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承久之乱 3.公卿、諸大夫、侍

2026.03.14 21:10

 時代は鎌倉幕府の時代となっている。

 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実際に戦った人達の中には存命中の人も珍しくなかったし、その中には源平合戦の敗者である平家の面々も含まれていた。

 こうした平家の落人(おちうど)達の中には、鎌倉幕府は無論、後鳥羽上皇も認めず、土御門上皇や順徳天皇も認めず、あくまでも帝位は壇ノ浦の戦い以降行方不明となっている安徳天皇であるという前提のもとに生きる落ち武者となっている者もいたし、そこまで極端でなくとも自らが源平合戦の敗者であることを認めてひっそりと生きる者もいた。

 建保元(一二一三)年一二月一三日、源平合戦の敗者であることを認めて隠遁生活を過ごしていた人物の一人である高倉天皇中宮建礼門院平徳子が亡くなった。

 安徳天皇の生母で、壇ノ浦の戦いで自らも海に身を投げるも鎌倉方の武士に助け出され、京都へと護送された建礼門院平徳子は、京都護送後に隠遁生活を選び、出家することで社会と自らとの関係を閉ざした暮らしを選んだ。

 その彼女が亡くなったのが建保元(一二一三)年一二月一三日である、というのが通説である。

 ところが、あくまでも有力な説の一つという扱いなのだ。

 有力な説に留まる根拠の一つとなっているのが、藤原定家の日記に建礼門院平徳子の死の記述がないことである。吾妻鏡に記録が残されていないのはまだわかる。北条家にとっての都合に合わせた歴史書である吾妻鏡の場合、源平合戦の敗者であるとはいえ悲劇性を伴わせる彼女の死の記録を残すのはプラスとはならない。だが、藤原定家の日記に記載が無いというのは理解しがたい。この時代の貴族の日記とは自身の備忘録ではなく子孫の参考資料となることを想定している。つまり、中宮でありながら国家的戦乱の敗北者でもある女性の死のニュースというのは、憚られるような言い方を敢えてすると、人生で一度あるかないかという希な出来事である。その出来事を藤原定家が書き記さないというのは理解できない話なのだ。

 現在に生きる我々がこの記録の残り方から把握できるのは、高倉帝の中宮にして安徳帝の生母である女性であるにもかかわらず、その人を以ってしても人生の終わりが明瞭化されないというのが源平合戦の敗者の迎えた現実だということである。人目につかぬ暮らしをしていたこともあって、彼女の人生を伝える資料はほとんどなく、平家物語には建礼門院平徳子の死の記述があるものの、建久二(一一九一)年二月に亡くなったとするという、現実的とは思えない記述である。

 一説によると、建保元(一二一三)年一二月に亡くなったのは別の皇族の女性であり、この時点ではまだ建礼門院平徳子が亡くなっていないともいう。その説も踏まえ、残されている記録から紐解くと、建礼門院の死という重大ニュースでも世情を賑わせるに至らなくなったという、源平合戦の敗者の迎えた現実が示されたともいえよう。


 本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。貴族としての藤原定家は古典の教科書に親しんだ高校生達の心情に浮かぶイメージを激変させ、古典文学を愛好する人達をドン引きさせるレベルのパワハラ気質にあふれた暴言を隠さぬ人物であるが、それはそれでリアルな同時代史料でもある。

 その藤原定家が源実朝を刺激したのが建暦三(一二一三)年一一月二三日のことである。この日、藤原定家の家に代々伝わる万葉集の写本の一部が源実朝に献上されたのである。さすがに万葉集の原本ではないものの、この時代であっても既にかなり古い段階での写本という位置づけで最上級の貴重品と扱われてきたため、源実朝への上納品としてはこれ以上ないとも言えよう。その写本を藤原定家は飛鳥井雅経に託し、飛鳥井雅経から鎌倉へと万葉集の写本を送られたのであるが、藤原定家が家宝ともいうべき写本を源実朝に献上したのは藤原定家なりの打算が存在していたからである。

 伊勢国小阿射賀御厨、現在の三重県松阪市に所有していた藤原定家の荘園に常駐している地頭、吾妻鏡によると渋谷左衛門尉という名の地頭を荘園から排除してほしいというのが藤原定家からの要望であり、万葉集の写本はその見返りなのだ。鎌倉幕府による統治の始まる前のように自分の荘園を戻してほしいというのは全ての貴族や寺社、院が願っていたことであり、ごく稀に成功している者もいたが、ほとんどは要望を出す機会すら得られることなく耐え続けていた。藤原定家も本来であれば耐え続けなければならない貴族の一人であったのだが、この人は和歌があった。和歌を利用すればごく一部の人しか手にできずにいる鎌倉幕府からの赦免を得られるかもしれないと考えたのだ。

 飛鳥井雅経から鎌倉へ送られた万葉集の写本はいったん中原広元のもとに託され、中原広元から万葉集の写本を受け取った源実朝は、即座に藤原定家の願いを叶え、伊勢国にある藤原定家の荘園は地頭を置かない、すなわち、鎌倉幕府からの赦免を得られる荘園となることを決めたのである。

 藤原定家にしてみれば、家伝である万葉集の写本を手放したのであるから痛手ではあったはずだが、それで荘園が取り戻せたならば痛手と十分に相殺できる話である。

 そしてこれは完全に打算の産物であるのだが、藤原定家のこの行動は源実朝に一つの衝動を呼び起こした。

 自撰の和歌集を編纂することである。

 それが「金槐和歌集」である。

 現存する金槐和歌集の奥書に従えば、藤原定家から万葉集の写本が送られてきてから一ヶ月も経たない建暦三(一二一三)年一二月一八日に完成したのが金槐和歌集である。ただし、吾妻鏡の当該日付の記事を見ても、また、その前後の記事を見ても、源実朝が金槐和歌集を編纂したことの事績が無い。

 ちなみに建暦三(一二一三)年一二月五日に建暦から建保への改元があり、改元の知らせが一二月一五日に届いたことから、本来であれば金槐和歌集の奥書は建暦三年ではなく建保元年であるべきであるが、改元前の元号を用いていることから、源実朝の自撰はそれより前から進めていたのであろうことがわかる。

 さらに注意すべきところがある。

 金槐和歌集自体は広く公開されたものであるが、その中の原本ともいうべき一冊を保有していたのは藤原定家なのである。しかも、歌人にして国文学者でもある佐佐木信綱の手によって藤原定家の保有していた金槐和歌集が発見されたのは昭和四(一九二九)年のことであり、それまでは貞享四(一六八七)年に版行された金槐和歌集が一般に流通していた。そのため、現代に生きる我々は、藤原定家の保有していた金槐和歌集である定家所伝本と、江戸時代に刊行された金槐和歌集である貞享本の二種類の金槐和歌集と接することができるのだが、この二つの金槐和歌集には大きな違いがある。定家所伝本は六六三首を採録しているのに対し、貞享本は七一九首と、後者のほうが多いのである。どうして後者が多いのかの理由も判明しており、江戸時代に流通していた時点で貞享本は「柳営亜槐」が再編した、すなわち、征夷大将軍であり、かつ大納言でもある人物が改編したことの奥書が存在していたのである。ただし、どの征夷大将軍であったのかが秘匿されてきていたのだ。

 江戸時代に生きる人達は、本来あるべき金槐和歌集があり、それを鎌倉幕府や室町幕府の将軍の誰かが改編したと考えていた。ただし、誰が改編したのかも、どのように改編したのかも、ほとんど判明していなかった。それが、昭和四(一九二九)年に原本と思われる一冊があったこと、さらに奥付も判明したことで金槐和歌集の本来の形がわかり、六六三首のうち最初の三首は後鳥羽院や朝廷への尊敬の念を、最後の三首は後鳥羽上皇より院の御書を受けた時の感激を伝える和歌であることから、本来の金槐和歌集は和田合戦後の混迷を反映させた構成になっていることが判明したのである。ちなみに金槐和歌集を改編した将軍は誰なのかについてであるが、室町幕府第八代将軍足利義政、もしくは、その息子の第九代将軍足利義尚のどちらかである可能性が高い。


 鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。

 栄西といえば南宋に留学して禅宗を学び、当時の日本に最先端の教えである禅宗をもたらし、臨済宗を開いたことに加え、この時代のベストセラー作家であったことも既に記した通りである。栄西の著した書物としては現在も名を残す「喫茶養生記」が有名であるが、この時代の栄西の書籍として一大ブームとなっていたのは「興禅護国論」や「日本仏法中興願文」、すなわち、日本国の実情を踏まえた上で宗派の教えや仏教の教えを広めることを目的として記した書籍であり、三年前に著された喫茶養生記は建保元(一二一三)年時点ではまだそこまで有名ではなかった。

 現在でも、かなり難しいと思われる、それこそ自宅の書家を飾っているだけですごいと思わせる書籍を著す人が、少し柔らかめの書籍を著すこともある。中にはそうした書籍を入り口に、その人がこれまで書き記してきた書籍を買うこともあり、謹厳実直と思わせる人の著す親しみやすい書籍は、ときとして、著者の世界に読者を引き込む最良の入り口になる。

 三年前に書き記した喫茶養生記が一大ブームとなったのが、年が明けた建保二(一二一四)年の初頭である。この頃から鎌倉の市場に茶が出回るようになったが、茶そのものが超高級品である上に、茶という飲み物があることは知られているもののどのように飲めば良いのか、茶を飲むことでどのような効果が得られるのかほとんどの人は知らなかった。

 そんな最中、鎌倉に滞在していた栄西が源実朝に喫茶養生記を差し出した。吾妻鏡の建保二(一二一四)年二月四日の記録によると、栄西が源実朝の元を訪れて、少し体調を崩していた源実朝のもとに、良薬であると示した上で寿福寺から茶を取り寄せて源実朝に差し出したと同時に、茶の飲み方、茶を飲むことで得られる効用を説いた本を差し出したとある。ちなみに喫茶養生記は茶について記した書籍であるが、同時に禅についても記した書籍であるため、栄西の著作を読むためには、茶そのものだけでなく、茶と禅についての関係性、特に、禅の修行における茶の役割を把握しておかなければならない。それを踏まえて、栄西は茶と喫茶養生記を差し出し、源実朝も自身の体調不良を自覚した上で、茶と喫茶養生記を受け入れた。源実朝はおそらく、茶の存在は知っていたであろうが、茶を飲んだのはこのときが最初であると思われる。

 そして、このときから茶が鎌倉幕府で受け入れられるようになるのである。もっとも、喫茶養生記に基づいて茶を愛好できるようになったのは一部の富裕層だけであり、茶はまだまだ高級品であり続け、まだまだ庶民がそう簡単に飲めるようにはなっていない。


 前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであったことは既に記した通りである。

 源実朝はその後、大倉に新しい寺院を建てることとし、後に大慈寺と名付けられることとなる新たな寺院の開眼供養を検討した。

 鎌倉という都市は、面積や人口を考えてもかなり寺院が多い都市である。それも、昔からある寺院というわけではなく、平安時代末期以降に新しく建立された寺院が多い都市である。戦場を駆け巡る宿命を持つ鎌倉武士達がそれだけ宗教の救いを求めたというのは理由の一つとして挙げられよう。また、栄西の説く臨済宗が広く受け入れられたように既存仏教と一線を画す教えはこの時代の人にとってかなり魅力的に映ったこともその通りである一方、既存仏教の側にとっても仏教のあるべき姿を実践する都市として新興都市である鎌倉は新たな布教先として魅力的に映ったであろう。

 ただ、それだけが鎌倉に寺院の多いことの理由とはならない。

 ホテルや旅館などないこの時代、寺院は宿泊施設でもあったのだ。それも、軍勢を収容できるだけの施設として機能したのである。

 源実朝が新たな寺院を御所のある大倉の地に建立させたことは、信仰心だけでなく実利的な意味も存在したのである。鎌倉は東と北と西を山に、南を海に囲まれた天然の要塞の中の都市であるが、和田合戦のように鎌倉の市街地での戦闘を念頭に置くと、大倉御所も、その周囲も、決して防御力が高いとは言えない。後の戦国時代になると防御力の高い城が全国各地に建設されるようになるが、この時代の建築技術ではそこまで防御力の高い建造物を建てることは難しい。鎌倉に入ってこようとする軍勢を鎌倉の入り口で防ぐことはできても、都市の内部に入り込んでしまった軍勢からどうやって守るのかを考えたとき、御所の近くに寺院を建立するというのは正しい選択肢である。

 ここまでは鎌倉幕府の内部で意見の統一を得ている。

 問題は、新たな寺院をスタートさせるにあたっての開眼供養に誰を招くか。

 ここで源実朝と御家人達とで意見が割れたのだ。

 源実朝は京都内外の寺院から高僧を招くことを主張したのに対し、中原広元、三善康信、二階堂行村といった面々が反対したのだ。なお、この場に北条義時もいたことは判明しているが、北条義時がどのような意見であったのかを吾妻鏡は記していない。

 反対派の意見は、鎌倉まで高僧を招いた場合に要する費用、往復の交通費に鎌倉での滞在費用が多大な金額になることを主張し、そのような費用をかけるならば鎌倉にいる僧侶に開眼供養をさせるべきとしたのである。

 吾妻鏡には源実朝が先例に則って高僧を招こうとしたのを中原広元らが反対したとしているが、この前後の歴史的な出来事を考えると、源実朝は単に先例重視で高僧を招こうとしたのではないことがわかる。前年の和田合戦の影響で京都における鎌倉幕府の武力のプレゼンスが落ちてきているのである。それが延暦寺や園城寺、興福寺といった寺院の僧兵達の暴虐にもつながっているのだ。源平合戦の渦中で一度は灰燼に帰した園城寺や興福寺であるが、寺院として復活すると直ちに僧兵達の跋扈も復活した。それでも鎌倉幕府から派遣された御家人が六波羅に滞在し、京都内外に武力で睨みを効かせることで寺社の武装デモを事前に防ぐことに成功していたが、和田合戦はその睨みを破壊した。実際にはそうではなかったが、ほとんどの人は和田合戦によって鎌倉幕府が京都内外に利かせている睨みが無くなった、あるいは、無くならないにしても睨みが減ったと考えたのだ。

 源実朝がここで高僧を鎌倉に招くことを、しかも、誰を招くかは公表せず、ただ高僧を招くことだけをニュースとして京都に届けたなら、各寺社は互いに自分たちの寺院から鎌倉に僧侶を送り出そうとして対立状態になる。その上で、各寺社は鎌倉幕府との関係を構築せざるを得なくなり、その関係構築が京都内外における鎌倉幕府のプレゼンスの復活にもつながるのだ。


 もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。

 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日のことである。

 この五日後、鎌倉に一つの知らせが届いた。

 鎌倉で検討を繰り広げた三日前の四月一五日、比叡山延暦寺の僧兵達が園城寺に襲撃を仕掛けたのだ。それも放火してまわり、園城寺の主だった建物がことごとく灰になったというのだから異常事態とするしかない。

 事件の始まりは前日の四月一四日の日吉神社の祭礼である。

 近江国大津の神人から日吉社の境内社である唐崎神社へ差し出される御供(ごく)、すなわち、お供え物が例年通りの量ではないとして延暦寺も日吉社も大津の神人を責め立てたのであるが、大津の神人がこの仕打ちに黙って耐えているわけではなかった。小浜の相撲清四郎という人物が一族を引き連れて船に乗って御供(ごく)を集める担当の役人に弓矢で攻撃を仕掛け、その役人と行動を共にしていた僧侶らを傷つけたのだ。

 これに黙っていられる延暦寺ではない。翌朝には僧兵を大津港に派遣し、前日に弓矢で攻撃をしかけた者を探し出そうとしたところ、待ち構えていた園城寺の僧兵達が出てきて応戦。ただちに戦闘状態となったのである。ここまででも十分に物騒な話であるが、延暦寺は普通では無い。僧兵を派遣したと言っても延暦寺の総力を向かわせたわけではなく先遣隊を派遣したに過ぎない。その先遣隊が現地で園城寺の僧兵達と争っているときに、延暦寺の僧兵隊の本体が一気に襲撃を仕掛けてきたのである。こうなると園城寺はもはや延暦寺の敵ではなく、園城寺は延暦寺の僧兵達になされるがままという事態に陥ってしまったのだ。

 一見すると突発的な騒動のように思えるが、よく考えると突発的ではない。それどころかかなり計画的な犯行ともとれるのだ。

 スタートは近江国大津で用意できた御供(ごく)の量が足りないことである。量が足りないことは前もってわかっていたことであり、また、直前になって足りないことを相手に伝えたわけでもない。このままでは足りなくなることがわかっており、それでも東奔西走してどうにかしようとしてもどうにもならず、やむなくその日を迎えてしまったのである。

 延暦寺の側も御供(ごく)が足りなくなることはわかっていたが、それを許すつもりはなかった。いや、ここで許すわけにはいかなかった。

 近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園城寺に事情を説明し支援を頼んでいたのである。近江国大津に住む者が延暦寺からの圧力を食い止めることを考えたとき、もっとも確実なのは園城寺に頼ることだ。園城寺を巻き込めば延暦寺からの圧力があってもどうにかなる。

 ただ、想定外であったのは延暦寺が僧兵を総動員したことであった。園城寺にしてみれば自らを頼ってきた人達のために行動したのであるが、それが園城寺を灰にする惨事を招いてしまったのである。

 この件が鎌倉に届いたのは四月二三日のこと。四月二五日には園城寺長吏の僧正公胤から鎌倉幕府に向けて園城寺の受けた損害を嘆く書状が届いている。

 さて、四月一五日の出来事が鎌倉に届いたのが四月二三日。さらにその二日後には園城寺から嘆きの書状が届いている。そのため、このように考えられるのである。

 源実朝はかなり早い段階で御供(ごく)の不足に起因する延暦寺と園城寺との間での暴発を把握していた。そして、源実朝は園城寺に肩入れすることで暴発を食い止めようとしていたと考えられるのだ。

 後に大慈寺と名付けられることとなる新たな寺院の開眼供養に際し、源実朝が園城寺から僧侶を招くことを考えていたのではないであろうか。それも、高僧招聘を公表することで鎌倉幕府は園城寺の側に立つと宣言し、鎌倉幕府の武力が延暦寺に対抗する構図になっていると示すことで、延暦寺の暴発を防ごうとしたのではないであろうか。

 この源実朝の意見に対して中原広元らが反対したのは、予算の問題もあるだろうし、そこに嘘は無かったと言える。ただ、予算は反対意見のメインでは無い。園城寺に肩入れすることで鎌倉幕府の武力が園城寺に組み込まれることで、延暦寺が完全に鎌倉幕府の影響範囲外になることを恐れたのではないであろうか。

 最大の僧兵勢力を要する比叡山延暦寺も、鎌倉幕府の軍勢と真正面からぶつかれば大敗するであろうことはわかっている。だが、大敗しようと、それこそ死を恐れぬ姿勢を示してでも、鎌倉幕府に対して刃向かう僧兵が現れる可能性は高いのだ。

 吾妻鏡は、比叡山延暦寺の僧兵達が徒党を組んで騒ぎを起こすことが多いことを書き記している。延暦寺が暴れ出しそうとなったらそれだけでニュースが駆け巡り、避難するが多発する。延暦寺対策は朝廷の予算も食いつぶし、騒動で被害を受ける民家の負担もあまりにも多いことを記した上で、比叡山延暦寺はこれまでに五回、園城寺を灰にしていると記している。

 白河院の時代の承保元(一〇七四)年六月九日。

 鳥羽院の時代の保安二(一一二一)年閏九月二日。

 崇徳院の時代の保延六(一一四〇)年閏五月二五日。

 二条院の時代の長寛二(一一六四)年六月九日。

 そして、今回が五回目であると吾妻鏡は記している。ちなみに、源平合戦期の治承四(一一八〇)年一二月に平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けたことは園城寺にとって忘れることのできない惨事であるが、延暦寺ではなく平家の襲撃によるものであるとして、吾妻鏡ではこのときのカウントから除外している。


 源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。

 まずは後者であるが、距離を置こうと考えたのは冷酷な判断である。園城寺は延暦寺と対抗し続けてきた寺院であるが、僧兵勢力を純粋に武力だけで考えると延暦寺のほうが圧倒している。園城寺と延暦寺とで僧兵同士の激突となった場合、かなりの可能性で園城寺が負ける。それも短期間で完敗を喫するという形で衝突は終わる。園城寺が敗れる場合の損害は園城寺がメインで、一般庶民の損害となると園城寺周辺の民家や農地のみで済む。また、戦闘は短期間で済むので被害を受ける人も少なくて済む。

 一方、仮に鎌倉幕府として園城寺に加担したならば、そして、園城寺と鎌倉幕府とが連合して延暦寺とぶつかったならば、おそらくは園城寺と鎌倉幕府の連合が勝つ。ただし、その際に発生すると想定される一般庶民の損害は莫大なものとなる。戦いは長期化するであろうし、失われる命がどれほどのものとなるか想像もできない。そもそも延暦寺が敗れる場合の一般庶民の損害は延暦寺周辺だけでは済まず、延暦寺と園城寺の間にあるほぼ全ての民家や農地に加え、近江国や山城国、さらには大和国に至る広範囲の一般庶民の暮らしがことごとく損害を受けることとなる。

 被害を受ける側からすればとんでもない話であろうが、どちらが少ない損害で済むかを考えると、園城寺が敗れるほうを選ぶのは、非人道的ではあるものの、理解しうる選択肢とも言える。

 これに対し、源実朝が園城寺に肩入れすることを主張したのは、そもそも僧兵同士の激突自体を無くす目的があったからである。そしてこれは、源実朝の独自の政策というわけではなく源頼朝の政策の継承である。

 建保二(一二一四)年五月七日、灰燼に帰した園城寺の復興のために大内惟義と中原尚友を責任者とし、宇都宮頼綱、佐々木広綱、源親長、内藤盛家ら計一八名の再建担当を派遣することを決めた。名目としては源頼義の頃から清和源氏は園城寺にゆかりがあり、源頼朝は園城寺に荘園を二カ所も寄付したほどであることを踏まえ、源実朝も父の意志を継ぐとして園城寺復旧の支援を表明したのである。

 延暦寺と園城寺の抗争を事前に防ぐことは失敗したが、少なくともこれで鎌倉幕府は園城寺の側に立つ意思があることは表明できた。支援できなかったのは鎌倉と京都の距離と時間差が理由であるという建前で園城寺に顔向けができ、園城寺再建を名目としてではあるが鎌倉から一八名もの御家人が園城寺に到着したことを示すことで延暦寺に対する圧力を加えることになる。御家人を派遣すると言っても単身で乗り込むのではなく、その全員がそれなりの人数を率いた軍勢なのである。延暦寺の僧兵達からなる軍勢がいかに他の寺社より強固であろうと、鎌倉武士に勝てるほどではない。


 いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりではない。

 建保二(一二一四)年四月中旬時点でこの年の収穫に支障が出るであろうという予想が立っていたのである。

 雨が降らないのだ。

 鎌倉幕府としては、まずは雨乞いをすることとしたが、それでどうにかなるほど自然は甘くない。雨が降らないことについて鎌倉幕府が懸念しているというアピールを示す効果はあったので民心安定としては効果があったが、収穫についても、また、庶民生活についても、雨乞いでどうにかなることは、無い。

 六月三日に源実朝が雨乞いしたことの効果があったのか、六月五日に少しだけ雨が降った。これにより、鎌倉幕府は庶民の暮らしを見捨ててはいないというアピールと、雨が降ったのは源実朝の雨乞いの効果であるという評判を生み出した。非科学的な人は源実朝の霊験あらたかなる成果と捉えたであろうが、科学に理解ある人でも、雨が降らずに悩んでいる姿には共感したし、雨が降ったことに喜んでいることにも理解を示した。

 ただし、いかに雨が降ったといっても農耕の需要を満たす降雨量ではない。

 収穫が減るということは、農家にとって年収が減ることを意味する。六月の時点で年収が下がることがわかっているため、源実朝は六月一三日に一つの指令を出した。

 減税である。

 ただし、このときの源実朝の減税指令は特殊である。

 三三パーセントもの減税だ。

 ここまでならば大盤振る舞いであることは理解できると同時に財政も気になるところもあるが、源実朝の指令は少し異なる。まず、収穫が見込めないのは関東地方の農地であることが把握できているので、減税対象は関東地方に限る。それも、全ての農地を減税とするのではなく、一部に限って減税とする。三分の一の減税を順番に実施せよというのが源実朝の指令であった。

 源実朝の減税指令は二つのデメリットと二つのメリットを呼び起こした。まずはデメリットであるが、何と言っても全ての人に不作の懸念が出ているのに減税の恩恵を得られるのが一部に限られていることである。これでは不作に苦しむところも今までと同じ納税をしなければならなくなる。さらに、二つ目のデメリットとして、減税対象が関東地方に限定されている点がある。その他の地域については考慮されていないのだ。しかし、デメリットの裏でメリットが生じる。この措置を関東地方に限って実施するというのは「関東」と称されることの多い鎌倉幕府の統治者としての恩恵を日本全国にアピールする効果があった。関東地方に移り住めば鎌倉幕府の恩恵をより深く得られるとなったならば、人を関東地方に招き寄せることができる。農業の機械化が進んでいないこの時代、農業生産性の向上は農地に投入する人を増やすしかない。生まれた子が大人になってその土地に留まって農地を耕すようになれば集落の人口は増えるが、それでは時間がかかりすぎる。一方で、他の地域から人を招くことができれば、ただちに集落の人口を増やすことができる。減税を示すというのは流入人口を増やすための政策として有効な手段である。そして、社会保障制度の整っていないこの時代、現在の税による福祉の役割を担うのは、家庭内支援と集落内での相互扶助である。減税を一部の地域に限定するというのは、減税対象となった者が周囲の他の者を支えるのに必要な資産となる。

 なかなかに面白いアイデアであったと言えるし、このときの減税指令は源実朝を為政者として評価するに十分な内容であった。ただし、効果を発揮したとは言いがたい。本当に効果があったならば、その政策はより広い範囲で繰り返されていなければならない。社会科学は実験できないが、その代わりに社会科学の実験結果はまとめられ広く公開されている。それが歴史である。歴史は繰り返すと言うが、繰り返すに値しないと判断された先例を繰り返さないぐらいの知力を人類は持っている。

 減税を遂行した源実朝を祝福するかのように、建保二(一二一四)年七月一日、大倉に建立された新たな寺院である大慈寺の開眼供養が雨の中で開催された。懸念されていた開眼供養時の導師については、京都内外から高僧を招くのではなく、既に高僧として名を馳せていた栄西が鎌倉に滞在していることに着目し、栄西に導師を務めるよう依頼することで、文句なしの高僧を導師としながら、京都内外から高僧を招聘することなしに大慈寺の開眼供養を成功させるという、誰もが許容できる結果に落ち着いた。


 建保二(一二一四)年時点において、執政者としての源実朝を悩ませている出来事として挙げておくべきなのが、雨不足による不作への懸念ともう一つ、鎌倉幕府の御家人達の官位であった。

 和田合戦の原因を遡ると、和田義盛が上総国司に就くことを願いながらその願いを叶えることができずにいたことが理由の一つとして行き着く。このような願いを和田義盛が抱いたのは、源頼朝の古参の御家人であったこと、また、鎌倉幕府の侍所別当として結果を残し続けていたことに加え、自分と同等の地位にあると考えていた面々がことごとく、いずれかの令制国の国司に就いた、あるいは就いた経験を持っているのに対し、和田義盛ただ一人が朝廷官職を得ていなかったことがある。

 このような和田義盛の不平不満と同じような感情を抱いている者がいてもおかしくは無かった。時系列は遡るが、吾妻鏡によると建保二(一二一四)年四月二七日に「武州時房」と称される人物が三位になりたいという願いを口に出し、源実朝はこの願いを聞いて、今すぐ三位とするわけにはいかないが、望みがないわけではないと回答している。なお、普通に考えればこのときの「武州時房」とは北条時房が該当するのであるが、相模守である北条義時ですら建保二(一二一四)年時点で正五位下である。貴族の位階としては下から三番目だ。北条義時より一二歳も歳下で、かつ、有力な御家人の一人であることは認めても北条義時と比べると実績としては乏しいとするしかない北条時房が三位の位階を得るのは現実問題として難しく、ここでいう「武州時房」は北条時房では無いのではないかという説もある。さらには、そもそもこのときの「武州時房」の発言自体が完全な虚構であるとする説もある。

 しかも、このときの武蔵守は北条時房であり、和田義盛のように国司相当の位階を得ることの無いまま生涯を終えたわけではなく、末席ではあるものの朝廷内において貴族の一員としてカウントされているので、朝廷官位としては和田義盛より恵まれていたといえる。とはいえ、いかに和田義盛より恵まれていたとしても、現時点の位階や官職で満足することなくもっと上を求めるのは自然である。本当に北条時房が三位以上の位階を求めたのか、北条時房以外の人物が三位以上の位階を求めたのかはわからないし、話そのものが捏造である可能性も否定できないものの、鎌倉幕府の御家人達の間で何かしらの朝廷官職や位階を求める動きが出てくるのはおかしな話では無い。

 源実朝は御家人達の要望を叶えるためのシステムを作り上げなければならないと考えたはずである。


 雨乞いの効果があったのか、建保二(一二一四)年の夏は日照りに悩むことはなかった。

 それどころか、以前からの懸念であった大倉の新たな寺院、大慈寺の開眼供養は大雨の中で開催されたほどだ。

 建保二(一二一四)年七月二七日に迎えた大慈寺の開眼供養落成式典は終日やむことのない雨の中で開催された。

 実質上は和田合戦のような事態が再び起こったときに幕府の御所を守る武士達を滞在させる場所の構築であるが、理論上は新しい寺院の落成である。寺院であるため、将軍源実朝であろうと参詣者の一人という扱いになる。

 しかし、参詣者の一人とならなくていい人物が鎌倉幕府にはいる。それも、場合によっては将軍源実朝ですら頭を下げる人物が鎌倉幕府に存在している。

 北条政子だ。

 彼女は出家した身であり、吾妻鏡では彼女のことを尼御台所と記している。御台所とは身分の高い人の妻の呼び名であり、尼の一文字が付くとその女性が出家していることを示す。つまり、尼御台所と記すだけでは人物の特定ができないはずなのだが、建保二(一二一四)年七月時点の吾妻鏡が尼御台所と記したならば、それはただ一人の人物を指す。それほどまでに、鎌倉幕府における北条政子の権威は絶大なのだ。

 吾妻鏡の記載に従うと、新寺院の落成式典に源実朝が向かったのは正午頃であるのに対し、北条政子は現在の時制に直すと午前一〇時頃にはもう大慈寺に到着していたとある。それも輿に乗っての到着であり、鎌倉中の人に公開される形で、北条政子は息子よりも先に、自らの権勢を示しつつ寺院に到着したのである。

 北条政子にも言い分はあろう。自分は出家した身であり、僧侶となった自分が寺院に行くのは当然である。また、源実朝が大慈寺に向かう際には鎌倉幕府としての祭列を組まなければならない以上それなりの時間がかかるのに対し、輿に乗せられているとは言え、北条政子に対しては息子ほどの行列が組まれているわけではない。それに、僧侶である自分が先に到着して、息子であろうと俗人である人物を迎え入れるのは何らおかしなことではない。

 実際、このときの源実朝の祭列は壮麗であった。牛車に乗る源実朝の前後を、馬に乗った鎌倉幕府の御家人達がかためていたのだ。

 さらに、源実朝に引き入られた鎌倉幕府の面々が待ち受けているところに、今や知らぬ人はいないと断言できる著名人でもある栄西が、二〇名からなる自分の弟子達を引き連れて大慈寺にやってくる。誰に開眼供養を頼むかで侃侃諤諤となった過去を白紙にできるほどの著名人である。それこそ、延暦寺や園城寺、興福寺といった巨大寺院から誰かを招いたとしてもここまでの話題とはならないであろう有名人が鎌倉にいて、このような壮麗な式典のメインゲストとなっているのを目の当たりにしたとき、鎌倉幕府の面々も、鎌倉に住む人たちも、鎌倉幕府は、そして、この鎌倉という場所は、徐々に特別な場所になってきているのだと実感したであろう。

 そして、この日を境に雨の乏しさに困るということも消えた。

 この一点を捉えるならば、栄西や源実朝の御利益の発露といったところであったろう。

 ただ、世の中そうは甘くはない。干害が終わりを迎えた代わりに水害が起こったのだ。それも、日本中の広い範囲で。八月七日に鎌倉で洪水が起こり、八月一〇日には洪水とはならなかったものの京都で暴風雨が吹き荒れた。時期としては台風によるもの、あるいはゲリラ雷雨によるものであろう。

 人為的に作り上げた祝福ムードを自然は簡単に破壊に誘う。


 その後も鎌倉では大きめな地震や激しい雷雨に見舞われた。ただし、その被害の程は記録されておらず、人命にかかわるほどの災害とはならなかったと考えられる。それぐらいの都市整備や建築技術の発展が進んでいたとすべきか、あるいはそこまで大きな災害でもなかったとすべきか。

 天災は食い止めることなどできないが、天災に見舞われても対処する方法ならばある。地震が起きても耐えられる建物、水害に見舞われない立地の選択、火災のきっかけとなる原因の除去など、この時代の科学技術であっても対処方法ならば存在する。

 一方、人災はどうか?

 人災は、事前に食い止めることができる。戦争を食い止めるためには戦争を起こさせないことである。戦争の無意味さを説くのも一つの手だが、戦争の原因を排除するのも一つの手である。

 天災に見舞われ続けていた鎌倉幕府であるが、建保二(一二一四)年一一月、相次ぐ天災に何もできずにいたフラストレーションを発散するかのように、人災を食い止めることに成功した。

 建保二(一二一四)年一一月一三日、京都周辺に滞在していた和田合戦の反逆軍の残党が、京都駐在の御家人達によって逮捕され、残党の中にいた僧侶の栄実も自殺に追い込まれるという事件が発生した。

 命が失われているのであるから軽々しく扱うべきではないが、それでも和田合戦の後始末であると考えれば京都駐在の御家人達の行動は理解できる。しかし、どうして僧侶の栄実まで死に追いやられなければならなかったのか?

 しかもまだ栄実は一四歳という若さなのだ。

 それは、栄実が亡き源頼家の遺児だからである。

 和田合戦の反逆軍の生き残りの立場で捲土重来を念頭に置いたならば、京都という場所、そして、源頼家の遺児という血筋は、軍勢再結集を考えたときにおかしな話ではなくなる。僧籍に入っている一四歳の少年を還俗させ、源実朝に代わる新たな征夷大将軍として担ぎ上げることで、鎌倉幕府を乗っ取るクーデタを起こせるのだ。それも、鎌倉ではなく京都を選んでいることから、京都の朝廷や院のサポートを取り付けてのクーデタを起こせる可能性も出てくる。

 ただ、計画としてはあまりにも杜撰である。源頼家の遺児を自分達のもとに招き入れるところまではどうにかなっても、鎌倉幕府の御家人達と真正面から向かい合って戦えるだけの規模を構築できるとは考えられない。どう考えても、時流に取り残された面々の現実逃避でしかないのだ。

 とはいえ、鎌倉幕府に不満を持つ者を集めることで勢力を拡大させるという選択肢ならば選べたのである。発足当初は微細な勢力でも、徐々に勢力を拡張していって、気づいた時には侮ることのできぬ勢力を構築するというのは、古今東西どこにでも見られる話だ。もしかしたら、長期的スパンで物事を考えて計画に着手したのかもしれない。そう考えると、計画の序盤としては理解できる話ではあった。

 ところで、誰が京都駐在の御家人達に対して指令を出したのかという点で、吾妻鏡と愚管抄とで意見の食い違いがある。

 吾妻鏡では、中原広元が指令を出したとしている。確かにこのような将来の懸念を見逃すほど中原広元は甘くはない。中原広元であれば、物事が動き出す前に京都駐在の御家人達に指令を出し、和田合戦の反逆軍の残党を拿捕し、源頼家の遺児を死に追い遣るぐらいのことはしたであろう。

 一方、愚管抄によると、このときの指令は中原広元ではなく北条義時が発したとある。北条義時もまた、中原広元と同様にこのような指令を出してもおかしくない人物である。吾妻鏡は北条家にとって都合の悪いことは記さない歴史書であることを踏まえると、愚管抄の記載も一考すべきであろう。

 そしてもう一つ考えるべきことがある。

 源実朝は知っていたのではないか、という点である。

 吾妻鏡の記載に従えば、一一月一三日に発生した事件が一一月二五日になってようやく届いている。しかも、和田合戦の反逆軍の残党を逮捕し、源頼家の遺児、すなわち、源実朝の甥を自死に追いやったという連絡が届いたが、情報が届いたというだけであり、それに対する源実朝の感想も、感想を類推できる描写も全く存在しない。ただただ、鎌倉幕府の政務があったという記載にとどめている。時間がかかりすぎている上に、内容としてはもっと大々的に取り上げられるべき記録であるのに、あまりにもあっさりとしている。ちなみに、愚管抄の場合は北条義時の命令で討ち取られ、栄実が死に追いやられたという記載があるのみ、それも、和田合戦の描写の終わりに記しているにすぎない。

 中原広元の命令であったのか、北条義時の命令であったのか、あるいは侍所や政所といった鎌倉幕府の機関からの指令によるものかはわからないし、源実朝が全容を把握した上で指令を出した、あるいは黙認した可能性も否定できないが、少なくとも、和田合戦の再発の危険性は著しく減ったことは評価できる。その代わり、ここでまた一人、源頼朝の血を引く者がこの世から去った。これが将来の痛事となることを、建保二(一二一四)年の人はまだ知らない。源実朝自身も含め。


 建保二(一二一四)年四月二七日の「武州時房」と称される人物が三位になりたいという願いを口に出した件について源実朝は熟慮していた。武州時房が本当に北条時房なのかわからないが、御家人の中に朝廷官職を求める向きが強く出ていることを踏まえると何かしらの対処が必要であることは理解していた。

 理解していたが、そこでいう対処とは御家人達の願いを全て叶えることを意味するのではない。全て叶えるのでは二重の意味で問題があるのだ。

 一つ目の問題であるが、理論上、鎌倉幕府の御家人達は征夷大将軍に仕える身となっているという点がある。征夷大将軍は朝廷のシビリアンコントロールを受けないでいい独自の軍事行動を執ることが許されているからこそ軍事力を発揮できるのであるが、その軍事力の根幹は御家人達の持つ武力である。その武力の上に征夷大将軍が君臨しているからこそ鎌倉幕府の軍事力が存在しているのであり、ここで御家人達の願いを叶えて朝廷権力に基づく位階や官職を与えるとなると、御家人個人に対する指揮系統が征夷大将軍から朝廷に移ってしまう。

 朝廷や院が鎌倉幕府の権力を縮小させることを考えるならば、朝廷や院から御家人個人に対して位階や官職を与えることがもっとも確実であるという構図ができてしまったら、武力の根幹を鎌倉幕府に奪い自らの手元に引き寄せることが可能となるのであるから、朝廷や院にとっては一挙両得といえよう。当然ながら、鎌倉幕府の立場から捉えると自らの軍事力を減少させる事態となるのであるから容易に認めうる話では無い。もっとも、朝廷官職を得ていることと鎌倉幕府からの離脱とは必ずしも一致しない。鎌倉幕府内部に位階と官職を持つ貴族でもある御家人が複数名いる。しかし、そのことがまさに二番目の意味の問題となるのである。

 和田合戦後の鎌倉幕府の組織図を見ると、政所、侍所、そして問注所という三つの組織のトップがいずれも貴族でもある御家人になっている。ここで御家人達の願いの全てを叶えるとなった場合、朝廷の位階や官職と鎌倉幕府内部の地位とが連動しなくなってしまう。鎌倉幕府の内部では上司と部下であるという関係にある二人の御家人がいた場合、上司である御家人が朝廷官職を持ち、部下である御家人が無位無官であるという図式であれば問題ないが、朝廷官職の上では同格、あるいは上下関係が逆転しているというのは、組織運営上、極めて都合が悪い話になる。マトリックス組織やハイブリッド組織という概念などなく、組織構造といえばマックス・ヴェーバーのいう官僚制しか存在しないこの時代では、組織のまともな命令系統が成立しなくなるのだ。

 以前も記したが、御家人が勝手に朝廷官職を得たことについては、源義経という、二度と繰り返してはならない失敗がある。そして、源頼朝は源義経のときの失敗を二度と繰り返さないためのシステムを作り上げるのに成功している。

 朝廷や院が御家人に位階や官職を与える場合、鎌倉幕府の許可を必要とするというのがそれだ。ただし、ここで注意すべきなのが、朝廷や院から御家人に対して位階や官職を与えたいという場合についてのガードにはなっても、位階や官職を求める御家人達に対してのガードにはなっていないことである。

 建保二(一二一四)年一二月一二日に源実朝は、御家人の官職や位階について、朝廷や院が付与する場合は従来通り鎌倉幕府での許可を必要とすることを再確認すると同時に、位階や官職を求める御家人については幕府がまとめて朝廷に申請することを布告したのである。鎌倉幕府の御家人として、たとえば京都に滞在している者であっても、朝廷の位階や官職を求めるのならばいったん鎌倉まで本人が赴くか書状を送るかしなければならず、鎌倉幕府の内部、特に政所や侍所の審査を経てはじめて朝廷に対して位階や官職を求める申請が送られ、朝廷から鎌倉まで結果が届いてはじめて位階や官職を得ることが認められるとしたのである。

 しかも、鎌倉幕府が受け付けるのは、家督人、たとえば北条家ならば北条義時、三浦家ならば三浦義村といった各家のトップにある者からの申請に限るとし、家督人以外の者の申請については一律で却下するとしたのである。

 これにより、鎌倉幕府の御家人達は朝廷や院との直接的な接点を持つことが認められなくなったと同時に、鎌倉幕府が御家人を統制するにあたって、征夷大将軍と御家人一人一人の個人的な結びつきではなく、鎌倉幕府と幕府の一員をなす家との結びつきによることとなったのである。御家人の多くは源頼朝に対する個人的な忠誠によって鎌倉幕府に参加しており、源実朝への忠誠も源実朝個人に対する忠誠ではなく源頼朝の後継者であるために誓っている忠誠である。前年九月に長沼宗政が源実朝を批判する暴言を放った事例があったが、そのときの長沼宗政のような感情を御家人達が抱いていたとしてもおかしくはない。ただ、感情を抱くのと言葉や文章として外部に公表するのとは別の話である。前者は何ら問題ない。しかし、後者については、個人としては名誉毀損、組織としては組織瓦解のきっかけとなる大問題である。このような事態を防ぐためにも、忠誠を源頼朝個人から鎌倉幕府という組織そのものに向けるようにし、鎌倉幕府の構成を征夷大将軍に仕える個人の集合ではなく、鎌倉幕府の一部を構成する武士団の家の集合とするというシステムを構築したことはかなり有効であった。

 ただし、翌年一月にバグが見つかる。


 家を基準として鎌倉幕府に仕えるというのは北条義時とて例外ではない。政所別当と侍所別当を兼ね、朝廷官職も獲得して貴族の一員としてカウントされているとはいえ、さらなる位階の昇叙やより上の役職を求めるならば北条家として源実朝に訴え出なければならない。また、朝廷や院が北条義時に位階や官職を与えようというときも、仮に朝廷や院から北条義時に直接連絡が来たとしても、北条義時はその連絡を鎌倉幕府に届け出て源実朝の許可を得なければならず、源実朝からの許可が降りてはじめて位階や官職を手に入れられるという構図だ。

 ただ、ここで微妙な立ち位置にいる人物が一人いる。

 北条時政だ。

 北条時政は追放された身である。また、出家もしている。実質はともかく理論上は引退した政治家だ。

 そう、政治家だ。

 北条時政は鎌倉幕府の宿老であった人物であるだけでなく、従五位下の位階を有し、遠江守をも務めた経歴を持つ貴族でもあるのだ。しかもこの人物は京都駐在経験があり、源義経に代わって京都守護も務めた実績がある。つまり、朝廷にしても、院にしても、鎌倉幕府に対して合法的なアクションを仕掛けようとすることが可能となる人物なのだ。

 北条時政は鎌倉幕府から追放された身であり、また、北条家のトップの地位から退いてもいる。しかし、北条時政が捲土重来を図ったらば、鎌倉幕府から離れているために鎌倉幕府の許可を得ずに朝廷や院に接近することも不可能ではないのだ。

 本来であれば危機であるはずであった。北条時政の存在そのものが構築したばかりのシステムの根幹を揺るがす危機であり、鎌倉幕府を離れた者をどうするのか、家に属しながら鎌倉幕府に属さない者をどう扱うべきなのかという懸念を生じさせる危機であった。ITエンジニアであればまさにシステム設計のバグに接したと同じだ。

 しかし、幸いなこととするべきか、それとも建礼門院平徳子と同様に北条時政はもう終わった人間と扱われていたとするべきか、北条時政は顧みられることなく、誰もその危機に気づかないまま危機が通り過ぎた。

 建保三(一二一五)年一月六日、北条時政死去。享年七八。その知らせは二日後の一月八日に鎌倉まで届けられた。腫物ができて悩まされていた中での死であったという。

 追放したとはいえ実の祖父が亡くなったことを受けて、源実朝は同月中に持仏堂で供養をし、三月には法華堂に移って亡き祖父を弔っている。名目としては亡き源頼朝の月命日の法要であるが、実質的には北条時政の弔いのための法要である。源実朝はこの法要に際して鶴岡八幡宮の供僧達には亡き祖父の弔いのための仏事に参加しないよう命令しており、これにより北条時政は追放中の身であることを公表している。


 このあと源実朝は、理論上は鎌倉幕府から追放された身である祖父北条時政を弔うためとして周囲の目に触れる機会を避けている。本来は喪中といきたいところであるが、鎌倉幕府のトップとして幕府から追放された者のために喪に服すことは許されない。源実朝にできたのは、私的な理由という名目で人目を避けることだけである。

 ただし、政務を無視しているわけではない。

 御家人達の日々の政務については目を見張らせており、問題ありとなった場合、まずは政所へ、政所だけでどうにもならないとなったならば侍所へ指令を出している。前者であれば御家人に対する勧告処分、後者となれば人事権を発動させての左遷である。特に、京都駐在の御家人達に対しては厳しく目を光らせており、少しでも問題ありと判断されたならばただちに交代させるよう指令を出している。なお、罰だけで御家人達を統率しようとしているわけではなく、職務遂行で結果を出したならば相応の褒賞を与えることも命じている。これについては源頼朝の頃から続いてきた本領安堵と新恩給与の踏襲でもあるが、源頼朝の頃は所領のみが新恩給与の材料となったのに対し、源実朝の場合は前年末に規定した位階官職も利用できた。働き方次第では朝廷の官職や位階を与えるというのは、今や御家人達に対して十分に通用する報償になっている。特に京都駐在の御家人にとっては、位階や官職を得ることが朝廷に仕える貴族や役人、あるいは院に仕える院司たちと渡り合うのに役に立つ材料となる。

 なお、源実朝は京都駐在の御家人達の統率について源親広に任せている。源親広は中原広元の長男であるが、亡き土御門通親の猶子であったことから源の姓を名乗っており、京都守護とは一線を画しながら鎌倉幕府の忠実な協力者として、京都における鎌倉幕府の代弁者となっていた。また、基本的には京都に滞在しながら鎌倉にも頻繁に姿を見せ、複数名いる政所別当の一人としてもカウントされるようになっていた。

 この時代、父と子とで苗字が異なることは珍しくなかったが、姓が異なるというのは極めて珍しいことであった。中原広元も自分の息子が自分と異なる姓を名乗るという珍しい人生を過ごしていることを理解していたが、姓が異なる理由が土御門通親の猶子であるためというのは、京都に滞在することの多い貴族として行動する際の大きなアドバンテージであることも理解しており、無理に中原姓に戻すことを求めていない。このあたりは中原広元という人物の実利的な思考の発露と言えよう。

 もっとも、この一年後に中原広元が大江姓に戻ったことに合わせて源親広も源姓から大江姓へと変更しているので、息子は父ほどの合理性の精神の持ち主ではなかったようである。


 京都守護とは別に源親広が鎌倉幕府の代表者として京都に滞在していることのメリットは想像すらしなかったところで現れた。

 現在でもなお名を残す栄西が鎌倉に頻繁に滞在していたことは既に記したとおりである。しかし、栄西は鎌倉に永住したわけではなく京都と鎌倉とを往復する生活をしていた。

 その栄西が建保三(一二一五)年六月五日に亡くなった、と吾妻鏡は記している。吾妻鏡に従うと栄西が六月五日に亡くなったので鎌倉中の人が栄西を慕って集まり、源親広が源実朝の代理として臨終に立ち会ったとしている。

 ところが、この吾妻鏡の記載は他の記録と合わない。

 どういうことかというと、六月五日時点ではまだ栄西が亡くなったとは考えられないのだ。また、吾妻鏡の記載の通りだと鎌倉中の人が集まったとあり、源実朝の代理として源親広が栄西の死を看取ったとなる。これだけを読むと六月に栄西が鎌倉で亡くなったと思えてしまうのだが、吾妻鏡以外の記録によると栄西の死は七月五日のことであり、栄西が亡くなったのも京都の建仁寺であったようなのである。そして何より、源親広はそのとき鎌倉にいなかった。

 ただ、源親広が栄西の最期を看取ったのは本当らしい。厳密に言うと、看取ったうちの一人であり、源親広が源実朝の代理としてその場にいたらしいのである。

 そこで考えられるのが、六月五日に鎌倉に栄西の命の危機の知らせが伝えられ、京都に駐在している源親広に対して源実朝の代理として栄西の臨終を看取るよう指令が送られたのではないかという流れだ。鎌倉に住む人達はもう栄西に会えなくなることを覚悟した。栄西の命はどう足掻いても運命を変えられない。栄西を慕っても、京都にいる栄西にはもう会えない。そう考えたからこそ栄西を慕って集ったのだ。

 栄西は亡くなったが栄西の残した禅の教え、そして臨済宗は鎌倉の武士達に広く受け入れられるようになった。その時代の最新の教えであることに加え、他の宗派のように既存勢力と逆らうわけでも、武装デモを結集させて暴れ回ることもせず、それでいて信者個人の自力救済を謳っているところが武士達に受け入れられたのだ。戦場を駆け巡り、弓矢や槍や刀で血を流す日常を過ごす武士にとっては、念仏を唱えるだけで全て救われるというのは納得いくことでなく、かといって出家して信仰に身を投じるというのも受け入れがたいことでもあった。禅はそうした許諾しがたい感情を全て解消した上で自らの苦しみを取り去る信仰として受け入れられたのである。


 建保三(一二一五)年六月には鎌倉幕府でもう一つの大きな動きがあった。

 源実朝が鎌倉幕府の組織構造を、征夷大将軍と御家人という接点から、鎌倉幕府そのものと鎌倉幕府に仕える家という接点に変更したことは既に記した。

 ところが、肝心の源実朝が家の構築をできずにいたのだ。

 源実朝は建保三(一二一五)年時点で、数えで二四歳、現在の日本人の感覚で行くと大卒の新卒社会人といった年齢である。今の日本国では二〇代前半の男性のうち結婚している人は五パーセントほどであり、この世代の男性に子供がまだいないことは珍しくもない。しかし、この時代の二〇代前半の男性で子供がいないというのは珍しいことであり、その珍しいケースに源実朝が該当していたのである。

 しかも、源実朝のもとに坊門信清の娘が嫁いできたのはもう一二年も前のことであり、いかに幼くして嫁いできたとはいえ建久四(一一九三)年生まれの彼女はもう二〇代になっている。このぐらいの年齢の既婚女性が子供を産まないでいるのもまた珍しいことであった。

 ただでさえ乳児死亡率の高い時代であり、跡継ぎが日常的に求められていたこともあって、皇族や貴族の男性は複数の女性と関係を持つことも珍しくなかった時代である。源実朝もそのような女性との関係を持っても問題なかったのであるが、源実朝は正妻以外との女性との関係を全く持っていなかった。源実朝の性的嗜好が女性ではなく男性に向いていたという説もあるが、もしかしたら源実朝が罹患した天然痘の影響があったのかもしれない。

 また、後鳥羽上皇との関係も無視できるものではない。源実朝の岳父である坊門信清は後鳥羽上皇の生母である藤原殖子の実弟であるため、後鳥羽上皇と源実朝は義理の従兄弟同士の関係になる。また、坊門信清は娘の一人を源実朝のもとに嫁がせたが、坊門信清の娘は確認できるだけでも一〇名おり、そのうちの一人が後鳥羽上皇の女御となって後鳥羽上皇との間に男児二名女児一名を出産しているほか、順徳天皇の後宮にも娘の一人を送り込んでいる。つまり、後鳥羽上皇と源実朝は従兄弟同士であると同時に義理の兄弟でもあり、順徳天皇との間にも源実朝は親戚関係を作り上げている。皇室とのつながりを考えても、正妻以外の女性と関係を持つなと許されないと考えたとしてもおかしくない。

 現存する史料だけでは源実朝の感情がわからないが、ともかく建保三(一二一五)年六月時点で源実朝は正妻以外の女性と関係を持っていなかったのである。ただ、いつまで経っても子供が生まれないことが問題であることは認識しており、六月五日に「御台所の御方に祗候する人」の数を定めたと同時に、御前で結番させ特に「容儀」の優れた者を選んだという記録がある。


 はっきりと記録に残っているわけではないが、源実朝が正妻のみを自らの相手の女性としてきたことは、後鳥羽上皇にとって悪い話ではなかった。源実朝が鎌倉幕府の武力を維持するために御家人を統制するようになったことは院の指揮する公的武力組織である北面武士だけでなく、後鳥羽上皇個人のもとに仕える西面武士の勢力を減らすことにもなり、本来であれば源実朝は後鳥羽上皇と利害が対立する存在となるはずであったのだが、後鳥羽上皇と源実朝は良好な関係を維持し続けることを選んだのである。

 それは公的な側面だけでなく私的な側面においても発揮された。

 建保三(一二一五)年七月六日、源実朝の正妻の兄である権中納言坊門忠信が、一ヶ月近く前の六月二日に開催された仙洞歌合の一巻を源実朝に進上してきたのである。これだけを見れば、義兄から義弟のもとに、義弟が愛好している趣味の奇観本を届けたということになるのだが、忘れてはならないのは、権中納言坊門忠信が後鳥羽上皇の忠実な家臣であり、このときの仙洞歌合の一巻を送り届けたのは、名目上は坊門忠信であるものの、実際には後鳥羽上皇なのである。あくまでも趣味の世界での私的なやり取りであり、しかも後鳥羽上皇の存在を秘匿した上で兄が妹の配偶者に書を送り届けたという体裁であったのだが、これは源実朝にとって改めて後鳥羽上皇との関係を良好なまま維持させる決意を強めることとなった。

 ただし、何度も記してきたように、そしてこれからも記すように、源実朝という人は生涯に亘って京都に足を運ぶことのない人生を過ごしてきた人であり、また、後鳥羽上皇と顔を合わせることもなかった人である。母の北条政子は上洛して後鳥羽上皇と顔を合わせることがあったが、それでは面識があるとは言えない。

 一説によると、源実朝はこの頃にはもう京都に向かうこと、あるいは鎌倉を脱出することを目論むようになったという。

 もっとも、源実朝が自身に課せられている責務から逃れようとした形跡はなく、それどころか、建保三(一二一五)年七月一九日に結城朝光を介して鎌倉市中の商売に関する統制を指示している。指示の内容が鎌倉市中のビジネスに制限をかけるものであるために一見すると源実朝の指示はビジネスを縛るもののように見えるが、新興都市である鎌倉はまだビジネスに関するルールが確定していない上に、この時代の民度は現在と比べ物にならないほど低く、その中でも鎌倉武士の民度は低い方から数えた方が早いほど低レベルなものである。確認できるだけでも窃盗、強盗、恐喝といった明らかに犯罪となるものだけでなく、売らないとしているものを強引に買おうとしたり、安値で強引に買おうとしたり、欲しくないと言っている者に強引に売りつけたりするという無法者が散見されており、こうした問題に対処する必要を源実朝は認識していたのである。

 ただし、源実朝の指令が明文化されるのは、のちの御成敗式目の成立を待たねばならず、御成敗式目の誕生後も同種の禁令が出ていることを踏まえると、なかなか民度の向上は図れなかったようである。


 鎌倉脱出を考えるようになった源実朝であるが、政治家としての責任がそれを禁じるかのように、建保三(一二一五)年八月になると立て続けに都市鎌倉に対する試練が襲いかかった。

 始まりは建保三(一二一五)年八月一八日の暴風雨である。朝から降り続く暴風と大雨は時間が経過しても鎮まるどころかむしろ悪化し、その日の昼には鶴岡八幡宮の浜の鳥居を倒壊させるに至った。

 さらにその翌日には雨で地盤が緩んでいるところに地震が鎌倉を襲い、地震はさらに一日挟んだ八月二一日にも発生した。なお、吾妻鏡は八月二一日の地震の前に鷺(さぎ)が群れをなして御所の西侍の屋根に集まったことを記している。庶民であればこれを吉事と扱うか凶事と扱うかは個人の勝手であるが、為政者となるとそのようなことは許されない。少なくとも庶民感情を鎮静化させるための方策が必要となる。鷺(さぎ)の集結はともかく、暴風雨と地震は紛れもない自然災害であり、連続して発生する自然災害に恐(おそ)れ慄(おのの)く多くの人の感情を無視することはできないのだ。

 とはいえ、相手は自然である。人間がどうこうできる代物ではない。源実朝は連続して起こった暴風雨と地震、そして、鷺(さぎ)の集結について占わせたのである。占いとは何とも非科学的に感じるが、自然の無力さの前に茫然自失とし動揺している人達に為政者として寄り添う姿勢を見せねばならないとき、科学ではなく超自然をぶつけるのは、この時代の観点に立つと合理的な判断である。

 占いをしたところで自然が静かになるわけではない。

 だが、気構えを伝えるぐらいはできる。

 すなわち、これから大規模な災害が起こり、今までの現象はその前兆であるとするのだ。庶民の望むのは自然災害の沈静化であるが、人類史上一人として自然災害を沈静化させることに成功した者などいない。いるのは、自然災害が起こっても最小限の被害となるように備えた者だけである。為政者としてこれから起こるであろう自然災害を前提としてこれからの対処を伝えるとするならば、これから先も自然災害が続くと認めた上で、そうした災害からの被害を少なくするために、鎌倉から避難する、あるいは、鎌倉に留まるなら災害への備えをするように命じることだけである。

 なお、鎌倉からの避難を命じておきながら自分が御所に留まるわけにはいかないという理由と、かといって鎌倉を留守にするわけにはいかないという理由から、八月二二日に源実朝は北条義時の住まいに移り、御所はしばらく無主の邸となることになった。

 ちなみに八月二五日に、安倍親職、安倍泰貞、安倍宣賢といった陰陽師を御所に招き、怪異を払うための百怪祭を開催している。自然災害に備えるのでなく、超自然的な何かで自然の暴走を食い止めてくれと求める人の期待に応えることは、自然災害を減らす効果はなくても、不安を減らす効果ならばある。


 建保三(一二一五)年九月六日、丑刻、現在でいう午前二時頃に大規模な地震が発生。

 建保三(一二一五)年九月八日、寅刻、現在でいう午前四時頃に大規模な地震が発生。

 建保三(一二一五)年九月一一日、またもや寅刻に大規模な地震が発生。さらに、未刻、現在でいう夕方四時頃にも地震が発生。なお、夕方の地震はさほど大きなものでもなかった。

 建保三(一二一五)年九月一三日、前回の地震からおよそ四八時間後であるこの日の未刻に地震が発生。

 建保三(一二一五)年九月一四日、酉刻、現在でいう午後二時頃に地震が発生。同日戌刻、現在でいう夜八時頃にも地震が発生。なお夜八時の地震では同時に雷も鳴った。

 建保三(一二一五)年九月一六日、卯刻、現在でいう午前六時頃に地震が発生。

 建保三(一二一五)年九月一七日、戌刻に三度も地震が発生。

 ここまで群発地震が続くと、どんなに科学的思考をする人でも何かしらあるのではないかと考えるようになる一方、前もって占いの結果を信じていた人は「ああ、これが占いに出ていた自然災害か」とかえって落ち着くこととなる。なお、その両者ともに心の底から願っていること、すなわち、群発地震の沈静化を実現させる方法など無い。できるとすればせいぜい神頼みである。

 建保三(一二一五)年九月二一日、群発地震の沈静化を願う祈祷が行われた。天変地異を防ぐ三万六千神祭は陰陽師の安倍親職、地震を避ける地震祭は同じく陰陽師の安倍宣賢が司った。祈祷に何の意味があるのかという人にとっては信じられないかもしれないが、驚くなかれ、この日以降、群発地震は沈静化したのだ。

 ただし、群発地震の沈静化は一〇日ほどだけ。さらに、自然災害という枠で考えると、安穏とできたのは五日間だけであった。

 建保三(一二一五)年九月二六日、亥刻、現在でいう夜一〇時頃より雷が頻発し、ついには雹(ひょう)が降りはじめた。その雹(ひょう)の大きさは李(すもも)ほどであったという。

 月が変わると地震は蘇り、建保三(一二一五)年一〇月二日、寅刻、また地震が起こった。

 そのあとしばらく地震が起こらず、これでどうにか群発地震も収束したと考え、暴風で倒れた鶴岡八幡宮の浜の鳥居も再建することとなり、一〇月三〇日に再建工事も完了することとなって一瞬の安堵に包まれた。

 そう、安堵は一瞬であった。

 再建工事完了の日、北条義時、北条時房、北条泰時といった面々も集まって完成の瞬間を見届けようとしたのであるが、まさにこの日、多くの人が詰めかけている目の前で鳥居再建工事の足場が崩れて三名の負傷者がでたのである。ここまでくると何をどうすれば世の中が落ち着くのかわからなくなる。


 建保三(一二一五)年一一月八日、源実朝が御所に戻った。これにより、鎌倉幕府から発令されていた鎌倉からの避難指令は終了したこととなる。鎌倉からの避難を命じながら鎌倉からの避難を実践するわけにはいかなかった源実朝にとって、鷺(さぎ)の怪異から七五日を経たこのタイミングで御所に戻ることは、鎌倉に戻るタイミングを図っていた人達に鎌倉帰還を促す効果があったと同時に、これまでの群発地震や暴風雨、降り注いだ雹(ひょう)などの自然災害は鷺(さぎ)の襲来を契機とする七五日間の期間限定の天変地異であったと伝える効果もあった。

 実際、群発地震の頻度は減り、地震そのものがなくなってきている。大雨も暴風もこのところ体感していない。鎌倉から避難していた人たちが鎌倉に戻るきっかけとするには都合良い話である。

 また、吾妻鏡のこの後の記録を見ると少なくとも翌年一月中旬までは二例を除いてこれといった自然災害の記録も出てこない。厳密にいうとその一例以外に天変地異に類する記録はあるのだが、それは太白(=金星)が哭星(=やぎ座デルタ星)の前を通過したという単なる珍しい天体現象であり、人間社会に影響を与える代物ではない。

 ただし、ここまで続いた自然災害は源実朝の心を少しずつ蝕んでいった。無限に続くストレスが源実朝を苦しめるようになったと考えるべきであろう。既に鎌倉からの脱出を脳裏に浮かべるようになっていた源実朝であるが、統治者としての責任感が源実朝を鎌倉に滞在させ続けていた。また、暴風雨に始まり、群発地震や、雹(ひょう)、そしてこれは災害としてカウントするべきではないかもしれないが鷺(さぎ)の襲来などの出来事が起こったものの、被災者数だけで考えれば規模の割に被害者が少ない。このあたりは源実朝を評価すべきところであろうし、実際、これだけの自然災害がありながらも源実朝を非難する声は全く聞こえない。

 ただ、鎌倉が無事であったことと源実朝の心情が平穏無事であることとは別の話なのだ。あるいは、鎌倉が無事であったからこそ、源実朝に自らを顧みる余裕が生まれたとすべきであろう。先に記した金星とやぎ座デルタ星との関係は、そう頻繁に見られる天体現象ではないものの、人類史上初とかのレベルの天体現象ではない。ただ、その珍しい天体現象は源実朝を動揺させるに十分であった。

 建保三(一二一五)年一一月二五日、源実朝は臨時の法要開催を命令した。夢の中で和田義盛ら和田合戦の死者が集まってきたのを法要開催の理由として挙げている。

 本当にその夢を見たのかどうかわからない。ただ、源実朝の不安を解消するための具現化した何かがあるなら、その理由に頼るのは心情を落ち着かせる方策として意味がある。また、和田合戦の死者を弔うのは、鎌倉幕府の誰もが、そして、鎌倉市中の誰もが理解を示す話である。反逆軍として討ち取られたために公式には弔う対象とならなかった和田義盛らであるが、そのままとするわけにはいかないという思いは多くの人の心の奥底にあったのであろう、源実朝の突然の命令によるこのときの法要開催は滞りなく執り行われた。

 ただし、そのあとで先に挙げた二例の自然災害の記録が登場する。

 一度目は建保三(一二一五)年一二月一五日の亥刻、現在でいう夜一〇時頃に発生した地震、もう一度はその翌日の暴風である。そして吾妻鏡は伝える。一二月一五日の夜に太白(=金星)が歳星(=木星)に重なったと。司天、すなわち、天文学者でもある陰陽師はこの天体の出来事をこのように語った。将軍家は慎み深くあるべきこと、善政に務めることで源実朝は長命を保つことができるであろうことを。

 この陰陽師の回答に呼応するかのように、吾妻鏡では、北条義時、中原広元、二階堂行光、三善康信らが「善政」を行い「佳運長久」のための策を実施するよう実朝に要請したとある。この時代、天災とは為政者の失政に対する天からの戒めであるという考えが根強く、鎌倉幕府の中軸をなす面々が善政を求めるところまではおかしくない話である。しかし、善政を求められた側、すなわち源実朝の心中は穏やかならざるものがあったろう。何しろ、自分の政治に対し天から失格の烙印を押されているのであるから。


 首都圏で生活する人は朝や夕方のニュースで江ノ島の映像を観ることが多い。

 また、実際に江ノ電に乗って江ノ島に行ったことのある人も多い。

 そして実際に江ノ島を目の当たりにすると、実際には橋や地下を歩くとはいえ、感覚としては江ノ島は片瀬と陸続きであり、島と言えば島だが船で行かなければならない島というわけではないことを知るはずである。

 江ノ島と片瀬は細い陸地でつながっており、片瀬から江ノ島へ向かうのであれば歩いて行くのが普通であるというのは、現在に生きる人であれば共通認識となっているであろう。

 ところが、建保三(一二一五)年まではそうではなかった。

 江ノ島へは船で行くものであるというのがそれまでの認識であったのだ。

 江ノ島にある江島神社は、伝承によると欽明天皇の時代に由来する神社であり、明確な記録としては寿永元(一一八二)年に源頼朝の命令によって文覚が勧請したという記録がある。現在でも鎌倉からは三〇分もあれば江ノ島電鉄に乗って到着できるのが江ノ島であるが、鎌倉からの距離としては絶妙な距離であるため、鎌倉内外に住む人にとっての身近なレジャースポットとなっていた。気軽に歩いて行ける距離ではあるものの近所というには距離があり、また、相模湾の向こうに浮かぶ江ノ島に行くためには船に乗っていかなければならないために、参詣が非日常の楽しみとして受け入れられていたのである。

 建保三(一二一五)年までは。

 建保四(一二一六)年一月一五日、江島神社から鎌倉に急報がきた。いきなり海の水が引いて江ノ島が陸続きになり、これまでのように江ノ島に行くのに船に乗る必要がなくなったというのだ。

 江ノ島とつながるよう突然現れた陸地は、これまで江ノ島に行くのに船に乗っていた人達を戸惑わせただけでなく、江ノ島に気軽に参詣できるとして、また、一生に一度でも目にできるかどうかという珍しい出来事に出くわしたということもあって、多くの人が一気に江ノ島へと押し寄せてきた。一度つながった陸地がもう一度海に戻ってしまうのではないかという懸念もあったが、実際に数多くの人が江ノ島まで歩いていき、江島神社に参詣して無事に戻ってきているとなると、慎重にするよう命令しても無駄である。

 この当時の人は一時的な陸続きに思ったようであるが、少なくとも現在まで江ノ島は片瀬と陸続きであり続けていることも考えると、慎重であるように求めたのは用心しすぎであったと笑い話にできる。もう二度と海に戻らないと考えて遠慮せず陸を歩いて江ノ島まで参詣していいと言っておきながら陸地が海に戻ってしまったら起こるであろう惨劇を考えると、用心しすぎという笑い話のほうがまだマシだ。


 前年の自然災害の連発に源実朝が苦慮していたことは既に記したとおりである。

 そして、源実朝が陰陽師を利用して動揺する民心を安定させようとし、また、源実朝自身も和田義盛ら和田合戦の反逆軍の亡霊という形で現れたストレスをどうにか食い止めるために法要を開催したことも既に記したとおりである。

 こうした源実朝の選択は鎌倉市中を超えて京都にまで広まっていた。本人のストレスからの回避に加え、相次ぐ地震や暴風雨に苦しんできた鎌倉市中の人達のストレスからの回避の意味も込めて、源実朝の守り本尊を祀る持仏堂の釈迦像を源実朝は発注していたのである。しかも、発注した相手は運慶だ。現在でも小学校の教科書に載るような著名人に発注したこともあって、京都から輸送されてきた釈迦像は誰もが圧倒させられる出来映えであった。

 京都から運ばれてきた釈迦像は建保四(一二一六)年一月一七日に鎌倉に到着し、それから一一日を経た一月二八日に開眼供養が開催された。これまでであれば栄西を招いて開眼供養を開催するところであるが、栄西はもう亡くなっている。しかし、栄西がいなくても鎌倉には鶴岡八幡宮があり、鶴岡八幡宮の僧侶達がいる。栄西という、日本中に名を、さらには後世に名を残す名僧がいなくなっても、鶴岡八幡宮の僧侶達ともなれば開眼供養に招くに相応しい。実際、このときは鶴岡八幡宮から荘厳房律師である退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いており、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は弟子を七名連れてきている。さらに言えば、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は鶴岡八幡宮の僧侶であると同時に栄西の弟子でもあるため、鎌倉で広まってきていた禅の一派である臨済宗を信仰する武士達にとっても開眼供養に招く最上級の人物とみられていた。

 また、このような開眼供養においては、参列した僧侶達に対して、招いた側が布施を渡すのが通例であり、その金額が少ないと僧侶達に不満を抱かせるだけでなく、法要を知った人達からケチとの評判を受けることとなる。このときの源実朝は、綾被物が二重に裹物五袋、馬二頭、砂金五十両と、征夷大将軍に相応しいと言える布施を退耕行勇(たいこうぎょうゆう)に渡しただけでなく、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が連れてきた弟子にも裹物二袋と宋銭千疋を渡している。

 ちなみに砂金五十両は現在のメートル法に直すと九三四グラムである。近年になって金価格の高騰が続いていることもあり、一グラム一万円を超える数字を記録していることを踏まえると、だいたい一千万円になる。

 また、宋銭千疋についてであるが、これはこの時代の独自の解釈で、宋銭八九枚を束ねた束は宋銭一〇〇枚であるという扱いを受けており、これを宋銭一疋という。交換レートは現在のドル円相場のように頻繁に変わるが、だいたい金一両で宋銭四〇疋とする交換レートであったため、宋銭一〇〇〇疋は砂金二五両となり、現在の貨幣価値で言うと五〇〇万円ぐらいになる。これに、現在の高級乗用車に相当する馬が二頭、また、この時代では貨幣としての価値もあった綾被物や、今でいう風呂敷包みに相当する裹物も加わっているので、金銭の価値はわからなくても馬や綾被物、裹物の価値ならばわかる鎌倉幕府の武士達にとっては、源実朝から僧侶への支払いという点で、さすが我らのトップと感心させる規模であった。

 なお、源実朝が運慶に対していくら払ったのかは記録に残っていないが、征夷大将軍の支払いに相応しい額であったことは類推できる。


 鎌倉で群発地震が起こっていることは京都でも知れ渡っていた。

 源実朝が運慶に仏像建立を依頼するほど鎌倉は混迷を迎えていたことも京都では知れ渡っていた。

 京都の治安維持は、まずは検非違使があり、その後ろ盾として鎌倉幕府がある。六波羅の地にいる京都守護の中原季時が京都駐在の御家人達を統率する立場にあり、何かあれば中原季時の指示でいつでも御家人達が治安維持目的で動けるようになっている。また、御家人のうちの何名かは鎌倉幕府の承認を得た上で検非違使も兼任しているため、京都守護の指示がなくても治安維持の必要性があればただちに出動できるようになっている。とは言え、出動指示が早いのは京都守護のほうであって朝廷の指令は遅いことが多い。

 また、後鳥羽院のもとには北面武士や西面武士がいる。北面武士は公的地位のため御家人を北面武士として採用するには鎌倉幕府の承認が必要だが、西面武士は私的なつながりのため御家人の副業として認められている。こうなると鎌倉幕府の御家人の京都守護が動かなくても後鳥羽上皇の命令一つで鎌倉幕府の御家人を治安維持目的で発動させることができることとなる。とはいえ、ここでの行動基準は京都の治安維持ではなく後鳥羽上皇の身の安全であり、治安悪化が後鳥羽上皇の身の安全にかかわるとなったら北面武士や西面武士が出動するが、そうでなければ動きは鈍くなる。

 つまり、京都の治安維持は、京都守護がいかに素早く指令を出すかにかかっている。

 これを犯罪者の立場から捉えると、京都守護に指揮された鎌倉幕府の御家人達が目を見張らせているから犯罪に動けないのであり、彼らの目が届かなければ動けるという結論に至る。

 そこに届いた鎌倉の群発地震の知らせ、そして源実朝が狼狽しているらしく運慶に釈迦像を依頼したという知らせ、これは鎌倉に何かが起こっており、京都で何かが起こっても京都駐在の御家人達が動く可能性が減るということでもある。

 その結果が建保四(一二一六)年二月五日の大事件であった。

 東寺に強盗集団が押し寄せて宝物庫に押し入り、仏舎利や仏教用具といった宝物を盗んでいったのである。

 盗賊達の考えは成功だった。御家人達の動きは鈍く、二月九日になって朝廷が盗賊追補の指令が出る有様であったのだ。

 さらに、この知らせが鎌倉に届いたのが二月一九日になってから。しかも、書状の送り主は京都守護中原季時であり、宛先も三善康信である。どうやら強盗達の考えは正しかったようで、三善康信はこの書状を受け取った後、これから二所詣に出発する予定であった源実朝には書状を見せず、幕府御家人達に書状を回覧させたとある。


 さて源実朝は、東寺を襲った集団強盗のことを、そして、京都の治安維持問題のことを知らなかったのか?

 たしかに吾妻鏡を追いかけると、書状が届いた四日後の建保四(一二一六)年二月二三日から伊豆山権現への二所詣へ出発し、二月二七日に戻ってきたという。また、戻ってきたあとの源実朝の行動としては、鶴岡八幡宮への参詣を控えたことぐらいである。源実朝の正妻である女性の記録としては、御所を訪ねてきた亡き源頼家の正妻を迎え入れたこと、そして、陸続きとなった江ノ島へ参詣したことがあるが、それ以外の記録は見られない。

 しかし、このあとで京都から届いた連絡を見る限り、源実朝は絡んでいたのではないかと思われるのである。

 建保四(一二一六)年三月二二日に京都から使者が到着したのであるが、その報告の内容は、先月の二九日に集団強盗が逮捕されたのだ。また、盗まれた仏舎利や仏具についても全て無事に取り戻すことができ、その功績をたたえるために大夫尉足利秀能と淡路守足利秀康が褒賞を受けたのだ。淡路守でもあった足利秀康は右馬助兼任となり、大夫尉足利秀能は出羽守となった。

 これだけを見ると、鎌倉幕府の御家人で、かつ、後の足利幕府の祖先でもある人達が成果を残して褒賞を受けたかのように見えるのだが、実はこの二人、鎌倉幕府の御家人でもなく、また、後に室町幕府を開くこととなる足利氏の直接の祖先というわけでもない。さらにいえば、彼らは足利の苗字を名乗っているが藤原氏である。

 そしてこの二人は鎌倉幕府の一員ではない武士であり、後鳥羽上皇に仕える北面武士であった。

 この事情を源実朝は理解していたのか?

 そして、鎌倉幕府は理解していたのか?

 このあとの記録を追いかけると、源実朝も、鎌倉幕府の御家人達も、理解していたことがわかる。ただし、この問題に対する対応策のベクトルが異なっていた。

 源実朝は朝廷との接点が浅くなってしまっていると考え、朝廷とより深く結びつけて鎌倉幕府の存在価値を高めることを考えた。

 鎌倉幕府の御家人達は鎌倉幕府そのものの勢力を強めて、鎌倉幕府のプレゼンスを高めることを考えた。

 似たようなこの二つの考えは、最後の最後で大きな違いとなる。

 特に問題となったのが源実朝が上洛を考えたことである。


 源実朝の上洛の思いは建保四(一二一六)年三月二四日に届いた知らせでさらに高まった。この日京都から届いたのは、一〇日前の三月一四日の夜に坊門信清が亡くなったという知らせである。坊門信清の死の知らせを受けた後鳥羽上皇はただちに石清水八幡宮から戻るとして周囲を当惑させたというのがこの書状に記載されている内容であった。後鳥羽上皇から見て坊門信清は、叔父であると同時に岳父でもある。慌てたとしてもおかしなことではない。

 この知らせを聞いた源実朝は上洛を求めた。坊門信清は源実朝の正妻の実父であり、また、朝廷における鎌倉幕府の重要な協力者であることから、私的にも、公的にも、源実朝は坊門信清に対する敬意を欠かすことはなかったのである。源実朝が坊門信清の死を弔うために上洛を考えたとしても、事情が事情である以上、何らおかしなことではなかったのだ。何も京都に移住すると言っているのではない。岳父を弔うために京都に一時的に足を運ぶというだけである。

 ただし、このときの上洛の思いは他ならぬ正妻の態度によって沈静化した。

 父の死の知らせを受けた翌日、源実朝の正妻は父の死の穢れのために二階堂行光の別荘へ移ったのである。なお、繰り返して書き記すが、吾妻鏡は源実朝の正妻のことを「御台所」と書いており、彼女の名を記していない。一説によると彼女の名は坊門信子だったのではないかとするものもあり、源実朝の正妻を書き記すのに坊門信子と書き記す論文や歴史学書があるが、その名の根拠となる史料は今のところない。御台所以外の記載としては、出家後の通称として西八条禅尼と書き記す記録があるのみである。

 岳父の死であっても実の娘である正妻が鎌倉の地で服喪に入るとなったならば、源実朝とて坊門信清の死を理由とした上洛は認められなくなる。その代わりというべきか、源実朝の代理として鎌倉幕府から誰かを弔問のための代表を送り込む必要があることは誰もが認めていることであるので、三月二六日に佐々木信綱と足立元春の両名を京都へ向けて派遣している。

 なお、三月三〇日にも京都から訃報が届いている。三月二二日に滋野井実宣妻が亡くなったのである。彼女は亡き北条時政の娘であり、北条政子と北条義時の実の妹でもある。源実朝の上洛を認めずにいることと、源実朝の正妻ですら鎌倉に留まって上洛せずにいることもあって、北条政子と北条義時の姉弟は鎌倉の地で亡き妹のために喪に服すこととした。ただし、ひっそりと喪に服すこととした源実朝の正妻と違い、北条政子と北条義時のもとには鎌倉幕府の御家人が服喪のために大挙して押し寄せたという。


 それにしても源実朝はどうして上洛を考えるようになったのか。

 それはひとえに、源実朝は自分が貴族であると認識していることにある。しかも正二位という高位の貴族である。それなのに何の官職も得ていない。厳密にいうと右近衛中将という武官としては上から四番目の官職を得ているが、武官の地位と役職が形骸化したこの時代、正二位の位階を持ちながら右近衛中将だけが官職であるというのは異常極まりない事態なのだ。

 ただし、官職を付与する朝廷の立場に立って考えると、位階はともかく官職を付与できない事情は理解できる。正二位は大臣に相当する位階だ。同じ位階の者が増えすぎたために価値は低くなってしまったものの、官位相当で考えれば左大臣や右大臣、低くても内大臣になっていなければおかしい位階まで登りつめているのが源実朝であり、右近衛中将とはいえ事実上は無官であることは本来であれば異常事態なのであるが、大臣ともなれば朝廷に常駐し議政官の一員として日本全国の統治にあたらねばならない。鎌倉に住まいを構え鎌倉に滞在し続ける源実朝は大臣たるに相応しくないのである。

 とは言え、源実朝は源頼朝の血を引く征夷大将軍であるために手にできていた特権を手放したのである。壇ノ浦に沈んだ三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)という特権である。三種の神器が揃わなければ皇位継承の正統性が失われる以上、源実朝が征夷大将軍であり、源実朝の血を引く男児が生まれればその男児が源実朝の後継者として征夷大将軍となる。その血筋が続くことが皇位継承の正統性を担保することとなっていた。その特権を手放すことを後鳥羽上皇は求めた。現在の源実朝が手にしている正二位という位階は特権を手放したことの見返りの第一弾なのだ。さらに言えば、正二位という位階ですら特権を手放すことの見返りにはほど遠い。最低でも大臣の職位を用意しなければ話にならない。

 そこで、源実朝を上洛させて大臣に任命するという話にいたる。

 また、源実朝としてもここで上洛して、朝廷や後鳥羽院に自らの姿を見せることで中央政界と鎌倉幕府の接点を強化する必要性を感じている。

 大臣とまでは言わないにしても、大納言、あるいは権大納言であればどうにかなる。複数名のうちの一名だ。また、大臣となった者が京都から離れることもある。だが、京都にいない者を大臣に新たに任命するというのは考えられない。そう考えると、源実朝の上洛を求める朝廷や院と、上洛しようと考える源実朝の思惑は一致していることとなる。

 一方、源実朝が京都に行くことで朝廷や院に源実朝が取り込まれると、鎌倉幕府そのものが朝廷や院に取り込まれてしまうという懸念がある。ここまで強固な権勢を作り上げてきた鎌倉幕府の存在意義が否定されてしまうし、鎌倉幕府の御家人であることで手に入れた社会的地位も失うこととなる。京都では数多くの貴族のうちの一人としかカウントされない四位の位階の者であっても鎌倉ではトップエリートとなるし、位階を持たない武士であっても鎌倉幕府の御家人となれば幕府の威光を全面的に利用し、あたかも貴族の一員であるかのような権勢を手にできている。源実朝が朝廷や院に取り込まれてしまったら、鎌倉幕府の御家人達はそうした社会的地位を全て失うのだ。

 こうした思惑の相違を食い止めることに成功したのは中原広元であった。

 中原広元は中原広元にしかできない方法を使って源実朝の上洛に対する思いを捨てさせることに成功したのである。


 検索サイトで「中原広元」と調べても中原広元のことが出てくることは少ない。

 多くは「大江広元」が出てくる。

 しかし、平安時代叢書ではこれまで一貫して中原広元と書き記してきた。

 なぜか?

 建保四(一二一六)年四月までは中原広元であったのだ。

 中原広元の出生には二つの記録がある。まず、中原広元の実父は藤原光能であるが幼くして大江維光の養子となった後に中原広季の養子となったとする記録、も次に、大江維光の実子として生まれた後に中原広季の養子となったとする記録である。

 また、中原広元の兄の中原親能は、中原広季の実子であるとする記録と、藤原光能の実子として生まれた後に中原広季の養子となったとする記録がある。

 そして、この兄弟は血のつながりがなかったことは確実視されている。

 つまり、藤原光能の息子が中原広元であるとする記録では中原親能の実父が中原広季となっており、大江維光の息子が中原広元であるとする記録では中原親能の実父が藤原光能であるとなっている。

 確実に言えるのは、中原親能は中原広季の実子であるか養子であるか不明であるのに対し、中原広元は中原広季の養子であることである。中原広元は幼くして父と分かれて暮らすことを余儀なくされ、幼少期は名門貴族の一員である大江氏の一員であったが、途中から御世辞にも名門とは言えない中原氏の一員とカウントされるようになり、中原広季のもとで血のつながらない兄である中原親能と兄弟として育てられたことは確実である。

 中原広元自身は自らが途中まで大江氏でありながら、途中から中原氏に変わり、中原姓を名乗らざるをえない人生を過ごしているのだという自覚を幼少期から心の内に抱いており、それがいつのことになるかはわからないが、いつかは大江姓に戻ることは考えていた。

 それがこのタイミングであった。

 建保四(一二一六)年四月七日、中原広元が大江性に戻るよう天皇の許しを受けたいと正式に源実朝へ上奏したのだ。

 中原広元の史料初出は、このときから六三年前の仁平三(一一五三)年四月一五日のことである。この頃はまだ大江を姓としていた中原広元は、大江氏で代々保存していた図書およそ数万が灰に消えたときに立ち会っている。このとき中原広元、五歳。幼児が体験した火災のショックは大きく、成人してからは涙を流したことがなく、他者に感情を見せなくなったという。その代わりに他を圧倒する知性を手に入れた。

 知性を手に入れたことは本来であれば将来の成功を約束するものであったが、大江姓から中原姓に変わった影響もあって中原広元は中央政界における成功はほとんど手にできなかった。その現状を悟った中原広元が選んだのが兄と同じ道である。

 中原広元と血のつながらぬ兄である中原親能は、中原氏の一員であるという自覚のもとに人生を過ごしており、中央政界での出世競争を諦めていた。中原氏は明経道の家系として長い歴史はあるものの、中央政界では藤原氏が圧倒的多数を占め、その中に村上源氏が点在しており、名門の大江氏ですら上級貴族に至ることはありえず、大江氏より格下に扱われている中原氏ではそもそも中央政界での出世自体がありえないという政治状況であった。

 そんな中原親能が選んだのが源頼朝である。源頼朝が挙兵してから四ヶ月後という京都の貴族達の中では例外的に早いタイミングで源頼朝を選んでいる。その後も鎌倉方における数少ない貴族社会出身者の一人であった中原親能のもとを中原広元は訪ねたのである。

 中原広元は大江姓から中原姓に変わったことで中央政界における成功を諦めていたが、そんな中原広元を最初にスカウトしたのは九条兼実である。承安三(一一七三)年に従五位下の位階を獲得し、同年中に九条兼実のもとに仕える末席貴族の一人となっていた。ただ、この時点では九条兼実に仕える数多くの末席貴族の一人であり、その優秀さについては一目置かれていたものの、そこまで特別視されてはいなかった。この境遇に満足できていなかった中原広元は、源平合戦を期に九条兼実の元を去って兄を頼ることとした。血はつながっていないと言っても兄弟として育ってきた間柄であり、弟が兄を頼って行動すること自体は何らおかしなことではないが、それだけが理由ではない。

 中原広元が九条兼実の元を去ったのはその通りであるが、九条兼実のもとから家出したわけではなく、九条兼実としては、関東地方で勢力を築き上げてきている鎌倉方の武家集団との接点を構築する効果もあるからと、中原広元が兄と同じく源頼朝の元に身を寄せることを許可したのである。ただし、中原広元は後に朝廷を舞台に九条兼実と対等な立場で向かい合うこととなる。九条兼実にしてみれば策略の一つであった中原広元の関東行きが、自分の想定をはるかに超えた巨大な存在を生み出すきっかけになるとは想定の範囲外であったろう。

 前述の通り中原広元は源頼朝の元を訪れた時点で既に従五位下の位階を得ていた。兄は貴族社会に生きる者の一員であったものの正式にはまだ貴族ではなかった。一方、弟はというと、末席ではあるものの現役の貴族の一員である。これだけでも鎌倉では特別であった。

 鎌倉幕府の文人官僚としては中原広元以外にも、中原広元の兄の中原親能もいれば、源頼朝のスパイであった三善康信もいるし、三善康信の鎌倉行きとほぼ同タイミングで京都を去って鎌倉を選んだ二階堂行政もいる。ちなみに二階堂行政は源頼朝の生母の従弟でもあるので、人生をかけた賭けというより、血縁を頼った人生構築であるとも言える。いずれも鎌倉幕府においては貴重な、そして優秀な文人官僚であったが、その中で中原広元は一頭地を抜いていた。政所別当に就いたのも中原広元であり、鎌倉幕府からの特使として京都に派遣され京都の貴族と渡り合うのも中原広元であった。既に貴族の一員であり、また、九条兼実のもとに仕えていた経緯もある中原広元は京都の貴族と真正面から渡り合って、武ではなく文で鎌倉幕府の地位を構築したのである。

 中原広元の実績は朝廷においても申し分ないものと扱われ、位階も、官職も、順当に次の地位を手に入れていた。しかも、その全てが鎌倉幕府の承認を得た上での昇叙と任官であった。

 その中原広元が中原姓から大江姓に戻ることを求めた。既に兄の中原親能は承元二(一二〇九)年にこの世の人ではなくなっており、中原親能の子の中原季時が京都守護に抜擢されて申し分ない成果を残している。中原氏の継承という意味では中原広元が大江姓に戻っても支障がなくなっている。さらに、中原広元の子の親広は土御門通親こと源通親の猶子となったことで中原親広ではなく源親広と名乗っている。ここで中原広元が大江広元となった場合、源親広も父の改姓と連動して大江親広と名が変わることとなる。

 ここで着目すべきは中原広元が鎌倉に滞在していたことである。

 姓を変えるという、貴族社会に置いて極めて珍しい、しかし、例のないことではない一大イベントを、中原広元が鎌倉に滞在したまま朝廷が遂行できるか。これが実現できたならば源実朝は上洛する必要もなくなるのだ。改姓に加えれば大臣任官ですら容易な話になるのだから。


 中原広元が大江姓への改姓の願いを源実朝に請願したのは建保四(一二一六)年四月七日のこと、四月一七日には源実朝が正式に中原広元の請願を受け取り、朝廷に向かって中原広元の改姓願を提出している。朝廷がこの書状を受け取り、審理を経て許可が下りればはじめて改姓が認められる。

 ここまではいい。

 問題は、鎌倉に留まったまま書状一つで自らの改姓を訴える貴族に対し、朝廷としてどのように判断すべきなのかという視点である。この時代は、何はなくとも先例優先である。過去にあった事柄ならばスムーズに対応できるが、前例がなければそう簡単に対処できなくなる。それは律令で定められている事項であっても例外ではない。法に基づけば正しい行動であっても前例がなければ難しくなるのだ。

 とはいえ、中原広元は何ら違法なことをしているわけではない。中原広元はもともと大江氏であり、長年養父のためを思って中原氏として生きてきたが、大江氏の衰退を見るに堪えず、中原氏の未来が安泰になったことを見届けたので老いた身の最後の願いとして大江氏に戻りたいと訴え出ているのである。それも正式な手順に基づいて。

 朝廷としても中原広元の求めていることの意味は理解できた。源実朝を上洛させず、すなわち源実朝が朝廷や院に取り込まれる可能性を可能な限り減らしながら、鎌倉幕府の権勢を維持させつつ、源実朝に特権放棄に対する見返りを付与するよう求めているのである。改姓に比べれば官職付与などたやすい話だ。鎌倉と京都を往復することの多かった中原広元であるが、このときは鎌倉に滞在したままである。京都に姿を見せないまま書状一つで改姓を求める中原広元の訴えが認められるならば、人生で一度も京都に姿を見せないままでいる源実朝に対する官職付与も可能となる。前例があるかどうかはわからない。あるかどうかを調べるのは朝廷の担当者の側だ。前例を探し回って、それこそ日本書紀や古事記にさかのぼってまで前例を調べて対応しなければならないし、日本国内だけでなく中国の古典や史書も調べねばならない。何しろ中原広元は何一つ法令違反をしていないのである。法令違反をせずに中原姓から大江姓への改姓を求めていることを公表し、朝廷からの回答を待つこととしたのである。

 それは同時に、源実朝に上洛の意思を止めさせることも意味した。中原広元の訴えは何ら法に背いていない以上、朝廷としては却下することができない。却下するならば必死になって前例を探し回らなければならないであろうが、却下したという前例を持ち出すことに成功したとしても、中原広元のことだ。その前例に自分は該当しないとして却下に抵抗し、法を前面に掲げて真正面から再度訴えなおすであろう。それはそう遠くない未来になるであろうが、中原広元は朝廷の許可のもとに大江広元に戻る。すなわち、京都に姿を見せぬまま官職を付与することに支障はないことを示す先例となる。


 源実朝が上洛を考えるようになったのは鎌倉幕府のことを考えてのことでもあるが、同時に、鎌倉に閉じ込められているという環境への疑念もあった。また、終わりなき過労に心身ともに悲鳴をあげてもいた。上洛は憧れの地である京都への旅行であると同時に、ストレスからの逃避の口実でもあったのだ。

 源実朝は基本的に鎌倉に滞在し続け、遠出をするとしても綿密に計画を立てた上で伊豆国に出向くのが精一杯で、京都に行くことは無論、鎌倉幕府の目を逃れて自由を謳歌することも許されていなかった。

 とは言え、源実朝がこれまでの人生で一度も自由を謳歌したことがないというわけではない。兄である源頼家が源頼朝の後継者筆頭として考えられており、源頼家が体調不良で倒れるまで源実朝は源頼家の控えという立場であり、それまでは自由の身であった。源頼家は建久六(一一九五)年に顔見せの意味もあって両親とともに上洛したことがあるが、後に源実朝と名乗ることになる男児はまだ生後三年ということもあって、上洛することなく鎌倉に留め置かれたままであった。

 その運命が一瞬にして変わったのが建仁三(一二〇三)年九月。兄の源頼家が意識不明となったことで急遽源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任したが、将軍就任時の年齢は数えで一二歳、現在の学齢に直すと小学四年生から五年生である。その瞬間から一三年目を迎えるこの瞬間まで、源実朝には自由らしき自由が全く存在しなかったのだ。これでは心身ともに限界を迎えていてもおかしくない。

 源実朝に課されていた不自由の中でも特に移動の自由が全く無かったのが大問題であった。建保四(一二一六)年五月二四日に源実朝は鎌倉の北にある山内、現在の北鎌倉駅のあたりを散策したが、そのときでさえ、急な思いつきであるために大騒ぎとなったほどだ。

 上洛というのはこうした不自由から逃れるこれ以上ない画期的なアイデアであったのだが、北条義時も反対したし中原広元も反対した。特に中原広元が厄介であった。北条義時はまだ感情での対話ができるが、中原広元を相手に感情は通用しない。何を言っても理論で言い負かされる。

 もっとも、北条義時にしても、中原広元にしても、ずっと鎌倉に閉じ込めておくことが源実朝の精神衛生上良くないことぐらいは理解している。だからこそ、北鎌倉まで散策に行くことぐらいは認めたし、伊豆に参詣に行くことも認めた。

 また、源実朝が鎌倉から離れることは認めなかったにしても、京都からやってきた人やその他の人達からやってきた人が源実朝と面会することは許した。それが源実朝の気分転換、特に鎌倉に閉じ込められているという感覚を和らげることに寄与することを期待してのことである。

 建保四(一二一六)年六月八日には、極めて例外的な人物が源実朝のもとを訪問した。東大寺大仏再建の功績者である陳和卿である。大仏復旧のための鋳造責任者となったのが陳和卿であるが、この人は宋人なのだ。京都からやってきたとかのレベルではなく国外から日本へやってきた人なのである。

 それだけでも例外的な人物であるが、陳和卿はさらに例外的な背景がある。

 大仏再建に多大な功績を残した陳和卿であるが、大仏再建時の開眼供養に赴いた源頼朝と顔を合わせなかったのだ。源頼朝は源平合戦で多大な血を流した人であるというのが陳和卿が源頼朝との面会を拒否した理由である。奈良まで会いに行った源頼朝のことは無視した陳和卿であるが、鎌倉からほとんど出ていない源実朝については陳和卿のほうから会いに来たのだ。

 ただし、少し時間をおいており、陳和卿が源実朝と面会できたのは六月一五日になってからである。吾妻鏡に従うと、陳和卿がいうには源実朝は仏様の化身なのだという。その上で陳和卿は源実朝の顔を三度眺め、最後には泣き出したとある。この様子に源実朝は当初こそ辟易としたが、陳和卿が源実朝に対して「貴方はむかし宋の育王山の長老であり、拙僧はその門弟に列していた」と述べたこと、それは源実朝がかつて観た夢と一致していたことを知り、源実朝は陳和卿を信じるようになったという。源実朝が本当に仏様の化身であるかどうかは別にして、また、陳和卿とのエピソードが事実であるか虚実であるかは別にして、心身ともに疲れ果てている源実朝にとって陳和卿との面会は何よりの気晴らしになったであろう。

 そして、その目論見は成功した。陳和卿との面会は源実朝の上洛の意思を和らげる効果をもたらしたのである。

 ただし、別の意思を生み出すきっかけにもなった。


 陳和卿との面会は源実朝が上洛する意思を和らげる効果をもたらしたが、源実朝が陳和卿と面会する前日である建保四(一二一六)年六月一四日、源実朝の上洛する根拠が消える連絡が鎌倉に届いた。

 東寺に押し入った強盗集団に対する判決が下ったとの連絡が来たのであるが、判決に至る過程の中に佐々木広綱がいたのである。佐々木広綱といえば源頼朝の挙兵時から鎌倉型の一員として活躍した武士の一人であり、父の佐々木定綱は源頼朝の父の源義朝にも仕え、平治の乱で流罪となった源頼朝に付き従って伊豆に赴いた佐々木四兄弟の長男である。

 鎌倉幕府の御家人の中でも古参のうちの一人である佐々木広綱が、東寺に押し入った強盗たちを捕縛し、裁判にかけた者の一人としてカウントされているのだ。これは京都守護の指揮に基づく鎌倉幕府の御家人たちの統制が効いている証拠でもあり、源実朝が京都まで足を運ぶ必要性のうちの一つを消すに十分な知らせであった。

 なお、東寺に押し入った強盗たちに下された処分は、流罪。それも単なる流罪ではなく北海道への流罪である。

 この時代、本州最北端までは日本の領土であると認識されていたが北海道となるとその立ち位置は微妙であった。日本国であるか否かと言われると答えに窮すが、日本ではない他の国の領土かと言われるとそれも違うという土地が北海道であった。

 奥州藤原氏は東北地方に拠点を構えたものの、その勢力は東北地方だけでなく、北海道、千島、樺太、さらには沿海州にまで及んでいた。ただし、奥州藤原氏自体は日本国の朝廷に仕える貴族の一人であり、日本国の領土である東北地方最北端までは日本国の朝廷の権威のもとで統治し、北海道より北については強い影響を与える地域ではあるものの完全なる統治となっているわけではなかったのである。

 鎌倉幕府は奥州藤原氏の権勢をそのまま引き継いだ政治勢力でもある。奥州藤原氏を源頼朝が滅ぼしたとはいえ、奥州藤原氏の統治機構はそのまま温存しており、それまで奥州藤原氏に仕えていた者はそのまま鎌倉幕府に仕えるようになっている。それは北海道も例外ではない。

 つまり、日本国としては国家の領域になるかどうか微妙なのが北海道なのだ。少なくとも租税を課しているわけではない一方、国外からの侵略があった場合に防衛に出る義務もない。助けを求められたら援助をすることはあるが、国家としての機構を構えていない以上、スムーズに交渉できるというわけにはいかない。交易は広く展開しているし、互いに言葉も通じる。そして、このときのように流罪地としても適用できる。

 東寺に押し入った強盗たちは捕縛され、牛車の中の後鳥羽上皇を含む京都内外の多くの人達の前で晒し者になったのち、佐々木広綱が率いる形で北海道へと連行されていった。異例といえば異例であるが、こうもしなければ京都内外の人達の怒りを抑えることはできなかったとも言えるのだ。


 この頃の朝廷は鎌倉幕府関係で二つの課題に直面していた。

 大臣相当の位階を得ていながら右近衛中将という名誉職以外しか有していない源実朝。

 中原姓から大江姓への復帰を求める中原広元。

 この両名はともに京都に姿を見せていないままなのだ。

 だからと言って、京都に出てくるように命じることはできない。中原広元はともかく源実朝は征夷大将軍である。武官としての官職で考えると、右近衛中将兼征夷大将軍が源実朝ということとなり、右近衛中将は武官としての地位は上から四番目であり、行使できる権力となると皆無に等しい事実上の名誉職である。しかし、兼職である征夷大将軍に視点を向けるとその権力は絶大だ。征夷大将軍は軍事行動中の指揮官ということになっており、朝廷によるシビリアンコントロールの枠外なのだ。右近衛中将はあくまでも朝廷官職の一人であり、その行動は常に朝廷に監視され続け、朝廷の指揮命令下に置かれる。独自の軍事行動を執ることも許されず、平安京の内部に部下を武装して入らせるのですら注意しなければ違法となってしまう。だが、征夷大将軍にそのような制約などない。源実朝が上洛するというなら朝廷も院もそのまま上洛を受け入れなければならないし、上洛しないというなら上洛しないままとしなければならないのである。ましてや、朝廷が源実朝を呼び出すのはもっての他であった。想像していただきたい。他国からの侵略に抵抗するために前線に立って奮闘している指揮官を呼び出すであろうか。どんなに平和であっても、征夷大将軍は戦争中の前線指揮官であるという名目なのだ。

 ここで後鳥羽上皇や朝廷は一つの決断を下した。

 権中納言葉室光親こと藤原光親は、検非違使別当と按察使を兼任する後鳥羽院の院司でもある。この葉室光親に権中納言を辞職させて検非違使別当と按察使の専任とさせ、後任の権中納言に源実朝を就けるというのである。一見すると、後鳥羽上皇の忠実な臣下である葉室光親ならば多少無茶な命令であっても受け入れると考え、無茶を強行させたように見える。しかし、葉室光親が検非違使別当と按察使を兼任していることを考えると事情はそう簡単ではなくなる。

 まず検非違使別当となると、鎌倉幕府ですら不可能な平安京内における常時武装が可能となる。平安京内で武装が許されるのは、律令で定められた近衛府、衛門府、兵衛府の三つ、それぞれ左右が存在するので通称六衛府とまとめられる六つの武官組織と、令外官である検非違使の、計七つの武門組織のみである。皇族や貴族の周囲を守る武士が武装していることはあるが、彼らも厳密には検非違使の一員であるか、あるいは六衛府の武官の官職を持っていたりする者、または、検非違使や六衛府である武官の部下であるので、法に背いているわけではない。ただし、前述の通り武官の地位の上から四番目である右近衛中将ですら名誉職としての地位しか持たず、源実朝が武装した部下を平安京内に入れるのは合法か違法かギリギリとなる。征夷大将軍として上洛するならば話は別だが、それは源実朝自身が帯同してはじめて検討の余地が生まれる話であり、源実朝が鎌倉に居続けた状態で、遠く離れた京都にいる自分の部下に対して武装したまま平安京内に入ることを命じるのは、完全に違法とならないものの完全に合法だとも断言できないグレーゾーンなのだ。

 この決まりは平家や鎌倉幕府が京都における本拠地を平安京外の六波羅に置いたことからもわかる。いかに強力な武力組織であろうと、合法的に平安京に対して強力な圧力を掛けるためには平安京の敷地の外に本拠地を置かねばならないのである。

 一方、検非違使別当である葉室光親は、自らの職掌で自由に平安京内に武力を行使できる。検非違使は治安維持が目的の組織であり、現在でいう警察と検察と裁判所を兼ねた組織である。前述の通り葉室光親は後鳥羽上皇の忠実な家臣であり、後鳥羽上皇のもとには北面武士と西面武士という二つの武士集団がいる。後者は鎌倉幕府の御家人が兼ねることができたが、前者は鎌倉幕府の御家人が兼ねることはできず、御家人が北面武士になろうとしたら、その御家人は鎌倉幕府から離れなければならなくなる。

 もともと、日本中の全ての武士が鎌倉幕府に恭順を誓っているわけではない。平家の一員であった武士は無論、源平合戦において源氏にも平家にも身を寄せなかった武士も多い。源平合戦が鎌倉方の勝利に終わった後になって鎌倉幕府に加わった者もいるが、源平合戦後も鎌倉幕府から距離を置いたままの武士もおり、そうした武士の中には鎌倉幕府と距離を置いているという理由で北面武士になろうとする者もいた。そうした要望は後鳥羽上皇にとっても自らが発動できる武力がより強固なものとなるので歓迎する向きもあった。ただし、鎌倉幕府以外の武士をどれだけ集めたとしても鎌倉幕府に勝てるだけの武装集団を構築することはできない。そのために鎌倉幕府の御家人でもある武士が兼職できる西面武士を組織したという実情があった。それでもなお、北面武士と西面武士の合計したところで鎌倉幕府の武力の前では劣勢だ。

 そこで、葉室光親が権中納言を辞職する代わりに検非違使別当とさせると同時に、空席となった権中納言のうちの一つに源実朝を任命するというアイデアが登場する。征夷大将軍であるとはいえ議政官の一員となったならば、従来のように征夷大将軍であるためにシビリアンコントロールの枠外であるとの主張も厳しくなる。しかも、自分が権中納言になるために権中納言を辞職し検非違使別当兼按察使に専念することとなった葉室光親の要望を源実朝が拒絶するのは困難となる。具体的には、検非違使としての職務を遂行する必要があるので鎌倉幕府の御家人を検非違使として登用したい、そのために鎌倉幕府の指揮下から外してもらわねばならないという要望が葉室光親から出た場合、これまでであれば源実朝は葉室光親の要望を拒絶できたが、権中納言となったならば葉室光親の要望に応えなければならなくなる。このあたりは中原広元のように理論しか通用しない無感情の人間であれば通用しない感情論であるが、源実朝は無感情な人間では無い。自分のために辞職した人の要望とあっては黙っていることなどできない話だ。

 さらに厄介なのが、葉室光親が按察使を兼ねていることである。名誉職になってきているものの、按察使は本来であれば地方行政を監査する官職である。源実朝が鎌倉に滞在しているというのは、実質的にはともかく理論上は征夷大将軍として軍事行動を遂行している途中ということになっている。征夷大将軍はシビリアンコントロールの枠外であるが、按察使は地方に赴任している地方官がどのようにその土地を統治しているかを監査しその結果を朝廷に報告する職務であるため、源実朝を監査することもできるし、鎌倉幕府に仕える御家人達のうち朝廷官職を得ている者についても監査できるのだ。監査というのは、これはこれでなかなか侮れない権力を有する。あくまでもシビリアンコントロールの発動ではないが、シビリアンコントロールの枠外にある人物をその職務から罷免するという最終手段ならば存在するのだ。

 建保四(一二一六)年六月二〇日、葉室光親が権中納言を辞任。入れ替わるように源実朝が権中納言に就任。京都にいない人物を議政官の一員に任命するという異例事態ではあるが、全ては計算されてのものである。

 そのあたりを理解しているのか、吾妻鏡における源実朝の権中納言就任に関する記録も、六月三〇日に京都から、源実朝が権中納言に就任したことを伝える使者が到着したことを記すのみであり、それまでの騒動はいったい何であったのかと言いたくなるほどである。


 ほぼ同時期に朝廷で下された結論が届いたのが建保四(一二一六)年閏六月一四日のことである。将軍についてのことではなく、将軍に仕える一人の文官の出来事なのに、吾妻鏡ではこのことのほうをより詳しく書き記している。

 この日、中原広元が大江広元に戻ったのである。

 以前より誓願していた改姓願を朝廷が正式に受理したのだ。以後、中原広元は大江広元となる。国司経験もあり、正四位下というもう少しで公卿補任に名を残せる地位に至っているという、鎌倉幕府の中でも特別な存在だ。幼少期に養子になったため改姓せざるを得なくなったので元の姓に戻りたいと訴えたのだから、動機としては何らおかしなものはない。ただ、位階は高く、位階相当の官職も有しているものの、また、これまで何度も京都と鎌倉を往復する生活を過ごしていながらも、このときの中原広元、いや大江広元は鎌倉に滞在したまま動かないでいたのだ。

 改姓自体は頻繁ではないものの前例が無いわけではない。しかし、首都から遠く離れたところにいながら書状一つで改姓を願い出るというのは異例だ。

 異例なことであったことが詳しい記録を残すこととなった理由の半分であろう。ちなみに残る半分は、吾妻鏡編纂者の思惑の投影である。

 鎌倉に滞在しながら源実朝は官職を獲得し、中原広元は中原姓から大江姓に改姓を認められ大江広元となった。これにより源実朝が上洛する根拠が失われた。ただし、それで源実朝の心的ストレスを解消する方法を模索する必要性が生じた。上洛を訴えるのは貴族としての使命と同時にストレスからの離脱目的も存在していたからである。

 鎌倉幕府の重鎮達はこの問題に向かい合う必要性を感じ、大江広元が主導する形で一つの大規模なイベントを開催することにした。

 そのイベントの名を「六字河臨法」という。もともとは天台密教において、六字明王を本尊とし川に船を浮かべその中で行法を行うというイベントである。それもどの川でもいいというわけではなく、川は南北へと流れる川で無ければならない。船の先端を川上に向けるように浮かべ、岸に集まった人が船をロープで引っ張って川上に向かわせるというのがそのイベントだ。南から北へ流れる川の場合は調伏を、北から南へと流れる川の場合は息災を祈祷することとなる。

 そして、鎌倉の近くを流れる相模川は北から南へと流れる川なので、息災を祈祷する効果があることとなる。

 これだけなら船を川に浮かべて岸に集まった人が船を引っ張るというだけのイベントとなるが、ここに出てくる天台宗の僧侶が忠快となると話は変わる。忠快は平清盛の弟である平教盛の息子であり、出家した身ではあったが平家一門の一人として壇ノ浦の戦いで鎌倉方に捕縛された僧侶なのだ。さらに、僧侶としての忠快の師匠は第五十六代天台座主の覚快法親王であり、覚快法親王の実父は鳥羽法皇である。ここまでの血筋と経歴を持った僧侶となると一人の僧侶としての扱われ方ではなく、高貴な方であると同時に源平合戦の敗者という扱われ方を受けることとなる。なお、壇ノ浦の戦いで捕縛され鎌倉まで連行されたものの、生涯を仏門で過ごし貴族社会に戻らないことを誓い、また、僧侶としての実績を残してきたこともあって捕縛生活は四年で終わり、以後も一人の僧侶として過ごしてきていた。

 その人物を招いての六字河臨法の開催である。規模はかなりのものとなろう。御利益はともかく、気分の沈んでいる人にとって大規模なイベントを開催することは空気を劇的に改善させる効果がある。

 ここで重要なのは、思い立ったらすぐにイベントを開催するのではなく、大々的に広報をし、大々的に準備をし、鎌倉だけでなくその周囲の人達も巻き込んだ巨大なイベントにすることである。その準備期間もまたイベントを大きなものとする重要な要素であり、イベント開催がまだかまだかと一日一日を待ち詫びる日々を用意することで、イベントはさらに大きなものとなる。川に浮かべた船を引っ張るだけというイベントであるのに、そのイベントに参加する人達は目に見えて浮き足立つようになったし、源実朝から鎌倉在住の無名の一般庶民に至るまで多くの人はそのイベントを楽しみにするようになったのである。


 そして迎えたイベント当日の建保四(一二一六)年七月二九日、相模川には鎌倉幕府の御家人達、そして、六字河臨法を観ようと、そして参加しようと多くの者が詰めかけ、大盛況となっていた。

 詰めかけた人はまず、忠快が相模川で六字河臨法の祈祷をしたのを目の当たりにし、そのあとで、鎌倉幕府の主立った面々が武装をして隊列を組み、源実朝と幕府中枢を引き連れるという壮麗さに目を見張った。

 この一二名が先導し、その後を、源実朝夫妻、北条義時、北条時房、大江広元、源仲章、二階堂行光、二階堂行村、小山朝政といった面々が現れ、その後ろのお供に一万騎という軍勢が登場した。

 そうした面々と、詰めかけた庶民とが互いに協力し合い、六字河臨法で船を一斉に上流へと引っ張り上げていく。たったそれだけのイベントであるのだが、その壮麗さと大規模さは参加した全ての人、特に前年に連発した自然災害の記憶に苦しむ人を気分転換させた。それは源実朝も例外ではなく、それまで抱え込んでいたストレスを軽減する効果を招いた。

 と同時に、源実朝が一つの考えを生み出すきっかけとなった。

 船だ。

 陳和卿は南宋から来日した僧侶である。日本滞在歴も長く日本語での日常会話をこなせるまでになっているが、この人は本質的に南宋の人物なのである。この時代に国籍という概念はないが、国籍という概念があったとしても、この人は南宋の国籍を保持し続けることを選んだであろう。自らのアイデンティティは南宋にあり、来日にして日本国内で暮らす日々を過ごしていても、そして日本語を習得していても、それは僧侶としての務めでしかないというビジネスライクな認識であったのだ。

 この時代の日本人が日本国外から来た人と会うことはあったし、国外に出向くこともあった。実際に国外からやってきた商人が日本国内に滞在していたり、日本人商人が海外に出向いていたりする記録もある。しかし、皇族や貴族が国外に出向くということはありえなかった。国外から来た人に会うことは稀ではあっても存在したが、上流階級の人物が国外に出向くことはありえなかったのだ。強いて挙げれば高位の僧侶が仏法を学ぶために海外渡航することがあった程度である。たとえば栄西はその例に該当する。

 そんな時代に、源実朝は海外渡航を考えるようになったのだ。

 相模湾の前に広がる水平線、その向こうに見知らぬ土地があるとでも考えたのか、源実朝は船に乗って南宋に渡ることを考えるようになったのだ。


 源実朝は征夷大将軍専任というわけではなく、名誉職ではあるものの右近衛中将の官職も得ている。これは源実朝が正五位下に昇叙した少し後に得た官職であり、正五位下の位階の貴族に与える官職としては不釣り合いなほどに高い地位の官職であった。しかし、それから一〇年以上の歳月を経て、源実朝は正二位の位階にまで昇っている。その源実朝が右近衛中将のままというのは、今度は逆に不釣り合いなほどに低い官職となる。ゆえに、権中納言も兼ねるならまだどうにか格好はつく。

 それでも、就任して間もない権中納言という官職ですら、本来であれば正二位という位階と比べてかなり低い官職なのである。だが、源実朝と同じ位階の貴族が、左大臣、右大臣、内大臣が各一名、大納言が二名、権大納言が六名、中納言が三名、権中納言が源実朝を含めて二名、かつて官職を有していたが今は官職を有していない者が一〇名という位階のインフレが起こっていることを考えると、同じ正二位の間でも序列が生じ、序列を考えれば権中納言にとどまることも許容しなければならない。ただ、それでも正二位権中納言兼右近衛中将というのは地位が低すぎる。

 朝廷もそのあたりのことを考えたのか、建保四(一二一六)年七月二二日、権中納言源実朝に対し左近衛中将の官職を与えることとした。武官としての官職では上から三番目の官職であり、武官トップの左近衛大将が右大臣九条道家、二番手である右近衛大将が内大臣三条公房の兼職であることを考えると、源実朝はかなりの高位の官職を手にしたこととなる。

 ところが、このことに関する吾妻鏡の記事を読むと、本当に源実朝が口にしたのか疑問に思う出来事の記録が出てくる。

 建保四(一二一六)年九月一八日のこととして、北条義時が大江広元を呼びだし、源実朝が左近衛大将、もしくは右近衛大将の地位を望んでいるというので大江広元からどうにか言ってもらえないかと頼んだというのだ。この記事から二日後の九月二〇日、大江広元は北条義時からの使いであるとして御所に出向き、昇進を望むことについて意見を述べたという。

 北条義時が大江広元に何を述べたか、そして、大江広元が源実朝に対してどのような意見を述べたのか、それぞれ吾妻鏡に記録が残っている。

 まずは北条義時からの言葉であるが、「将軍様(=源実朝)が大将の地位を望んでいる。亡き右大将(=右近衛大将。源頼朝のこと)は、それまで朝廷から官位の話が出るたびに辞退してきた。それは幸運を子孫に残すためであった。しかるに、将軍様はまだ若く、そもそも軍功も残していない。おまけに、御家人たちの中には朝廷に仕えているわけでもないのに朝廷官職を求める者が続出している。もうため息しか出ない。かといって、朝廷官職の低い自分が言っても将軍様を怒らせるだけ。ここはあなたから申し上げてもらえないか」とのことである。

 大江広元からの言葉であるが、「子孫の繁栄を望むのであれば現在の官職を辞し、征夷大将軍として実績を重ねたのちに大将を兼ねるべき」とのことである。

 そして、吾妻鏡には大江広元の諫言に対する源実朝の回答も記録されている。「諫言は感謝する。しかし、源氏の正当な血筋は自分で終わり、子孫が継ぐことはない。それならばあくまで高い官職に就いて家名を歴史に刻みたい」というのだ。

 確かにこの時点でもなお源実朝には子供がいなかった。後世からの解釈だと、この時点で既に源実朝は自分の将来を覚悟していたのだということとなる。しかし、何度も繰り返すようで恐縮であるが、吾妻鏡は北条家の編纂した、北条家にとって都合の良い歴史書だ。鎌倉幕府の正式な歴史書であることは事実でも、正確な歴史書であるとは言い難い。北条家によって都合よく書き換えることも、取捨選択することもあるのが吾妻鏡という歴史書だ。

 文字通り解釈すると、源実朝はこの時点で自分が迎えることとなる運命を察知した上で朝廷官職を求めるようになったこととなる。しかし、鎌倉幕府と朝廷との関係についての政治的意見の対立を踏まえて捉えると、別の視点が見えてくる。すなわち、源実朝が朝廷官職を求めたところまでは事実だが、源実朝としては朝廷や院との関係を深めることが朝廷における鎌倉幕府のプレゼンスを高めることであるという意見があったのに対し、北条義時や大江広元は朝廷や院と距離を置くことを求め、それこそが独立した権力としての鎌倉幕府を存続させる道であると考えていたのである。

 源実朝も、北条義時や大江広元も、ともに鎌倉幕府のことを考えての意見である。しかし、二つの意見はまるっきり正反対であり、おまけに、どちらか一方しか選べないのだ。これではいつまで経っても話は平行線を辿ることとなる。

 吾妻鏡には源実朝の言い分がほとんど残っていない。残っているのは北条家にとって都合の良い記録のみである。


 先に述べたように源実朝は船に乗って南宋に渡ることを考えた。

 その正確な記録が現れたのは建保四(一二一六)年一一月二四日のことである。

 吾妻鏡の伝えるところによると、源実朝の前世は南宋の医王山阿育王寺の長老であり、前世の自分の在処を実際にこの目で見てみたいので南宋へ渡りたいと思いつき、渡航用の船を建造するように陳和卿に命令したというのがこの日の記憶だ。

 また、源実朝一人だけが南宋に渡るのではなく、およそ六〇名の御家人が同行するという壮大な企画であり、源実朝は結城朝光を渡航計画の責任者に任命している。

 北条義時や大江広元はこの計画に猛反対したが、源実朝は受け入れずに造船を強行したというのが吾妻鏡の記載である。

 ただし、吾妻鏡の記載を文字通り受け取るわけにはいかない。

 確かに無謀な計画であるが、一人の政治家として源実朝の意見を眺めると二つの利点が見えてくる。

 一つは鎌倉と京都を結ぶ海洋定期航路の新設。

 もう一つはかつての平家政権のような日宋貿易の構築である。

 特に後者は鎌倉幕府に莫大な資産をもたらすだけでなく、鎌倉幕府と南宋との接点を生み出すというメリットがあるのだ。

 忘れてはならないのは、南宋という国家が、かつて中国大陸全体を統治していた北宋の継承国家であること、いや、南宋と北宋は別の国家でなく、北宋のうち北半分が金帝国に制圧され、南半分に縮小せざるを得なくなった国家ということである。しかも、南宋は現在進行形で金帝国の圧力を受け続けている。

 その上で南宋の立場で考えると、南宋の軍事力をどれだけ動員しても金帝国の侵略に抵抗するのが精一杯で、失地回復までには至っていないという現実がまずは存在し、さらには朝鮮半島の高麗ご既に金帝国の支配下に置かれていることを考えたとき、海の向こうの日本国における最大の軍事勢力を南宋の側につけることで、南宋の救援、さらには高麗や金帝国そのものに対する圧力を見せつけることができれば、これまで不利にあった南宋も形勢逆転できる可能性が見えてくるのだ。

 源実朝が南宋を訪問するというのは、源実朝から言い出したことである。しかし、源実朝に南宋への渡航を促した人物がいたならば、それは南宋の国際戦略の一環となる。そして、このときの源実朝の目の前には、陳和卿がいる。南宋が陳和卿を通じて源実朝を招くことに成功し、鎌倉幕府の軍事力を南宋が利用できるようになれば、南宋としては多大なメリットが生まれることとなる。平家政権の頃のような日宋貿易が復活し、日本と南宋の双方とも豊かになるというのは、南宋の思惑の生み出すオマケみたいなものである。

 源実朝にしても、南宋が自分を利用しようとしていることぐらいは読み取れる。しかし、南宋が源実朝を利用するように、源実朝もまた南宋を利用しようと考えたのだ。

 以上を踏まえ、源実朝が結城朝光を渡航計画の責任者に任命したことを考えていただきたい。

 梶原景時、比企能員、平賀朝雅、畠山重忠、北条時政、そして和田義盛。鎌倉幕府の重要人物達の数多くが命を落としている。これらは全て、突き詰めて考えれば鎌倉幕府内部の派閥争いだ。その争いの過程で権勢を伸ばした御家人もいれば、権勢を掴み損ねた御家人もいる。北条家をはじめとする生き残った有力者と親しい関係を維持することで勢力を維持できた御家人もいれば、時流に取り残されて勢力が弱まった御家人もいる。結城朝光は時流に取り残されて勢力が弱まった御家人のうちの一人だ。源実朝と同行するとして定めたおよそ六〇名の御家人について吾妻鏡は詳しく記さないが、おそらく彼らは、結城朝光と同様に時流に取り残された御家人達であると考えられる。

 南宋へ渡航し、南宋から帰国し、その帰路は鎌倉へと直行するのではなく京都に立ち寄る。それだけで、源実朝のもとには源実朝派というべき御家人達ができあがる。これまで源実朝に仕えてきた御家人達というのは、源実朝だから仕えているのではなく、源頼朝の後継者に仕えているのである。個人に対する心酔に由来する忠誠を鎌倉幕府という組織に対する忠誠に変えようとしたのが源実朝であるが、ここにきて、源実朝個人を忠誠の軸にするよう考えたのだ。

 さらに、そもそも渡航計画自体を考えていたのかという問題もある。

 船を作った場所は由比浦だ。鎌倉観光をしたことのある方なら現在の由比ヶ浜の情景を思い浮かべることができるであろうが、この時代の由比浦の情景を思い浮かべることができる人は少ないはずである。

 理由は単純で、この当時の由比ヶ浜は現在ほどに砂浜が東西に広く広がる海岸ではない一方、相模湾に流れ込んで由比ヶ浜を形成する滑川は現在より流量が多く、滑川の下降も現在より数百メートル内陸にあったのだ。そして、船が入り込むことのできる河口の港、すなわち「浦」が形成されていたのである。

 この地点のことを由比浦という。

 もう少し後の時代のことになるが、「海道記」では由比浦のことを数百艘もの船が停泊する巨大な河口港と評している。だが、源実朝が造船指令を出した頃はまだそこまで大きな河口港ではなかった。

 現在の由比ヶ浜は多くの海水浴客が詰めかける観光地であるが、この時代の由比浦は鎌倉西部の交通の要衝であるものの、都市計画という点で少し遅れが出ている地域であり、御世辞にも多くの人を集める地域とは言えなかった。だが、河川交通および河川から相模湾に向けての河口港としての役割を果たせる由比浦には大きな可能性があった。由比浦から相模湾にかけての一帯を発展させることができれば、都市鎌倉の発展という意味でも大きな意義が生まれるのである。

 由比浦に少しずつ作られていく渡海用の巨大な船は鎌倉内外の人たちの話題となり、徐々に船が出来上がっていく様子は鎌倉の庶民達の間で話題になった。それに、造船は少人数で簡単にできるような仕事ではない。多くの人を集めなければならない上、集めた人の全員が造船のための技術を身につけていなければならない。当初は素人であっても、日数を重ねていくにつれて造船技術を身につけたエンジニアへと成長していく。

 由比浦で建造した船がどうなったかは実際にその日を迎えたときに出来事として記すが、このときに多くの人を集めて巨大な船を作ったことは、多くの失業者に一時的な職を与えただけでなく、由比浦を中心に多くの人を集め、由比浦付近一帯を、造船技術を持ったエンジニアの住むエリアへと成長させることで、今後も造船業で食べていけるようにさせることにもなる。

 鎌倉は海に面した都市であり、海に出ていく船への需要は尽きることなく存在していたものの、船への需要に応えられるだけの供給ができていなかったのがこのときの鎌倉であった。増えていく一方の人口に見合うだけの漁業を可能とするための船を供給するのに必要なのは、船そのものではなく、船を作ることのできるエンジニア達である。無駄と思われる巨大な公共事業も、失業対策を踏まえた経済政策と考えたならば無駄ではなくなる。また、彼らエンジニアを都市整備の遅れている西部に集めることで都市鎌倉の発展を促し、由比浦の港湾整備をさらに進展させることで経済的発展を呼び起こすこともできる。

 そう考えると、源実朝からの造船命令は間違いとは言い切れない。


 南宋への渡航を前提とした巨大な船の建造も経済政策として意味がある。

 上洛への思いを隠せないのは事実でも、政治家としての責務を放棄してはいない。

 こうした思いが成就したのか、間もなく建保四(一二一六)年も終わろうかという一二月に入ると、源実朝は次々と政治家としての事績を刻むようになったのである。それも、源実朝自身も予期していなかった形で。

 鎌倉幕府は征夷大将軍をトップとし、全ての権力が征夷大将軍に集中している組織である。ゆえに、全ての政務も誓願も征夷大将軍に集中する。とはいえ、現実問題として一人に全てが集中するとこなしきれなくなる。そのため、政務と財務は政所が、人事は侍所が、司法は問注所が受け持ち、一人に責務が集中しないようになっている。

 ただし、政所と侍所の双方の別当を北条義時が兼務していることもあって、今度は北条義時に責務が集中するようになってしまっている。政所別当は複数名いるので北条義時一人に職務が集中しているわけではないが、将軍の叔父、将軍の実母の弟、将軍の母方の実の祖父の息子、こうした血縁が特別な事情となって北条義時への集中を生み出している。

 そう、北条義時の権力の寄って立つところは血縁であって、政治家としての能力でもなければ武士としての能力でもない。そもそも北条義時自身が軍勢を率いて戦場で華々しく戦ったということもなければ、政治家として強力なリーダーシップを発揮したということもない。鎌倉幕府が誕生してからこれまでに何度も鎌倉幕府の有力御家人が命を落とす事件を生み、こうした事件での勝者の側に北条義時が常にいたことは、それはそれで才能の一つと言えよう。また、独裁を徹底的に忌避してきた過去も無視できぬものがあろう。しかし、そうした過去や実績と、政治家としての能力や武人としての能力とは何の関係もないのである。

 上洛に対する考えの違いもあって源実朝と北条義時との間はギクシャクしだしているのだが、ここに来て北条義時の資質のほうを疑わざるを得ない事態が露見したのだ。そして、ここは源実朝が全面に立たなければならないのだと悟ったのである。

 建保四(一二一六)年一二月一日に御家人の窮状の訴えが処理されずに放置されていることを知った源実朝は、ただちに訴えについて審理し、遅くとも年内に決裁するように命令した。

 一二月八日には伊賀国壬生野荘をめぐる春日大社と宇都宮頼綱との所領争いに関して、宇都宮頼綱の主張の根拠は鎌倉でも用意できるが、春日大社、ならびに春日大社を抱える興福寺の用意できる文書は朝廷が保管する文書であるため、審理は鎌倉ではなく朝廷で行うべきであると判断し、ただちに朝廷に向けて使者を送り出した。

 一二月二〇日には富士宮浅間神社領の年貢について遅延が出ているのでただちに京都に向けて年貢を送り届けるように指令を出し、そのための人員を用意させた。

 以上全て、まずは政所で、そのあとで侍所や問注所で判断し、その範疇を超えると判定されたなら源実朝のもとに上奏されるべき案件である。しかし、そうした流れではあまりにも遅かった。そしてこれは、システムの問題ではなく、携わっている人の問題であるとさえ言えた。源実朝が前面に出ただけでスムーズに解決したのだから、これは仕組みの問題ではなく人間の問題である。具体的には政所別当兼侍所別当北条義時と、征夷大将軍源実朝との、政治家としての能力の差異である。

 忘れてはならないのは、源実朝はまだ二五歳の、現在の満年齢なら二四歳の若者でありながら、既に一三年に亘って征夷大将軍を務めてきたキャリアがあり、鎌倉幕府のトップとして申し分ない実績を有していることである。現在の感覚では年齢を理由に衆議院議員に立候補することもできない若さであり、普通ならこれから自分のキャリアをどのように築いていくのかを考える年齢であるのに、源実朝は作り上げたキャリアをいかに成長させていくかというステップにまで進んでいたのだ。


 朝廷官職というものには上下関係が存在し、同じ官職であれば位階の高さで、同じ官職で同じ位階ならばその官職に就いた日付の早いほう、もしくはその位階に昇叙した日付の早いほうが上の序列となる。

 建保四(一二一六)年に源実朝が権中納言となったとき、正二位である権中納言としては姉小路公宣こと藤原公宣と、九条教家こと藤原教家の二名がいた。両名とも源実朝より先に権中納言に就任している正二位であるので、その瞬間に姉小路公宣と九条教家が源実朝より上の序列になることが決まる。また、九条教家は従二位で権中納言に就いた後に、建保四(一二一六)年一月に正二位へと昇叙したばかりなので、権中納言筆頭は姉小路公宣、次席が九条教家となり、源実朝は権中納言の中で序列第三位ということになる。ちなみに、数えで二五歳の源実朝に対し、姉小路公宣は三六歳であり、鎌倉に居住したまま京都に姿を見せない源実朝に対し、京都に留まって貴族としてのキャリアを積み重ねてきたこともあって、貴族としてどちらが朝廷において貢献しているかを考えると、姉小路公宣のほうが上の序列になるのは当然のことと言えよう。

 普通なら。

 ところが、年が明けた建保五(一二一七)年に序列が入れ替わった。

 位階は変わらない。官職も変わらない。それなのに、権中納言筆頭は源実朝とすると定められたのだ。建保五(一二一七)年一月時点の権中納言は七名おり、その中で最上位の位階は正二位。源実朝、姉小路公宣、九条教家の三名である。その三名の正二位の権中納言のうち、源実朝が筆頭となったのは一見すると異例とするしかない。

 ただし、源実朝が権中納言筆頭となることの根拠は存在した。

 九条教家が正二位の位階を得たのが建保四(一二一六)年一月。

 姉小路公宣が正二位に昇叙したのは建保三(一二一五)年四月。

 そして源実朝が正二位となったのは建保元(一二一三)年二月。

 つまり、三名の正二位の権中納言のうち最も早く正二位に昇叙していたのが源実朝なのである。源実朝が藤原氏の二人の貴族より上に立つこと自体は、理屈として成り立つのだ。序列を入れ替えることはさすがに珍しいが、一見すると異例に見えても、何ら根拠のない話ではなかったのである。

 ただし、何度も述べているように源実朝は京都にいない。京都で議政官が集って国政を左右する会議を開催する場合も、源実朝は兼職である征夷大将軍としての職務に専念するために京都に赴くことができず、やむなく会議を欠席するという体裁をとり続けることとなるのである。

 それが正しいことであるかどうかは別にして。


 源実朝は生涯に亘って京都を訪れることなく鎌倉に滞在し続ける人生を過ごしてきたが、鎌倉市街から全く外に出たことがないわけではない。

 現在でいう北鎌倉駅のあたりまでに行くのですら制限がかかる暮らしであるが、それでも鎌倉から少しだけであれば離れることができた。年に一度、あるいは数年に一度の割合であるが、箱根や伊豆国までであればどうにか参詣目的で出向くことぐらいまでならできた。

 ただし、条件がある。

 単独行動は厳禁だ。

 たとえば建保五(一二一七)年一月末に箱根と走湯の二権現の参詣に向かうとき、傍らには北条時房が付き従っていた。しかも、一月二六日に出発して二月二日に鎌倉に戻ってくるという、今の社会人の年末年始休暇と大して変わらないスケジュールでの小旅行であり、これが源実朝の享受できた自由の限界点であった。表向きは叔父といっしょの旅行であるが、いったい誰がそのような表向きの理由を信じようか。誰が見ても北条家による将軍源実朝の監視でしかない。

 しかも、北条家によって監視されていようと参詣は源実朝にとって貴重な外出の機会であったのだが、参詣の全てが外出の機会とできたわけではなかった。たとえば、鶴岡八幡宮での神事であれば鎌倉市内のことのため問題ないように思われるが、それですら源実朝の外出とはならず、北条泰時を代理として参詣させていたりする。それだけ将軍としての責務に縛られていたとも言えよう。前年末に明らかとなった北条義時の能力不足による鎌倉幕府の政務停滞、そして、源実朝が直接政務を執ることでのリカバリーは周知の事実となっていたのである。源実朝の心身に起こっている疲労は誰もが理解していたし、疲労回復の方法も誰もが知っていたが、その疲労からの回復のための時間が無かったのだ。

 「時間が無い」は言い訳ではなく答えである。時間が無いというのは時間の使い方を誤っているのではなく、一人の人間に課されている責務があまりにも多すぎる状態を指す言葉だ。この時点の鎌倉幕府でいうと、将軍源実朝をサポートする御家人達、特に北条義時や大江広元といった鎌倉幕府の宿老達の活躍が源実朝に課されている責務を減らす役割を果たさねばならなかったのであるが、ここに来て、鎌倉幕府内部において重要な地位を占めているはずの北条義時に地位に見合うだけの結果を出せていないことが判明した以上、北条義時に責務をそのまま任せ続けるのではなく、別の方法を考えねばならない。源実朝が前面に立つというのはその方法のうちの一つである。

 また、鶴岡八幡宮への参詣に北条泰時を向かわせたのも、その方法のうちの一つであるとも言える。

 どういうことかというと、鎌倉幕府内において五位以上の位階を持つ者、すなわち貴族となった御家人の一人に北条義時の息子、北条泰時が加わったのである。北条義時自身が既に貴族に加わっているのに加え、弟の北条時房も末席であるとは言え従五位下の位階を持ち武蔵守を務めている。ここに北条泰時も加わったことで、鎌倉幕府内部における北条家の勢力がさらに高まったのだ。普通に考えればここで北条家の権勢強化が示されたということになろうが、もう少し踏み込んで考えると、北条義時の代わりを多少なりとも務めることができる人間が登場したとも言えるのだ。

 朝廷が北条泰時に対して従五位下の位階を付与したのは前年一二月三〇日のこと。その知らせが鎌倉に届いたのは年が明けてからであり、北条泰時が源実朝の代理として鶴岡八幡宮に参詣したのは、鎌倉の地で源実朝が貴族としての職務を遂行するにあたり、源実朝の代理を多少なりとも務めることの人物の一人として、従来の北条義時や北条政子だけでなく、新たに北条泰時もカウントされるようになったとアピールするという側面も存在したのである。

 ちなみに、北条泰時はどうしても若者というイメージが強くなってしまう人物であるが、源実朝より九際歳上の三四歳であり、十分なキャリアを積んできた中堅である。また、和田合戦での陣頭指揮からもわかるとおり武人を指揮する指揮官としての実績も積んでおり、貴族であると同時に武人としての才も発揮できるという希有な人材でもあった。北条義時の息子であるために特別視されるのはやむを得ないとはいえ、その点を差し引いても鎌倉幕府の次の世代を担うに十分な資質を持つ者と見做されていたのである。源実朝の代理として鶴岡八幡宮へ参詣したのも、北条泰時であれば問題ない話だと周囲は見たのだ。

 鎌倉において源実朝の代理を務めるのは、鎌倉幕府の有力な御家人というだけでは不十分で、まずは貴族の一員としてカウントされていなければならな。実際、源実朝は鎌倉の地で貴族の一人として振る舞っており、花見のために永福寺へ出かけたときも、貴族らしく妻とともに牛車に乗っての移動である。京都であれば珍しくない光景も鎌倉においては源実朝だけができた話であり、牛車の周囲を鎌倉幕府の御家人達が護衛していても、牛車の周囲を警備のための武士がつとめるという点では京都における貴族の移動と何ら変わらないのである。それは、鎌倉幕府という組織構造の基礎が、有力な貴族がトップに君臨し、その貴族に仕える文人官僚や武士達がまとまって集団を構成するという、京都の貴族であれば当たり前である構図をそのまま利用したことにもつながる話である。

 この点を踏まえて忘れてはならないことが一つある。

 大江広元がこの年の一月二七日に陸奥守になったことである。

 これは源実朝の負担を減らす手段のうちの一つでもあった。

 かつて東北地方を制圧していた奥州藤原氏の藤原秀衡は、東北地方を統治する際に、自身が鎮守府将軍と陸奥守を兼ねていることを前面に掲げて藤原秀衡の有する朝廷官職の威光を利用して東北地方を統治していた。

 藤原秀衡の死後に起こった奥州合戦において鎌倉方は奥州藤原氏を滅ぼしたが、奥州藤原氏の統治機構まで潰したわけではない。奥州藤原氏の統治機構をそのまま利用することで鎌倉幕府は東北地方を統治してきたのであるが、ここで北条義時の統治能力に疑問符がついたことを踏まえると、今のうちに何かしらの手を打たなければ東北地方の経営に支障が出る可能性があった。

 そこで、鎌倉幕府として朝廷に対し大江広元を陸奥守に推薦したのである。大江広元は鎌倉幕府の文人官僚であると同時に、朝廷においても貴族としてのキャリアを積み重ねてきた人物である。かつての藤原秀衡の地位に、貴族としても申し分ない経歴を積み重ねてきた鎌倉幕府の大物でもある大江広元を就けることは、鎌倉幕府として東北地方の統治をスムーズにさせる効果を生み出した。

 ただし、大江広元は陸奥国に出向いたわけではなく鎌倉に滞在した状態でのリモートコントロールで東北地方の統治にあたっている。

 なお、陸奥守では出羽国に対する統治権を有さない。朝廷も後鳥羽院もそのことを考えたようで、鎌倉幕府から大江広元が陸奥守に推薦されたのと同タイミングで藤原秀能を出羽守に任命している。藤原秀能は北面武士の一人であり、かつては土御門通親に仕える武士であった。鎌倉幕府に仕えていない武士の中ではトップレベルのキャリアを詰んでいたこともあり、鎌倉幕府が大江広元を陸奥守に推薦してきたなら、後鳥羽院として対抗して送り出す人材として藤原秀能は適任であったと言える。


 北条家から三名が貴族社会に姿を見せている。また、政所別当が複数名体制になっているという前提で記録をたどると、北条義時に加え北条時房も政所別当の一員としてカウントされている記録が出てくる。源頼家の時代の十三人の合議制を継承した組織ともいえる政所別当複数制の面々としてカウントされる人物を挙げていくと、北条義時、北条時房、大江広元に加え、源仲章、源頼茂、大内惟信といった人物の名が確認できる。ただし、現存する政所発給文書に記されている署名の中に源頼茂の名を記している文書はなく、大内惟信の名のある文書もほとんどない。源仲章の名のある文書については存在しているものの、源仲章は源実朝の侍読(じどく)も務めた実務官僚であると同時に後鳥羽上皇の側近の一人でもあるため、頻繁に京都と鎌倉とを往復しなければならず、政所の一員として文書にその名を記す機会はそもそも多くなかったと考えられる。

 しかし、政所別当が一人であろうと、複数名いようと、一つだけ言えることがある。

 三浦家の者が政所に加わることはない。

 どうして三浦家の者が加わることが無いのか?

 さらに言えば、そもそも実務能力に難ありとされた北条義時が政所別当であり続けることができたのか?

 この疑念を朝廷との関係と踏まえて考えると、単純明快な答えが出てくる。

 そもそも三浦家の者が貴族にカウントされることがなかったのだ。たとえば侍所別当として鎌倉幕府の重臣と一人して君臨してきた和田義盛は三浦家の一員であり、京都では三浦家の頭領とまで見做されていた人物であるが、その和田義盛ですら死ぬまで五位以上の位階を得ることのないまま生涯を終えたことからもわかるとおり、三浦家の者は貴族となることができなかったのだ。それは三浦家の事実上の当主である三浦義村も例外ではなく、貴族としてカウントされる位階、すなわち五位以上の位階を得てはいなかった。三浦義村の弟の三浦胤義は京都で検非違使を務めていたことからそれなりの位階を得ていたことは間違いなく、朝廷官職としても兄より上であったことも間違いないのだが、それでも貴族としてカウントされる地位とは言えなかった。三浦義村は後に正五位下駿河守となってようやく貴族の末席に名を記すこととなったが、駿河守就任は事情を鑑みての特例であり、位階の獲得もその特例に付随するものという扱いであった。

 一方の北条家は、北条義時や北条時房、さらにこの時点ではまだ侍所別当としてカウントされてはいない北条泰時も既に貴族としてカウントされている。

 そのほかの面々を見ても、大江広元は鎌倉幕府の一員になる前から既に貴族であったし、源仲章、源頼茂、大内惟信の三名もまた貴族であった。

 源仲章は村上源氏の一員であり、後鳥羽上皇の側近の一人でもある貴族であった。

 源頼茂は源頼政の孫であり、源頼政は平治の乱で平清盛の側に立ったこともあって平家政権下における数少ない清和源氏の貴族であった。源頼政は晩年に従三位の位階を得ていたため、源頼茂も貴族社会の一員であり正五位下の位階を得ていた。

 大内惟信も清和源氏の一員であり、平賀朝雅の甥でもあることから、平賀朝雅の後を受けて平賀朝雅が務めていた職務を継承し、その後の功績もあって貴族の一員にカウントされるようになっていた。

 政所というのは鎌倉幕府内部における貴族達の集まりであり、貴族でなければ政所の一員になれなかった。そして、三浦家は政所に入る資格を有さなかった、すなわち貴族となれなかったのである。それは、勢力として北条家を凌駕することもある三浦家ですら貴族になれないという現実を鎌倉幕府の御家人達に見せつけることにつながり、鎌倉幕府の御家人達の中で北条家だけが特例的に貴族の一員となっているという構図が存在することを見せつけることになったのである。

 たとえば、建保五(一二一七)年四月五日の夜に、小町大路で北条泰時の家来の成田次郎と陸奥国出身の武士である深沼五郎が喧嘩となり、斬り合いになったという事件が起こったが、このときの吾妻鏡の記録は「式部大夫家人成田次郎与奥州住人深沼五郎鬪諍」と、成田次郎については式部大夫、すなわち北条泰時の家来であることを北条泰時の朝廷官職を用いて記しながら、深沼五郎についてはただその根拠地名によって記すのみであり、そこには明らかな差別が存在しているように感じる。しかも、そのことについて吾妻鏡の編纂者は何かしらの問題を感じている様子はない。北条家は特殊であるという構図を当然のこととして記している。

 では、この時代の人達は本当にこの構図も受け入れていたのか、特に鎌倉幕府の御家人達はこの構図を甘受していたのか?

 実はこれ、かなり根が深い問題である。

 何しろ、現代に生きる日本人ではわからない、それでいて、明治維新までは当然のこととして日本人の間に受容されてきた概念が立ちはだかっていたのである。

 まず、日本国は皇族と庶民とに分かれる。皇族に生まれるか皇族に嫁ぐかしない限り、日本人はみな庶民である。ここまでは現在と同じであり、律令でもこのように扱われている。

 問題は、庶民の間に階層が存在したことである。

 同じ庶民の間でも朝廷に直接仕えることのできる者とそうでない者との間で壁が存在し、朝廷に直接仕えることのできる者の間でも、公達(きんだち)、諸大夫(しょだいぶ)、侍(さむらい)の三段階に分かれる。

 まずはトップである公達(きんだち)であるが、ここには藤原北家のうち摂政関白に就くことのできる家と、一部の源氏が君臨する。ここでいう一部の源氏とは村上源氏を中心とする朝廷の中枢を担う源氏のことであり元来は清和源氏が含まれていなかったが、鎌倉幕府成立以後は源頼朝の子孫も加わるようになった。また、平清盛以降は平家が含まれていたが源平合戦以後は除外されている。

 次の諸大夫(しょだいぶ)であるが、ここには藤原北家のうち摂政や関白に就く資格を有さない家の者、また、菅原氏や大江氏といった一部の貴族、また、源氏のうち清和源氏を含む一部の源氏がここに含まれる。後述するが、源頼朝の子孫は公達(きんだち)となっていても、源頼朝自身は諸大夫(しょだいぶ)である。また、平氏についていうと、平清盛の父の平忠盛がここに含まれるほか、北条時政とその子孫もここに含まれる。

 そして最後の侍(さむらい)であるが、橘氏や紀氏といった昔ながらの貴族の大部分と、公達(きんだち)にも諸大夫(しょだいぶ)含まれない源氏、多くの平氏、そして、藤原北家以外の藤原氏が含まれる。平氏ついでに言うと、鎌倉幕府に仕える御家人の多くが平を姓とする家であり、三浦家をはじめとするほとんどの鎌倉幕府の御家人は、平氏であるために侍(さむらい)である。平氏の中で侍(さむらい)から諸大夫(しょだいぶ)に上がったのが平忠盛や北条時政であり、諸大夫(しょだいぶ)から公達(きんだち)に上がったのが平清盛であるが、北条時政や平忠盛、そして平清盛はむしろ平氏における例外中の例外で、平氏であれば侍(さむらい)のままであるというのがこの時代の一般観念であった。

 この三つについては理論上こそ乗り越えることは可能であったが、実際に乗り越えることは困難であった。それこそ、平家や、鎌倉幕府の征夷大将軍といった例は極めて特殊な例であると言える。

 さらに、同じ段階であっても家によって細かく分かれた。たとえば、公達(きんだち)であれば従五位下の位階を得て貴族としてデビューした後、近衛少将、近衛中将を経て従三位の位階を獲得し公卿補任に名を残すこととなる。ここまでは一般化されていたが、生まれた家によって、一〇代のうちに近衛中将になる者もいれば、四〇代を迎えてようやく近衛中将にたどり着く者もいるという違いがあった。源実朝が二五歳という若さで正三位になり権中納言を務める身になったというのは、征夷大将軍が公達(きんだち)の一員に加えられただけでなく、公達(きんだち)の中でもトップクラスの待遇の家であると扱われるようになったことを意味する。

 一方、源頼家と源実朝の兄弟を除く清和源氏は、源頼朝が征夷大将軍となるまで諸大夫(しょだいぶ)であった。源頼朝が文治元(一一八五)年に従二位へと昇叙し、建久元(一一九〇)年に権大納言と右近衛大将の官職を得たことで、源頼朝自身は諸大夫(しょだいぶ)のままでも、源頼朝の後継者は公達(きんだち)の一員として見られるようになった。源頼家や源実朝が若くして位階を獲得したのも、公達(きんだち)としては正しいのである。

 これが鎌倉幕府のトップである征夷大将軍の朝廷における位置である。

 征夷大将軍に仕える鎌倉幕府の御家人達はどうなるのか?

 多くは侍(さむらい)である。現代の日本人が侍として思い浮かべるのが武士であるのも、武士とはまず、朝廷の階層における侍(さむらい)であったからであり、一部の上層部を除く多くの武士は侍(さむらい)である一方、侍(さむらい)が必ず武士であるというわけではない。

 ただし例外もある。征夷大将軍と同様に清和源氏である御家人と、北条時政の子孫である北条家である。もっとも、北条時政は侍(さむらい)から諸大夫(しょだいぶ)に上がった人物なので問題ない。問題なのは清和源氏である御家人である。清和源氏は本来であれば諸大夫(しょだいぶ)のため、同じ諸大夫(しょだいぶ)である源頼朝とは同格であるはずであった。ましてや御家人として源頼朝に仕えることも許される話ではなかった。源平合戦期に甲斐源氏が源頼朝と同列であるように振る舞っていたのも、源頼朝の心情的には不満に感じるところがあったとしても、朝廷の前ではその振る舞いが正しい振る舞いになるのである。ただしこれは、源頼朝の子が公達(きんだち)と扱われることとなった瞬間に同列とする扱いが認められなくなった一方で、その代わりに御家人として鎌倉幕府に仕えることは何の問題も無くなった。

 公達(きんだち)、諸大夫(しょだいぶ)、侍(さむらい)という構図は鎌倉幕府の内部でもそのまま通用した。公達(きんだち)は源実朝のみ、諸大夫(しょだいぶ)は貴族の一員とカウントされる者、侍(さむらい)はその他の御家人という構図である。先に述べたように本来なら北条家も侍(さむらい)でありながら北条時政のときに諸大夫(しょだいぶ)となったが、この特殊事情は、北条時政の娘である北条政子が源頼朝の正妻であることと、北条時政が源平合戦前に京都で大番役を務めたことや源平合戦後に京都守護を務めたことの功績が認められ結果であり、侍(さむらい)であった北条時政が諸大夫(しょだいぶ)の一員に加わることに成功し、北条時政の地位が息子の北条義時や北条時房、孫の北条泰時へと受け継がれていったという経緯が存在している。ここで着目すべきは、北条義時はもともと侍(さむらい)であったのが父のおかげで諸大夫(しょだいぶ)に昇格し、北条泰時も生まれた時点ではまだ諸大夫(しょだいぶ)ではなく、北条義時も北条泰時も諸大夫(しょだいぶ)たるに相応しい教育を受けてきたわけではないということである。それでも北条泰時は独力で諸大夫(しょだいぶ)たる素養を自力で手に入れようとした記録はあるが、北条義時についてはそうした記録がない。今更改めて素養を身につける必要などなく、自分は諸大夫(しょだいぶ)たる資質を有していると信じて疑っていなかったかのようである。

 なお、娘や姉妹が征夷大将軍と婚姻関係にあるとか、自身が京都で功績を果たしているだけで簡単に侍(さむらい)から諸大夫(しょだいぶ)に上がることができるわけでなく、比企能員や和田義盛は最後まで侍(さむらい)のままであった。同様に、佐々木定綱や小野義成といった検非違使を務めた御家人についても、諸大夫(しょだいぶ)には上がることができず侍(さむらい)のままである。同じ鎌倉幕府の御家人の中でも諸大夫(しょだいぶ)と侍(さむらい)とが混在しており、侍(さむらい)から諸大夫(しょだいぶ)に上がることができたのは北条家だけという構図を、鎌倉幕府の御家人達は、本心はともかく、表向きは受け入れざるをえなかったのである。

 鎌倉幕府の中での巨大勢力である三浦家でも三浦義村が建久元(一一九〇)年に右兵衛尉となったほか、前述のように三浦義村の弟の三浦胤義も京都で検非違使を務めており、左衛門少尉や右衛門尉といった武官の官職を手にしていた記録がある。また、和田義盛や佐原義連も左衛門尉となっている。ただ、そうした朝廷官職を得たとは言え、これらは侍(さむらい)身分の扱いであり、その上には至っていない。ちなみに、既に述べたように三浦義村は後に駿河守となったが、これは特殊な事情があったためである。


 建保五(一二一七)年四月一七日、陳和卿に命じて前年から建造していた船が完成し、出航する準備が整った。

 ただし、準備が整ったとしても、由比浦は出航を許してくれなかった。由比浦で建造された船は港から動かすことができず出航できなかったのだ。源実朝や北条義時らが見つめる中、二階堂行光の指揮に従い、陳和卿の説明に従って人海戦術で船を引っ張ろうとするものの船は全く動かず、同日夕刻、出航は断念することとなった。

 それにしても、奇妙な出来事である。誰を船に乗せるかの人選まで完了し、南宋に渡る計画を立てていたはずなのに、渡海そのものの痕跡も見られなければ、出航を断念せざるを得なくなったことに落胆する様子もない。まるで最初から壮大な茶番であったかのようにあっさりとしている。

 これでは一体何のための船の建造なのかと言いたくなるが、実はこのときの源実朝の行為、経済の視点で考えると、どこにもマイナスは見当たらない。

 源実朝が命じたことは、ケインズの言うところの穴を掘って埋める公共事業である。作り上げた船が太平洋に向けて出航できるかどうかなどさほど重要ではない。重要なのは船を建造することそのものである。船を建造するために多くの人を集め、賃金を払った上で船を作り上げる技術を身につけさせる。船を作っている間は生活ができ、船を作り終えたら船を作ることのできるエンジニアとなって生活できるようになる。出港できずに放置された船は由比ヶ浜から由比浦にかけての一帯におけるランドマークとして観光名所にでもすれば、観光客を呼び込んで無駄ではなくなる。

 残されている記録を解きほぐしていくと、源実朝は本当に南宋にまで渡ろうとしたのかという疑問さえ思い浮かぶ。

 鎌倉幕府のトップ、すなわち、日本国の最大の武力集団のトップが海を越えて日本から南宋へ渡るというのは、日本にとっても、南宋にとっても、複雑な世界情勢を生み出すきっかけとなる。本音を言えば歓迎できる話では無い。日本国にとっては一時的であるにせよ国内最大の武力集団がトップ不在の状態となることを意味する一方、南宋にとっては日本国最大の武力集団のトップが来訪するのであるから、中国大陸の北半分を金帝国に奪われたままの状態となっている対外情勢に大きなインパクトをもたらす。これがきっかけとなって南宋が日本と軍事同盟を結ぶことも考えられるし、南宋と日本が手を組んで金帝国と高麗とに向かい合う全面対立の構図を生み出すことも考えられる。ただし、一時的に日本国の軍事的空白が生まれる。

 さらに懸念されるのが、無事に南宋へと航海できるのかという点。少なくとも設計図の上では遣唐使船に比べて安全性は増した船であるが、九州から南宋に渡るならまだしも、相模湾を出港して太平洋沿岸を東から西へと航行し、さらには黒潮に逆らって航行して南宋に向かうという無茶な航行計画だ。往復の航海が成功する可能性は御世辞にも高いとは言えない。下手すれば源実朝が海の藻屑に消えるのだ。こうなってしまっては、日本と南宋の関係を考えるどころか鎌倉幕府の存亡に直結する話になってしまう。

 建造開始時点こそ源実朝は南宋に渡ることも選択肢の一つとして考えたものの、完成時点ではかなりの可能性で、そもそも渡海することそのものを白紙撤回していた。あるいは、最初から船の建造そのものが目的であり、南宋へと渡航することなど最初から本気にしていなかった、そう考えるのが適切ではなかろうか。

 源実朝は経済を司る立場で経済政策をとっただけ、そう考えると全ての辻褄が合うのである。


 建保五(一二一七)年五月一一日、鶴岡八幡宮第三代別当である三位僧都定暁が亡くなった。記録によると腫瘍が悪化しての死であったという。

 この定暁という僧侶であるが、実に特殊な立ち位置の僧侶であった。鶴岡八幡宮初代別当の円暁の弟子であり、また、園城寺の公胤僧正のもとで修行をしていたので、僧侶として順調な階梯を踏んで鶴岡八幡宮の別当の地位に登ったと言える。

 しかし、この人の生まれを考えると、時代の流れの中で異例な人生を過ごしてきたとするしかない。

 この人は平時忠の一門であり、おそらくではあるが壇ノ浦の戦いでの平家の残党の一人であったと推測されるのだ。僧籍に入るときに全ての過去と決別して自分が平家の人間であることを徹底的に隠したようであるが、定暁が平家一門の人間であったことは周知の事実となっており、そのことは定暁の生涯について回ることとなった。

 その定暁が、こともあろうに源氏の根拠地である鎌倉にまでやってきて、僧侶としての研鑽を積み重ね、鎌倉で最も重要な宗教施設である鶴岡八幡宮のトップに就いていたのである。これを異例と言わずに何と評せばよいのか。

 もっとも、過去に縛られることなく、平家の落人ですら鎌倉においては実力に見合った地位を用意しているというアピールには役立ったことは否定できない。

 また、鶴岡八幡宮初代別当である円暁と二代目別当である尊暁は実の兄弟であり、この兄弟の父は後三条天皇の孫、母は源為義の娘という貴種の生まれである。定暁が鶴岡八幡宮第三代別当に就任できたのも、僧侶としての研鑽の評価だけでなく、定暁の身体に流れる貴種の血が作用したことは否定できない。

 その定暁が亡くなった。

 では、誰を鶴岡八幡宮の第四代別当に就任させるべきか。

 このときの鎌倉にはうってつけの人物がいた。

 園城寺の明王院僧正公胤の弟子となっている僧侶であり、建保五(一二一七)年五月時点でも仏教学の勉強のため園城寺に住んでいた僧侶である。その僧侶はまだ一七歳という若さであること以外は、僧侶としての研鑽も、身体に流れる貴種の血も、双方とも申し分ない僧侶である。

 その僧侶の名を公暁という。

 この後で何が起こるかわかっている人からすると、よりによってどうして最悪の人物を鎌倉まで呼び寄せてしまったのかというのが感想であろう。しかし、この時代の人の立場で考えるとむしろ最良の選択であったと言えるのだ。

 源実朝はまだ子供がおらず、このまま源実朝の身に何か起こったとしたら誰を源実朝の後継者とするのかという問題がある。

 そこで、公暁となる。

 何しろ公暁は前将軍源頼家の実子である上、源実朝の猶子にもなった過去がある。還俗させれば源実朝の後継者としてもおかしくない。評判によると、源頼家に似た大きな体格を持ち、父を思わせる激情家なところもあるものの、僧侶としての実績もまた十分にあるという。ここで鶴岡八幡宮別当という鎌倉における宗教界のトップの座の経歴を手にしたならば、公暁は源実朝の後継者として申し分ないキャリアを手にすることとなる。

 鎌倉幕府はただちに園城寺に使いを出し、使者の要請に応じて、公暁は建保五(一二一七)年六月二〇日に鎌倉に到着。ただちに北条政子の指令で鶴岡八幡宮第四代別当に就任することとなった。鶴岡八幡宮は宗教施設であり、俗人である源実朝は一人の参詣者であることしかできないが、既に出家した身である北条政子は仏門に身を寄せる一人として鶴岡八幡宮の人事に口を出す資格がある。自分の孫を鶴岡八幡宮の別当に就任させることなど容易だ。

 ただ、公暁を将軍に就けるとなると大問題がある。

 大前提としては、源実朝がこれからも将軍であり続ける。しかし、源実朝は天然痘をはじめとする病気に倒れたこともあるし、中止となったものの南宋に渡ろうともした。つまり、ある日突然、源実朝が将軍としての職務を遂行できなくなることがやってきてもおかしくないのだ。起こってほしくない出来事がおこってしまったとき、公暁を源実朝の後継者とするところまでは考えられる。

 ただ、公暁は僧侶なのだ。僧侶としてのキャリアならばあるが、官界におけるキャリアを全く積んでいない。官界でのキャリアを積んだあとで出家したのならばまだしも、この人は一二歳で出家してからこれまでずっと僧籍にあったのだ。いくら征夷大将軍が世襲の職位であり、また、さほど高い位階を有しているわけでなくても就くことのできる職務であるとはいえ、征夷大将軍とは官界でのキャリアがゼロである人間が就けるほど気軽に就ける職務ではない。本当に公暁を将軍にさせるとなると、まずは公暁を還俗させて民間人に戻し、そのあとで官界のピラミッドクライングに臨ませる必要がある。

 かといって、公暁を還俗させて改めて官界にデビューさせるとなると、せっかく手にした鶴岡八幡宮別当というキャリアを失うこととなる。鶴岡八幡宮の別当として日々を重ね、研鑽を重ねることで評価を獲得し、源実朝の甥である高名な僧侶が叔父の緊急事態を受けて還俗して将軍になったという背景を用意しなければならない。それでようやく源実朝の後継者候補と見做されるようになるのだ。

 なお、前にも書いたが公暁のふりがなは「くぎょう」ではなく「こうきょう」もしくは「こうぎょう」と推測されている。公暁の師となる公胤や、公胤の師である公顕など、公暁が在籍していた園城寺は唐代の発音を残している寺院であり、公胤は「こういん」、公顕は「こうけん」とされている。そのため、公暁の一文字目は「こう」と読むと推測されており、二文字目の「暁」は「きょう」もしくは「ぎょう」なので、公暁の読みは「こうきょう」もしくは「こうぎょう」となるというのが現在では有力である。


 公暁が鎌倉に到着し、鶴岡八幡宮の別当となった。この記録は建保五(一二一七)年六月二〇日に登場する。ところがここから奇妙なことが起こる。

 公暁の記録が全く出てこなくなるのだ。

 そこでもう少し記録を紐解いてみると、公暁は鎌倉に到着してただちに鶴岡八幡宮の別当に就任したのではなく、少し間を置いてから別当に就任していることがわかる。具体的には正式に別当に就任したという記録が吾妻鏡には存在せず、一〇月に入っていきなり鶴岡八幡宮別当として公暁が登場する。

 そこで、江戸時代末期に編纂された歴史記録集である「系図纂要」を見てみると、公暁が鶴岡八幡宮の別当に就任した日付として建保五(一二一七)年一〇月五日という日付が出てくる。どんなに短く見ても六百年後に記された記録にならないと出てこないというのも気になるところではあるが、一応は整合性の取れる日付ではある。系図纂要が事実だとすると、実の祖母である北条政子の圧力があったにもかかわらず公暁を別当に就けるためには三ヶ月以上の猶予期間を要したこととなるが、それでもまだ、ここまではまだ理解できる話である。

 問題は、その間の歴史資料に公暁が全く登場しないことなのだ。それも、一個人として登場しないのみならず、僧侶である公暁が祖母や叔父の参加する宗教行事に参加しないというのは不可解とするしかない。単に名が漏れたというのならばまだわかるが、後述することとなる北条政子の今後の行動を見ると一つの推論が見えてくる。

 源実朝の後継者候補とすべく園城寺から公暁を呼び寄せたものの、いざ会ってみると公暁は将軍たるに相応しくないと判断せざるを得なかったのではないか、と。

 鶴岡八幡宮の別当とすることで箔をつけさせ、いざというときには還俗させて源実朝の後継者にとするという目論見であったのが、鶴岡八幡宮の別当にさせるだけに留めるところまででは妥協できても、それ以上はできないと判断せざるを得なかったのではないか、と。

 たとえば、建保五(一二一七)年七月二四日に京都から急報が飛んできたときの対処はその例である。この日、後鳥羽上皇が瘧病(おこりやまい)、すなわちマラリヤに罹患してしまい、止まらぬ悪寒と震えに苦しんでいるという知らせが飛び込んできた。この時代にも医者はおり、医者の処方する薬で治癒を目指すこともあったが、治癒のために服薬ではなく祈祷を選ぶことも珍しくはなく、このときの後鳥羽上皇は各地から僧侶を招いて祈祷させている。これはこの時代の概念と医療水準を考えれば納得はいく話である。

 ただ、この知らせを受けて、鎌倉幕府が後鳥羽上皇のもとに派遣したのは二階堂行村であったのだ。病気の見舞いということで理解はできる人選であるが、本来であれば、僧侶でもある公暁を後鳥羽上皇のもとに謁見させる絶好の機会でもあったのだ。鶴岡八幡宮次期別当にして源実朝の甥でもある僧侶を連れて行ったならば、鎌倉幕府が派遣する人物として問題なかったはずであるのに、公暁が同行したという記録は存在しない。

 それだけならまだしも、八月に鶴岡八幡宮で開催された宗教行事に源実朝が出席した記録がある一方で、その場に鶴岡八幡宮別当の公暁が参加した記録すらないとなると、これはいよいよ怪しいこととなる。

 公暁のほうも、自らが置かれた位置が当初の思惑と違うことについて違和感を覚えたようである。僧侶として申し分ない地位である鶴岡八幡宮別当に就くだけでなく、源実朝の身に何か起こったときという条件付きであるが、征夷大将軍の地位も夢ではないというのが、鎌倉に到着するまでの公暁の思惑であった。

 それが鎌倉に到着した瞬間に変わった。

 予定通り鶴岡八幡宮の別当に就いたものの、鶴岡八幡宮の宮司や僧侶はどう見ても歓迎していない。鎌倉幕府の御所に目を向けても、誰も公暁のことを次期将軍として扱ってくれてはいない。

 これで自分を無視する人達に激しい敵愾心を向けるなら未来はよりいっそう閉ざされることとなるが、公暁はそうではなかった。自分を無視する人達を見返してやろうという思いに至ったようで、僧侶である自分のできるベストを考え、行動した。

 千日講である。

 一〇〇〇日に亘って外界とのやりとりを全て遮断して籠もり、ただひたすらに念仏を唱え続けるという修行である。平安時代末期から多くの人がチャレンジするようになり、そのチャレンジを無事に終えた僧侶は周囲から尊敬の念を集めた。この修行を二〇歳にもならない若き僧侶が挑むのであるから、僧侶の行動としてならば褒めるべき選択であろう。

 しかし、公暁は鶴岡八幡宮の別当なのだ。トップとして鶴岡八幡宮を経営していかなければならない身であり、一人の僧侶としては褒められる選択であっても、鶴岡八幡宮別当としてはとてもではないが褒められた選択にはならない。むしろ無責任極まりない選択になってしまう。

 僧侶としての価値を高めることで自らへの尊敬を集めようとした公暁の選択は完全に裏目に出てしまった。いや、この人は千日講に限らず、自らの選択のほとんどが裏目にでてしまう運命のもとに生まれたと言っていいほど、何をするにしてもうまくいかない人生を過ごすのである。

 ならば流されるままに運命に身を任せればいいではないかと思うかもしれないが、公暁の立場から考えると、そもそも自分の運命を自分で決めることができないというのは耐えがたい苦痛である。公暁の人生を振り返ってみると、あまりにも過酷な運命に翻弄され続けた人生であるとしか形容できないのだ。三歳で父が病に倒れ、四歳で父を亡くし、同時に兄の一幡も殺害された。自分は殺されずに済んだものの、他のきょうだいとは離れ離れにされ、幼くして僧侶になる道を強いられ、鎌倉から遠く離れた園城寺へと連れて行かれ、出家を命じられた。園城寺の高僧である公胤の門弟という、一般の僧侶ではなかなか手に入らない好待遇であったとは言え、自ら望んだわけではない出家と僧侶としての暮らしである。

 将軍になってもおかしくない血筋に生まれながら僧侶たることを求められていたところで、自分が将軍になれる可能性があるという話が飛び込んできた。これまで運命に翻弄されてきた人生を一気にひっくり返す大チャンスだ。これで公暁は人生を決める決断を即答したのである。園城寺を出て鎌倉に向かうという決断である。


 公暁が千日講に入ったことで鶴岡八幡宮はトップ不在の宗教施設として運営することとなったのだが、結論から言うと、どうにかなかった。

 現在でも、カリスマ性の持った経営者が第一線を退いたあとの新社長に前任の経営者の子が就任することがある。能力がないのに地位に就くという批判を受けることが多いのが世襲であるが、それでも世襲は消えることなく存在し続けている。

 なぜか?

 世襲というのは批判もあるが、組織の維持についてという点では無視できない大きなメリットを持っている仕組みである。何しろ、前任者不在のあとで起こる可能性の高い内部の派閥争いについて、世襲であれば未然に食い止めることができるのだ。

 これがもし、実力者の間で新しい社長を選ぶとなったならば、新社長をめざす激しい内部分裂が起こることがある。最悪の場合はそれまでうまくいっていた会社経営が完全に破綻し、会社が複数に分裂することすらある。しかし、新しいトップとして前任者の子を就けるならば派閥争いを食い止めることができる。トップに就くのは創業者の子孫に限るとしたならば、創業者家族に生まれなかった者はどうあがいてもトップに就くことができない。どんな実力者も最高で副社長であり、何があろうと副社長の上に世襲の社長がいることとなる。

 社長がいかに世襲だけで選ばれた者であろうと、それこそトップとしての能力が絶無な者であろうと、組織の責任者として対外的な顔を務めることとなる。それこそが、いや、それだけが社長の仕事としても良いほどに社長としての役割は限定される。

 その代わり、社会人生活の全てをその会社に捧げてきたベテランから入社間もない新入社員に至るまで、会社の全ての従業員は、社長が対外的な顔を務めるという前提でそれぞれが企業内での役割を背負って活動し、結果を出すことが求められるようになる。

 時代を建保五(一二一七)年に戻すと、この時代に民間企業というものはないが、院や貴族、荘園、そして寺社といった組織は現在の企業とほぼ同様に経営されてきた。これは鶴岡八幡宮とて例外ではない。

 これまでの三名の鶴岡八幡宮別当は、高貴な血を引く生まれであると同時に、僧侶としての能力も実績も申し分ない者であった。その上で、寺院経営についても申し分ない実績を残してきた。そうした実績の中には、何らかの理由でトップが不在であるときの寺院経営が支障なく遂行されることも含まれる。すなわち、公暁が一人の僧侶として千日講に入るのは、一人の僧侶としてならば賞賛されることであっても、鶴岡八幡宮別当としては無責任な行為である。だが、別当である公暁が不在でも鶴岡八幡宮は経営できるだけの仕組みは既に存在していたのである。

 ちなみに、鶴岡八幡宮は現在でこそ神社という扱いになっているが、明治維新までは神仏混淆の宗教施設であり、ときには鶴岡八幡宮寺と呼ばれることもあるほどに境内の中を僧侶が普通に歩いていた。現在の鶴岡八幡宮は神社としての設備しかないが、これは明治維新後の廃仏毀釈で鶴岡八幡宮内の寺院施設が全て破壊されてしまったためであり、江戸時代までの記録や鶴岡八幡宮内の遺跡には、鶴岡八幡宮内に寺院があったことが確認できている。


 公暁が鶴岡八幡宮の別当となったと同時に千日講をはじめた頃、鎌倉幕府では予期せぬ問題が起こっていた。

 大江広元が倒れたのだ。

 最初の記録は建保五(一二一七)年一一月八日のことである。ここではじめて大江広元の体調悪化が公表された。目の病気に加え腫物ができてしまい、身動きができなくなったのだ。

 翌一一月九日、北条義時が大江広元の元に見舞いに赴いたものの、大江広元の症状は想像以上に厳しく、起き上がることもできなかった。なお、ここで何らかの話し合いが行われたようであるが、この時点では話し合いの内容が公表されてはいない。

 話し合いの内容の第一弾が判明したのは一一月一〇日のこと。この日、大江広元が出家したと公表されたのだ。これで当時の人は大江広元の容態がもう長くは無いことを理解した。同日、源実朝はここではじめて見舞いの使者を送り出している。本人が見舞いに行くのではなく代理の使者を送るのは薄情ではないかと思うかもしれないが、この時代の通例に従ったのともう一つ、源実朝自身がお世辞にも健康な人というわけではなかったことが理由にある。大江広元の病気が感染する可能性はゼロではないのだ。

 大江広元が出家したことは、鎌倉幕府だけでなく朝廷として問題のある話であった。

 大江広元は陸奥守でもある。それもこの年の一月に就任し、大江広元を通じた東北地方経営を軌道に乗せてきたところである。

 奥州藤原氏を滅ぼしたのが鎌倉幕府であり、鎌倉幕府はそれまで奥州藤原氏が保持していた東北地方の統治機構をそのまま引き継いだが、鎌倉幕府が奥州藤原氏の統治機構をそのまま引き継げたのは、奥州藤原氏という存在そのものが、名目上であるにせよ、朝廷の統治機構に基づいて東北地方の統治をしていたからである。藤原秀衡が鎮守府将軍と陸奥守を兼ねていたのはその例だ。鎌倉幕府が奥州藤原氏の統治をそのまま引き継ぐとき、陸奥守の官職を利用するのは東北地方の統治を考えると納得いく話であり、また、文人官僚である大江広元が陸奥守を務めるのは鎌倉幕府にとって有効な戦略でもあった。ちなみに、鎮守府将軍についてはさらに上の権力を有する征夷大将軍が存在するので、鎌倉幕府として鎮守府将軍の官職を利用する必要はない。

 しかし、出家した以上、大江広元が陸奥守であり続けることはできなくなる。

 そうでなくても大江広元の病気はかなりの危機的状況なのだ。

 ここで鎌倉幕府が採れる選択は、北条義時を大江広元の後任の陸奥守へと推挙することである。建保五(一二一七)年一一月一七日、鎌倉幕府は北条義時を正式に大江広元の後任の陸奥守とするよう朝廷へ推薦した。北条義時の統治能力に疑念を生じているのはその通りであるが、今の鎌倉幕府が送り出せる陸奥守の後任は北条義時しかいない。

 と、ここまで対処したところで誰もが想像しない出来事が起こった。

 建保五(一二一七)年一二月一〇日、大江広元の体調が回復したのだ。ただし、悪化した視力は元に戻らず、回復したと言ってもこれまでのように溌剌とした動きができるようにもなっていなかった。視力を失った代わりに一命は取り留めたというところか。

 それでも大江広元が出家したのは事実であるので大江広元は陸奥守からは自動的に退任したことは変わらず、一二月二四日には朝廷から、北条義時を正式に陸奥守に任命したという連絡が届いた。


 年が明けた建保六(一二一八)年一月、京都から平家の残党が見つかったとの連絡が届いた。発見したのは一月三日、鎌倉への報告は一月一二日である。これまでにも何度か平家の残党は見つかっており、簡単に逮捕できたわけではなかったものの、取り逃がすことも許さずにいた。いかに鎌倉幕府に対して反発を示す者であっても、平家の残党がやらかしている犯行から生活を守ってくれていることは認めなければならなかったのである。

 かつては天下を手にした平家も今となっては残党が犯罪集団となっているのみである。ただし、平家の残党自身は自分達のことを犯罪者だとは考えていない。鎌倉幕府は無論、後鳥羽上皇のことも、土御門上皇のことも、順徳天皇のことですら正当な権力とは見做しておらず、平家の残党にとっての正当な天皇とは壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇のことである。安徳天皇がどこに行ったかわからないことは認めても、後鳥羽帝は天皇を僭称する不届き者でしかなく、その後継者たる土御門帝も順徳帝も天皇僭称者でしかないというのが彼らの主張だ。

 かといって、平家の残党が権力を行使できているわけではない。平家政権の頃は権勢を手にし、位階と朝廷官職を獲得して大手を振って宮中を歩いていたのに、今となっては宮中に居場所など、いや、京都に居場所など無くなってしまっている。彼らに言わせれば、京都の宮中にいるべきは自分たちなのだが、宮中には天皇僭称者とその取り巻きがいて宮中に入れない状態が続いており、京都に近づくことすら難しい状況である、ということになっている。かといって、貴族や武士であることを捨てて一庶民となることについてはプライドが許さないでいる。位階も朝廷官職も自称でしか存在せず、そもそも一般庶民の圧倒的多数は平家の残党のことを権力者だと認めていないが、そんな現実など、彼らの自尊心の依って立つところを否定する材料にすらならない。

 その結果が、反政府テロ、あるいは暴徒と化した集団の誕生である。彼らは徴税と称して強盗をし、貧しい者の住まいであろうと奪えるものをことごとく奪い去り、抵抗する者は容赦せずに命を奪っていた。それは平家の残党にとっては正当な権力の行使であったのだが、このような犯行が繰り広げられてしまっては、鎌倉幕府だけでなく朝廷も、平家の残党を犯罪者集団として取り締まるのは当然のこととするしかない。

 一月三日の出来事も、白河のあたりに強盗が潜んでいるのを検非違使の後藤基清が逮捕しようとしたところ、強盗が集団であるだけでなく平家の残党を自称しており、後藤基清の家来の多くが負傷したという記録である。ただし、強盗集団の親玉を現地で打ち首にした上で素性を探ったところ、伊勢平氏である平正重を自称する人物であることが判明し、平家一門にカウントされる人物ではあるものの平清盛の近親者ではなく、官職経験としては掃部権助であったことの記録があるものの、その地位も源平合戦終了後に喪失していた。それでもなお自分は平家の一員であると主張し、正当な官職を持つ公人であると主張し、実際に平家の残党である者、あるいは平家の残党に同調する者を集めることに成功してそれなりの武装集団を構築することに成功していたのである。しかも、京都に近づくことすら難しかった彼らにとっては精一杯の場所である、白河の地という平安京の目と鼻の先の場所で。

 壇ノ浦の戦いから三分の一世紀という時間が経過してもなお、平家残党問題は根の深い問題として横たわっていたのである。


 鎌倉幕府は、平家残党問題については合格点をつけることができていたが、鎌倉幕府の存続性については大問題を抱えていた。

 何と言っても源実朝の実子がいないことが大問題となっていた。源実朝の身に何かが起こってしまった瞬間、鎌倉幕府の組織としての存続名目が破綻するのだ。鎌倉幕府とは東国武士の集合体であるが、公的には上級貴族に仕える面々の集合体である。ここで源実朝がいなくなるということは、集合体の中心を担う上級貴族の喪失、すなわち、鎌倉幕府の存続根拠の喪失となるのだ。

 そんな最中の建保六(一二一八)年一月一五日、政所で一つの協議が執り行われた。題目としては北条政子の熊野詣であり、北条時房が北条政子に同行することは決まった。ここまではどうということのない話である。

 しかし、タイミング的に大問題となる話である。

 今のこのタイミングでなぜ北条政子が京都に赴くのか?

 名目だけ捉えれば熊野詣に行くだけと思うかもしれないが、京都に赴くこと無しに熊野詣だけを済ませるなどあり得ない。熊野詣の方が表向きの理由で、公然の秘密となっている実際の理由が存在する。それがわかっているからこそ、政所での協議は侃侃諤諤としたものとなった。

 北条政子は源実朝の後継者を連れてくるつもりなのだ。帰路に連れてくるかもしれないし、北条政子が鎌倉に戻ってきてしばらくしてから源実朝の後継者が来るのかもしれない。タイミングはわからないが、源実朝の後継者となりうる上級貴族を連れてくる、あるいは皇族を鎌倉まで招く算段なのだ。

 ただし、この段階ではまだ、誰を源実朝の後継者とするか決めかねている。

 どういうことか?

 源実朝は源頼朝の息子であり、また、源頼家の突然の病気という緊急事態があったこともあるが、元服直後に貴族の一員となってから順調に位階を高めて官職も手にし、上級貴族として申し分ない地位を手にしている。源実朝の地位があるからこそ、鎌倉幕府の御家人達は現在の社会的地位を手にできている。すなわち、源実朝の身に何が起こったとき、源実朝の後継者が求められる資質とは、一にも二にも上級貴族であることが最優先事項となる。その上で鎌倉幕府の中を見渡すと、源実朝以外に上級貴族となりうる人物は見当たらない。大江広元や北条義時が諸々の国司を歴任する貴族であると言っても、彼らは鎌倉幕府の中では上級貴族に近いと言えるものの上級貴族になることのできる血筋ではないし、そこまでの実績もない。

 そこで真っ先に思い浮かぶのは源実朝の近親者である清和源氏ということになるのだが、ここが大問題であった。

 当初は公暁を呼び寄せることで源実朝の後継者とする算段であったが、鎌倉幕府の主立った者は、公暁を源実朝の後継者とするのに反対するしかなくなった。鶴岡八幡宮別当というのは僧侶としての公暁の地位を高めるのに役に立ったが、肝心の公暁のマネジメント能力が大問題であったのだ。鶴岡八幡宮の神官や僧侶のうち、いったい何名が公暁に従っているのか。公暁が別当であることは認めなければならないが、公暁は千日講に励むだけで鶴岡八幡宮の経営に無関心であるばかりか、鶴岡八幡宮に勤める神官や僧侶を束ねるそぶりも見せていない。彼らは先代や先先代の別当の遺産のもとに従い行動しているのであって、公暁には従っていないのだ。能力がないなら能力がないでそれでいい。能力があるフリをしてもらえれば我慢できる。しかし、公暁はそんな振る舞いすら見せていない。これでは能力の有無の判定以前に、能力判定の舞台に立つことすら拒否していることとなる。これから人の上に立とうかという人物がその様子では、とてもではないが源実朝の後継者とすることはできない。

 そもそも、源実朝に心酔している御家人が多いとは言えない。しかし、源実朝自身が源頼朝の後継者として振る舞い続け、理想の将軍であろうとし続けていることは理解していた。だからこそ御家人達は、大江広元や北条義時と政治的意見の対立を見せることも厭わない源実朝に敬意を払い、源実朝の命令に従っていた。

 一方、公暁にはそうした痕跡が全く見られない。先ほど、公暁は能力判定の舞台に上がることすらしていないと記したが、それでも公暁に対する評判というものはある程度聞こえてくるし、実際に目にすることもできる。僧侶であるから仕方ないと言ってしまえばそれまでであるが、公卿には人の上に立つ者としての振る舞いもなければ、源頼朝の孫や源頼家の子としての振る舞いもない。我儘(わがまま)で粗暴な、図体だけは一人前で中身は半人前というのが御家人達にとっての公暁の評価なのだ。公暁が還俗して民間人となり、源実朝の後継者として第四代将軍になったとき、血縁だけを考えれば上級貴族になれたとしてもおかしくない。とはいえ、幼くして僧侶となったために朝廷官職の経験は皆無であり、清和源氏の血を引く身であろうと還俗した後は無位無官からのスタートとなる。しかも、源実朝のように後鳥羽上皇との個人的つながりも持たないため、源実朝の威光を背景とする蔭位の制を利用することで、貴族としてのスタートラインである従五位下になることまではできたとしても、そこから先の展望が全く見えない。公暁個人の資質で鎌倉幕府の求める上級貴族になれる可能性など極めて低いとするしかないのだ。それでも鎌倉幕府の御家人達は、一応は忠誠を誓うであろう。ただ、そのときの鎌倉幕府はどうなっているであろうかと考えたとき、公暁が権力者として振る舞うことはあっても、公暁が権力者に求められる行動を見せるとは到底思えない。公暁がこの後で改心して鎌倉幕府のトップに相応しい行動を見せる可能性ならばあるが、その可能性に賭けるよりも公暁以外の選択肢を求める方がマシと考えるようになったのである。

 それでは、源頼朝の血を引く男児、あるいは源実朝の近親者のうち、公暁以外の男児はどうか?

 まず、源実朝の異母兄である貞暁がいる。この人は公暁と同じく仏門に入った人であるが、公暁と違って僧侶としての名声も獲得しており、多くの人が貞暁のもとに帰依している。ここまでを聞けば公暁よりふさわしいと思えるであろう。しかし、異母兄であることが問題となる。この人は源頼朝の息子であるが北条政子の息子ではないのだ。源頼朝が大倉御所で働く女性に手を出し、妊娠させて出産させた男児であり、いかに僧侶としての名声を得ていようと、北条政子がこの人を源実朝の後継者として受け入れることはあり得ない。北条政子の意見を無視したとしても、北条家の血を引くわけではない男性が鎌倉幕府に落下傘で降り立ったとしたら、源実朝の後継者となる前に鎌倉幕府の混迷を生むこととなる。鎌倉幕府の御家人達の中に占める北条家の勢力はもはや無視できるものでは無くなっているのである。

 次に、源実朝とは従兄弟同士の関係となる阿野時元がいる。だが、この人は清和源氏の一人とカウントすることはできても、源頼朝とその子孫のみが有する特別な血統を持っていないのである。阿野時元の父である阿野全成は源頼朝の異母弟である。つまり、源頼朝の弟であることは間違いないのだが、源頼朝と違って熱田神宮とはつながっていないのだ。源頼朝の権力の源泉は、清和源氏当主の継承者というだけでなく、源頼朝の母が熱田神宮の宮司の娘であるという点にある。源頼朝が母系を通じて熱田神宮につながるだけでなく、熱田神宮からは、征夷大将軍こそが壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の次の形代(かたしろ)であると宣告されているのだ。今なお壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は見つかっておらず、承元四(一二一〇)年に後鳥羽上皇は蓮華法院宝蔵の伊勢大神宮神剣を天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)とする宣言をして順徳天皇の即位の儀を執り行なったものの、征夷大将軍と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)との関係性は完全に白紙となったわけではない。ここで熱田神宮とつながっていない者を源実朝の後継者にしてしまうと、せっかく手にした征夷大将軍の権威の源泉の一つを自ら手放すこととなる。

 では、この問題に対して源実朝はどのように考えたのか?

 墓の下の源頼朝が聞いたら怨霊となって祟るであろう考えを示したのだ。

 皇族を招いて源実朝の後継者とするのである。

 その皇族が鎌倉に到着したと同時に源実朝が征夷大将軍の地位を手放すのでもいい。その皇族が臣籍降下して源氏となり、源実朝の養子となるのでもいい。皇族ならば上級貴族という枠を軽々と超えることができるし、臣籍降下したとしても誰もが認める上級貴族となる。源実朝がそのまま征夷大将軍であり続けるか、あるいは鎌倉まで赴いた皇族が新たな将軍となって源実朝は院政を模したかのように背後に引き下がるかはわからない。しかし、これによって鎌倉幕府の組織の存続は成り立つのだ。

 北条政子は北条時房とともに熊野詣に向かうこととした。名目上はあくまでも一個人の、より正確に言えば出家した女性の、私的な宗教活動である。しかし、その目的は皇族将軍を鎌倉に迎えることにあったのだ。


 毎年一月は貴族が位階を伸ばし、新たな官職を手にする可能性のある時期である。無論、全ての貴族が位階を伸ばし、新たな官職を手にできるわけではない。しかし、貴族であれば誰もがこの時期に未来を期待するものであり、位階を伸ばした、あるいは官職を手にしたという知らせがくるのを待ち侘びるものである。

 それは源実朝とて例外ではなく、鎌倉の地に留まってはいるものの、京都に住む貴族達と同様に自らの栄達を待ち望んでいる。本当に待ち望んでいたかどうかはともかく、待ち望んでいるという姿勢を見せないと貴族として疑われる。鎌倉幕府の御家人達も源実朝が位階や官職の上昇を望んでいる姿勢を確認することで、自分達のトップが上級貴族であることを再確認する。

 そして、源実朝の姿勢が成就したかのような知らせが一月二一日に飛び込んできた。一月一三日に源実朝が権大納言に昇格したのである。源実朝は権中納言筆頭であるため、権中納言から誰か一人を出世させるとすれば源実朝が選ばれるところまでは当然のことである。しかし、中納言を飛び越えていきなり権大納言に出世したというのはあまりにも異例だ。

 ただ、吾妻鏡に二点のヒントがある。

 一点目は既に述べている北条政子の熊野詣。熊野詣は院政期からレジャーとして整備されていたこともあって道程各所に宿泊施設も用意されており、事前予約無しでいきなり熊野へと向かったとしてもどうにかなるようになっている。ただし、いかに宿泊施設が整っていようと皇族や上位貴族が何の前触れもなく熊野詣に向かうことはありえず、通常は事前に連絡をしてから熊野へと向かう。北条政子自身は無位無官の尼僧ということになっているが、夫は正二位権大納言をつとめた源頼朝、息子も正二位で、年始時点では権中納言、一月一三日には権大納言に出世した源実朝である。夫や息子の官位官職を考えれば、北条政子を無位無官の者と扱うことはできない。熊野詣に出向くこと自体は貴族社会にいる者であれば珍しくない話であるから事前に熊野詣の予定を現地に伝えること自体はおかしくない。しかし、時代情勢、特に源実朝に男児がおらず鎌倉幕府の組織存続の問題があるという情勢下において北条政子から熊野詣の連絡が来たならば、その連絡がレジャーとしての熊野詣を意味することなどありえない。

 おそらくであるが、北条政子の熊野詣そのものは前年の段階で既に連絡が行き届いていたのであろう。その解答の一つが、源実朝の権大納言昇格であると言えるのだ。

 どういうことか?

 源実朝の後継者に皇族の男児を招き入れたいという鎌倉幕府からの要望は、朝廷としても、院としても、受け入れがたい話なのだ。皇族の誰かを鎌倉に向かわせることそのものが問題になるのではない。鎌倉幕府とはイレギュラーな組織であるべきであり、鎌倉幕府というものは、清和源氏が相模国鎌倉に築き上げ、京都では平安京の目と鼻の先にある六波羅に出先機関を置いている一時的な組織であるというレベルに留め置かれなければならないのである。皇族が第四代以降の征夷大将軍として鎌倉に駐在するようになったならば、鎌倉幕府は権勢だけでなく権威も強大な組織へと変貌してしまうのだ。それこそ、皇族を抱えているために、征夷大将軍となった皇族、あるいは、その皇族の子孫が新たな天皇として、鎌倉幕府の勢力を背景に即位する未来すら考えられるのである。

 朝廷にしても、院にしても、源実朝を権大納言に出世させるから、その代わりに皇族を新たな征夷大将軍とするのは断念してくれと願い出たというところか。

 そしてもう一つのヒント。それは吾妻鏡にあるものの、朝廷の正式な記録としてはどこにも記されていない記録である。

 時間は少しさかのぼって建保六(一二一八)年一月一七日、源実朝から朝廷に対し、北条泰時を新たに讃岐国司にするよう要望を出したという記録があるのだ。もう少し詳しく記すと、源実朝から京都守護の中原季時のもとに通知が送られたというのである。北条泰時は位階を得て貴族の仲間入りしたのは事実であるものの、その位階は従五位下であり貴族としては最下層である。鎌倉幕府の権勢、そして議政官の一員となった源実朝の推薦があれば不可能ではないものの、それでもどこかの国の国司というのは難しい。しかも、讃岐国となると鎌倉から遠く離れており、実際に北条泰時が讃岐国に赴いて統治するのではなく名目上の国司となる可能性が高く、北条泰時が誰かを代理に任命することでの令制国統治とすることを意味する。すなわち、讃岐国を鎌倉幕府の知行国とすることを暗に求める要望でもあるのだ。

 この記録は吾妻鏡にのみ存在し、朝廷の公式記録のどこを見ても北条泰時を讃岐国司に任命したという記録は出てこない。また、讃岐国にも北条泰時を国司とした記録は存在していない。

 とはいえ、朝廷の立場から捉えると、鎌倉幕府からの陳情を無視しては朝廷の日本国統治もできなくなってしまっているという現状、そして、その鎌倉幕府の意向が届いたという最新情報を組み合わせると、源実朝に何かしらの官職を与えることで、陳情に対する妥協点を提示したとも言えるのである。


 北条政子が熊野詣に出向くと発表したのは一月のことであるが、おそらく前年末には朝廷に対して北条政子の熊野詣の意向が届いていたのであろう。

 また、北条政子は京都を無視して熊野詣に出向くわけではないことを早々に公表した。しかも、誰も文句を言わせない形で。

 亡き稲毛重成の孫娘で一六歳になっている少女を京都に連れて行くと公表したのである。京都へ連れて行く理由は彼女を土御門通行こと源通行に嫁がせるためであり、京都行きのメインは一六歳の少女であって北条政子は彼女の付き添いでしかないという公的見解を示したのだ。北条政子自身は無位無官でも、夫も息子も正二位権大納言となった女性であるので、貴族のもとに嫁がせる女性の後見人としては申し分ないのは事実である。誰がそのような公的見解を信じるのかと言いたくなるが、事実は事実として否定できない。京都からしてみれば厄介な客人であるが、ぞんざいに扱うことは許されない客人でもある。京都の朝廷や院ができるのは北条政子を鎌倉幕府の超重要人物として遇することだけである。

 北条政子が京都に到着したのは二月二一日のこと。北条政子を迎え入れたのは後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子である。藤原定家は藤原兼子のことを後鳥羽院の最有力人物の一人と認識しており、土御門通親こと源通親亡き後の後鳥羽院では後鳥羽上皇の次の権力を手にしていたとまで扱っている。実母ではないものの、組織における権勢という点で藤原兼子と北条政子は似ていると言えよう。

 ただし、藤原兼子は従三位藤原範兼の娘であり自身も位階を有していたのに対し、北条政子はこの時点でまだ無位無官である。北条政子は藤原兼子に会うところまでならばできても、皇族の誰かに会うのは本来ならば不可能である。しかし、ここで藤原兼子は北条政子に助け船を出した。

 北条政子に位階を与えるべきだとの論陣を張ったのである。夫や息子の位階や官職を考えれば、北条政子にも相当の位階があるべきであるというのが藤原兼子の主張であり、また、実弟の北条義時や甥の北条泰時も貴族の一員に列せられていることも踏まえれば、今まで北条政子が無位無官であることのほうがおかしいともいえる。もっとも、夫の死に伴って出家して北条政子は僧籍に入っている。北条政子に位階を与えるのに反対する者がいた場合、北条政子個人に対する感情が本音として存在していようと、表向きは北条政子が出家していることを理由に位階を与えるべきでないという論陣を張ることとなるであろう。

 このときの論争については、これより二ヶ月後の出来事として記すこととなる。


 北条政子が京都に向かって出発してから六日後の建保六(一二一八)年二月一〇日、大江広元が一人の使者を京都に派遣することとした。源実朝が大将の位を希望しているからというのがその理由であり、それも、全ての武官のトップである左近衛大将への就任を願っているというのだ。

 大江広元からの指令を受けた波多野朝定は、二月一二日に京都へと出発した。

 それにしても本当に源実朝は左近衛大将への就任を望んだのであろうか?

 源頼朝のキャリアの頂点は正二位権大納言右近衛大将である。源実朝は既に正二位であり権大納言であるから、あとは兼職となっている左近衛中将から一つ上の右近衛大将へ出世すれば父と並ぶこととなるし、二つ上の左近衛大将となると父を越えることとなる。

 名目上の地位になったとは言え、武官としての官職は左近衛大将がトップである。左近衛大将と右近衛大将は大臣の兼職が通例で、大納言以下の者が兼職とするのは、その者はそう遠くない未来に大臣に就任することが確約されたようなものである。左右の近衛大将とは、武官としての実権は伴っていないものの権威は高く、それこそ、征夷大将軍など左右の近衛大将に比べればかなり格下の官職とするしかない。

 この職務を源実朝が求めるところまでは問題ない。権大納言になった者が左近衛大将や右近衛大将を望むこと自体は珍しくなく、この一点だけを切り取ってみると権大納言としての通常態と言える。ただ、源実朝は征夷大将軍であり、この時代の日本国で最大の武装勢力を抱えている人物である。この人物が名目上とはいえ武官の最高位を手にした場合、鎌倉幕府の御家人達に対し源実朝の裁量一つで武官の地位を与えることが可能となる。これは莫大な人事権だ。

 しかも、この莫大な人事権は単なる驚異ではなかった。朝廷での地位に納得できない者がいる場合、従来は朝廷で実直な日々を過ごして評価を獲得するか、藤原摂関家や後鳥羽院に頼るかして一発逆転を狙う方法しかなかったのであるが、この頃にはもう鎌倉の源実朝が十分な圧力として認識されるようになっていたのである。

 確認できる記録では建保六(一二一八)年二月一八日のこととして、西園寺公経が謹慎を解かれたことの記録がある。これだけであれば貴族社会でよくあることであるが、謹慎しなければならなくなった理由、そして、謹慎解除の理由を振り返ると、源実朝の存在がより強く見えてくる。

 西園寺公経は権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出たのであるが拒否された。ここまではよくあることである。しかし、ここで西園寺公経は鎌倉に頼んで大納言へ昇格させてもらうと言い放ったのである。この言葉が後鳥羽上皇の耳に届いてしまったために謹慎処分となったのであるが、その謹慎処分が二月一八日にいきなり解除となったのだ。

 権大納言から大納言への昇格と書いたように、西園寺公経は源実朝より上の官職である。また、年齢も四八歳と断じて若手とは言えない年齢であり、格下で歳下の源実朝に頼るというのは本来であれば異常事態なのであるが、西園寺公経の妻は一条能保の娘であり、一条能保は源頼朝の実妹を妻に迎え入れた人物である。つまり、西園寺公経は源実朝の従兄なのだ。困りごとを従弟に頼っただけというのは表向きの理由であり、実際そのような言い逃れは可能である。だが、いったい誰がそのような言い分を受け入れようか。

 西園寺公経が大納言への昇格を願い出たのは鎌倉から源実朝の左近衛大将就任の要望が届く前のことである。そして、鎌倉の源実朝から源実朝の要望が届いたと同時に西園寺公経への謹慎処分が解除となった。こんなわかりやすい構図があろうか。


 鎌倉幕府が圧力団体と認識されるようになったことの記録は、吾妻鏡と、その他の歴史書と、朝廷の公式記録と、京都の貴族達の日記とを比べると別々の姿が見えてくる。

 間違いなく言えるのは、鎌倉幕府からの陳状が朝廷に届いていたこと、そして、鎌倉幕府からの陳情は無視できるものではなくなったことである。

 しかし、具体的な陳情となると差異が見える。

 先に記した西園寺公経の記録は愚管抄に残っているものの吾妻鏡には残っていない。

 そして、前に記した北条泰時の讃岐国司就任要請は吾妻鏡にしか記録に残っていない。

 北条泰時の国司就任要請についての続報は吾妻鏡にのみ存在している。建保六(一二一八)年二月二三日に、鎌倉幕府からの讃岐国司の推薦について後鳥羽上皇が認可し、ただちに対象者に伝えるよう返信が来たというのである。

 何度も繰り返すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であると同時に、北条家にとって都合良く編纂された歴史書でもある。つまり、北条家にとってプラスとなる出来事は余すところなく書き記すと同時に、北条家にとっては重要でないと判断されたなら、そして、同時代の人からも歴史書に残さなくても問題なかろうと判断されたなら、吾妻鏡に残らないこととなる。その一方で、最終的に辻褄が合うなら、実在したかどうか怪しいエピソードも追加される。全くのゼロから生み出された可能性ですら否定できない出来事も吾妻鏡には存在するのだ。

 それが北条泰時の讃岐国司就任についてのエピソードである。

 吾妻鏡に従えば、二月二三日の次の記録は三月一六日である。二月一二日に大江広元からの指令を受けて京都に向かった波多野朝定がこの日、京都から戻ってきたのである。三月六日に朝廷が発表した人事の結果を持ってきたのだ。

 吾妻鏡に記載されているのは朝廷の発表した人事の一部抜粋であり、抜粋の中に左近衛大将源実朝の名があることで、吾妻鏡の中ではこれによって源実朝の要求が成就したということになっている。なお、当初は父の源頼朝と同じく右近衛大将とする予定であったところで鎌倉から左近衛大将就任を希望する知らせが届いたため、慌てて源実朝を左近衛大将にすることにしたという。このために里内裏となっている閑院内裏と関白近衛家実の屋敷を何度も往復することになったというのが吾妻鏡の記載だ。

 一方、朝廷に残る記載を調べるともっと困惑が強まる。

 源実朝が左近衛大将に就くことを望んでいるという知らせが京都に届いたことは一つの問題があったのだ。左近衛大将が空席であるならばまだいいが、左近衛大将は右大臣九条道家が兼任していたのである。左近衛大将の地位を源実朝に与えるためには右大臣九条道家に左近衛大将を辞職してもらわねばならず、公卿補任によると二月二六日に九条道家は左近衛大将を辞任している。ただし、左近衛大将であるために常時侍ることとなる随身達はこれまで通り九条道家のもとに侍るという特例が適用されている。


 建保六(一二一八)年三月一六日の記録にはもう二点、特筆すべきポイントがある。

 一つは北条泰時の名が無いこと、もう一つは安達景盛の名があることである。

 ここに北条泰時の讃岐国司就任の話がなかったことについてはこのあとでさらにエピソードが追加されるので詳細はそのときに記すが、もう一つについては、驚天動地のニュースであったとするしかない。

 安達景盛が出羽城介となったのだ。

 出羽国は現在の秋田県と山形県からなる令制国であり、陸奥国に比べれば狭いとは言え、かなりの面積である。そのため、山形県庄内地域に国衙を置いて出羽守に出羽国全域を統治させると同時に、現在の秋田市のあたりに秋田城を設置し、出羽国のナンバー2である出羽介を常駐させていた。この役職のことを出羽城介という。

 ただし、時代とともに出羽守と出羽城介の二つの役割を同一人物が兼任するようになり、醍醐天皇の時代の昌泰二(八九九)年以降は出羽城介が空席となることが増え、後冷泉天皇の時代の永承五(一〇五〇)年に出羽城介がいったん復活したことがあったものの、出羽城介は空席となるのが通例化し、それから一世紀半以上の時間が経過していたのである。

 この出羽城介が復活したのである。

 それも安達景盛が就任するという、誰もが想像すらしなかった通知が届いたのだ。この知らせを受けた安達景盛は、歴史を乗り越える長大な栄誉が自分に与えられたことに驚愕して打ち震えていたという。

 安達景盛の父の安達盛長は、源頼朝が伊豆国に配流された身であった頃から源頼朝に仕えてきた鎌倉幕府の功労者であるが、その息子である安達盛長となると、鎌倉幕府で何かしらの特別な功績を残していたとは言いがたい。

 とはいえ、安達景盛は傍流とは言え藤原北家の一員であり、このときの出羽城介任命時の朝廷からの書状も安達景盛ではなく藤原景盛に対しての任命となっている。また、安達景盛と源範頼は義理の兄弟であり、源範頼の養父は藤原範季、そして、藤原範季の娘は順徳天皇の母であるため、安達景盛は皇室につながる血筋の人間でもある。鎌倉幕府の有力者の一人にして皇室とつながる血筋の人間である安達景盛に対して何かしらの官職を与えるべきではないかと考えたとき、空席となっていた出羽城介の官職を与えることは、名誉としても、実利としても、無意味ではなかった。名誉としては歴史の中で消えてしまっていた官職を復活して付与することの名誉、そして実利としては、出羽国北部、現在の秋田市に公的な権力機関を常置することで東北地方の統治をよりスムーズにする効果を有している。鎌倉幕府がかつての奥州藤原氏の統治をそのまま継承したといっても、目と鼻の先にある平泉に根拠地を持っていた奥州藤原氏と、遠く離れた鎌倉が根拠地である鎌倉幕府とでは出羽国の統治のスムーズさ加減が大きく違う。ここで出羽国北部に鎌倉幕府ともつながりのある朝廷の出先機関を復活させることは極めて大きなメリットがある話であった。


 さて、北条泰時の名が無いことについての逸話であるが、吾妻鏡に従うと以下の通りである。

 まず、建保六(一二一八)年三月一八日に朝廷からの使者として権少外記中原重継が鎌倉に到着した。源実朝が左近衛大将と同時に左馬寮監に就任したことを伝えるためである。馬寮とは本来であれば朝廷保有の馬の飼育と、儀式や軍事行動時の馬の提供のための役所であるが、時代とともに馬は名目だけとなって武官組織の一部門となり、トップである左右の馬寮監はそれぞれ左右の近衛大将が兼職することが通例化した。そのため、左近衛大将となった源実朝が左馬寮監にも就任したことを伝える知らせが朝廷から鎌倉まで到着したのはおかしなことでなかった。

 ただ、誰かを京都から鎌倉まで派遣しなければならなかったという点を差し引いても、権少外記という、御世辞にもあまり高い官職ではない中原重継が選ばれたのは異例であった。もっともこれは、大江広元がまだ改姓する前、中原氏のもとに養子に入ったために長きに亘って中原広元と名乗っていたこと、また、使者として派遣された者の今後のキャリア形成を念頭に置けば、異例でも中原重継が選ばれた理由は納得できる。まず、戦時ならばともかく平時となると、重要な連絡事項を伝える使者としては、訪問先本人ではなくその人物の側近の近親者を、この場合でいうと源実朝ではなく大江広元の近親者を選ぶのはおかしなことではない。ホテルという概念のないこの時代、旅行客は、野宿するか、寺院に泊まるか、誰かの家に泊まるかのいずれかである。中原重継の鎌倉での宿泊地も遠い親戚ということになっている大江広元の邸宅である。また、中原重継が今後のキャリアを作り上げることを考えたとき、建保六(一二一八)年三月に朝廷からの使者として鎌倉に赴いたというのはキャリアの一ページとして飾るのは悪くない話である。戦時ではなく平時であるために使者には即断即決ではなくマニュアル通りの行動が求められる上、鎌倉まで向かうという遠距離の移動であること以外はさほど困難ではないが、まさに鎌倉までの移動という遠距離であるため、徹頭徹尾マニュアルに従うことで難事完遂とされ評価を獲得できるのである。

 中原重継が源実朝のもとに姿を見せたのは三月二三日のことである。鎌倉に到着してからこの日まで源実朝のもとに姿を見せなかったのは天候が理由であったとしている。吾妻鏡によると、天候が回復するまでの間、御家人達が連日交代で中原重継をもてなしと記している。

 ようやく天候が回復した三月二三日に、北条義時に先導されて中原重継は源実朝のもとに出向き、源実朝は御簾を上げて中原重継から文書を受け取った。朝廷から派遣された使者を迎え入れてこのような書状を受け取った場合、受け取った者は相当の返礼を受けることが通例である。今回の場合、左馬寮監に就任したことと、鎌倉幕府そのものが多くの馬を抱えていることもあり、中原重継へは二頭の馬が引き渡された。この時代の馬は現在でいう乗用車、源実朝が渡す馬となると高級乗用車となる。二台の高級乗用車を贈り物として渡したと考えると、中原重継は想像以上の返礼を受け取ったと言えよう。

 その翌日、中原重継は返礼の追加としてさらに一頭の馬を加えられただけでなく、砂金百両を受け取って京都へと戻っていった。砂金百両は現在の貨幣価値で言うと七五〇万円から一千万円近くに相当する金額である。

 ここでようやく北条泰時の話が出てくる。北条泰時に加え、二階堂行村と小山朝政も中原重継を片瀬まで見送りに行ったのであるが、この少し前に、北条泰時は自分の讃岐国司就任について辞退したという。源実朝は北条泰時の意見を受けて、讃岐国司就任辞退の意思を中原重継に伝えたというのが吾妻鏡での記載なのだが、一連の流れはどうにも不整合とするしかない。

 どういうことかというと、北条泰時を讃岐国司とするようにしたという記録は吾妻鏡にしかなく、朝廷の公式記録にはない。北条泰時を讃岐国司に任命した、あるいは新たな讃岐国司として北条泰時に内定を出した後で北条泰時から辞退の申し入れがあったとするならば、それはそれで不整合は解消できる。実際に讃岐国司になっていないのだから讃岐国司北条泰時という公式記録が存在しないのは当然だ。

 当然なのだが、建保六(一二一八)年三月一六日の記事の内容をもう一度読んでみると別の姿が見えてくる。

 京都から戻ってきた波多野朝定は、鎌倉到着の十日前である三月六日に朝廷が発表した人事の結果を持ってきたのだ。その内容は朝廷が発表した全文であったはずである。印刷技術が一般的ではないこの時代、文章を手に入れたければ全て書き写すしかない。一廉(ひとかど)の貴族や役人であれば書き写す技術を身につけているし、その専門の職業の者もいたのであるから、波多野朝定から源実朝に差し出された文書には朝廷の公表した全文が記載されているはずである。

 しかし、吾妻鏡に記載されているのは以下の通りである。

    侍從藤範有

    兵部權大輔藤頼隆

    勘解由次官平範輔

    出羽城介藤景盛

    伊豫守藤實雅

    左近大將源實朝

    少將藤盛兼

    右近少將藤能繼

    右衛門權佐經兼

    雜任略之〔三十餘人歟〕

    從三位藤資家

    從四位下平宗宣

 このように途中で三〇名ほどの省略を入れている。

 北条泰時がこの省略の三〇名に含まれていたならば整合性はとれる。このときに讃岐国司に任命されたのち、北条泰時が讃岐国司を辞退したというストーリーであれば納得はできる。

 だが、本当に讃岐国司に任命されたならば、北条泰時の名は、いや、朝廷官職としての正式名称である平泰時の名は、源実朝より前に讃岐守あるいは讃岐介として記されていなければならない。先に文官の任命があり、いかに高官であろうと左近衛大将をはじめとする武官の名は文官の後となる。実際、左近衛大将源実朝の前に伊予守藤原実雅こと一条実雅の名が記されている。一条実雅はこの時点で参議ですらない従五位下の貴族で、正二位権大納言源実朝よりかなり格下である。また、一条実雅は一条能保の息子であり、一条能保の極官は権中納言である。つまり、本人だけでなく親の官職を考えたとしても、序列的に源実朝の前にくることは許されない。例外は、一条実雅が文官、源実朝が武官の官職を得たときのみである。武士であるか否かなど関係ない話であり、仮に北条泰時が本当に讃岐国司に任命されていたならば、一条実雅の前か後かは不明でも、源実朝の前に記されていなければならないのである。

 さらに、既に記したように安達景盛がこのタイミングで出羽城介に就任している。しかも、長らく空席であった職務を復活させた上での出羽城介就任であり、吾妻鏡はそのことを誇らしげに書き記している。忘れ去られた職務である出羽城介の復活はたしかに特筆すべき出来事であるが、北条泰時が讃岐国司に就任した、あるいはそれに類する記録があったならば、出羽城介と並列で北条泰時の讃岐国司就任についての記事も存在していなければおかしく、実際に記録を調べてもそんな記事は見つからない。

 こうなると、北条泰時が讃岐国司に推薦され、あるいは讃岐国司に任命されたのち、北条泰時が辞退を申し入れたというエピソードそのものが怪しくなるし、そもそも北条泰時と讃岐国司との関係のエピソードそのものが吾妻鏡編纂時に差し込まれた虚構であると考えるべき話になる。


 建保六(一二一八)年四月二九日、北条政子が鎌倉に戻ってきた。熊野詣を無事に終えたというのが公式見解である。結婚を控えた一人の少女に付き添って京都へと寄り道したことは認めるものの、京都において北条政子自身が何かしらの能動的な行動を見せたわけではない、ということになっている。

 その代わり、京都で奇妙なエピソードを体験したことは記している。

 四月四日に後鳥羽上皇が大奉殿へ行幸するため、行幸の様子を見学しようと牛車を三条河原のあたりに停めて見物した。娯楽の乏しいこの時代、このような行幸は京都内外に住む人達にとって絶好の娯楽材料となり、見物しようと多くの人が押し寄せる。特に貴族は牛車に乗って見物しようとする。というより、皇族や貴族はこのようなとき、牛車から降りて見物すること自体が許されない。牛車の中から行列を見物するか、見物そのものに行かないかのどちらかであり、見物するならば、見物そのものを娯楽として楽しむだけでなく、自分の牛車をアピールすることでの関係性の構築、この場合は後鳥羽院と自己との繋がりを図らねばならない。そのため、牛車での見物は良い場所の取り合いになり、源氏物語の一幕でも記されたように見物に適した場所を巡っての文字通りの争いになることもある。

 この時点での北条政子自身は無位無官の一庶民、さらにいえば出家した尼僧である。しかし、父は遠江守も務めた貴族でもある北条時政、夫は権大納言を極官とする源頼朝、息子は現役の権大納言である源実朝とあっては、北条政子も見物のためには牛車に乗らなければならない一人とカウントされる。ここまではいい。

 問題はここから先。

 何とこのとき、全く混乱が起こらなかったのだ。

 貴族の牛車はその貴族やその貴族の近親者に仕えている武士が牛車周辺の警護をする。平安京の中で武装が許されるのは、六衛府や検非違使といった公的な官職を持った武官とその部下達のみであるが、こうした貴族に仕えている武士も公的な官職を持った武官であるので、武装して牛車の警護をすることは何の問題もない。

 北条政子の牛車も例外ではなく、北条政子の実の息子である源実朝に仕えている武士のうち、公的な武官の官職を持つ武士とその部下達が牛車周辺の警護をする。

 すなわち、北条政子の牛車の周辺は京都で集めることのできる鎌倉幕府の武士達が、あくまでも源実朝の実母の乗る牛車の護衛という名目で、北条政子の周囲を固めることとなる。

 これでいったい誰が、場所を巡る争いに参加しようというのか。

 北条政子は他の貴族達の牛車が北条政子の牛車の近くで見物することについて何も言わなかっただけでなく、貴族同士の繋がりを友好的に築き上げた。そのため、一見するといつものように行列見物のための牛車が集結しているという光景でありながら、いつものような場所取りを巡る争いが全くない、牛車が整然と並んでいる光景が展開されたのである。

 繰り返すが、北条政子は何ら能動的な行動をしていない。ただ牛車に乗って見物に行っただけであり、見物の護衛として息子に仕える武士達も連れて行っただけである。しかし、それの意味するところは誰の目にも明らかであった。

 このエピソードが届いたのか、それから十日後の四月一四日に、北条政子が従三位の位階を与えられたとある。

 既に北条政子に位階を与えるべきという話は出ていた。

 その話が具体化したのが四月一四日である。権中納言三条実宣からの提案として、北条政子に従三位の位階を与えるべきという意見が出たのである。実際には後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子の意向であるが、名目としては四月四日の牛車の整然を契機とし、権大納言の実母である女性にも相応の位階を与えるべきとの意見を出したのである。

 これは意見が紛糾した。

 特に問題となったのが、北条政子は出家していることである。

 北条政子への位階授与に対して反対する者は、出家した者に官位を与えた例など奈良時代終わりの弓削道鏡しかないという論陣を張った。道鏡とは繰り返してはならない負の先例であり、二度目は許されないというコンセンサスが存在している。ここで北条政子に位階を与えるのは道鏡の悪しき先例を繰り返すことになるとして反対したのである。

 しかし、賛成する側は別の事例を持ち出して正当化した。出家した者に位階を与えた例は他に二例あり、その二例とも女性への位階授与だとしている。一人は安徳天皇の祖母の平時子、もう一人は藤原忠実の母の藤原全子である。この両名とも出家後に皇后に準じる地位を得たための位階授与という特例であり、北条政子をこの両名と同列に扱うわけにはいかないのではないかとの意見も出たが、皇后に準じるわけではないにしても相応の有力者である女性に位階を与えることは問題ないとしたのである。

 特に平清盛の妻である二位尼こと平時子の先例は強力であった。安徳天皇の祖母であることはその通りであるが、源平合戦において平家全体が朝敵となっただけでなく、平時子は安徳天皇を抱きかかえて壇ノ浦に入水したという、許されざる犯行に手を染めた極悪人である。そんな極悪人にも位階を得る資格があるのなら、北条政子はもっと資格があるとしたのである。

 さらに、北条政子に位階を与えることに後鳥羽上皇が賛成しているという知らせが飛び込んできたことで、論争は位階授与で決着することとなり、北条政子はここで正式に従三位の位階を得ることとなった。

 そしてこのときが北条政子の史料初出なのである。

 このように書くとこれまで平安時代叢書で何度も北条政子と書いてきたではないか、そもそも北条政子についての記録は源平合戦の前から存在しているではないかと思う人もいるであろうが、実は「北条政子」という名が登場するのはこのときの位階授与なのだ。

 平政子に従三位の位階を与えると発表されたのであるが、現在の我々が北条政子と読んでいる女性に対し、父の名から一文字採用して「政子」とこのときに名付けられたのである。それまで無位無官であった女性に対し、位階を与える側が嘉字一文字を選んだ上で「子」を加えた名を授けるのは、この時代の最上級の栄誉であり、北条政子は最上級の例に加わったわけである。

 なお、北条政子は位階を得た翌日の四月一五日に後鳥羽上皇から面会を求められたが、辺鄙なところに住む老いた尼僧が後鳥羽上皇のような尊い方と顔を合わせるなどあってはならないことだとして、すぐに京都を発って鎌倉へと戻っていったというのが吾妻鏡の記載である。

 なお、身代わりと言うべきか、北条政子と同行していた北条時房は、鎌倉へと戻ることなく京都へと留め置かれている。


 北条時房が鎌倉へと戻ってきたのは建保六(一二一八)年五月四日のことである。姉が鎌倉へ戻るべく京都を発った後、姉の代わりに後鳥羽上皇に招かれたために、北条時房は鎌倉到着が遅れたというのが吾妻鏡での記載だ。

 北条時房は従五位下相模守であり、位階も、官職も、ギリギリではあるが後鳥羽上皇と会うことが許されている地位にある。とはいえ、北条時房が京都の皇族や貴族達の間でのしきたりに詳しいわけではなく、また、後鳥羽上皇の愛好する和歌や蹴鞠の達人というわけでもない。

 というタイミングで、困り切っている北条時房を助ける人物が二人登場した。

 一人目は坊門清親。源実朝の妻の父である坊門信清の甥で、源実朝とは義理の従兄弟同士の関係にあたる人物である。また、坊門信清の娘の一人が後鳥羽上皇の元に入内しているため、後鳥羽上皇、坊門清親、源実朝の三名は互いに義理の従兄弟同士ということにもなる。この坊門清親が北条時房の側に常にいることで、宮中や院における礼儀作法に詳しいわけではない北条時房のサポートを続けた。

 もう一人は北条時房の息子の一人で、父と同行していた北条時村。この人の生年は不詳であるが、建保六(一二一八)年時点では二十歳になったかならないかといったところである。その若者は、父の北条時房と違って和歌にも蹴鞠にも精通しており、困惑する父に代わって後鳥羽上皇の趣味に付き合ったのである。

 吾妻鏡の記載に従うと、まずは四月八日の梅宮大社の祭礼の一環として蹴鞠があり、ここで久我通光こと権大納言源通光の隣席のもと北条時房は蹴鞠を披露した。このとき、父に従って蹴鞠に参加したのが息子の北条時村である。北条時房の蹴鞠の能力自体が平均以上であったが北条時村の蹴鞠は父を上回る見事なもので、その知らせが久我通光から後鳥羽上皇のもとに届き、四月一四日からは参内しての蹴鞠の披露となった。これだけでも緊張するところであるが、蹴鞠は一日だけでは済まず、翌日も、翌々日も、北条時房と息子の北条時村は蹴鞠を披露し続けることとなった。なお、北条時房と北条時村の親子だけが蹴鞠に参加したのではなく、他の貴族も参加していたこと、また、北条時房と北条時村がずっと蹴鞠を続けていたわけではなく、選手交代しながら蹴鞠をしていたことは判明している。ただし、具体的に誰が参加していたのかの記録はない。北条時村は貴族ではないが父の北条時房は位階も官職も得ている貴族であるため、これから位階や官職を手にする予定の貴族の息子という体裁で、北条時房とともに貴族達の座席の隅に座って蹴鞠を眺めてもいたというのが吾妻鏡におけるこのときの蹴鞠の情景である。

 なお、日付的には北条政子もまだ京都にいた頃に蹴鞠の披露が始まり、三日連続での蹴鞠の途中で北条政子は鎌倉へと向かったこととなるが、北条政子が蹴鞠の見物に赴いたかどうかの記録はない。