翌閏七月二〇日、北条時政は鎌倉を去って伊豆国北条郷に戻ることとした。北条家の父祖の地であり、仮に平治の乱の後の処罰で源頼朝が伊豆に流すという決定がなかったならば、北条時政はたまに京都の大番役として離れる以外、ずっとこの土地に留まり続けていたはずである。北条時政は出家として第一線から離れたが、源頼朝の前に戻ったとも言えるのだ。それまでの人生が全て白紙に戻ったかのように。
なお、後述することになるが、後に執権職が誕生したときに、記録を遡らせて、北条時政が失脚した瞬間である元久二(一二〇五)年閏七月を北条義時が鎌倉幕府第二代執権に就任した日であるとする記録が登場するようになる。しかし、同時代史料を見る限り、この瞬間が北条義時が第二代執権に就任した瞬間であるとは言いがたい。
さて、北条時政は出家して鎌倉を去ったが、牧ノ方は、そして、次の将軍として擁立されるという話のあった平賀朝雅はどうなったのか?
まず牧ノ方であるが、彼女はどうやら北条時政とともに出家したようである。ただし、自発的な出家を選んだ北条時政と違い、牧ノ方はかなり強引な形での出家と鎌倉からの追放となったようで、不本意な形で鎌倉を去ったようである。
何度も記しているように、源頼朝の情報整備によって鎌倉と京都との間は片道七日、往復半月で情報のやりとりが出来るようになっている。つまり、閏七月二〇日に鎌倉で起こった出来事が京都に届くのは閏七月二六日ということになり、実際にこの日の貴族の日記を読むと、鎌倉で起こった出来事の記録が出てくる。
藤原定家は閏七月二六日の日記に、北条時政の子である相模守北条義時が親に対して反旗を翻し、将軍源実朝とその母を守りつつ、継母の一派を滅ぼしたとある。また、北条時政は源頼家のように伊豆の山中に幽閉されたという噂が広まったことも書き記している。
これが愚管抄になると、将軍源実朝を殺害して平賀朝雅を新たな征夷大将軍にしようという陰謀を聞きつけた北条政子が慌てて三浦義村を呼びだして相談をし、三浦義村が源実朝を北条義時の館に連れていき、この時点ではまだ何も事件は起きていないのに軍勢を結集させて陣を張り、将軍源実朝の命令であるとして北条時政を呼び出した上で、北条時政を故郷の伊豆国に追放したとある。北条政子にとっては、いかに北条時政が実の父であろうと息子を守るのが親の努めであるとし、北条義時にとっては、北条時政は父であっても継母である牧ノ方は無関係の赤の他人であり、その人物が許されざることをしようとしているのだから実の父とて看過するなどできない、源実朝にとっては、実の祖父である北条時政であっても、そもそも自分の命を奪おうとしているのだから幽閉を命じるのもやむなしである、というのが愚管抄における記載だ。
他の史料も概ね、この事件は北条家内部の争いであるとし、北条時政、ないしは北条時政の後妻である牧ノ方に責任を求めている。南北朝時代の史料になるが、北条時政の主導する源実朝殺害計画は成功寸前のところまで至っていたとするものもある。吾妻鏡の記述はまだまだ穏当の記述であり、実際にはもっと暗雲立ちこめた陰謀であったとも言えるし、北条時政や牧ノ方の運命も妥当なものとすべきなのだ。
ただし、一点のみ注意しておくべきことがある。
北条時政も、牧ノ方も、命を奪われたわけではないという点である。北条時政が亡くなったのはこれから一〇年後のことであり、牧ノ方に至っては寛喜元(一二二九)年四月まで存命であったと推測されているのである。藤原定家の日記に、その年の六月一一日のこととして、牧ノ方の孫である藤原為家室が亡き祖母の四十九日法要を執り行ったとする記事がある。この記録が正しいならば、牧ノ方は鎌倉より追放されてから四半世紀近く生きていたこととなる。
しかし、もう一人忘れてはならない人物がいる。新たな征夷大将軍として擁立される可能性のあった平賀朝雅である。
元久二(一二〇五)年閏七月二〇日、すなわち北条時政と牧ノ方が鎌倉から追放となったその日、北条義時の屋敷に集った御家人達は京都に使者を派遣すると決定した。事件のあらましを京都に伝えるためではない。平賀朝雅対策である。二〇日に出発した使者が二五日にはもう上洛を果たしたというのだからその急ぎようも理解できよう。
そして、二六日には平賀朝雅の運命も決したのだから素早いとするしかない。
ただ、平賀朝雅に課せられた運命は御世辞にも穏当と言えるものではなかった。
まず、平賀朝雅のもとに鎌倉から使者がやってきたとの知らせが届いたとき、平賀朝雅は後鳥羽上皇のもとで囲碁をしており、もう少ししたら帰宅しようかというタイミングであった。自分のもとに鎌倉から使者がやってきたことを知った平賀朝雅は後鳥羽上皇に別れを告げた。
これから殺されるのだ。
鎌倉からやってきたのは御家人ではない。鎌倉からたしかに使者がやってきたが、それはあくまでも書状を持参しただけの者であり、これから京都在中の御家人達が鎌倉の命令で動くのである。その面々の名として吾妻鏡は、平有範、後藤基清、源親長、佐々木広綱、佐々木高重といった者の名を書き記している。
平賀朝雅は自宅に戻り、鎌倉幕府の指令で動いた武士達と最後の抵抗を見せることをしたが、多勢に無勢では自宅に籠もるのも困難であり、幕府の武士達によって平賀朝雅の邸宅が放火されたこともあって脱出を決意。隙を見て東へ逃走することに成功したものの、松坂、現在の京都市営地下鉄東西線の御陵駅の手前あたりで討ち取られた。吾妻鏡では追っ手の矢で討ち取られたとあるが、自害したとする記録もある。
平賀朝雅は首を切り落とされ、詳細の名は不詳であるが「金持(かもなもち)」という苗字の武士によって京都まで首が運ばれた後、後鳥羽上皇も平賀朝雅の首実検に臨んだとある。同時代の記録には伯耆国守護として金持広親(かもなもちひろちか)の名があり、金持広親本人、あるいはその親族である可能性が高い。
元久二(一二〇五)年八月二日、平賀朝雅の死が鎌倉へ伝えられた。吾妻鏡に平賀朝雅の死に関する感想などの描写はなく、ただ情報が届いたことを記すだけである。
ただ、その後の記録を調べる限り、鎌倉ではかなりの混乱を呼び起こしたことが読み取れる。
前月末に源実朝の名前で伊予国の武士達に対する処遇を決定している。それまでは伊予守護佐々木盛綱が伊予国の武士を統率する役を拝命していたが、七月末に、河野水軍を率いる河野通信に対して伊予国の三三名の御家人達に対する指揮権を保有させ、河野通信をトップとする組織の構築するよう指令を出している。伊予国は美濃国に並んで、国司として赴任することができれば、あるいは知行国とすることができれば、その者は莫大な資産を獲得できるとされてきた国である。その伊予国の武士の統率を、鎌倉幕府の一員である佐々木盛綱をトップとする組織から、現地の水軍のトップとした独自の軍事組織に転換させたのである。なお、この指令の発給に関与した人物として吾妻鏡は三善康信の名を記している。もっとも、このような伊予国への処遇を決めたのは、鎌倉幕府として伊予国の統治の困難さを問題視していたからだとも言える。先に伊予守護として佐々木盛綱の名を記したが、前年の元久元(一二〇四)年の伊予国守護の名としては後述する宇都宮頼綱の名が残っている。おそらく、宇都宮頼綱でも困難で、佐々木盛綱を投入して事態の収拾を図ろうとするも佐々木盛綱でも失敗し、結果として河野水軍の河野通信を選んだというところであろう。
これが七月末の記録であり、いかに三善康信が関与したとは言え、これだけを見ると源実朝の将軍としての政務遂行に支障があるようには見えないし、鎌倉幕府の狼狽も垣間見えない。統治の困難さに難渋している様子は窺えるが、その難渋に立ち向かっている姿ならば垣間見えるのだ。
ところが八月になると、より正確に言えば平賀朝雅の死の知らせを契機として、源実朝から冷静さが喪失し、鎌倉幕府全体が動揺を隠せなくなっていったのである。
その動揺は、多少なりとも北条時政に荷担していた者の立場喪失という形で現れた。
平賀朝雅の死の知らせが届いてから三日後の八月五日には、牧ノ方の兄である備前守大岡時親が出家を選んだ。大岡時親についての公的記録はここで途切れ、彼がそのあとどのような人生を過ごしたかの記録は残っていない。
大岡時親についての記録は出家したという一文で終わるが、八月七日の出来事の記録はもっと大きく取り上げられている。
宇都宮頼綱に謀叛の恐れありという噂が広まったのだ。
宇都宮頼綱の祖父である宇都宮朝綱は建久五(一一九四)年五月に訴えを起こされ、土佐国への流罪が決まった人物である。孫の宇都宮頼綱もその事件の連座として豊後国への流罪が課せられたとの記録があるが、どうやらこの人は鎌倉幕府の庇護を受けることで流罪回避に成功し、根拠地である下野国に滞在し続けることが許され、鎌倉と下野国との往復生活を過ごしていたようなのである。実際、正治元(一一九九)年六月に亡くなった源頼朝の次女の乙姫の葬儀に参列したこと、同年一〇月の梶原景時弾劾に参加していること、そして、元久元(一二〇四)年には伊予国守護を務めていたことの記録がある。
その宇都宮朝綱が一族郎党を率いて鎌倉へと南下しようとしているという噂が広まったのだ。北条政子のもとに、北条義時、中原広元、安達景盛といった面々が集まり、宇都宮朝綱とは叔父と甥の関係にある小山朝政が呼び寄せられた。
一族郎党を率いて鎌倉へと向かおうとしているというのはあくまでも噂である。噂であるのに、このときの北条政子と北条義時は、宇都宮朝綱の処罰を決定しただけでなく、その処罰を小山朝政にさせることを選んだのだ。
小山朝政は縁戚関係を理由に処罰に向かうことを拒否したことで鎌倉幕府として宇都宮朝綱を処罰すること自体はなくなったが、宇都宮朝綱のもとに鎌倉幕府からの処罰の動きがあるとの知らせは届いた。
八月一一日に宇都宮朝綱から小山朝政のもとへ謀叛の意思など無いことを訴える書状が届き、小山朝政は宇都宮朝綱からの書状を鎌倉幕府に提出したものの、中原広元から検討に値しないと判断され一蹴された。
八月一六日には宇都宮朝綱が出家をしたこと、また、宇都宮朝綱の出家に歩調を合わせておよそ六〇名の部下も出家したことの連絡も届いたが、この連絡についても幕府は冷淡であった。
八月一九日には、僧体となった宇都宮朝綱が鎌倉までやってきて北条義時に直接弁明する機会を求めたが、北条義時は宇都宮朝綱を門前払いにした。せめてこれならと、宇都宮朝綱から結城朝光を通じて出家の証として髻(もとどり)が北条義時のもとに送られたが、北条義時は髻(もとどり)を目にしたものの、結城朝光のもとに返却した。
その後、宇都宮頼綱は一人の僧侶としての人生を過ごし、宇都宮頼綱の子は幼少の者ばかりであったため、宇都宮頼綱の弟の宇都宮頼業が宇都宮家を代表することとなった。
研究者は、このときの宇都宮朝綱の処遇によって、畠山重忠の乱に始まる一連の騒動は終わったとしている。
そして、元久二(一二〇五)年八月の一連の流れで着目しておくべき事が一つある。
前月の伊予国における処遇については何ら問題なく政務をこなしてた将軍源実朝が、八月になるとピタリと行動を見せなくなるのだ。何しろ、鶴岡八幡宮で開催される定例の行事ですら欠席するというほどなのだから徹底している。
源実朝の立場で考えると理解できなくもない。
祖父が自分を殺そうとし、北条政子と北条義時、源実朝にとっては母と叔父が祖父である北条時政を追放し、生まれる前から自分のそばにいた畠山重忠が殺害され、理論上は叔父でも源頼朝の猶子になっていたことから兄のような存在とも言えた平賀朝雅も、遠く京都の地で首を切り落とされたのだ。
いくら源実朝が元服を迎えていようと、まだ十代前半の少年、現在の学齢で表すと中学一年生だ。その年代の少年がこのような激変を体験して、どうして平然としていられようか。
元久二(一二〇五)年九月二日、内藤朝親が京都から戻ってきた。新古今和歌集を持参しての帰還である。内藤朝親は藤原定家の弟子のような立ち位置にある人でもあり、彼が新古今和歌集を持参して帰還したこと自体はおかしなことではない。また、源頼朝の詠んだ歌も収録されているというのは、新古今和歌集を源実朝に届けるのに十分な理由だ。
これが源実朝を刺激した。
源実朝は武士としてだけではなく、一人の貴族としての教養を身に着けるための教育を受けている。その中の一つに和歌もある。この時点での源実朝にとっての和歌は、貴族として身につけておくべき素養のうちの一つであり、耽溺するほどではなかった。
ところが、このときの源実朝には和歌が、それも新古今和歌集に収録されているような最上級の和歌が、壊れかけていた心に染み渡るものになったのだ。和歌というのは詠み人の心情を三十一文字にまとめた文学作品だ。季節を詠み、日の移ろいを詠み、日常生活を詠み、そして、恋を詠む。と同時に、和歌の世界は殺伐とせず優雅な世界である。戦闘に挑む者を詠むことや、戦闘での死を覚悟して最期の言葉を詠むこともあるが、その点を踏まえても、武士として生きる者にとっての和歌とは武を感じさせない世界を感じさせる文学である。武人達の織りなす世界に心を痛めつけられている若き少年にとって、和歌の織りなす世界は、もっとも身近で体験できる理想郷の世界になったのである。
以前から武より文を好むところがあり、妻として迎えた女性も京都の貴族世界に生きてきた女性である。生涯に渡って父への敬意を抱き続けてきた源実朝にとって、源頼朝が嗜んできた趣味に身を投じ、妻として迎えた女性とその周囲に伝える人達が鎌倉で伝える京都の最新の文化事情に触れ、そしてこのタイミングで新古今和歌集に接したことで、源実朝は武から更に離れ、文に、特に和歌により深く踣(のめ)り込んでいくこととなる。将軍として武の必要性を拒絶することは無く、武に対する知識も十分なものがあったのが源実朝という人であるが、源実朝自身は、自分のことを武士ではなく貴族の一人と考えるようになったのだ。
ちなみに、新古今和歌集は印刷されたわけではなく、原本を後鳥羽上皇が保有し、必要に応じて書き写す書物になっており、このときの源実朝が手にしたのも内藤朝親の手による写本である。
和歌に耽溺するようになったとは言え、源実朝が将軍としての職務を放棄したわけではない。元久二(一二〇五)年八月の一連の流れでは全く姿を見せず、鶴岡八幡宮での催事ですら欠席した源実朝であるが、新古今和歌集を手にした後の九月二〇日には源実朝が何事も亡かったかのように政務に戻り、山内首藤経俊からの嘆願書を却下している。
何が起こったのか?
建仁三(一二〇三)年一二月に平家の残党が武装蜂起を起こし、伊勢国と伊賀国の両国の守護を兼任する山内首藤経俊の館を襲撃した。このときの武装蜂起はその翌年に三日平氏の乱と呼ばれることとなる反乱につながるのだが、山内首藤経俊はその暴動の初動鎮圧に失敗したために伊勢国と伊賀国の両国の守護から罷免され、暴動鎮圧の最高指揮官となった平賀朝雅が両国の新たな守護に任命された。
ところが、平賀朝雅が反逆を問われて処罰され殺害されたことで、伊勢国と伊賀国の守護の職が空席となったのである。
山内首藤経俊からの嘆願書は、自身が罷免された両国の守護職への復職を訴えるものである。公的には鎌倉幕府に叛旗を翻したということになっている平賀朝雅に対する処罰を考えると、いかに平賀朝雅が故人となっていたとしても平賀朝雅の手にしていた権利を幕府が没収すること自体は不合理な話ではない。没収でないにしても故人になっているのだから誰かを後任として任命する必要がある。それに、平賀朝雅の討伐に向かった者の中に山内首藤経俊の息子がおり、平賀朝雅を討ったのは山内首藤経俊の息子の弓が放った矢なのだ。謀反人平賀朝雅を討ったことの報償を考えるならば、山内首藤経俊の息子、さらにはその父である山内首藤経俊に何かしらの報償が与えられるべきであり、その報償として守護職に戻すことを求めたのだ。
山内首藤経俊は、平賀朝雅を罪人であるとし、罪人であるために守護職は没収されねばならず、平賀朝雅の前任である自分が両国の守護職に任命されるべきだと主張したのであるが、これに対する源実朝の返答は、平賀朝雅の兄である大内惟義を後任として任命するという布告である。あくまでも平賀朝雅が亡くなったために、平賀朝雅の兄を後任とするという姿勢を貫いたのだ。平賀朝雅が謀反人として討たれたことについて何ら言及していない。平賀朝雅が亡くなったことは認めるものの、その死の理由については何も言わないとしたのである。
そしてこれは、源実朝からの一つの布告となった。畠山重忠から平賀朝雅に至るまでの騒動に関連する処罰はこれで終わりとし、平賀朝雅の親族に対する処罰も行わないというものである。山内首藤経俊としては満足いく回答では無かったろうが、これに対する山内首藤経俊からの返答は記録に残っていない。ただし、山内首藤経俊に対する記録自体は今後も残り続けているので、鎌倉幕府に仕える御家人の一人であり続けていたことは確認できる。
平賀朝雅がこの世の人でなくなり、北条時政も鎌倉から追放された。
この二人がいなくなったことは、鎌倉幕府における北条家の勢力拡充という点ではプラスに働いたが、肝心の統治という点では大きなダメージが存在する話である。
平賀朝雅にしても、北条時政にしても、京都における鎌倉幕府の代理人、いわば、国際関係における常駐大使に相当する役職を果たせる人物でもあったのだ。さらに言うと、同じ扱いは源義経についても言える。京都に常駐して鎌倉から届く指令に基づいて行動すると同時に、鎌倉から指令が届かないまで動かないという消極的な役割ではなく、鎌倉からの指令があれば行動を止めるが、そうでないなら鎌倉幕府のために行動するという積極的な役割が求められる職務だ。
この役職のことを京都守護という。鎌倉幕府における重要な職掌であることは誰もが認めるが、厄介な問題も併存する。
相手にしなければならないのは鎌倉幕府の御家人ではなく京都の貴族達なのだ。そのため、北条時政や平賀朝雅といった鎌倉幕府の御家人が選ばれるとは限らず、一条能保や、一条能保の息子の一条高能といった鎌倉方に身を寄せた貴族も京都守護に選ばれている。そうでなければ対応しきれないのだ。
平賀朝雅の務めていた伊勢国と伊賀国の守護の役職を山内首藤経俊は求めた。しかし、平賀朝雅の務めていた他の役職、すなわち、京都守護については求めていない。求めていないのではなく、務まるとは微塵も思っていないのだ。
それは山内首藤経俊だけのことではない。鎌倉幕府に仕える武士のほぼ全員が、京都守護の職務を拝命することは望まないどころか忌避すらしていたのである。たとえば検非違使のように京都に赴いて武士としての能力を発揮することを求められるのなら喜んで応じるが、京都守護として京都の貴族達と渡り合い、さらには後鳥羽上皇と向かい合うとなると、いかに勇猛果敢な鎌倉武士とて二の足を踏む。鎌倉幕府の中で京都守護はかなりの高位の役職である。それでいてその役職に就こうと挙手する者は乏しい。ゼロではないが、他の役職と京都守護とのどちらか一方を選べるとしたならば、ほとんどの御家人は、京都守護のほうが高い役職であろうと、他の役職を選ぶ。
とは言え、誰かが鎌倉幕府を代表して京都に駐在しなければならない。
それも、京都の貴族達とまともに渡り合ってきた北条時政や平賀朝雅と同等、さらにはそれ以上の成果を見せなければならない。
そのような人物はいるのか?
それまでの実績だけを考えるならば、いない。
しかし、抜擢ならば可能である。
中原親能の子の中原季時だ。
父の中原親能は源頼朝の代理として頻繁に鎌倉と京都とを往復してきた人物であり、中原季時も父に同行して京都と鎌倉を往復してきた過去がある。また、朝廷官職も保有しており、吾妻鏡によると駿河国司を務めた経験もあるというから、最低でも従五位下、順当に考えればそれ以上の位階を持つ貴族の一人としてカウントされる人物である。京都の貴族達と渡り合うことを考えれば、国司経験のある貴族であることは無視できない経歴となる。また、中原季時が中原広元の甥でもあるという点も無視できない要素である。圧倒的に武人が多く文人官僚が少ないのが鎌倉幕府という組織であるが、中原広元の存在は鎌倉幕府の抱える文人官僚の乏しさを一人で解消する人物である。良く言えば優秀、悪く言えば冷徹な中原広元を敵に回すようなことをする貴族はいない。
ただ、如何せん、中原季時は経歴が浅い。鎌倉幕府の中では貴重な人材でも、特筆すべきキャリアが国司経験だけという貴族は京都では珍しくもない。中原季時がいかに中原広元の甥であると言っても京都の貴族達を相手に立ち回ることが可能か不安はあった。不安はあったが、その中原季時を鎌倉幕府は抜擢することとし、元久二(一二〇五)年一〇月一〇日に京都守護に任命した。新たな役職を背負った中原季時はただちに京都に向かった。
そしてこの抜擢であるが、成功した。中原季時はなんと、このあと一四年間に亘って京都守護を勤め上げ続けることに成功する。二度に亘って中原親能を二度とカウントすると中原季時は七代目、源義経を含めると八代目の京都守護であり、中原季時の後には二名の京都守護が誕生するので合計一〇代の京都守護が存在することとなるが、この一〇代の中で中原季時は在職最長年数を記録するのである。
新たな京都守護の中原季時が京都に向かったのが一〇月一〇日。その三日後の元久二(一二〇五)年一〇月一三日、実に物騒な記録が京都から届いた。既に記している通り京都守護平賀朝雅が討たれ、新たな京都守護中原季時はまだ京都に到着していないため、京都守護からの書状ではなく、京都駐在の御家人である五条有範からの書状である。
書状に記されていたのは比叡山での火災、それも放火である。
火災が発生したのは一〇月二日の真夜中、子刻とあるから現在の時制に直すと夜中の〇時頃に比叡山の法華堂が放火され、講堂、四王院、延命院、法華堂、常行堂、文殊楼、五仏院、実相院、丈六堂、五大堂、御経蔵、虚空蔵王、総社、南谷、彼岸所、円融房、極楽房、香集房といった建物が全焼して灰となり、炎がさらにひろがってきたため本尊や十二神将像などを退避させると同時に、前唐院の経典や宝物は法華堂や常行堂から取り出して避難させた。その後、供養の儀式を食堂で開催したというのが京都から届いた報告である。
おそらく下働きの僧兵達が火を点けたのではないかというのが書状に記されている真犯人であるが、本当に真犯人なのかどうかは不明である。
そもそも都合が良すぎる。
平賀朝雅がいなくなったことは京都における鎌倉幕府のプレゼンスを低下させるに十分である。そうでなくとも南都北嶺で争っていた奈良の興福寺も、山門寺門で争っていた園城寺もかつての勢力を取り戻すことのできなくなっている状況で、比叡山延暦寺だけは一五〇年前とほぼ変わらぬ権勢を誇っていた。
そもそも白河院や鳥羽院が武士をとりたてたのも、その時代に暴れ回っていた寺社の武装デモ勢力に対抗するためであり、鳥羽院亡き後に平家が国家権力を握り、平家滅亡後は源氏が日本国の最大武装勢力となったのも、突き詰めていくと寺社の武装デモ勢力から社会を守るためである。鎌倉幕府が成立した後、京都の安全を守る検非違使に京都在中の鎌倉幕府の御家人が多くなってきたのも、武力によって武装デモに対抗する目的があったからだ。
その京都駐在の御家人を統率するのが京都守護であり、京都守護の平賀朝雅に対する京都市民からの支持が高かったのも、かつての源義経を彷彿とさせる平賀朝雅の若さに加え、平賀朝雅の築き上げてきた実績があったからだ。
その平賀朝雅がいなくなった。これを武装デモ勢力から眺めると、今まで押さえつけられていたのを跳ね返す絶好のチャンスということになる。
ところが、比叡山延暦寺が放火された。
京都守護がいないために暴れ始めるチャンスを迎えたと考えたところで放火された。
これは怪しいとするしかないのだが、鎌倉幕府の怪しさというのは当て推量であって証拠はない。おまけに、犯人とされているのが延暦寺の僧兵達となっているのだから、延暦寺としては何かしらの行動を起こす根拠が全く存在しないこととなる。残されているのは延暦寺に対する大ダメージの痕跡だけであり、延暦寺がすべきことは武装デモではなく自らの再建だけであった。
ただし、比叡山延暦寺に限らず、この時代の宗教界全体が直面していた問題を看過することはなかった。
宗教界全体で抱えていた問題の対処で主導することとなったのは、延暦寺ではなく、復興しつつあった奈良の興福寺である。元久二(一二〇五)年一〇月、興福寺の宗徒が法然の提唱する専修念仏の禁止を求めて朝廷に上奏したのである。
この上奏文は九箇条からなっていたが、その中で画期的であったのは第一条であった。
日本に存在する仏教の宗派は八宗、すなわち、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、華厳宗、律宗の南都六宗に、平安時代に加わった天台宗と真言宗の二宗の計八宗のみであり、法然の起こした新たな宗派である浄土宗は、仏教の正式な宗派ではなく、その存在自体が認められないのとしたのだ。興福寺自体は法相宗の寺院であるが、法相宗のためだけでなく既存の全ての宗派のために興福寺が動いたのだ。
前年には比叡山延暦寺の衆徒が天台座主真性に対して専修念仏の禁止を要求したことの記録もあるのは既に述べた通りある。興福寺と延暦寺が新たな仏教勢力の前に手を組んだという噂も広まった。おそらくその噂は本当だったのであろう。延暦寺が放火に遭ったために動けなくなり、宗派の壁を越えて、これまでの対立も乗り越えて、新興勢力に対して協力することとしたのだ。
亡き平賀朝雅に代わる新たな京都守護となった中原季時が上洛して最初にしたのは、畠山重忠以降の混乱の後始末であった。特に京都在駐の御家人達の統率と京都の治安維持が中原季時に課せられた使命であり、中原季時はその使命に早々に応えた。
吾妻鏡によると元久二(一二〇五)年一一月三日に、京都から一人の女児が鎌倉にやってきた。綾小路師季こと源師季の娘であり、女児の父である綾小路師季は前月に右近衛少将を解任となっている。ちなみに、源を姓としていても綾小路師季は清和源氏ではなく村上源氏であり、右近衛少将という武官としての官職を手にしてはいても、本質的には京都の貴族である。当然ながら鎌倉幕府の御家人であるわけでなく、鎌倉幕府からは少し距離を置いた立場である、はずであった。
だが、綾小路師季の妻は六月に討ち取られた稲毛重成の娘であり、その女性との間に女児をもうけていたのである。
その女児のことを吾妻鏡は綾小路姫君と記しており、彼女の名そのものは記してはいない。女性の名を記さないのはこの時代の通例なので特におかしなことではなく、彼女を特定するための記載方法も特に不可思議なところはない。
ただ、このときの女児についての記述は異例とすべき点が一点存在する。
彼女の年齢だ。
なんとこのとき、二歳である。
当然ながら、二歳の女児が一人で歩いて京都から鎌倉までやってきたわけではなく、左近将監の小沢信重に連れられての鎌倉行きである。前述の通り彼女の母は稲毛重成の娘であり、稲毛重成が討ち取られたことで連座の危機を迎えたため、身を潜めなければならなくなった。何しろ父が右近衛少将を罷免されたのだ。
二歳にして迎えることとなった運命を哀れんだ北条政子は綾小路姫君を保護するよう中原季時に命じ、中原季時は北条政子の命令に従って綾小路姫君を保護して、綾小路姫君を鎌倉まで送り届けることとした。稲毛重成の亡き妻は北条時政の娘であり、北条政子や北条義時の実の妹である。つまり、綾小路姫君は稲毛重成の孫であると同時に、北条政子の妹の孫でもある。北条政子が預かるというのならば、この時点で考えられる最大級の安全を得られることとなる。父からすると娘が遠い鎌倉まで連行されていったに等しいが、そのほうが娘の命を守れる可能性が高いならば、寂しさはあっても受け入れなければならない運命と覚悟したであろう。
翌一一月四日、北条政子は綾小路姫君を自宅に招き、彼女を猶子として迎え入れることとした上で、かつて稲毛重成の所領であった武蔵国小沢郷、現在の川崎市中原区から高津区に掛けての一帯の所領を綾小路姫君が相続することを命じた。
北条政子の猶子になった女児がいる一方、後に源実朝の猶子になる男児も人生を定める運命に立たされていた。
亡き源頼家の息子である善哉(ぜんざい)である。善哉は正治二(一二〇〇)年生まれであるから、現在の学齢で言うとまだ小学校にも入学していない幼児である。その幼児は後に源実朝の猶子となるのだが、この時点ではそのように考えられてはおらず、鶴岡八幡宮に預けられて将来は僧となることが求められたのである。
鶴岡八幡宮は神社であるのに僧侶になるとはどういうことかと思う方がいるかもしれないが、そうした疑問が浮かぶのは明治維新での神仏分離後の話であり、この時代の人は誰もそのような疑問を抱かなかった。この時代は寺院の敷地内に神社が、神社の敷地内に寺院があることが普通であり、特に後者のことを神宮寺という。鶴岡八幡宮に正式な神宮寺が設けられたのはこれより三年後の承元二(一二〇八)年のことであるが、それより以前から鶴岡八幡宮内に寺院があったことは記録に残っており、昭和五七(一九八二)年の発掘調査で寺院の遺構が確認されている。
吾妻鏡の元久二(一二〇五)年一二月二日の記事にあるのも善哉が鶴岡八幡宮の別当、すなわち、鶴岡八幡宮のトップを務める阿闍梨の尊暁のもとに弟子入りしたという記事であり、阿闍梨という仏教界に於いて高位にある僧侶が鶴岡八幡宮のトップであること、その僧侶のもとに亡き源頼家の息子が弟子入りしたことは、源頼家の息子であるという点で特筆すべきポイントであるが、それ以外はよくあることであったといえる。
なお、この時点での幼児の名は善哉であるが、現在に生きる我々は彼のことをそのような名で呼んでいない。公暁と呼ぶ。ただ、彼が公暁と呼ばれるようになったのは正式に出家してからであり、それまでは出家前の名前ということになる。
なお、公暁のことを多くの人が「くぎょう」と読み上げているが、そのような仮名遣いをするようになったのは江戸時代からであり、その読みは正しくないのではないとする説が現在は強い。この時代の僧侶の読み名は唐代以前の中国語の発音である呉音であることが多かったが、後に公暁の師となる公胤、また、公胤の師である公顕の属する園城寺は、当時の寺院としては珍しく唐代の発音である漢音を用いており、漢音では公胤を「こういん」、公顕は「こうけん」となるため、公暁の一文字目は「こう」と読むと推測される。「暁」は「きょう」もしくは「ぎょう」なので、公暁の読みは「こうきょう」もしくは「こうぎょう」となるはずである。
法然の起こした浄土宗に対する反発として興福寺から上奏文が朝廷へと提出されたのが元久二(一二〇五)年一〇月のことである。法然とその周囲が社会問題を伴う存在へと見做されるようになってきたことで朝廷から向けられる視線は許容から問題へと変容したが、一二月一九日、一つの形となって浄土宗のもとに示された。
この日、宣旨が下ったのである。
このときの宣旨はあくまでも、法然の周囲に集う僧侶のうちの一部が問題なのであって、法然自身も、法然の唱える専修念仏も問題ないとするというものである。
これに対する興福寺の反応を一言でまとめると、激怒、である。
新たな宗派が誕生して既存勢力に対して脅威となっていること自体が問題なのであり、求めるのは宗派そのものの殲滅であって、宗派内で問題行動を起こしている個人に対する弾劾ではないのだ。
こうした捉え方は、興福寺が京都から距離を置いた奈良に存在する寺院であるという側面もある。法然の訴える専修念仏が魅了したのは、京都ではなく地方であった。特に、寺院が地域最大の有力勢力であるという土地であった。寺院が地域の中心であり、寺院に従うことが当たり前という生活をしている人達のもとに、寺院に関係なく、念仏を唱えることで救いが訪れるという教えが届いたのだ。それまでは信仰と権力とが密接に繋がることで寺院が地域における最大権力であることができたのに、その構図が崩されただけでなく、寺院に対する叛旗を示す者、さらには土地を捨てて法然のもとに走る者まで現れたのだ。
さらに、有力者の中にも法然を擁護する者が多数現れた。その中でも特筆すべきは式子内親王と九条兼実の二人である。式子内親王は五年前にこの世の人ではなくなっており、式子内親王自身の記録の中にも法然に対する個人的な帰依の記録はないが、法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったという記録はあり、この尼が式子内親王と考えられている。また、九条兼実は建久七年の政変で関白の地位を追われてから政治の第一線から離れており、建仁二(一二〇二)年には法然を戒師として出家している。
九条兼実と法然との関係のきっかけを追い求めると、九条兼実の長男である九条良通が早世してしまったことに行き着く。法然の唱える専修念仏は我が子を亡くして悲しみにくれる九条兼実の心を埋めるに十分であり、法然も九条兼実の喪失感を埋めるために「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)」を著している。この著作は法然が九条兼実に向けて記した論文であるが、結果として九条兼実以外の人にも法然の教えを説く結果となり、現在にも残る浄土宗の重要論文となっている。
ただし、九条兼実は法然に帰依したものの完全に心酔しているというわけではなく、特に、俗人であろうと、戒を破った僧侶であろうと、さらには、どのような悪人であろうと救われるという法然の教えには納得できていないところもあった。そのため、九条兼実は法然を試すべく、結婚の許されないはずの僧侶が結婚をしても救われるのかと問い、法然の弟子の一人を自分の娘と結婚させもした。ちなみに、このとき選ばれた法然の弟子が、後の浄土真宗の宗祖とされる親鸞である。
また、鎌倉幕府の御家人の中にも法然に帰依する者も出てきた。戦乱に明け暮れる日々を余儀なくされるのが武士の宿命であり、敵となった者を殺さねばならない、殺さなければ殺されるというのが武士に課せられた宿命である。この宿命から逃れようと出家する者もいたが、そこまでの覚悟を決める武士は多数派ではない。多くの武士は課せられている宿命を受け入れたままの日々を過ごさねばならない以上、宿命から些細ながらも逃れることができる法然の教えは、武士にとってこれ以上なく染み込む教えであった。
そしてこれは、心情的な感情ではなく世俗的な打算であるが、法然の教えは既存の寺院勢力を無効化する教えでもある。自らの有する所領に於いて寺院勢力が強力である場合、これまでであれば寺院勢力の顔を立てつつ機嫌を伺い続けなければならなかったが、本人を含め所領に住む全住人が法然の教えに帰依したならば、その寺院はそれまで保持していた勢力が完全に無に帰すこととなる。
これは寺院勢力にとっては大打撃、寺院勢力に悩まされる側にとっては僥倖であった。
年が明けた元久三(一二〇六)年一月、源実朝は将軍としての政務を元通りに遂行するようになっていた。吾妻鏡にあるのは将軍としての定例行事をこなしたことの記録であるが、その中には書物を用いた講義も含まれている。新古今和歌集に始まる和歌への耽溺はあくまでも趣味の領域であるが、書物自体は趣味の領域ではない。ちなみに、後述することとなるが、この時代の貴族であれば必ず読んでいるはずの古今和歌集を、この時点の源実朝は読んでいない、というより、この時点の鎌倉に編纂間もない新古今和歌集ならばあっても、貴族の必須素養とされていた古今和歌集の書物そのものが存在せず、源実朝は読みたくても読むことができなかったのである。
古今和歌集はなくとも、中原広元をはじめとする文人官僚のもとには、この時代の貴族であれば学んでいるはずの、中国の古典をはじめとする書物ならば存在していた。若き貴族としての学習の意味もあり、また、そこで学ぶのは統治者として求められる知識の習得なのである。実際、中原親能の家人である中原仲業が教師となり、十三経のひとつである孝経の講義をしている。古今和歌集は鎌倉になくても、四書五経やそれ以後の漢籍書物ならば鎌倉にも存在している。
中原仲業の生没年は不詳であるが、中原親能の家人であることから中原親能が鎌倉幕府に仕えることになったことに合わせて自身も鎌倉幕府に仕える身になったようで、建久二(一一九一)年には鎌倉幕府に仕える公事奉行人の一人として名前が残っていることから、どんなに若くても元久三(一二〇六)年時点で三〇歳以上のはずである。
吾妻鏡で源実朝が孝経を学んでいることが記録されているのは元久三(一二〇六)年一月一二日の読書始めの儀の様子を描いたからであるが、源実朝は普段からこうした学習を繰り返し、その上で和歌も嗜みながらも、将軍としての政務は欠かすことなくこなしている。いや、順番としては、政務、学習、趣味という順番である。
この時代の政務はその多くが先例踏襲主義であり、先例踏襲であるならば最初の政務でなければ記録に残らない。つまり、先例踏襲ではない政務についてでなければ記録に残らない。それは学習についても同じことが言え、政務があり、学習もして、その上で空いている時間に趣味を嗜むというのが源実朝の日常になる。そのうちの趣味が特異であるために記録に残ってしまうのは源実朝にとっても不本意であろう。何しろ記録だけを信じると源実朝は趣味に耽溺した気弱な将軍という扱いになってしまうのだ。
元久三(一二〇六)年一月二七日に残されている記事は、そうした源実朝評に対し一石を投じる内容であろう。この日、源頼朝の時代に与えられた土地についてはよほどの大罪に手を染めない限り保有権が保障されるとしたのである。二階堂行村にその管理監督を担当させることで実効性のある基本方針としたのであるが、これは画期的なことであった。源頼朝の時代の決定を源実朝も遵守するというだけでなく、源実朝以降の人物が鎌倉幕府のトップに立つ場合の基本方針を定めたのである。
鎌倉幕府に求められるのは、まずは治安維持、次に司法である。司法の多くは土地の保有権や所有権をめぐる争いへの裁決であり、源実朝がその基本方針を打ち出したことで。司法の基本方針も明瞭化されることとなったのである。
鎌倉幕府の打ち出した基本方針は京都の朝廷にも波及する。後鳥羽上皇は源実朝の明瞭化した単純明快な基本方針を評価し、従四位下に昇叙させた。なお、右近衛権中将と加賀介についてはこれまで通り兼職としている。ちなみに、まだ政所を設置するに必要な位階ではないため、この時点の鎌倉幕府の発給する文書は、政所としての発給ではなく、源実朝の名での発給となっている。
さて、鎌倉幕府のトップに立っているのは源実朝であるが、この時代の日本のトップに立っているのは、理論上は土御門天皇、事実上は後鳥羽上皇であり、源実朝は位階の低い貴族のうちの一人という扱いでしかない。
さすがに鎌倉幕府という存在を無視できる者などいなくなっていたし、鎌倉幕府内部のゴタゴタは遠く離れた京都でも噂話にのぼるほどだ。京都における武力という点での鎌倉幕府は無視できなくなり、検非違使の実働部隊を探すとすれば鎌倉幕府の御家人以外に頼れる人材がいないという状況であり、鎌倉幕府に何かあったら京都の治安にも支障が出るというのはこの時代の京都人の共通認識になっていた。
それでも、源実朝は数多くの貴族の一人、それも、父と兄はそれなりの位階まで登り詰めたが、本人はまだ幼いためにそこまでの位階に登り詰めることができないでいる貴族の一人と見られており、鎌倉幕府はその幼い貴族がトップであるものの、本質的には亡き源頼朝の部下たちが集まっている組織と見られていた。
これを現在の感覚で捉えると、強烈なリーダーのもとに誕生した新たな国政政党が、そのリーダーが亡くなり、リーダーの長男が後を継ぐもうまく行かず、兄が病に倒れたために第一線を離れることとなったため、幼き次男が国政政党のトップに立つようになったというところか。年齢による選挙権や被選挙権の制限という概念のないこの時代、それがゆえにかえって、国政政党のトップに歳若き者が就いたとしてもおかしくない。それに、源実朝は位階が低いとはいえ低い理由はその幼さのみに由来しており、貴族の一員としてカウントできるぐらいの位階は手にできている。順当にいけば年齢を重ねて少年から青年になるにつれて位階を挙げて貴族社会の中枢に名を刻むようになるのは目に見えている。これも現在の感覚でいくと、内閣に大臣を送り出した新興政党があり、その政党のトップが亡くなり、今は内閣の一員ではなく当選回数の浅い一人の議員がトップに就いているが、その議員はそう遠くない未来に大臣の一人となると目されているといったところか。
つまり、無視できる存在ではないものの、かつての源頼朝のように朝廷のキャスティングボードを握るわけではなく、源頼朝を相手にするよりはまだどうにかなる存在であると捉えることができる。
そのあたりの行動パターンが、この頃の後鳥羽上皇の行動から読み取ることができる。
元久三(一二〇六)年二月一四日、後鳥羽上皇が興福寺の訴えを受け入れて法然の門徒を流罪としたのである。前年一二月一九日の宣旨は、周囲の者の中に問題のある人物がいるのは認めるものの法然については問題なしとし、専修念仏についても問題なしとしたが、前年一二月一九日の宣旨に対する興福寺からの反発が出て、興福寺からは法然の弟子のうちの二人である法本房行空と安楽房遵西の両名を流罪にするよう訴えが出たのである。
このような主張を宗教界が繰り広げるのは特に珍しいことでは無かったが、後鳥羽上皇が興福寺からの訴えを受け入れて行空と遵西の両名を流罪とする院宣を出したのは異例とするしかなかった。
法然のはじめた浄土宗は既存の寺院勢力にとって脅威であった。宗教的にも脅威であったが実利の面でも脅威であった。それまで手にしてきた信仰と権力の融合から、信仰も、権力も、徹底的に奪われるのだ。
特に厄介なのが鎌倉幕府の御家人である。以前は寺院の保有する荘園住人の一人であったか、あるいは荘園と無関係の人間であったのどちらかであり、寺院からしてみれば取るに足らない庶民の一人のはずであった。それが、時代とともに権勢を積み上げてきて荘園における有力者となり、鎌倉幕府という新たに誕生した組織に属することで国家レベルの権勢を手にすることになった。
ここで浄土宗に対するダメージを与えることができれば既成勢力にとって望ましい環境、すなわち、これまでの宗教情勢の維持が見込める可能性がある。最良なのは浄土宗そのものの根絶であるが、それは現実的な話ではない。
本来であれば後鳥羽上皇が院宣を出すことも考えづらい話なのだ。後鳥羽上皇が仮に興福寺からの訴えに同調したとしても、鎌倉幕府の存在を考えると興福寺からの訴えに応えることは難しい話である。
それなのに後鳥羽上皇が興福寺からの訴えを受け入れた。
これは驚愕であった。
後鳥羽上皇は新古今和歌集をかなり強引な形で完成させたと主張したことは既に記した通りであるが、それは前触れであった。
この頃から後鳥羽上皇は有職故実を徹底的に学ぶようになるのだ。
もともと帝王教育を受けて育った人物である。天皇として、また、上皇として必要な知識は既に身につけている。ただ、後鳥羽上皇が求めたのは必要な知識の習得ではなく、他を圧倒する知識の習得である。藤原頼長の日記である台記や、九条兼実の日記である玉葉を提出させ、藤氏長者の政務を学び、有職故実を学んだのだ。
現在の国会では、各種委員会で野党だけではなく与党からも質問が出て、それに対して政府が回答するという仕組みになっている。質問は口頭で行われることもあるが、質問主意書として文書で出されることが通例で、そうした口頭での質問や文書での質問に応えるのが国会の答弁において政府に求められることである。
その構図は今から八〇〇年前も変わらない。口頭で行われることも、文書で行われることもあるという構図も現在と一緒である。違うのはその質。現在の国会では野党だけでなく与党からも政府に対して厳しい質問が飛び、質問への回答に政府が苦慮するというケースはよく見られる。一方、この時代はそこまで厳しい質問ではない。基本的には前例に則った質問とその返答であり、多くは先例踏襲でどうにかなる。
ところが、後鳥羽上皇は違った。後鳥羽上皇も先例踏襲から無縁でいられるわけではなかったが、先例を全て頭に叩き込むことはもちろん、先例の無い答弁であっても全て応えるようにしたのである。これを貴族の立場で捉えると、戦々恐々としか形容できない。後鳥羽上皇に質問をする側であればまだいい。どのような質問でも後鳥羽上皇からは理路整然とした回答が戻ってくる。一方、後鳥羽上皇から質問を突きつけられると、後鳥羽上皇も感心せざるを得ないレベルで回答してやっと及第点、そうでなければ問答無用で落第扱いになるのだ。しかも人事権を握っているのは治天の君たる後鳥羽上皇であり、どんな貴族であろうと後鳥羽上皇に気に入られることなしに中央政界での立場を築くことができないのである。
ただ一人、源実朝を除いて。
しかも、源実朝が例外なのは彼がまだ幼いことと、京都ではなく鎌倉にいるために京都での政務に携わることができないという事情があるからであり、さらに言えば、鎌倉にいて武力を統率できる人間に求められること、すなわちこの国の治安維持という面では源実朝は十分に合格点をつけていい結果を出している。源実朝は後鳥羽上皇に気に入られなくてもどうにかなるという特権を得ていながら、後鳥羽上皇に気に入られるだけの結果を出しているという特異な存在であったのだ。
後鳥羽上皇の表面的な記録を追いかけると、最愛の女性と死別して悲しみに暮れていた時期を除けば、蹴鞠や弓術、あるいは和歌といった趣味に没頭しているように見える。そして、その見識は途中までであれば間違いではない。だが、後鳥羽上皇は年齢を重ねるにつれて純然たる趣味人としての日常から、趣味に理解のある統治者としての日常へと変化していったのである。それは貴族たちを凌駕する政治家としての後鳥羽上皇の誕生を意味する。
後鳥羽上皇が興福寺の意見を受け入れて二人の僧侶を流罪としたが、その方法は院宣であり、法に基づく処罰ではない。いかに院宣が事実上の法であるとしても、院宣はあくまでもこれから法制化される予定の法案であり、上皇や法皇が院宣を出した後、朝廷において議政官の議決を経て天皇のもとに上奏され、院宣を契機とする法案が正式に天皇の名で発せられてはじめて院宣は国法としての効力を持つ。議政官の議決を経ても太政大臣が拒否権を発動すれば議政官の議決は差し戻しとなって天皇の元への上奏がなくなるから、院宣は正式な法とならない。
つまり、後鳥羽上皇がどのような判断を示そうと、朝廷は後鳥羽上皇の判断を覆すことが可能なのである。
理論上は。
実際には、余程のことがない限り院宣が出れば無条件で法となる。自分にとって不都合な院宣が発給されたならば、院宣が議政官の議決を経て正式な法となるまでの間に余程のことが起こるのを待つしかない。
では余程のことが起こる可能性はどれだけあったか?
結論から言うと、少し前であれば摂政兼太政大臣九条良経が後鳥羽上皇の出した院宣を握り潰す可能性に期待を持てた。九条義経自身はともかく、九条良経の実父の九条兼実が法然に帰依していたということもあるが、実際に権力を行使したわけではないが摂政と太政大臣を兼ねているため、議政官の議決に対する拒否権の発動もできるし、議政官の議決を否定して、土御門天皇の名で院宣を全否定する宣旨を出すことも不可能ではない。
もっとも、そのようなことは、法制上可能であるというだけで実際にその権力を行使することはない。言わば、抜かれることのない伝家の宝刀であるが、拔かれることがないとは言え伝家の宝刀が存在していることは事実であり、ゆえに後鳥羽上皇の行動にも一定のブレーキが掛かっていたわけでもある。
ただし、元久三(一二〇六)年初頭となると話が変わる。
まず、九条良経が太政大臣を辞めている。
そもそも、九条良経が太政大臣を務めることとなったのは土御門天皇の元服の儀のためであり、天皇との血縁関係を理由に天皇の元服のために太政大臣に就いた者は、元服の儀を終えて少ししたら太政大臣を辞めるのが通例となっている。これは、藤原摂関政治のピークでもある藤原道長とて例外ではない。
この太政大臣という職務の持つ特殊事情は、一人の貴族の行使しうる権力を前提に考えたとき、人臣最高位であろうとかえってデメリットとなると気がついたのが藤原道長だ。藤原道長は太政大臣に就くと議政官の席次を失い、現代の三権分立で言うところの立法府の権限を失うことに着目し、実に二〇年間もの長きに亘って左大臣であり続けることで議政官を支配し、立法権を支配し続けたのである。その藤原道長ですら、元服に伴う太政大臣拝命からは逃れることはできなかったのだ。
九条良経も藤原道長の先例を知らぬわけではない。しかし、自分以外に資格を有する人物がいないとなると、自分が太政大臣になるしかない。律令制における官職というものは、基本的に降格はない。左大臣と太政大臣とでは太政大臣のほうが格上だ。ただし、太政大臣になってしまったら議政官の一員になる資格を有さなくなるため、残る人生に於いては永遠に立法権から離れることとなる。さらに問題なのは、天皇の元服を前提とした太政大臣への就任はそう長くない未来に太政大臣を辞すことが求められるため、太政大臣としての権力発揮、すなわち、議政官の議決に対する拒否権の発動自体ができなくなる。まさに藤原頼実を政権に中枢から排除するために太政大臣に昇格させたのと同じ構図で、九条良経自身が政権の中枢から遠ざけられることとなったのである。
九条良経は三八歳にして元太政大臣である専任摂政となってしまったのである。残る人生は、土御門天皇元服から数年後に起こるはずの摂政から関白への転任と、今後起こるかもしれない土御門天皇の次の天皇の元服に伴う太政大臣再任だけである。あとは、自分に手にできている法的根拠を利用して後鳥羽上皇の暴走を食い止めるのが九条良経の役割になる、はずであった。
その予定が、元久三(一二〇六)年三月七日に突然終わった。
九条良経死去。
具体的な死因は記録に残されていない。何者かによって寝所で殺害されたとする説もあるが、記録にはただ三月七日の深夜に寝所で亡くなったとしか残されていないのである。
朝廷内でただ一人、後鳥羽上皇の出した院宣を白紙撤回できる可能性の持つ人物がいなくなったことで、既存の宗教界は勢いづき、法然らの勢力はダメージを深めることとなった。
ここでもう少し興福寺と法然との関係を追いかけると奇妙なことが見えてくる、
興福寺からの要求に基づいて、元久三(一二〇六)年二月一四日に後鳥羽上皇は行空と遵西の両名を流罪にする院宣を出した。普通に考えれば興福寺は要求が受け入れられたことになるのだからここで矛を収めるべきであったが、興福寺の考えは違った。
後鳥羽上皇の院宣を不服とし、摂政九条良経らに興福寺から使者を派遣し、興福寺をはじめとする既存寺院からの訴えとして法然の処罰を求めたのである。処罰しろと求めてきたので言われたとおりに処罰したら、その処罰に不満を示してもっと重い処罰をしろというのだからムチャクチャな話とするしかない。
そのときの摂政九条良経がどのような返答を示したのかは不明である。そもそも九条良経は三月七日に亡くなっている。それも突然死している。
父である九条兼実の記録を求めても満足いく答えは返ってこない。そもそも九条兼実は出家した身であるだけでなく、法然に帰依している。第一線を退いている身である以上、政治に対して何かしらの権力を行使することはできない。権威はあるため九条兼実の発言が無碍に扱われることはないが、議政官において九条兼実の言葉の代言者となることができるのは、九条良経の息子で九条兼実から見れば孫にあたる権中納言九条道家だけである。権中納言であれば議政官における法案審議に自らの意見を述べることが許されるが、このときの九条道家は九条良経の子どもであるということ以外に特色のない一四歳の少年である。藤原摂関家の子息は若くして議政官の一員に名を連ねるのが通例であるから一四歳の権中納言も珍しくはないのだが、若き少年が議政官で権力を発揮するとしたら父や祖父が現役の貴族として健在であることが必要条件となる。最低でも出家はしておらず、議政官の一員もしくは摂政、関白、太政大臣のいずれかの役職を務めている者が背後にいないと、発言権も強固な物とならない。
かといって、九条兼実が還俗して再び朝廷に舞い戻るのは不可能である。そもそも舞い戻る場所がない。九条良経が亡くなったのだから摂政が空席になったではないかと思うかも知れないが、空席となった摂政には前任の摂政である近衛基通の子、左大臣近衛家実が就任している。九条良経の急死に伴う摂政就任であり、かなり慌ただしい形での摂政就任であったものの、空席は埋まっている。
これを九条兼実の側から見ると、摂政の地位がライバルである近衛家のもとに移ったことを意味する。法然に対する対処だけを考えると、近衛家は九条兼実と違って法然に帰依しているわけではないので既存寺院からの要求を受け入れること自体は特に問題ないという位置づけである。信仰の問題ではなく、九条家の事実上のトップである九条兼実に対するダメージを与えることができるのだから、寺院勢力からの要求を受け付けることは問題ないというスタンスだ。
摂政に左大臣近衛家実が就任ことの効果は三月三〇日にさっそく現れた。
この日、行空と遵西の両名を処罰するという宣旨が布告されたのである。
同日、法然が行空と遵西の両名を破門にすると宣言したことで興福寺からの要求はいったん鎮静化した。ただ、多くの人はこのときの鎮静化を嵐の前の静けさと捉えていた。
ここで全く予想すらしなかった人物が事態の収拾に乗りだしてきた。
一四歳の権中納言九条道家である。
祖父の意見を受け入れて法然の庇護の意思を示したのだが、このとき、九条道家は自分のもう一つの背後を示したのだ。
実は、九条道家の母は一条能保の娘である。そして、一条能保の婚姻相手は源頼朝の実妹である。つまり、九条道家は前摂政九条良経の息子であると同時に、現役の鎌倉幕府の将軍である源実朝の従姉の息子であり、九条道家は鎌倉幕府と独自の関係を持てるのだ。無論、九条道家が鎌倉幕府を自由自在に統率できるわけではないが、将軍源実朝の近親者ともなれば鎌倉幕府とて黙っているわけではなくなる。
それを言うなら九条良経は源実朝と従兄弟同士の関係になるではないかとなるが、鎌倉幕府の他にも自らの権力行使のための要素が存在する九条良経と、鎌倉幕府のむき出しの武力を示す以外に自らの発言権を強める手段を有さない源実朝とでは、鎌倉幕府の存在の匂わせ方が大いに異なる。
これを興福寺の側から捉えると厄介極まりない事態になったと気づいたはずである。
法然の側に立っていた摂政九条良経がいなくなり、これでようやく今まで通りの仏教勢力へと戻れると思っていたところで、法然の側に立つと宣言した若者が登場し、しかも自らの背後に武力があることを匂わせたのである。
九条良経が亡くなったこと、また、この頃に麻疹(はしか)、当時の記録によると赤斑瘡(あかもがさ)の流行も見られたことから改元が検討され、四月二七日に元久から建永への改元が決まり、ただちに布告された。
改元してもただちに従来の問題が解決するということはなく、改元直後の建永元(一二〇六)年五月に再び興福寺から法然らに強い処分を求めるよう訴えが届き、朝廷では激しい協議が繰り返されたものの、今回はさすがに興福寺の要求に従うわけにはいかないと考えていた貴族が多かったことに加え、権中納言九条道家が背後に控える鎌倉幕府の圧力を暗に示した上で興福寺の要求を拒否するよう訴えたことで、興福寺からの圧力は次第に弱まり、さらに興福寺主導の法然への攻撃網から延暦寺が離脱するなど勢力は弱くなっていった。
それこそ法然のはじめた浄土宗が堂々と信仰でき、布教でき、既存寺院から脱却する自由も復活したかのようであった。興福寺の従来からの圧力手段である春日神木を用いた強訴も見られることなく、このまま時期が過ぎるように多くの人は感じた。
しかし、伏線は既に存在していたのである。
一つは興福寺と近衛家との接近、もう一つは後鳥羽上皇である。後鳥羽上皇に関連する伏線は実際に露顕したときに記すので、興福寺と近衛家との接近について記すと、興福寺は藤原氏の氏寺である。そのため、興福寺の別当、すなわち、興福寺のトップを務める僧侶は藤原氏と関係を持つのが普通である。
その興福寺の別当が上洛して、摂政左大臣近衛家実の元を訪れた。名目としては近衛家実の摂政就任を祝ってのことであるが、かつてと違っていまや藤原氏は一枚岩ではない。近衛家と九条家が摂関の地位を巡って争い、そこには協力関係などない。摂政は近衛家の近衛家実のものとなったから、藤原氏全体の氏寺である興福寺の別当が摂政就任を祝うために近衛家実のもとを訪問したとなると、興福寺が九条家ではなく近衛家を選んだことを意味するのだ。
裏を返すと、近衛家は興福寺の僧兵の武力を手に入れることに成功したとも言える。九条家が鎌倉幕府を利用できると示したように。
さて、九条家が鎌倉幕府を利用した圧力を用いて京都とその周辺からの寺社勢力からの圧力に対抗したことを、肝心の鎌倉幕府は知っていたのか?
結論から言うと知っていた。
ただし、黙認であって是認ではなかった。
九条家と源実朝との血縁関係は理解しているし、鎌倉幕府の武力が一四歳という若き貴族の行使できる唯一のバックボーンであることも理解できている。問題は、その度合いである。
九条道家自身は問題が無くとも、その周囲にまで問題が波及し、さらには九条家の指針が他にも影響を与えるとなると、鎌倉幕府にとって看過できることではなくなるのだ。
その象徴的なエピソードが建永元(一二〇六)年五月六日のこととして吾妻鏡に記録されている。
この日、伊勢神宮のトップを務める従二位大中臣能隆が鎌倉幕府に使節を派遣してきたのだ。
ちなみに大中臣氏は藤原氏と深い関係がある。いや、血筋で言えば藤原氏のほうが大中臣氏の傍流であるとも言える。何しろ、大中臣氏の一人である中臣鎌足の子孫が藤原氏だ。理論上は中臣が本家であり、その本流を守っているのが大中臣氏、藤原氏は中臣氏の支流であるということになっている。大の文字を冠して氏族としての権威高揚を図るなど苦心したあとが見えるのも、藤原氏になれなかった一族のリアルが垣間見えると言えよう。
中臣氏、そして大中臣氏は、貴族であると同時に神職でもある。仏教伝来以前は朝廷の宗教界の中軸を担い、仏教伝来に際しては強烈なまでの反発を示し、仏教伝来以後も神道を支え続けてきた大中臣氏は、仏教伝来から五〇〇年近くを経たこの時代にあっても、伊勢神宮のトップをはじめとするこの国の神道の重要位置を占めていた。藤原氏の権勢を認めてはいても、鳥居の内側では藤原氏とて大中臣氏に付き従う存在であるという自負があったのだ。
話を大中臣能隆からの訴えに戻すと、執事として自分に仕えているはずの加藤光員が、今は鎌倉幕府に仕える身になったとして大中臣氏からの支配を脱し、伊勢神宮の領地を勝手に私有地としてしまったというのである。さらに、鎌倉幕府の許可なく勝手に検非違使に任命されているのも問題ではないかとしたのだ。
苗字からわかる通り、加藤光員は藤原氏の一員である。佐藤、近藤、遠藤のように苗字の二文字目が藤である苗字は藤原氏の一員であることを示しており、近江国の藤原氏で近藤、遠江国の藤原氏で遠藤、加賀国の藤原氏で加藤、組織の二番目、すなわち佐(すけ)である藤原氏で佐藤というのが苗字の成立過程だ。大中臣氏からしてみれば、世俗的にはともかく、神社の中においては藤原氏とて大中臣氏より格下であり、しかも藤原氏の本流ではなく支流の、それも、貴族ではなく武士である人間が自分に逆らって土地を分捕るなと到底受け入れられない話である。
ただ、現実問題、殴り合いになったら負ける。
そもそも集めることのできる軍勢の数があまりにも違いすぎる。大中臣氏の考えるところの正義を成立させるには、この時代最大の武力集団である鎌倉幕府を頼るのが最も確実である。それに、加藤光員自身が鎌倉幕府の御家人を名乗っているのだから、鎌倉幕府から処罰が発せられれば、加藤光員とて受け入れざるを得なくなる。
北条義時、中原広元、三善康信といった御家人達が中心となって協議を重ねた結果、鎌倉幕府からの回答が示された。加藤光員が伊勢神宮の所領に侵食していることを非難し、ただちに返却すること、ただし、検非違使の就任については後鳥羽上皇からの直接の任命によるものであるために不問とすること、以上である。
翌日、加藤光員からの弁明があり、自分が手にした所領は新たに開墾した土地であること、伊勢神宮に対して相応の寄附をしていることも示したため、鎌倉幕府からは加藤光員に対してこれ以上追求しないこととした。また、伊勢神宮の側も検非違使については後鳥羽上皇の任命ゆえにやむをえないこと、所領の保有権について鎌倉幕府が明言したことを以て満足いく回答とし、これで矛を収めることとした。何と言っても、末端とは言え藤原氏の一員が伊勢神宮に屈したのであるから文句の付ける内容ではなかったのだ。
伊勢神宮は皇室につながる特殊な宗教施設であるために他の寺社と大きな違いがあるが、それでも鎌倉幕府が宗教の権威と後鳥羽上皇の権威を尊重したことの意味は大きかった。
改元の効果があったのか、それとも伊勢神宮に対する鎌倉幕府からの回答が穏当なものであったのか、建永元(一二〇六)年の夏は平穏な情勢が続いていた。京都も鎌倉も火種が燻っていないと言えば嘘になるが、ついこの前のような混迷は起こっていないように見えていた。
この頃の後鳥羽上皇の記録を見ても、非道ゆえに眉をしかめることであるのはその通りではあるが、平和で呑気な光景と言えなくもない記録が出てくる。
建永元(一二〇六)年七月三日、後鳥羽上皇が水泳に熱心になりすぎた末、泳げない近臣たちを二〇名ほど船に乗せて賀茂川に連れ出した後、まとめて突き落として面白がったという、鬼畜というか非道というか、理解しがたいことをしている。
ちなみに後鳥羽上皇の水泳好きのエピソードとして、宇治川で周囲の者達と泳いだ後に、宇治川から平等院までフンドシ姿の一団となって歩いていったというのがあることは既に述べた通りであるが、その他にも大堰川で信じられないことをしている。
大堰川のほとりで楽団の演奏を聴いていた後鳥羽上皇は、楽人たちに水練だとして水に入れ、そこで篳篥(ひちりき)を吹くように命じたという。楽人の一人である安部季遠は篳篥(ひちりき)を持ってなかったので陸に取りに上がったが、三宅守正はフンドシの中に篳篥(ひちりき)を隠し持っていたので陸に上がることなく、水に浮かびながら篳篥(ひちりき)を吹いたので後鳥羽上皇に褒められたというのがこのときの伝承だ。事実だとすれば最低なパワハラとしか形容できない。
なお、後鳥羽上皇のパワハラについては記録に残っているのだが、その翌日以降に、確定はしていないものの後に大きな意味を持つ動きが鎌倉で起こったことが推測されている。
何があったのか?
中原広元が公文所別当を辞して隠遁しようとしたようなのである。
確認できるところでは、建永元(一二〇六)年七月四日に発給された文書に中原広元の名が記されているが、現存する範囲ではその日付以降の文書に中原広元の名が登場していない。つまり、事実上はともかく形式上は公文所別当の地位から中原広元が退いたことになったらしいのである。
断言できないのは、辞職してから一〇年後の建保四(一二一六)年に中原広元が政所別当に復職したという記録が出てくるのであるが、吾妻鏡の建永元(一二〇六)の記録を追いかけても、建保四(一二一六)年の記録を追いかけても、中原広元の別当辞任や再就任についての記録も無く、また、隠遁の記録も無い。それどころか、中原広元は別当を辞任していたはずの一〇年間も、これまでと同様に幕府の主要メンバーとして登場し続けているのである。
中原広元は源平合戦中の元暦元(一一八四)年に鎌倉まで出向いて鎌倉方の一員になった時点で既に従五位上の位階と安芸介の役職を得ていた貴族である。そのため鎌倉では特別な人材であった。ただし、源頼朝のもとに出向く前の中原広元は京都にいる数多くの貴族の一人でしかなく、九条兼実のもとに侍る数多くの貴族の一人でしかなかった。その中原広元が今や鎌倉幕府における文人官僚のトップとして申し分ない活躍を見せている。九条兼実は自分の日記の中で、中原広元が鎌倉で地位を掴み順調に出世をしていることや、鎌倉の代表として京都まで出向いて京都の貴族達と対等に渡り合っていることに、嘆き半分、嘲笑半分の文書を書き記しているが、これは中原広元を活かせなかった九条兼実のほうが失敗であったとするしかない。あるいは、源頼朝の政治家としての高さがあったからこそ中原広元を活かせたとすべきか。
その中原広元は建永元(一二〇六)年時点で五九歳になっている。年齢だけを見れば第一線から退いてもおかしくない。そして、おそらく中原広元は自らの勇退と後継者への世襲を狙っていたと思われる。
鎌倉幕府はたしかに既存宗教界の権威を認めたが、それはあくまで伊勢神宮の特殊性を勘案してのものであること、検非違使に鎌倉幕府の御家人を送り込んでいること、検非違使については鎌倉幕府から人員を送り込んでいるが、その任命権は後鳥羽上皇をはじめとする皇室権力に基づいており、鎌倉幕府は協力関係にあること、そして何より、後鳥羽上皇が既存の寺社勢力の強訴に対する強硬な姿勢を打ち出したならば鎌倉幕府としてもその姿勢に同調することは忘れてはならないことであった。
興福寺をはじめとする寺社勢力にとっては、法然による浄土宗の進展により大ダメージを受け続けていることは無視できる話ではなく、鎌倉幕府の姿勢という大問題は解決していないのだ。しかも、その問題を対処するための強訴は通用しそうになく、足並みを揃えていたはずの比叡山延暦寺も離れたこともあってダメージを回避する術(すべ)を失いつつあった。ただ一つを除いて。
その一つとは何か?
亡き源頼家の息子である善哉(ぜんざい)が鶴岡八幡宮に預けられ、鶴岡八幡宮の別当阿闍梨尊暁のもとに弟子入りしていることは既に示されており、将来は宗教界に入ることが確実視されていた。後に公暁と名乗ることとなるこの幼児を手中とすることで、既存宗教界は鎌倉幕府に食い込める可能性があるのだ。ただし、そのためには鶴岡八幡宮を離れて京都とその周辺の寺院にまで善哉を連れてこなければならない。僧侶になろうとする者が地方から京都とその周辺の有力寺院に来て受戒することはごく普通のことであり、その有力寺院に自分達の寺院が選ばれれば計り知れぬメリットを享受できる。
もっとも、そのような寺院勢力の企みを黙って見ているほど鎌倉幕府も甘くはない。何と言っても善哉は数少ない源頼朝直系の男児なのだ。源実朝の身に何かあったら善哉が第四代将軍に就任する可能性だって存在する。その第四代将軍になる可能性のある男児を寺社勢力に取り込まれるのを鎌倉幕府が黙って見ているわけはない。北条政子は祖母として、自分の孫である男児を源実朝の猶子とするよう働きかけ、一〇月二〇日には正式に源実朝の猶子とすることに成功させたのである。これにより、善哉に対する他者からの介入を減らすことは可能となった。そう、あくまでも減らすのであって、無くすのではなかった。
もっとも、この時点の源実朝はまだ数えで一五歳、現在の学齢で言えば中学生の少年である。跡継ぎがまだ生まれていないと言っても、この年齢で跡継ぎがいないことはまだ慌てる話ではない。善哉を猶子にしたと言っても将軍位継承者の筆頭となるのは考えづらいことであった。そう、この時点では考えづらかった。
法然の二人の弟子を流罪とするとしたのは元久二(一二〇五)年一二月に後鳥羽上皇が発した院宣である。その翌年に興福寺からさらなる処罰の要求が来たが、そのときは後鳥羽上皇が何かしらのアクションを起こした記録はない。どうやらこの頃の後鳥羽上皇は、法然の浄土宗とも、興福寺らの既存仏教勢力とも、一定の距離を置いていたようなのである。あるいは、前者は胡散臭く、後者は鬱陶しいと感じていたというところか。
ところが。後鳥羽上皇の感情が一気に法然への反発に傾く出来事が起こってしまったのだ。
院宣からおよそ一年をへた建永元(一二〇六)年一二月頃、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている隙に、後鳥羽院の女性達が法然の弟子の開催する念仏法会に参加しただけでなく、最低でも女性二人が出家したというのだ。それも、女性達のほうが法然の弟子の元に通うのでなく、法然の弟子を後鳥羽上皇不在の御所に招き入れた上に、一晩をともに過ごしたというのである。ただし、このことは愚管抄であくまでも噂として記されているだけであり、後にこの二人の女性の名を、一人は松虫姫、もう一人を鈴虫姫という名前の女性だったと記した歴史資料が出てくるが、その史料の初出は江戸時代末期、広く見られるようになったのは明治時代からであり、同時代史料には出家した二人の女性の名、あるいはそのヒントとなるものも伝えられておらず、二人の女性の名は江戸時代末期に創作で名付けられたものであろう。
それでも熊野詣から戻ってきてみれば院で働く女性が何名かいなくなって尼僧になっていたことは確実であり、後鳥羽上皇としては憤懣としか形容できない心情であったろう。おまけに、彼女達は法然の弟子達と性的関係にあるという噂まで広まったのだ。謎の新興宗教団体が院の女性を招き入れて出家させたというのだから、これはもう大スキャンダルである。いったんは鎮静化していた社会問題化が、ここに来てさらに再燃するようになったのだ。正確に言えば、怪しいとされていながら怪しさの痕跡を見つけることができなかったために社会問題化させることに失敗していたところで絶好の攻撃材料を見つけたと言ったところか。
これは法然や浄土宗そのものに対する攻撃材料を探してきた面々に絶好の攻撃材料をもたらした。しかも、後鳥羽上皇を取り込むことに成功した上での攻撃材料を。
女性の名は現在まで残っておらず、あるのは後世の創作のみであるが、後鳥羽上皇の御所に入り込んだ僧侶の名が安楽と住蓮であることはこの時代の史料から判明している。さらに年が明けてから徐々に後鳥羽上皇のもとに情報が集まり、建永二(一二〇七)年二月、浄土宗に対する弾圧が始まった。これを「承元の法難」という。なお、承元とはこの年の一〇月に改元した後の新たな元号であり、法難のスタート時の元号はあくまでも建永である。
これで意味するとこはある程度理解できるであろう。
ここから書き記すのは、あくまでも浄土宗に対する弾圧のスタートなのである。
まず、後鳥羽上皇の御所に入り込んだ安楽と住蓮の二人の僧侶に対し死罪を命令。安楽は六条河原で死罪となり、住蓮は近江国馬淵で処刑された。また、西意善綽房と性願房の両名も死罪と決まり、ただちに死が命じられた。
さらに、二月二八日には法然と、法然の七名の弟子を流罪とすると発表しただけでなく、僧籍も剥奪され民間人へと戻された。法然は藤井元彦と名を改めさせられた上で土佐国へ、法然の弟子の一人である親鸞は藤井善信と名を改めさせられた上で越後国へ配流と決まった。
そして、浄土宗は布教禁止となったのである。
ただし、法然については九条兼実の庇護もあり、土佐国に渡る途中の讃岐国に留まることができ、讃岐国でひっそりとではあるが浄土宗の布教を続け、越後に流された親鸞も越後国で布教を続けていたようである。九条兼実は当初、法然に対する流罪そのものを白紙にするよう求めていたようであるが、さほどの日数を経ることなく法然追放を受け入れざるを得なくなっていた。九条家当主となった一五歳の権中納言九条道家を中納言に昇格させると同時に左近衛大将に任命する代わりに法然追放を受け入れろとあっては、九条兼実とて黙るしかない。
なお、流罪となる前の親鸞の僧名は善信、房の名前も記すと善信房綽空であり、善信の僧名が藤井善信という俗名に転化させられたことから、流罪を機に愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)へと名を変え、出家しているようでしていない、かといって、俗人であるようで俗人でもない、中途半端な立場を維持することで自らの布教を継続していたとある。ゆえに、建永二(一二〇七)年以前の同時代史料に親鸞という名はなく、以降の史書にはじめて親鸞の名が登場する。
以上が「承元の法難」の始まりであるが、実はこの記録、いくつか矛盾点が存在する。法然が讃岐国に流され、法然の弟子の一人で新たに親鸞と名乗るようになった僧侶が越後国に流されたことは間違いないのだが。死罪になった四名の僧侶、そして、浄土宗の布教禁止についての記述があやふやなのである。
まず、安楽と住蓮の二人の僧侶が死罪となったことの記録は、浄土宗の記録と愚管抄にしかない。当時の貴族の日記のどこを探しても存在せず、そしてもっとも肝心なこととして、朝廷の公式記録に存在しないのである。それでも愚管抄には安楽と住蓮の二人の僧侶がこのタイミングで殺害されたことは記しているから、ここで二名の僧侶の殺害があったことは否定できない。そのため、後鳥羽上皇の命令による死罪ではなく、検非違使による逮捕時の殺害があったのではないかとする説がある。検非違使が容疑者を逮捕する際に容疑者を殺害してしまうことの珍しくなかった時代であることを踏まえると、後鳥羽上皇が死罪を命じたのではなく、逮捕を命じたら亡くなってしまったと考えられるのだ。
次に、西意善綽房と性願房の二名の僧侶であるが、両名とも後世の浄土宗の記録にはじめて登場する僧侶であり、この時代の史料には存在しない。つまり、自分達の被っている法難の被害をより強調するために生みだした架空の人物、あるいは、この頃に病気や事故で亡くなってしまった浄土宗の僧侶を法難の被害者の一人とカウントしたのではないかとする説が出てくる。
そして最後に布教禁止であるが、実は肝心のこの記録が存在しないのだ。浄土宗や、後に成立する日蓮宗の記録に、建永二(一二〇七)年に布教禁止を命じる動きがあったことを記しているものの、具体的にいつ頃に布教禁止を命じたのか不明なのである。先に建永二(一二〇七)年二月のことと記したが、実際には一月中に、布教禁止ではなくより弱い形での布教の制限があった可能性が高い。後鳥羽上皇が命じたのは浄土宗の面々のうち問題を起こした人物についての処罰であって、浄土宗そのものの行動停止ではなかった可能性が高いのである。
法然の浄土宗に対する弾圧をくいとめる最大の盾となっていたのは、鎌倉幕府の武力を背景にした九条家であり、九条家の当主たる中納言九条道家である。
信仰の自由を守るというより、浄土宗への弾圧を求める興福寺ら既存勢力を利用する近衛家に対抗するために、自らのバックボーンを圧力材料として利用しつつ、浄土宗への弾圧を否定するという自らの姿勢を打ち出したと言えよう。
九条道家自身がそのことを考えたのか、あるいは九条家の思惑を打ち出した結果か、九条道家はよくやっていたとするしかない。ただし、彼はまだ若かった。若すぎた。何しろまだ一五歳だ。九条家の名を前面に掲げ、鎌倉幕府の圧力を背景にして、それでようやく中納言としての権勢を振るうことができるというのが、議政官における九条家当主九条道家の立場であった。
その立場をさらに弱めてしまったのが建永二(一二〇七)年四月五日のことである。この日、九条兼実が五九年間の生涯を終えたのだ。九条兼実は建久七年の政変で地位を追われ、出家して仏門に入った後は、表向きは政界を離れたということになっていたが、何と言っても藤原摂関家である九条家のトップだ。九条家当主の地位が息子の九条良経、孫の九条道家のもとに移っても、九条兼実の存在はなおも大きいままであり、九条道家が議政官で発言をするとき、議政官の他の面々は若造の発言ではなく、かつての摂政関白太政大臣九条兼実の発言として受け取ったのだ。
九条兼実の日記は死の四年前である建仁三(一二〇三)年一月五日で終わっている。ゆえに、息子の九条良経の突然の死に際して、九条兼実がどのような心境であったかを伝える歴史資料はない。しかし、それからの九条兼実のプライベートの様子を伝える史料は存在する。藤原定家の日記がそれで、藤原定家によると、前年五月の時点で既に九条兼実は病気に苦しみ、自らの命の終焉を覚悟していたようである。その上で、孫の藤原道家を支え、帰依している法然の助命嘆願として後鳥羽上皇に使者を派遣している。九条兼実が病床にあって一五歳の孫を懸命に支えていたことは誰もが知るところであり、そのこともあって九条道家の発言は議政官で受け入れられたのだ。武力も、権勢も、無視できるものではないが、人道もまた、無視できるものではない。
後鳥羽上皇は浄土宗を、そして法然を許すことはなかったが、法然の命を助け出そうとする九条家を後鳥羽上皇は保護するのである。たしかに浄土宗の伸張は看過できるものではなかったが、かつての白河院や鳥羽院の頃のように既存寺院の勢力には無力である院という構図を受け入れるわけにもいかない。また、摂政関白の地位が近衛家に戻ったことは、恒久的ではないにせよ藤氏長者が近衛家のものとなったことを意味する。そして何より、九条家は鎌倉幕府の武力を利用できる立場にある。
これらを考えると、後鳥羽上皇が九条家を保護するというのは間違った選択ではないと言えよう。
それに、後鳥羽上皇はこれまでずっと年少者として自分より歳上の人達とばかり接してきた人生であった。その意味でも、九条道家や源実朝といった、自分より歳下でありながらトップとして支えなければならなくなった人物に対して親近感を抱くのは理解できよう。