承久之乱 5.承久の乱
後鳥羽上皇にとっての大内裏再建は日本国再建と同義であった。
先にも述べたように承久元(一二一九)年八月半ばに後鳥羽上皇は再び病に倒れることとなったが、九月初頭に復帰すると、九月七日、九月二〇日、一〇月二日、一〇月一三日と臨時除目を繰り返すことで朝廷内における自らの発言権強化を図ると同時に、大内裏再建をさらに強化する人事異動を展開した。
さらに後鳥羽上皇は、一〇月一〇日に最勝四天王院に御幸して名所和歌会を開催している。最勝四天王院は鴨川の東の白河の地の南端、具体的には現在の平安神宮や京都市美術館の少し南のあたりに後鳥羽上皇が建立させた寺院であり、元久二(一二〇五)年の建立時に、障子に日本国内から選りすぐりの四十六ヶ所の名所を描き、その名所を読み込んだ和歌を書き記したことから、最勝四天王院障子和歌の世界はこの時代における日本全土の縮図という概念が存在しており、後鳥羽上皇にとっては日本国の治天の君たる後鳥羽上皇の統治する領域の象徴ともなっていた。そこでの歌会の開催は日本全土に君臨する統治者としての後鳥羽上皇自身を再確認する意図もあり、源実朝亡き後の精神的および肉体的苦痛からの再起を果たした姿がうかがえる。
ただし、奇妙な記録も見つかる。最勝四天王院の建立は元久二(一二〇五)年のことであるが、百錬抄によると、承久元(一二一九)年七月一九日に白河から五辻殿に移築されたようなのである。二年後の後鳥羽上皇の行動もあって、後鳥羽上皇は関東調伏を隠蔽するための解体移築をし、一〇月一〇日の御幸は移築工事完了を記念しての和歌会であったというのである。
それならそれで話の辻褄も会うのだが、同じ百錬抄に奇妙な記載が存在している。
それは、承久二(一二二〇)年一〇月一八日、すなわちこれから一年後に最勝四天王院上棟という記録が存在するのである。
こうなると百錬抄の記録が信じられなくなる。
現実的に考えると、後鳥羽上皇が承久元(一二一九)年一〇月一〇日に最勝四天王院に御幸したのは移築前のこと。そして、この時に開催した和歌会で最勝四天王院の移築が議論の俎上にのぼり、およそ一年後、六波羅と近い場所にある最勝四天王院を、平安京の北端のさらに北、六波羅から少し距離の置いた場所に移転したというものである。なお、現在の京都で最勝四天王院の跡地として碑文が残っているのは移築前の白河の地にあった頃のことであり、五辻殿のほうは五辻殿の跡地であることを示す碑文があるものの、最勝四天王院跡地であることを強く主張してはいない。おそらく当時の人の概念の中にも、最勝四天王院とは白河の地にある寺院であり、日本国全土の縮図たる最勝四天王院障子和歌も白河の地にあるべき障子であって、これから三年後に灰燼に帰すこととなる五辻殿のほうの最勝四天王院は、知識としては知っていても、概念としては受け入れることが難しかったのであろう。
承久元(一二一九)年一〇月二〇日の記録として、要注意な記録がある。
吾妻鏡では数行しか記されていないあっさりとした記録であるが、今後の鎌倉幕府を考えたときに大きな意味を持つ記録である。
この日、北条義時の娘が一条実雅と結婚したのである。
純然たる慶事であるのだから祝福すべきことであるのだが、一条実雅が誰であるか、そして、このときの結婚の形がどのようなものであったのかを調べると、純粋に祝福するだけで留め置くのは厳しくなる。
まず、一条実雅の父である一条能保は源頼朝と義兄弟であることに注意しなければならない。一条能保の妻の坊門姫の生年は久寿元(一一五四)年とする説と久安元(一一四五)年とする説とがあり正式な生年は不明であるが、源頼朝と母を同じくする女性であることは間違いなく、生年が前者であれば坊門姫と源頼朝は同母兄妹、後者であれば同母姉弟となる。ただし、一条能保は一条実雅の父であるが、坊門姫は一条実雅の母ではない。坊門姫が亡くなった六年後に生まれたのが一条実雅のため、一条実雅には坊門姫の血、すなわち、源頼朝とつながる血は流れていない。それでも一条実雅は源頼朝の血筋に関連する人物の一人であることに違いはなく、一条実雅が鎌倉にいたのも、三寅を第四代将軍となるべく京都から鎌倉へと下向したときに同行したからである。
このあたりのことをもう少し詳しく記すと以下の通りとなる。
三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮にあり、壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮が作り出した形代(かたしろ)である。本物が熱田神宮にありレプリカが朝廷に奉納されたわけであるが、公式にはどちらか一方が本物で片方がコピーというわけでなく、両方とも本物ということになっている。
その天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が壇ノ浦の戦いで海に沈んだため朝廷はどうにかして取り戻そうとしたものの失敗しており、熱田神宮に対して新たな形代(かたしろ)を用意するよう命じても、熱田神宮からは、熱田神宮の宮司の娘より生まれた源頼朝とその子孫こそが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるとの返答しか戻らないでいた。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)を務める者こそ征夷大将軍であり、征夷大将軍がいないと三種の神器も揃わず、皇位継承も認められないという異常事態になっていた。後鳥羽上皇は征夷大将軍ではなく文字通りの剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)とすると布告したものの、本来の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)は壇ノ浦に沈み、新たな形代(かたしろ)は征夷大将軍であるという認識は強く残っていた。
その認識が残っているところで、源頼朝の血筋が途絶えてしまった。鎌倉幕府の存続に関係する話であるだけでなく皇統継承に関係する話である。源実朝の死後の征夷大将軍、すなわち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)をどのようにするかを検討しているときに出てきたアイデアこそ、源頼朝の母まで遡るというアイデアであり、源頼朝と母を同じくする坊門姫である。
熱田神宮の宮司の娘を母とするという一点に絞れば、源頼朝の子孫だけでなく、坊門姫の子孫にも熱田神宮の権威は継承される。坊門姫は一条能保との間に男児一名女児三名を出産しており、そのうち二人の女児が第四代将軍として鎌倉に迎え入れた三寅の祖母となっている。三寅から見ると、父の九条道家は坊門姫の娘の一人が九条良経との間にもうけた男児、母の掄子は坊門姫の娘の一人が西園寺公経との間にもうけた女児であるため、二人の祖母がともに坊門姫の娘ということになる。なお、九条良経に嫁いだ女性が仁安二(一一六七)年生まれであることは判明しているものの、西園寺公経に嫁いだ女性の生年は不明であり、この二人の女性のどちらが姉でどちらが妹なのかは不明である。
一条能保は、既に述べたように娘を九条良経と西園寺公経に嫁がせただけでなく、花山院忠経にも娘を嫁がせており、花山院忠経に嫁がせた娘である保子を当時の後鳥羽天皇の乳母(めのと)とさせたなど、婚姻関係を用いて政界の中枢に食い込む政略をとっていた。妻の有する熱田神宮の権威、すなわち征夷大将軍と、征夷大将軍がトップを務める鎌倉幕府の権勢を暗に示しているが、受け入れる側にとっては歓迎こそすれ敬遠するものではない権威だ。
一方、一条実雅にその権威はない。たしかに一条実雅は一条能保の息子なのであるが、坊門姫は一条実雅の生まれる六年前にこの世を去っており、坊門姫の有する熱田神宮の権威は有していないのである。そのため、一条能保が亡くなるまでに築き上げてきた朝廷内の権勢は、一条能保の死と同時に異母兄である一条信能に受け継がれ、一条実雅は継承できないでいた。一条実雅は西園寺公経の猶子となっているので、一条能保の牽制は継承できなくても西園寺公経の権威ならば利用できる立場であったが、これでは弱いとするしかなかった。
その一条実雅が北条義時の娘と結婚した。これで一条実雅は鎌倉幕府の後ろ盾を暗に示せるようになったのだが、家格だけを考えると本来ならば不釣り合いである。
後世に生きる我々は北条家がこの国を掌握することを知っているから一条実雅の選択を理に適ったものと考えるが、承久元(一二一九)年時点での北条家を考えると、一条実雅の選択は相当なギャンブルなのである。しかも、形式的であるとはいえ婿入婚なのだ。一条実雅が北条義時の屋敷に入るという結婚であり、平安時代の貴族の一般的な結婚形態であるとはいえ、また、北条義時も一応は貴族の一員であるとはいえ、従二位権中納言まで上り詰めた一条能保の息子ともあろう人が、従四位下陸奥守というかなり格下である北条義時の家に婿入りするというのは前代未聞であった。
一条実雅にも言い分はある。源実朝の左近衛大将就任に合わせて京都から鎌倉に下向したのを契機に鎌倉に留め置かれ、源実朝の右大臣就任時には拝賀の場で源実朝の暗殺を目撃し、一旦は京都に戻ったものの二人の姉の共通の孫である三寅の下向に伴って再び鎌倉まで足を運ぶという、京都と鎌倉とを行き来する暮らしを余儀なくされた上で京都に戻るタイミングを失っていたのである。異母兄の一条信能にしてみれば、弟ではあるものの母が違うことから中央政界におけるライバルになる可能性のある人物を表立って京都から追放する口実として三寅の下向の随身を命じるのはあり得る選択であったとも言える。近親者であり、また、この時点で二三歳という若さであることを考えれば、体力的にも血筋的にも適任であるとは言える。しかし、一条実雅が異母兄の選択を快く受け入れるであろうかと考えると否という答えに至る。
一条実雅の立場で考えると京都から追放されたという構図ができあがる。自分から鎌倉を選んだのならいざ知らず、京都から追放されて鎌倉に留め置かれるという立場である以上、どうにかして捲土重来を図ろうと考えるのは普通だ。そして、鎌倉幕府を自身の元に引き寄せるというところまでは誰もが当然な選択と考えるところであったが、家格を落としてでも北条義時を選ぶというのは、この時代の概念ではあり得ない選択であったのだ。そのあり得ない選択を一条実雅は選んだ。しかも形式的とはいえ北条義時の屋敷に婿入りするという形での婚姻を選んだ。
この婚姻がどちらからの発案なのかわからない。もしかしたら自由恋愛の結果なのかもしれない。確実に言えるのは、この時代の結婚ではあり得ないことを、一条実雅は実行し、北条義時は娘の父として一条実雅の行動を受け入れたということである。
そして、この婚姻が正解であったことは二年後に判明する。一条実雅は鎌倉幕府の権勢を背景にすることができた一方、北条義時は後に将軍となる三寅の大叔父を娘婿とすることに成功したのであるから。
都市鎌倉は火災からの復興を図っていたが、都市鎌倉の復興についての記録はない。しかし、その後も凶事が鎌倉を、そして日本中を襲い続けたことの記録ならば存在する。
承久元(一二一九)年一一月二一日の夜明け前に台風が鎌倉を襲い、ようやく台風の勢いが鎮静化した正午頃、火災被害からの再建を終えたばかりの北条時房の新築の家が倒壊した。
一二月二四日には、亡き源実朝の屋敷で、源実朝亡き後は北条政子の住まいとなっていた邸宅が火災に遭い、北条政子は三寅のもとへ一時避難することとなった。
年が明けた承久二(一二二〇)年一月一二日には早朝に地震が起こった。
一月一六日には、公暁の空席を埋めるべく鶴岡八幡宮別当となっていた慶幸が亡くなった。
一月二九日には巌谷不動のあたりで火災が起こり進士判官代工藤左衛門尉の家をはじめとする複数の家屋が被害に遭った。
二月一六日には大町より南が火災に遭った。強い北風に煽られた火災は鎌倉の浜辺まで広がり、前年の火災からの復興途上にあった鎌倉を再び灰に戻してしまった。
十日後の二月二六日の夜には、今度は大町の北側で火災が起こり、北条泰時の邸宅の前まで火災が押し寄せた。
三月九日の夕方には、またもや巌谷不動の当たりで火災が発生し、数十軒の民家が火災に遭った。
いったい何が起こっているのかと言いたくなる、災害ばかりの記録の連続。実は、吾妻鏡を追いかけると、承久元(一二一九)年の終わりから承久二(一二二〇)年の終わりまで、災害以外に書くことはないのかと言いたくなるぐらいに災害の記録しかなくなる。また、実際にそれだけの災害が発生している。この翌年に何が起こったのかを考えると、これだけ災害が頻発していたことが世情の動揺を誘い、その動揺が大事件の一因となったと捉えてもおかしくないほどだ。
史料はなおも承久二(一二二〇)年の災害の記録が続けている。それも、今度は鎌倉ではなく京都での災害だ。
三月二六日、清水寺の本堂が火災で喪失した。
四月二七日、京都の中御門町から発生した火災が大内裏を襲い、陽明門、左近衛府、上東門の左、斎院御所などが火災で焼け落ちた。なお、後述することとなるが、このときの大内裏は災害からの復旧の過程であった。
五月一三日、祗薗本社が火災で焼け落ちた。
それにしても、およそ半年に亘って災害についての記録しか出てこないのはどういうことか。
極論すると、それが歴史資料というものの本質である。
人類の歴史は戦争の歴史というが、実際にはそうではない。ただ単に、戦争の記録ならば数多く刻まれ、結果として構成に数多くの資料が残されるというだけである。現在の新聞にしろ、あるいはテレビのニュースにしろ、何ら報道するようなことがなければ、ほのぼのとした内容を報道するか、些事を論(あげつら)ったりして紙面なり時間なりを埋める必要があるが、歴史資料はそうではない。記録に残すまでもないことしか起こらなかったときというのは、記憶に残さないのである。
裏を返せば、特に記録が残されていない期間というのは、当時の人にとっては当たり前の日々と認識されてきた期間であるということでもある。それは必ずしも現代人の考える当たり前の日々と概念を等しくするものではない。現代に生きる我々にとっては信じられない異常事態であっても、当時の人にとっては当たり前のことと認識されていたら、それは記録に残らない。
また、歴史資料は常に恣意的な視点が伴う。たとえば戦いの記録を調べても、一つは残虐な殺戮と書き記し、もう一つは正義の達成ないしは復讐の成就と書き記す。また、一方のみにしか記録がなく、もう一方の記載しか存在しない場合も存在する。相手を絶滅させ、かつ、その絶滅のさせ方が当事者ですら秘匿したいと感じられる内容である場合、歴史資料には秘匿が生まれることもある。資料の詳細な読み込みや発掘調査などによって歴史資料の空白が埋められることもある。
たとえば、ほとんどの史料で見過ごされている出来事について、予期せぬところから記録が発掘され空白が埋められることがある。その具体例が承久二(一二二〇)年四月に起こっている。源頼家の男児のうちただ一人の生き残りである禅暁についてはほとんど記録に残っておらず、その最後の記録が承久二(一二二〇)年四月一四日のことであるが、その内容は予期しがたい内容であった。
仁和寺に残されている記録だけが、承久二(一二二〇)年四月一四日に禅暁が京都東山、この事件からおよそ二百年後に銀閣寺が建立されることとなるあたりの地域で殺害されたことを記している。公暁のように大々的に名を残しているわけでなく、一人の僧侶として生きてきた禅暁は歴史の闇に埋もれるはずであった。その禅暁が殺害されたことは鎌倉幕府にとってだけでなく朝廷にとっても後鳥羽院にとっても都合が良すぎる話であるがゆえに後世から糾弾されること必定の流れであったことから、記録に残す者は少なかった。特に吾妻鏡は承久二(一二二〇)年四月から五月にかけての記事は天災と些細な出来事の記載のどちらかしかなく、禅暁という人物なんかこの世に存在しなかったといいたくなるほどに無視していた。
禅暁の死を取り上げているのは仁和寺日次記である。当然だ。禅暁は仁和寺の僧侶であったのだから。禅暁は源頼家の息子であるため源実朝が亡くなった後の第四代将軍候補に挙がってもおかしくない人物であった。また、建保七(一二一九)年閏二月五日には二階堂行光に伴われて京都を出立したという記録もあるが、その記録以外に源実朝の死に関連しての禅暁の記録はない。もっと言えば、禅暁という人物についての記録そのものが絶望的に乏しく、前述の京都出立の記事も仁和寺十五世門主である道助法親王の伝記の中にあっさりと記されているだけである。
禅暁に何か問題があったのではない。既に三寅を次期将軍とすることを決めているため、たとえば打倒北条を目的とし、禅暁を神輿に担いで反抗勢力が生まれる可能性があるのだ。ここで禅暁を連れて京都を出立したことの記録は仁和寺に残っていても京都に戻った記録はない。存在するのは京都出立から一年二ヶ月後に京都東山で殺害されたという記録だけである。
記録に残すべきと考える出来事もあれば、記録に残したくないという出来事もある。記録に残したくないが残さざるを得ない出来事もあれば、残したくないので記録に残さないでいたものの、他に記録を残した者がいたので記録を残さなかったことが知れ渡ることとなった出来事も存在する。
それでも出来事として認知されるならまだいい。
出来事として認知されることすらなく、記録に残されない出来事というのも存在する。この判断を個人の恣意的な判断に委ねると記録に残されず歴史の闇に消える。
この闇を少しでも減らすためにこの国は一つの制度を生み出していた。
どんな平穏な年であっても残さなければならない記録を定めたのだ。法により記録として残さなければならないと定め、また、社会的には些事であっても当人にとっては重要事である出来事の記録を残すようにさせたのである。日本という国は、記録を残していないようで残している国である。
残さねばならないと定められた記録の一つが公卿補任である。何年何月何日に誰がどのような役職に就いたか、また、その年は誰がどのような役職を務めていたかをまとめた記録であり、一度でも従三位以上の位階を得るか、一度でも参議以上の役職に就けば、その人の人生は朝廷の公式記録として後世まで残される。それが公卿補任であり、公卿補任とは明治維新により廃絶となるまで、歴代天皇に仕えてきた貴族達の足跡が連綿と書き足され続けてきた史料である。
ただ、これは平家政権と鎌倉幕府との大きな相違点の一つであるが、平家政権は平家の公達を続々と朝廷に送り込み、朝廷の中枢を平家が支配するに至ったのに対し、鎌倉幕府は源氏将軍ただ一人が朝廷の中枢に名を刻むのみ、それも、京都に足を運ぶことなく京都から遠い相模国鎌倉に身を置き続けている。つまり、平家政権の時代と違って、鎌倉幕府創設以後の公卿補任に名が刻まれているのは昔ながらの藤原氏の連続である。ごく稀に源氏がいるがその源氏は清和源氏ではなく村上源氏であることがほとんどで、鎌倉幕府の送り込んだ人材が名を刻むことは無い。例外は将軍本人だけである。
何ら記録が残っていない時期であっても、公卿補任をよく読むとその年に発生した事件を見つけることができる可能性がある。文字通り何の出来事もない年である場合は単なる名簿になってしまうが、そうでなければ、記録が残されていない出来事を復元できる可能性がある。
その上で、建保七=承久元(一二一九)年から承久二(一二二〇)年までの公卿補任を読むと、建保七(一二一九)年一月に右大臣源実朝が殺害されたという大事件があった後の人事の補完があった以外に、これと言って目を引くような人事異動は記録されていない。後鳥羽上皇は大内裏再建のために臨時の除目を繰り返したが、そこに目を引く記事はない。誰かが抜擢された、あるいは、誰かが失脚した、突然の死を迎えたなどの大事件があったならば目を引くことになったであろうが、後鳥羽上皇の主導する朝廷は、右大臣源実朝が突然の死を迎えてからこれまで何ら特筆すべきことのない人事を展開しているのだ。ちなみに、六位の身でありながら抜擢された藤原秀康はまだそこまでの位階に到達していないので公卿補任にその名を記してはおらず、大内裏再建に情熱を燃やす後鳥羽上皇の肝煎りの除目であっても、特筆すべきではないと言いたげなほどにこれまでと変わらない情景である。相変わらず位階はありながら役職に辿り着けないでいる貴族は数多く、従三位は無論、正三位、さらには従二位になっても参議にもなれないまま放置され続けている貴族が羅列されているだけである。そして、毎年のように新たな貴族が従三位の異界を得て公卿補任にその名を刻むようになっている。
ただ、さらに公卿補任を深く読み込むと、記録に残らない大きな出来事が進展していることが読み取れる。
国家経済の破綻につながる大問題が進展しているのだ。
この問題に承久二(一二二〇)年時点の人達は気づくことなく、何もない日々が続いていると認識していた。自分の生きる時代に記録に残す出来事があるとすれば自然災害のみという認識であった。
これは極めて危険であった。
では、公卿補任に刻まれている国家経済の破綻につながる大問題とは何か?
上級貴族の増大である。
先に、毎年のように新たな貴族が従三位の位階を得て公卿補任にその名を残すようになっていると記したが、このことが本来ならば異常事態なのだ。そもそも新たに従三位の位階を得る貴族とは数年に一度の割合で新たに誕生するかどうかという話であり、毎年誕生する、それも複数名の従三位の貴族が新たに誕生するというのは、通例になってしっているために見逃されがちであるが、本来であれば異常事態なのである。
その上でもう一度公卿補任を見つめていくと、カリスマ性に乏しく、上皇としての権威以外に人を惹きつける要素を持たない人生を過ごしてきた後鳥羽上皇の現実が見えてくる。源実朝が亡くなるまでは、鎌倉幕府の武力を背景にした上で、上皇としての強い推薦を示すことで位階を付与させて自派の構築をしてきた後鳥羽上皇が、鎌倉幕府との関係が断絶したために、ただでさえ莫大な人数になっていた無官の上級貴族がさらに増えてしまったのだ。後鳥羽上皇に近づけばこれまでの自分では考えられなかった出世が待っていると言われ、そして実際に念願だった従三位の位階を得て公卿補任に名を刻めたと思ったら、同じ境遇の貴族が数多くいて、従三位の位階を得たとしても、朝廷中枢の入り口でもある参議の役職を得るどころか、何の役職も得られぬまま位階だけが付与された無官の貴族となっただけなのだ。
とはいえ、従三位の位階を得ると得ないとでは、貴族としての収入に大きな違いが出る。一般的に、貴族は自分の所有する荘園からの年貢によって豊かな暮らしをしていると思われそうであるが、実際には、貴族の収入に占める荘園からの年貢はそこまで多くはない。極論すれば、荘園からの年貢がゼロになったとしても生きていけるだけの給与が国から支払われている。貴族とは現在でいう国家公務員、あるいは国会議員であり、国のために働く代わりに国から給与を得ている者という前提は存続しているだけでなく、国のためにどれだけ働いたかで国から支給される給与に違いが出る。その給与は位階に基づく給与と職種に基づく給与の二重構成となっており、何の役職に就いていなくても位階を得ているならば貴族として十分に生きていけるだけの金額が保証されていた。
ただ、保証される側の貴族の立場ならともかく、保証する側である国の立場に立つと、限度が見えてくる。赤字国債という概念のないこの時代、国が貴族のための給与をどこから出すかとなると、その財源は全て租税収入に求めることとなる。荘園制の進展により国の租税収入が減ってきてはいるものの、荘園の所有者である貴族も一応は自分の所有している荘園の規模に基づく租税はしているし、また、源頼朝の手によって荘園住人の年貢納入先は荘園領主ではなく地頭に変更となったが、その地頭もまた、一応は法に基づく納税をしている。つまり、少なくとも法に基づく租税収入はこの時代の朝廷にも存在していた。ただ、国に入ってくる租税収入は後鳥羽院の前と後とで大差はないのに、国が給与を支払う貴族の数となると後鳥羽上皇の院政開始以後に激増したのである。さらにいえば、後鳥羽院政の始まる前から貴族の数は年を経るごとに増えてきていたのが、後鳥羽上皇の時代になって急速にペースを上げてさらに増えた。ここに源実朝の死に伴う後鳥羽院と鎌倉幕府との関係断絶が加わったことで、後鳥羽上皇の権力強化のための貴族の人数増加が加速し、収拾のつかない事態にまで陥ってしまっていたのだ。
もしかしたら、この時代の人の中には気づいている人もいたのかもしれない。その中には後鳥羽上皇も含まれていたのかもしれない。それでも、多くの人は気づかないでいた、あるいは、気づかないふりをしていた。
気づいてしまうということは、自身がようやく手にした権利を放棄するに等しいことだから。
都市鎌倉も復旧の過程であったが、もう一つ、災害からの復旧の過程であった場所がある。
何度も記してきた大内裏である。
前年七月に源頼茂の討伐の過程で大内裏が大ダメージを受けていたこともあって後鳥羽上皇は復旧工事に注力していた。
後鳥羽上皇の命令による大内裏復旧工事の記録として、承久二(一二二〇)年四月二一日付の典薬寮地黄御薗供御人等解(てんやくりょうじおうみそのくごにんとうのげ)に「去年十月、院宣を相(あい)副(そ)へ、仰せ下さる」との記述があることから、承久元(一二一九)年一〇月に後鳥羽上皇が院宣を下していたことがわかる。また、東大寺出納文書目録にも造内裏役のため承久元(一二一九)年一〇月一六日に文書を取り出して政所房に提出したことの記録が存在する。既に述べたように承久元(一二一九)年の八月にはもう大内裏再建のための人事改編を目的とする除目をはじめており、その後も何度も除目を繰り返していることから後鳥羽上皇がいかに大内裏再建に情熱を燃やしていたかが読み取れる。
ただし、後鳥羽上皇の情熱の記録は承久元(一二一九)年一〇月後半に一旦消える。一〇月一六日に母の七条院殖子を伴って熊野詣に出かけたからで、このときの熊野詣は後鳥羽上皇の人生で二七回目の熊野詣である。このときは老いた母を伴っての旅路ということもあって通常の熊野詣よりも日数を要しており、後鳥羽上皇の動静についての次の記録は承久元(一二一九)年一一月一九日となる。この日の記録として「諸道、梁年に当たり、内裏を造ることを勘申す」という記録があり、この記録が出てきてはじめて、後鳥羽上皇が熊野詣という非日常空間から政務という通常期間に戻ったことがわかる。梁年とは建設を慎むべき年という意味で、大内裏再建に相応しい年であるかどうか、正確に言えば大内裏再建に相応しくない年でないかどうかを陰陽師に占わせたのである。陰陽寮からの結果が示されたのは一ヵ月後の一二月一八日のことで、この日、「官室営造を憚るべからざるの由」との答申があったことで、後鳥羽は晴れて大内裏再建事業を本格化できたのである。
そして承久二(一二二〇)年一月二二日の除目で藤原公頼を参議に就任させると同時に大内裏再建工事担当の参議である行事参議とさせ、翌一月二三日には藤原頼資を右中弁に補任して行事弁とさせ、そこに院近臣藤原光親の子である右少弁藤原光俊を加えた三人を頂点とする造内裏行事所を発足させるに至った。また、権大納言源通具を行事上卿に任命することで大内裏再建工事の最高責任者を権大納言源通具であると内外に公表し、大内裏再建工事における現場の最高責任者が参議藤原公頼で、裏方も含めた全体の指揮官が権大納言源通具であるという図式を成立させた。上卿とは本来であれば議政官の中でそのときの会議の議長を務める貴族のことを指し、通常は左大臣、左大臣不在時は右大臣、右大臣も不在であれば内大臣を飛ばして大納言筆頭が議長となって政務を展開することになっている。この議長職を上卿という。しかし、大内裏再建工事のように次年度に実施することが明らかとなっている行事に関しては、その行事をとりまとめて責任を負う貴族を前年末に任命することがあり、この場合は、任命された貴族が担当者である行事上卿となる。
並行して、大内裏の再建費用として全国各地に臨時に税を課すことも決まった。これは一国平均役、すなわち、令制国単位に課される臨時租税であり、この租税を課された令制国は他の租税を減らすことで庶民の税負担を軽減させるか、あるいは一年限定のこととして臨時課税を令制国内に課すこととなる。ここまでであれば何ら珍しいことではないのだが、承久二(一二二〇)年の一国平均役は臨時課税の対象となった国の数がこれまでにない大規模なものであった。何しろ確認できるだけでも、山城、大和、河内、摂津、和泉、伊賀、伊勢、遠江、上総、下総、近江、美濃、信濃、下野、越後、加賀、淡路、丹波、丹後、但馬、伯者、備後、安芸、周防、壱岐、筑前、肥前と、日本全国のおよそ半分、この当時の人口を考えると、人口の過半数が一国平均役を課される対象となったのだ。
規模もこれまでに無いものであったが、税の徴収方法もまたこれまでに無いものがあった。小山田義夫氏の著した「一国平均役と中世社会」によると、このとき、造内裏行事所の統括のもとで各国の国衙が切符、すなわち田の面積に従って賦課割当を記した書類を作成し、切符に基づいて公領の場合は国司が直接、荘園の場合は荘園領主を通じて徴収したという。そこに守護や地頭の入り込む余地もなければ荘園領主の抵抗する余地もない、文字通り国を挙げての徴税であったという。しかも、二月中に半分を納め、残る半分を三月末までに納めるように命令するというのだから、命令する側にとっては理に適っている一方、命令される側にとっては苦痛でしかないスケジュールだ。前年秋の収穫の後に税や年具を納めた残りが農民の手元にあるのだが、それを差し出せというのだからたまったものではない。
ただし、上に政策あれば下に対策ありとはいつの時代でもどの社会でも変わらぬ真理であるようで、国衙は田の面積に基づいて徴税額を決めるが、ここでの田の面積とは記録に残っている面積のことであり、現実の面積ではない。自然災害に巻き込まれて耕作不可能となってしまった土地もあれば、病気や戦乱などの理由で耕作者不在となってしまった土地もある。こうした土地に対する課税をどんなに求められても、そのような納税などできないと訴え出ればそれで終わりだ。毛沢東やスターリンであったら如何なる事情があろうと問答無用で税を取り立てていたであろうが、幸いにして我が国の祖先はそこまで落ちぶれていない。耕作できない土地は耕作できないし、耕作する人のいない土地は耕作できない。そして、耕作できない土地からの納税もできないのである。
また、納税できるだけの収穫があった土地については、鎌倉幕府から派遣された地頭が立ちはだかった。国衙からは国司の名で使者が荘園や村落に派遣されてくるが、相手にするのが地頭の場合、国衙から派遣されてきた使者は望み通りの納税を遂行できなくなる。ここで地頭が各荘園に置かれていることがプラスに働く。地頭はそんな命令など聞いていないとして使者を追い返すだけでなく、いかに徴税という名目があろうと、そんな者は農民の手元に残る収穫物を盗みにきた強盗として国衙からの使者を逮捕する。使者がいかに公的な性格を帯びていたとしても地頭は武士として武装を固めており、殴り合いになったらどちらが勝つかは一目瞭然だ。その後に間違いであったと気づいたとしても、あるいは、最初からわざと間違っていたのだとしても、地頭は地頭としての職務を愚直に遂行したに過ぎず文句の言われる筋合いなどない。いつもならば目障りに感じるところのある地頭がこのときばかりは農民を守る存在になったのだ。
さらに、抵抗勢力として寺社が登場した。こちらも構図としては地頭と同じであるが、地頭の場合は鎌倉幕府に責任を問うことができるのに対し、寺社の場合は責任云々を問い合わせた瞬間に僧兵が群れをなして平安京に押し寄せることとなる。しかも、今回は鎌倉幕府の武力を頼れない。なぜなら徴税に対する抵抗という点で鎌倉幕府は寺社勢力と協調姿勢を見せたからで、京都守護の指揮下にある鎌倉幕府の御家人は無論、西面武士でもある鎌倉幕府の武士達も僧兵と向かい合うときの武力として計算できないのである。ここで無理して徴税するくらいなら色々と理由をつけて徴税を諦める方がまだマシである。
一箇所でも例外を認めるということは他にも例外を認めることにもつながるため、後鳥羽上皇は何とかして徴税を求めたものの、現場の担当者は後鳥羽上皇の命令に従うことができないという板挟み状態に陥ったのである。
記録によると、承久二(一二二〇)年三月二二日に大内裏造営のスタートである木作始(こづくりはじめ)を迎えたものの、全国各地から抵抗の嵐が吹き荒れて予定していた徴税ができずにいたことがわかる。
それでも後鳥羽上皇は無理に集めた税を用いた大内裏再建に固執し、百錬抄の承久二(一二二〇)年一〇月一八日の記録に、大内裏の殿舎、門、廊(くるわ)などの立柱上棟の儀式があり、上卿である権大納言源通具、行事参議である参議藤原公頼、行事右中弁の藤原頼資、行事右少弁の藤原光俊らが造内裏行事所に集ったことが記されている。およそ七ヶ月で大内裏再建はそれなりに形になってきたのであるが、手放しで喜べるかと問われると、その問いには否と答えるしかない。たしかに一一月二〇日に九条道家に対して揮毫(きごう)を命じていること、また一二月八日に檜皮葺始を実施して殿舎に葺く檜皮の寸法を諮問したことなどからそれなりに形になってきていたのであろう。しかし、公卿補任の承久二(一二二〇)年の項を見ると、参議藤原公頼は一二月一八日に参議を辞めていることがわかる。公卿補任にその名が記載されるのは従三位以上の位階を得た、もしくは参議以上の役職を得た場合であるから、大内裏再建に携わった人物の足跡を公卿補任から追いかけるとすれば参議藤原公頼しかその名を追いかけることができない。そのため藤原公頼以外の人物については憶測となってしまうのであるが、大内裏再建は承久二(一二二〇)年一二月に完了したという扱いになり、大内裏再建のための造内裏行事所もその頃に役目を終えて解散となっていたと推測できるのである。実際、その後の大内裏再建に関する記録は見えなくなる。
それにしても、これまでの大内裏再建や内裏再建、また、閑院内裏の再建においてもそうであるが、再建に尽力した人達は時代の為政者に、位階や官職、あるいはモノでの報償が存在したのに、今回の大内裏再建は何の報償もない。記録に残っているのは、名目上は自主的な辞職であるにしても、再建担当の貴族がその任を解かれたこと、そこから推測されるのは大内裏再建と同時に再建に伴う組織体が解散されたことであって、尽力した人達に対する報償は何もなかったとするしかない。これはさすがに時代の為政者、承久二(一二二〇)年の場合は後鳥羽上皇の資質を疑いたくなる。
そこでもう少し大内裏再建に至るまでの経緯を見てみると、後鳥羽上皇一人の空回りが見て取れる。まず、陰陽寮による造営の吉凶の答申に一ヶ月近くかかかっている。おまけに、行事上卿である権大納言源通具が京都を離れて長期に亘って参詣に出かけ、行事右中弁の藤原頼資も一〇月二六日から一二月一三日まで熊野詣に出かけている。どう贔屓目に見ても大内裏再建に意欲的に取り組んでいるとは思えない。
こうした消極的な抵抗だけでなく、後鳥羽上皇の命令による納税に対する反発、そして納税拒否の動きは日本全国で展開され、それまであり得なかった寺社勢力と鎌倉幕府との連携すら誕生した。多くの貴族にとっては憎しみの対象にすらなっていた荘園監督の地頭がこのときばかりは納税への抵抗勢力として頼れる存在となり、庶民もまた、納税に抵抗する存在である地頭への協力を申し入れた。
後鳥羽上皇は大内裏の再建をなんとしても成し遂げようとしていたが、ここまで反発が強くなるとさすがに自らの意思を押し通すことは不可能になると考え、一二月八日の檜皮葺始を契機として大内裏再建工事をいったん中断した。
後鳥羽上皇の執念は実を結ばなかったのだ。
参考となるであろうか、この頃の後鳥羽上皇の苛立ちを示すエピソードがいくつか存在する。
まず、承久二(一二二〇)年の春に藤原定家に対して歌会出仕の禁止を通告している。もっともこれは、和歌を利用して後鳥羽上皇を批判した藤原定家のほうにも問題があったと言えるし、また、藤原定家の人となりがあまり褒められたものではないことも手伝ったと言えるが、それでも後鳥羽上皇が和歌の世界においても自らの苛立ちを隠すこともできなくなり、和歌の世界における最高の協力者の一人であった藤原定家を自らの周囲から突き放したのであるから、後鳥羽上皇の苛立ちは相当なものがあったのだろう。
さらに後鳥羽上皇の怒りは自分の息子で現役の天皇でもある順徳天皇に向けられることもあった。天皇臨席のもとで開催される弓道の儀式である賭弓習礼(のりゆみのしゅらい)で、順徳天皇は儀式における擬主上(ぎしゅじょう)、すなわち、天皇臨席の儀式においてどうしても天皇が中座しなければならないときに天皇の代役に殿上人である藤原重長を任命したことに対して激怒し、順徳天皇の軽はずみな行動を止めなかったとして、後鳥羽上皇は左大臣九条家道をかなり強い口調で怒鳴りつけている。
なお、後鳥羽上皇の順徳天皇に対する怒りの中には、順徳天皇が後鳥羽上皇の意に沿わぬようになってきたことも考える必要がある。順徳天皇は第三皇子として生まれ、異母兄の土御門天皇から譲位されたときは一四歳であった。院政開始以後の新天皇の年齢としては高い方である。一四歳という年齢からもわかる通り既に元服済であったために、順徳天皇に摂政はおらず、治政開始の時点で関白が政務を支えるという構図であったのだが、実際には関白である近衛家実ではなく、父である後鳥羽上皇の強い影響下にあり続けていた。院政に対して源頼朝が建久元(一一九〇)年に語った「天皇は東宮の如し」は後鳥羽院政でも健在であったのだ。皮肉にも、源頼朝が「東宮の如し」と語った天皇こそ幼い頃の後鳥羽天皇であるのだが、今やその後鳥羽天皇が退位して後鳥羽上皇となり、その後鳥羽上皇が順徳天皇を「東宮の如し」とさせていた。
ところが、徐々にではあるが順徳天皇は後鳥羽上皇の影響から脱却し始めるのである。先に記した賭弓習礼(のりゆみのしゅらい)での擬主上(ぎしゅじょう)の件における順徳天皇の判断について、順徳天皇の軽はずみな行動と言ってしまえばそれまでだが、それよりも大きな問題として、後鳥羽上皇と順徳天皇との間で天皇権力に対する認識相違があったのではないか、しかも、年齢を重ねたことで順徳天皇は後鳥羽上皇を必要としなくなってきているのではないかという問題がある。これは後鳥羽上皇にとって苛立ちを隠せぬ話であったろう。
ただ、藤原定家よりも、また、実の息子である順徳天皇よりも、後鳥羽上皇の苛立ちが激しく向かっていたのは鎌倉幕府、特に北条義時であった。
大内裏再建に執念を燃やしながら思うような徴税ができなかったこと、そして、その主軸を担ったのは鎌倉幕府が全国各地に派遣していた地頭達であったことを後鳥羽上皇は知っていた。そうした鎌倉幕府の地頭達を統率する存在として北条義時の存在がにわかにクローズアップされることとなったのである。
源実朝の死に際する弔意を伝える使節である藤原忠綱は、我が子を亡くした、それも孫の手によって殺害されたことに悲しみの日々を過ごしている北条政子に弔意を伝えた後、北条義時に面会して摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。このことについて、承久記では卿二位こと後鳥羽院乳母の女性の言葉として、「去バ、木フ切ニハ本フ断ヌレバ、末ノ栄ル事ナシ。義時フ打レテ、日本国ヲ思食儘二行ハセ玉へ」という言葉が残っている。木の幹を切り倒すとその木は枯れるが、枝を切ってもその木は倒れない。邪魔な枝を切り落とせということだ。そして、ここでいう邪魔な枝というのが北条義時であった。
ここで注意すべきなのは、後鳥羽上皇の苛立ちの対象が鎌倉幕府に向いてはいても、鎌倉幕府を取りつぶすべしという感情には至っていなかったことである。鎌倉幕府の持つ財力と軍事力は魅力的であり、源実朝が生きていたらまだ鎌倉幕府の財力と軍事力を後鳥羽院でも利用できたのに今は利用できなくなってしまった上に、鎌倉幕府内部のゴタゴタの影響で大内裏が焼失し、鎌倉幕府のせいで再建せざるを得なくなった大内裏の再建工事なのに、かつての閑院内裏のように鎌倉幕府が資金援助をするどころか、むしろ逆に資金調達の邪魔をしている。後鳥羽上皇としては鎌倉幕府の何かが変わってしまったという思いであったし、変わってしまったことの元凶をこの時点の鎌倉幕府の最高実力者である北条義時に見いだしたと言える。
ただ、これは北条義時にしてみればとばっちりもいいところだ。たしかに政所別当と侍所別当を兼任している。後世の我々も北条義時を鎌倉幕府二代目執権と考えることが多く、歴史の教科書でも鎌倉幕府歴代執権の二番目に北条義時の名が存在する。しかし、この時点ではまだ鎌倉幕府執権という役職が明瞭化されておらず、後世から眺めるほどに北条義時にそこまでの権力集中が起こっているわけではない。
源実朝暗殺事件を起こしてしまったのはたしかに鎌倉幕府の失態であるが、その後の大内裏の焼失は後鳥羽上皇の命令で出動した西面武士にも責任がある。西面武士の出動理由こそ源頼茂が後鳥羽上皇の召喚に応じなかったことであるものの、そもそも西面武士を出動させたのは後鳥羽上皇なのだ。たしかに源頼茂は後鳥羽上皇の召還に応じず大内裏に籠もったものの、西面武士に大内裏を攻撃させたために大内裏は焼失してしまったのである。これで大内裏焼失の責任を北条義時に押しつけられても、北条義時に何ができるというのか。
京都で後鳥羽上皇が大内裏再建工事に躍起になっていた承久二(一二二〇)年七月二九日から三〇日にかけて、鎌倉で大規模な災害が発生した。台風上陸である。雨量は三〇日の早朝にピークを迎え、鎌倉市中の至る所で民家の損壊が発生した。ある民家では風に倒され、ある民家は洪水に襲われ、川沿いに住む人の多くが命を落とした。
台風の次は火災である。九月二五日は風が強く吹いている日であった。その日の夕刻、西から東へと激しく吹く風に乗って炎が巻き起こり、大野右近入道や工藤八郎左衛門尉などの家が火災被害に遭った。なお、吾妻鏡はわざわざ北条義時の家が火災に遭わなかったことを記している。
火災は一〇月一一日の夜にも発生し、北条時村や大内惟信の家を含む多くの家が火災被害に遭った。
先にも記したが、承久元(一二一九)年の終わりから承久二(一二二〇)年の吾妻鏡の記載はことごとく、鎌倉をはじめとする日本各地で発生した自然災害についての記載に終始しており、京都と鎌倉とのやりとりは途中まで記されていない。おそらくであるが、この時点の北条義時はまさか自分が後鳥羽上皇の恨みを買っているなど全く考えていなかったであろう。鎌倉幕府のトップは幼い三寅であり、鎌倉幕府のトップに貴族であることが求められる局面が出てきたときは姉の北条政子が受け持っている。北条義時も貴族のうちの一人ではあるのだが、御世辞にも高い位階を持っているとは言えず、朝廷の中枢の一員としてカウントされるほどの官職にも就いていない。鎌倉では特別な存在と見做されても、日本全国レベルで見ると北条義時は特筆すべき人物ではない、ということになっている。
もっとも、京都と鎌倉との連絡が完全に途絶えていたわけではない。源頼朝が作り上げた情報網は源頼朝死後二〇年を経ても健在であり、現在の感覚ではタイムラグがあるものの、この時代の感覚では片道七日往復半月という異例の早さで情報のやりとりができるだけでなく、京都には鎌倉幕府の出先機関である京都守護が常駐し、鎌倉には京都から貴族が頻繁に足を運んできている。さらに重要なこととして、将軍たるべく鎌倉にやってきた三寅の実父は左大臣九条道家だ。遠く離れたところで生活しているとはいえ、我が子を見捨てるようでは父親失格である。
承久二(一二二〇)年一一月二三日、九条道家から我が子、すなわち三寅の着袴の儀に用いる道具一式や、儀式開催の吉日をまとめた日時勘文が鎌倉に届いた。鎌倉に住む人達はこれまで源実朝が左近衛大将になり右大臣になったときに京都の貴族の豪華さを垣間見ることがあったが、三寅のために九条道家が送ってきた道具一式はこれまでのどの調度品よりも素晴らしく目を見張るものがあり、鎌倉に住む人達は三寅の背後にある藤原摂関家の歴史と伝統を思い知ることとなった。
承久二(一二二〇)年一二月一日、三寅の着袴の儀が執り行われた。
着袴の儀とは現在でいう七五三に相当する儀式である。だいたい五歳前後に生まれてはじめて袴を着ることから、幼児の成長を祈願する儀式へと発展し、この時代の貴族や武士にとっては人生初の儀式と見做されるようになっていた。もっとも、儀式のメインではあっても幼児自身が儀式を準備、運営、開催するわけではなく、その幼児のバックボーンがいかに強固なものであるかを周囲に見せつけることが儀式のメインであった。
三寅は鎌倉幕府全体がバックボーンであるだけでなく、儀式に参加はできないものの左大臣九条道家が実父であり、このときの着袴の儀も、源頼家や源実朝のときより壮大な規模の着袴の儀になっていた。
そもそも何月何日に着袴の儀を開催するかを決めるところから違う。陰陽師に吉日を占わせるところから着袴の儀は始まるのだが、この日付については実父の九条道家が京都で陰陽師に占わせ日付を書き記した書状を鎌倉に送り届けていた。実父にして左大臣の送ってきた書状だ。天皇や上皇が別の日付を送ってこない限り、九条道家からの書状に書き記されている日付が覆されることはない。
儀式の開催場所は寝殿の南廂に設けた着袴所であり、さすがにこればかりは京都に住んでいる父が送り届けることはできないから鎌倉幕府が用意する。ただ、儀式に用いる用具一式は一族や親しい者の中の最上級者が揃えることになっており、既に述べたように九条道家が藤原摂関家として用意できる再要求の用具一式を送り届けてきたので、この時点の鎌倉で考えられる最上級の、さらには京都の貴族社会の中でも他に匹敵するものの少ない豪奢なものであった。
通例というべきか、吾妻鏡はこのような儀式において誰が参加したのかを細かく書き記している。
儀式はまず、北条泰時、足利義氏、三浦義村。小山朝政、千葉胤綱らが着袴所に鎮座し、一条実雅、北条時房がやや奥にいて、もっとも奥に三寅がおり、三寅の横に北条義時が侍っている。本来であれば幼児の側に侍るのは用具一式を用意した一族の最上級者、あるいは同性の親がその役割を務めるのであるが、実父である九条道家が鎌倉まで足を運ぶことが許されないだけでなく、鎌倉中を見渡しても三寅と強い血縁関係にある男性がいないため、ここでは北条義時が三寅の父の代役をつとめている。
緊張した空間ができあがったところで、彼らの前を後藤基綱が箱を捧げながら進んでいく。この箱の中に九条道家の用意した袴が入っており、箱を空けて袴を着させるのが、本来であれば同性の親の、このときの場合は北条義時の役目である。なお、このときに異性の親が手伝うこともあるのだが、その役割は北条義時の妻ではなく北条政子が務めている。
ここで着袴の儀の半分が終わる。残る半分は着袴の儀に関連する贈り物だ。
参加者が着袴の儀の主人公である幼児に対して様々な贈り物をするのである。
これが京都であったらごく普通の貴族の邸宅における着袴の儀の贈り物となったであろうが、ここは鎌倉だ。贈り物は武士の考える最上級品である。もっとも、武士でなければ喜べない贈り物というわけではなく、貴族社会にある人に贈ったとしても喜んで受け入れてもらえるであろう贈り物である。まず、北条泰時から太刀、足利義氏から弓矢、三浦義村から刀、小山朝政と長沼宗政から兜が贈られた。さらに、結城朝光と中条家長、三浦泰村と三浦光村、波多野経朝と波多野朝定の三組でそれぞれ一頭ずつ馬を引いてきて三寅に贈られた。
本来ならここで着袴の儀は終わるのだが、三寅の着袴の儀はもう少し続く。
というのも、誰かを京都に派遣して着袴の儀が無事に終わったことを三寅の実父の九条道家に報告しなければならないからで、このときの鎌倉幕府は一二月二日に小山朝政を京都に派遣している。
三寅の着袴の儀は都市鎌倉の誕生以降に開催された全ての着袴の儀の中で群を抜いた壮麗な着袴の儀あったが、承久二(一二二〇)年に開催された全ての着袴の儀の中で最上位の着袴の儀であったわけではない。
一一月五日に、順徳天皇第三皇子で皇太子である懐成親王の着袴の儀が執り行われたのだ。いかに三寅が藤原摂関家の一員であっても所詮は庶民、皇族相手にはどうあっても勝てない。まず、着袴の儀は本来であれば開催前に陰陽師によって開催日時が占われるが、このときの後鳥羽上皇は自分の孫の着袴の儀については宿曜師(しゅくようじ)に占わせている。陰陽道は古代中国にルーツを持つ伝統を伴った天文学に由来する学問であったが、宿曜道はそれより新しく、古代ギリシャやメソポタミア、インドの天文学も混交させたこの時代の日本でもっとも新しい天文学に由来する学問であり、多くの寺院では最新の学問として陰陽道ではなく宿曜道を学ぶこともあった。
いかに宿曜道が真新しくても、このような儀式では伝統として陰陽師に占わせるのが通例であった時代に、宿曜師に日付を占わせるというのは、それだけで斬新さを周囲に示す好例となった。
さらに後鳥羽上皇は異例な宣言をした。懐成親王の着袴の儀の三日後である一一月八日に後鳥羽上皇が太上天皇の尊号と、周囲のボディーガードを務める御随身の辞退を申し出たのである。これは保延元(一一三五)年一二月に鳥羽上皇が太上天皇の尊号と御随身の自体を申し入れた先例に則ったものであり、前例の無い話ではないものの誰もが想定していなかったところでいきなり沸き上がった話であった。なお、鳥羽上皇が太上天皇の尊号と御随身の辞退を申し出たのは翌年が重厄の年であると占われたことについての対処であり、このときの後鳥羽上皇もおよそ一世紀前の鳥羽上皇と同様に重厄の年と占われたことに対する対処である。
ちなみに、後鳥羽上皇が先例とした鳥羽上皇はその後も上皇であり続け、康治元(一一四二)年に出家して、保元元(一一五六)年まで院政を敷いている。そして、後鳥羽上皇も先例に倣ったのかこの後も上皇であり続ける生涯を選ぶこととなる。
とはいうものの、研究者の中にはこのときの皇太子懐成親王の着袴の儀を契機として、順徳天皇から懐成親王への譲位を考えるようになったと考え、年明けの後鳥羽上皇の行動の先駆けであるという説を唱えている人がいる。翌年が重厄の年という占いで出た「重厄」とは北条義時のことであったと考えるようになったのだというのである。また、順徳天皇を退位させて順徳上皇とさせることで、院の勢力を強化することを考えるようになったという説を唱える研究者もいる。
三寅の着袴の儀を無事に終了したことを京都に報告するために鎌倉を発った小山朝政が鎌倉に戻ってきたのは承久二(一二二〇)年一二月二七日のこと。その七日前の一二月二〇日に京都から一つの連絡が届いた。大内惟信が送り出した使者が一二月八日に大内裏の建物が建ったことと、大内裏再建工事の担当者の名を伝えたのである。吾妻鏡はここで、前年七月に源頼茂を討伐したときに起きた火災の後の新築工事であることを明言している。ただ、これだけである。後鳥羽上皇の命令による徴税も、その徴税に鎌倉幕府が抵抗したことも触れられていない。
また、小山朝政が京都から戻ってきたことは記してはいるが、小山朝政が京都で見聞きしたこと、また、京都駐在の鎌倉幕府の御家人達や、九条道家をはじめとする貴族達と面会したことは確実であるのに、その面会の内容や成果についても記していない。
年が明けた承久三(一二二一)年は、鎌倉でも京都でも火災が相次いだ記録ではじまる。
一月二五日の深夜に大町大路で発生した火災の飛び火を受け三善康信の家が燃えてしまった。三善康信は源頼朝が流人時代に源頼朝とつながるスパイとして京都で活躍し、源頼朝の挙兵以後は鎌倉における文人官僚として特に司法においてその才能を発揮してきた。鎌倉幕府における司法を司る問注所は三善康信の個人的資質によることが多いことが問題を悪化させた。これまで鎌倉幕府の発給してきた重要書類、特に裁判記録が燃えてしまったのである。
その二日後の一月二七日、亡き源実朝の三回忌法要が開催された。多くの人は源実朝さえ生きていればこんなゴタゴタは起こらず、そして、こんな自然災害も起こらなかったとさえ考えた。
これはこの時代の概念であるが、凶事があったときに恩赦をし、さらに喜捨をすれば天が問題を解決してくれるというものがある。これは鎌倉幕府も例外ではなく、鎌倉幕府はこのとき、およそ一〇〇〇名のホームレスにこの時代は貨幣としても通用していた反物を配り、また、三〇名ほどの軽犯罪者を釈放した。このやりとりは安達景盛と二階堂行村が担当した。政治家としての源実朝を思い浮かべるとき、鎌倉幕府内の権勢では北条家の面々が有力者として君臨し、三浦一族も無視できぬ存在感を発揮しているが、政務の実務となると文人官僚の登場ということになる。
こうした鎌倉幕府の文人官僚達の行動は素早いものがあった。また、適切な行動でもあった。政治家としての能力は高いものがあった源実朝はもういない。源実朝と対立することもあった大江広元も政治能力は高いものがあり一応は現役でもあったが死を覚悟する大病を患って出家をした身であり、命は取り留めたものの年齢の問題は無視できるものではなかった。つまり、政治勢力としての鎌倉幕府の今後にも不安を感じる人は多かったのであるが、ここでさらに問題が加わったのが三善康信の邸宅の火災である。政治勢力としての鎌倉幕府の資質に不安を感じるだけでなく、これまでの記録も焼けてしまったとあっては、まだ御成敗式目も存在せず何かと前例踏襲が問われていたこの時代、鎌倉幕府に対する感情は期待ではなく不安のほうが強い。このときの三回忌法要はそうした不安を和らげる効果があった。
政治勢力に対する期待と不安は相対的なものである。与党が頼りないからといって野党に期待を寄せるとは限らないのは、野党のほうが与党より期待できないという相対的評価が下っているからである。
時代を承久三(一二二一)年一月初頭に戻すと、源実朝の死後、相次ぐ自然災害もあって時代に対する不安が民心を包み込み、未来に対する不安がそのまま鎌倉幕府に対する不安につながっていた。
その状態で始まった承久三(一二二一)年であるが、月が変わって二月になると鎌倉幕府に対する不安感が減ってきて期待感が増えてくる。この時点でもまだ期待より不安のほうが強いが、鎌倉幕府がどうにかしようともがき苦しんでいる姿は誰の目にも明かであり、不安解消とまではいかなくとも、不安解消への筋道が立っていることは理解されるようになっていた。
相手が自然災害であるから、統治者が何かしたところで満足いく結果とはならない。それでも、自然災害に遭って苦しんでいる人の立場に立つことはできる。
源実朝の死後に鎌倉幕府の実質的な最高権力者となった北条義時は、以前から政治家としての資質に不安を持たれていた。また、実際に政治家としての能力を考えても、御世辞にも高いものがあるとは言えなかった。ただ、この人は独裁者ではなく、行動については合意形成を図り、自らが出しゃばる場面ではないと把握したら一歩引いて有能な者に出番を譲り、自分は後方に下がって責任を取ることに終始する姿勢ならば持ち合わせていた。それは承久三(一二二一)年一月から二月にかけての鎌倉幕府の行動についても例外ではなかった。
たとえば、二月一〇日には京都で七条院藤原殖子、すなわち、後鳥羽上皇の母である女性の住まいである三条御所が放火に遭い、放火犯を見つけ出すよう京都守護の大江親広と伊賀光季の両名に朝廷から緊急要請が飛んだときのことは、鎌倉幕府の行動指針を指し示す好例である。京都守護からの知らせを受けた鎌倉幕府は二月二六日に町野民部大夫大江康俊を京都に派遣することが決まった。時間は要したものの、緊急事態に対する即時の行動であったと言える。それに、京都で発生した出来事に対して鎌倉から指示を出すのである。季節が冬であり移動に時間が掛かる季節であることを踏まえても、これぐらい時間を要することは当然と言える。この流れにおいて北条義時の果たした役割は無視できないものがあったと言えよう。
一方、先に述べた政治勢力に対する期待と不安という意味で失態を演じたのが後鳥羽院であった。後鳥羽上皇としてはただちに西面武士を派遣するなどして事態の沈静化にあたるべきであったのに、何もせずに放置し、鎌倉幕府の介入を招いたのである。これは行動実績もさることながら、政治勢力に対する相対的評価に関連する話である。何もせずに放置しているのと、少なくとも何かをしようとしているのとでは、何かをしている方が高い評価を得る。もっとも、明らかにアピールとなることだけをして何もしない、あるいは邪魔になることをして評価を得られるほど世の中甘くは無いし、何もしていないように見えて実は対応をしているというのを見過ごすほど世の中の目は節穴ではない。
鎌倉幕府と後鳥羽院に対する庶民からの視線は節穴ではなかった。
鎌倉幕府は少なくともプラスになるべく行動したのに対し、後鳥羽院は何もしなかった。何かをしたのに記録に残らなかったというわけではない。何もしないまま放置しただけでなく、後鳥羽上皇と連絡が付かなくなっていたのだ。
後鳥羽上皇は二月四日に生涯で二九回目の熊野詣に出たのであるが、通常であれば緊急事態の知らせを受けたならただちに熊野詣を取りやめるところなのに、後鳥羽上皇はそのまま熊野詣を続けたのだ。後鳥羽上皇にしてみれば、このときの熊野詣は張り詰めた緊張の日々の中で迎えた休息の時間であり、また、この後の後鳥羽上皇の野望のための準備期間でもある。放火事件は大事件ではあるものの、大事の前の些事とでも考えて、特に神経を張り巡らせはしなかったのであろう。
しかし、これは後鳥羽上皇にとって人生最後の熊野詣になってしまうのである。
熊野詣から戻ってきた後鳥羽上皇は、承久三(一二二一)年四月二日、伊勢神宮、石清水八幡宮、そして賀茂三社に奉幣して、これからの行動に対する準備を始めた。この時点ではまだ後鳥羽上皇の目論見が露見してはいない。
目論見が垣間見得たのは四月二〇日のことである。この日、順徳天皇から懐成親王への譲位が行われたのである。なお、現在に生きる我々は承久三(一二二一)年四月二〇日に即位した天皇を仲恭天皇と呼んでいるが、仲恭天皇への諡号は明治三(一八七〇)年の太政官布告まで待たねばならず、当然ながら明治維新より前の史料に仲恭天皇という名は登場しない。ただ、本作では明治維新以後の歴史学の慣例に基づいて仲恭天皇と記していく。
仲恭天皇は四歳での即位である。当然ながら天皇親政などありえず、順徳天皇の関白であった近衛家実が順徳天皇の退位とともに関白を辞職し、新たに左大臣九条道家が仲恭天皇の摂政に就任した。
四月二三日、三日前に退位した順徳前天皇に正式に太上天皇の尊号が奉られ、ここに上皇三人体制が確立する。過去三例の院政と同様に治天の君である後鳥羽上皇が頂点に君臨し、土御門上皇と順徳上皇が後鳥羽上皇の下に就くという構図であるが、厳密にいうと土御門上皇は表舞台から一歩身を引き後鳥羽上皇との関係もあまり良好なものとは言えなかったのに対し、順徳上皇は後鳥羽上皇の後継者であるかのように振る舞うこととなる。上皇の尊号が奉られてから三日後の四月二六日には順徳上皇が後鳥羽上皇の院御所である高陽院殿へと御幸している。
後鳥羽上皇にしてみればこれから自分が始めようとしていることへの協力者を一人でも増やしたいところであったので、自分の次に院政を始めることになるであろう順徳上皇を取り込めたのは成功であったといえよう。
ただし、ここで注意すべきところがある。
順徳上皇は天皇を退位したためにこれから新しく院を作っていかなければならない。退位した天皇が新たに院を作る時に必要な初期費用は朝廷が出すことになっているからスタートアップ予算については特に問題はない。しかし、維持費用となると話は別である。上皇としての生活に支障が出ない程度の予算は朝廷が出してくれるが、過去三例の院政、いや、後鳥羽院を入れれば過去四例の院政のような莫大な資産や権力を用意できる時代はもう終わってしまった。三〇年前は平家政権が、今となっては鎌倉幕府があまりにも強大な存在としてこの国に君臨し、新たな院の草創が簡単に用意できなくなってしまったのである。
しかし、ゼロから作り出すのではなく、親が子の資産を相続するという前提に立てば、後鳥羽院の資産を順徳院が継承するという構図を作り出せる。こうなれば後鳥羽上皇が手にしていた資産や権力を順徳上皇も手に入れられる。そのためには後鳥羽上皇の崩御を待たねばならないが、後鳥羽上皇との関係を良好なものとしたまま維持できれば、未来の話になるが順徳上皇にとっては申し分ない成果を手にできることとなる。
これから後鳥羽上皇が何をしようとしているか、高い可能性で順徳天皇は知っていた。知っていたからこそ順徳天皇は退位に同意し、上皇となることでマイナスの影響を最小限にしつつ、最大限のメリットを得ることを考えたのだ。
後鳥羽上皇の計画、それは、鎌倉幕府の吸収である。
歴史の教科書でも「承久の乱」と呼ばれることの多い後鳥羽上皇の企みは、一般に鎌倉幕府討伐の動きとされ、明治維新前の倒幕運動と重ねられたイメージとともに、朝廷による鎌倉幕府への反抗と見做されることが多い。
しかし、この後の後鳥羽上皇の動きを追いかける限り、また、後鳥羽上皇と同調した人たちの動きを見る限り、鎌倉幕府を滅ぼそうと考えた人はマジョリティではないと言える。後鳥羽上皇本人やその周囲の人達が鎌倉幕府に対して求めているのは、鎌倉幕府の持つ武力と権利と財力をそのまま後鳥羽院の配下に組み込むこと、現在でいうところの企業の吸収合併や子会社化である。
鎌倉幕府の吸収合併は後鳥羽院の視点から見れば最高の結果だ。今や無視できぬ勢力となった鎌倉幕府の持つ資産、武力、そして全国各地に派遣している守護と地頭の権利を含めた全ての権利を後鳥羽院の元に寄せることで後鳥羽院は過去三例の院政を越える存在へと昇華するのだ。
しかし、鎌倉幕府の御家人達にとっては何らメリットがない。
ここで鎌倉幕府が後鳥羽院の元に組み込まれようものなら、源平合戦で戦い抜いて勝ち上がってようやく手にした権利と権勢、そして資産を全部奪われる上に、自分達は権力組織の構成員ではなく既存権力配下の武人と扱われることとなる。鎌倉幕府の御家人達とて、自分たちが貴族より下の存在であることはさすがに認識している。清和天皇の子孫である清和源氏、桓武天皇の子孫である桓武平氏、あるいは藤原を姓とする血筋であることを声高に主張している者は多いものの、本質的には貴族より格下の存在であると自己認識をしている。一部の者は位階を手にして貴族の一員としてカウントとされる立場になっているものの、それとて鎌倉幕府としてこれまでやってきたことの積み重ねの結果である。苦労に苦労を重ねてようやくここまで来たというのに、鎌倉幕府が後鳥羽院のもとに吸収されてしまったら全て元に戻ってしまうことは、鎌倉幕府の誰もが理解するところであった。
これを誰が黙って受け入れることができようか。
無論、後鳥羽上皇とてこれぐらいは理解している。
後鳥羽院が考えたのは鎌倉幕府が一枚岩ではないという点だ。鎌倉幕府の中から後鳥羽院に対して反抗的な姿勢を見せる者を排除すると同時に、排除に協力した者を既存の朝廷権力の構図の中で評価し、位階や官職を与えることで吸収合併した後の鎌倉幕府の領導者とさせ、また、後鳥羽院に逆らう者は国家反逆者と扱うことで排除するならば、鎌倉幕府全体にとってはダメージでも、鎌倉幕府の御家人個人にとってはメリットのある話になる。
その第一弾として後鳥羽上皇が目をつけたのは、三浦一族の三浦胤義であった。この三浦胤義は三浦義村の弟である。
三浦胤義は後鳥羽上皇のこれからの計画を考えたとき、四つの理由から最も効果を発揮する人物であった。
まず、京都駐在のため後鳥羽上皇からの要望を届けるのが容易である。
次に、鎌倉幕府の中で圧倒的権勢を構築しつつある北条家に対抗する勢力として三浦一族を抜擢することで、鎌倉幕府内部で北条家と三浦一族との対立を生み出し、鎌倉幕府の上層部を弱体化できる。
三番目に、三浦胤義は三浦一族のトップではなくむしろ冷遇されてきた側であるため、三浦一族が鎌倉幕府の実権を握った後、後鳥羽院の傀儡として鎌倉幕府の中枢に送り込むことができる。何しろ、三浦胤義は在京であることも手伝って、鎌倉幕府公認のもと、三浦義村よりも上の官職を手にしていたのである。三浦一族のトップであり、また、兄でもある三浦義村よりも上の官職というのは本来ならば許されることではないのだが、三浦義村も、そして鎌倉幕府も、特殊事情ということで容認している。
最後に、三浦胤義は前年に一人の地頭として後鳥羽上皇の命じた徴税に抵抗した過去が存在する。ここで後鳥羽上皇が三浦胤義の叛逆を赦して自らのもとに引き込むことができれば、後鳥羽上皇の慈悲の姿勢として広くアピールすることができる。
承久記によると、後鳥羽上皇の命を受けた能登守藤原秀康が三浦胤義を自邸に招いて後鳥羽上皇の元に来るように勧めたところ、三浦胤義が鎌倉で受けた境遇について涙ながらに語って後鳥羽上皇のもとに仕えるようになったという。三浦胤義の妻は初婚ではなく、かつては源頼家の側室であり、彼女は源頼家との間に、のちに禅暁と呼ばれることとなる男児をもうけていたという。ところが、北条義時の命令によって源頼家が殺されただけでなく、このときからおよそ一年前の承久二(一二二〇)年四月には、源頼家の子であるという理由だけで禅暁が殺害されてしまった。夫を殺され、息子とは離れ離れになる暮らしを余儀なくされ、再婚してどうにか人生を建て直しつつあったところで息子が殺されてしまったことで塞ぎ込んでしまったという女性が自分の妻である。妻を思う気持ちから三浦胤義は鎌倉を離れて京都に赴き、チャンスを伺って鎌倉に対して、特に北条義時に対して、妻に代わって復讐してやりたいと考えていた。そんなタイミングで後鳥羽上皇から誘いを受けたことから、後鳥羽上皇の側に立つことを決めたというのである。
これが事実なら、三浦胤義の行動に同意できるところもあるであろう。
だが、実はこの承久記の記載、情緒に訴えることはできても、真実ではない。そもそも三浦胤義は建保六(一二一八)年には既に京都に駐在し、そのまま京都に滞在し続けている。三浦胤義が上総国の荘園の地頭であったこと、そして、地頭として上総国に課された臨時課税を拒否したことの記録も並行して存在していることから、京都駐在のまま代理の者を上総国に派遣して地頭業務をさせていたと推測される。
源頼家の子である禅暁が殺害されたことが三浦胤義の心情に何かしらの影響を与えたことは否定できないが、鎌倉を離れたタイミングを考えると辻褄が合わない。
研究者の野口実氏は、三浦胤義が鎌倉を見限って後鳥羽上皇の側を選んだ理由として、まずは一族内の対立があり、その対立を後鳥羽上皇が利用した結果だとしている。
こうした一族内の対立は三浦一族に限ったことではなく、それこそ北条家においても発生している。たとえば、北条政子や北条時房は鎌倉と京都を往復した過去があり、特に北条時房は京都の公家社会の文化の中で生きていけるほどの素養を身につけ、他ならぬ後鳥羽上皇から称賛を受けたほどである。北条時房も状況次第では後鳥羽上皇からのスカウトを受け、三浦胤義と同様に鎌倉幕府から袂を分かち後鳥羽院のもとに身を寄せたとしてもおかしくはなかった。また、これは吾妻鏡の記載によるが、建保二(一二一四)年に「武州時房」が三位の位階を求めたという記録がある。この時点で兄の北条義時の位階がどうであったかを考えると、「武州時房」が北条時房のことであるならば、北条家内部の対立の芽が存在していたこととなる。
以上を踏まえて注目したいのは、前年一月に北条時房の息子のうち二人が出家していたことである。吾妻鏡は北条時房の息子のうちの二人が出家したことを軽く書き記しているのみであるが、兄弟のうち兄の北条時村はその名に三浦義村の一字である「村」が入っていることから、三浦義村を烏帽子親(えぼしおや)として元服していたこと考えられている。その北条時村のもとに、あるいは、烏帽子親である三浦義村のもとに前もって何かしらの接触があった、誰からの接触かは明言できないが、少なくとも後鳥羽院につながる人物からの接触が早い段階から存在し、その接触が意味するところを悟って、本人だけでなく弟も連れて出家したのではないか、出家せざるを得ないほどに追い込まれたのではないかと考えられるのである。もっとも、そうだとすると後鳥羽院の計略は想定しているより一年近く前から練られていたこととなるので、タイミングとしては微妙なところではあるが。
さすがに北条家の分裂を生み出して鎌倉幕府の勢力を弱めると同時に後鳥羽院の勢力を強めることは困難であったと考えられるが、後鳥羽上皇とて三浦一族と北条家だけに注力していたのではない。それは承久三(一二二一)年四月二八日に明らかとなった。
この日の参集名目は記録によって異なっており、流鏑馬(やぶさめ)という名目で各地の貴族や武士を集めたとする記録と、城南寺の仏事を名目に各地の貴族や僧侶、そして武士達を集めたとする記録がある。ただし、名目は違えど、後鳥羽上皇の行動はどちらの記録も同じである。
一千余騎もの軍勢を集めたのだ。
承久記によると、後鳥羽上皇の招集した貴族としては、坊門忠信、藤原光親、源有雅、中御門宗行、一条信能、高倉範茂らが、僧侶としては、刑部僧正長厳や二位法印尊長らが、そして、武士としては藤原秀康と、藤原秀康の弟である藤原秀澄、そして、藤原秀澄の息子である藤原能茂のほか、鎌倉幕府の御家人でもある武士として、先に記した三浦胤義の他に、大内惟信、佐々木広綱、佐々木高重、後藤基清、八田知尚、大江能範、河野通信といった者の名が記されている。
並行して後鳥羽院は、丹波、丹後、但馬、播磨、美濃、尾張、三河、摂津、紀伊、大和、伊勢、伊予、近江といった国々の武士に召集をかけ、多くの武士が後鳥羽院の招集に応じた。
そしてもう一つ、ここに注目すべきところがある。
後鳥羽上皇だけでなく、土御門上皇、順徳上皇の両上皇に加え、六条官雅成親王、冷泉宮頼仁親王も集結したのである。そもそも上皇が三名いる時代であるというだけでも異例中の異例なのに、その三名の上皇が揃って行動を共にしているのだ。おまけに次期帝位に就く資格を有する二名の親王も集っている。わずか四歳の仲恭天皇を除く皇族の主たる面々も集まったことは、後鳥羽院に対抗する傀儡政権の樹立を封じる効果を持っていた。
これから後鳥羽院が始めようとしているのは鎌倉幕府の吸収である。当然ながらそれは鎌倉幕府の反発を招くこととなるし、鎌倉幕府が後鳥羽院に対抗するために平家政権の行動を繰り返すことも考えられる。すなわち、かつて平家政権が安徳天皇を奉じ、また、高倉上皇を利用した高倉院政を画策したように、鎌倉幕府の意に沿う皇族の誰かを奉じて傀儡政権を打ち立てるかもしれないのである。
そのことを踏まえると、後鳥羽上皇に加え、院政を敷く資格を持つ土御門上皇と順徳上皇も後鳥羽院のもと留めるのは有効な施策となる。平家政権が高倉上皇を利用して高倉院政を画策した前例に倣って新たな院政を樹立させようとしても、四歳の仲恭天皇を退位させて上皇とさせて院政を敷かせるなど無謀な話であり、その無謀な話を強行させようとしても新たな帝位に点ける皇族を容易に容易できなくなるのだ。
懸念点としては鎌倉幕府が藤原摂関家を通じて仲恭天皇の手による天皇親政を画策するかもしれないという点があるが、源実朝が存命中ならばともかく、源実朝亡き今、摂政九条道家と鎌倉幕府のつながりは薄くなっている。また、仮に源実朝が存命であったとしても、後鳥羽院と鎌倉幕府の対立がある状況下で、藤原摂関家に対して後鳥羽院と鎌倉幕府のどちらに味方するかを考えたら、迷うことなく藤原摂関家は後鳥羽院を選ぶ。いかに九条道家の息子である三寅が鎌倉幕府第四代将軍となるべく鎌倉に滞在していようと、鎌倉幕府と後鳥羽院との選択を迫られたならば藤原摂関家は、いや、藤原摂関家に限らず大多数の貴族にとって、その質問に対する返答は一つしかない。百歩譲って仲恭天皇の摂政が仮に九条道家ではなく、近衛家実をはじめとする近衛家の者が摂政であったならば九条道家とて逡巡するかもしれないが、今や摂政は九条家のものだ。近衛家と九条家の対立を利用して鎌倉幕府が藤原摂関家に食い込む可能性は否定できないが、藤原摂関家と鎌倉幕府との関係性を考えたとき、接点を持つのは九条家であって近衛家ではない。近衛家と鎌倉幕府との接点はゼロではないが九条家と鎌倉幕府とのパイプに比べれば細く、摂政の地位を失ったことの反動として近衛家が鎌倉幕府を利用しようとする可能性は低い。
こう考えると、後鳥羽院の戦略はなかなか強(したた)かなものが見える。
なお、承久記ではここで、この後の運命を指し示すような一つのエピソードを書き記している。七名の陰陽師にこれからのことを占わせたところ、直ちに開始するのではなく、改元した上で一〇月に開始するのが良いだろうと出たとある。しかし、後鳥羽上皇の乳母である卿二位藤原兼子が、このようなことは一人の耳に入っただけでも世間に広く伝わる代物であり、ましてや今回は一千余騎を招集している以上、鎌倉幕府の元に情報が伝わるのは時間の問題であり、こちらが動かないままで言うと鎌倉幕府が動くこととなると進言したのである。
これで後鳥羽上皇の腹は決まった。
後鳥羽上皇の計画が正式に公表されたのは承久三(一二二一)年五月一四日のことである。
摂政左大臣九条道家、前右大臣徳大寺公継、権大納言坊門忠信、前権中納言葉室光親、前権中納言源有雅、前権中納言葉室宗行、参議藤原範茂、参議一条信能といった貴族達に加え、僧侶の長厳と尊長も呼び寄せ、さらに一三年前に出家して政界から引退していた近衛基通まで呼び寄せた上で計画を公表したのである。
九条道家は鎌倉幕府第四代将軍になることが予定されている三寅の父である。
坊門忠信は亡き源実朝の妻の兄である。
一条信能の母は源頼朝ときょうだいである女性であるため、亡き源実朝とは従兄弟同士にあたり、また、実父の一条能保と鎌倉幕府とのつながりの深さは朝廷内に知らぬ者はいないほどである。
そして、僧侶の尊長は一条信能の実の弟であり、彼もまた、亡き源実朝と従兄弟同士のあたる人物である。
つまり、後鳥羽上皇は鎌倉幕府と縁の深い人物も招いた状況下で計画を公表したこととなる。
その計画とは、北条義時討伐。
鎌倉幕府を倒すのではなく、鎌倉幕府の最高実力者となった北条義時を討伐することを公表したのである。
これに真っ先に反対したのは鎌倉幕府と縁の深い人物ではなかった。
近衛基通と大炊御門頼実の二人が反対したのである。特に近衛基通は一三年前に政界を引退して出家した身となっており、このタイミングで政治介入するとは誰も想像していなかった。
そもそも近衛基通が呼び寄せられたのは、鎌倉幕府が近衛基通を利用して摂関政治の傀儡政権を打ち立てる懸念があったからである。ここに近衛基通を呼び寄せることは、鎌倉幕府と近衛基通の関係を断ち切ること、そして、近衛基通だけでなく近衛家全体の身の安全を図るという名目での監視の目的があるからであり、安全保障を感謝されこそすれ、何かしらの政治的見解の表明をするなど許されないと考えていたのだ。
さらに想定外であったのが大炊御門頼実である。大炊御門頼実の妻は後鳥羽上皇の乳母である卿二位藤原兼子であり、後鳥羽上皇にしてみれば育ての父といっても過言ではない人物である。その人物がまさか後鳥羽上皇の意見に異議を唱えるとは夢にも思っていなかった。
現存する記録の中に、この二人がどのような理由で反対したのかは残っていない。しかし、この二人が反対した理由は容易に想像はできる。
失敗に終わるのだ。
近衛基通も、大炊御門頼実も、後鳥羽上皇の立てた計画は失敗に終わると考えたのだ。
後鳥羽上皇にしてみれば、これから戦乱になる可能性があるが、勝者は自分達であると確信している。その上で、計画実施前に呼び寄せることで、当人の身の安全だけでなく家の今後についても後鳥羽院が保障するという意向が存在した。ゆえに、感謝されこそすれ、異議を唱えられる謂れはないというのが後鳥羽上皇の考えである。
だが、近衛基通も、大炊御門頼実も、そもそも前提が間違っていると考えた。
後鳥羽上皇はターゲットを北条義時に絞ることで、鎌倉幕府そのものを抹消するのではなく、鎌倉幕府の軍事力と財力を後鳥羽院のもとに吸収しようと試みたのであるが、北条義時が黙って後鳥羽院の命令を受け入れるだろうかという疑問がある。それに、後鳥羽院の命令を黙って受け入れたとしても、後鳥羽院の命令に反対して受け入れなかったとしても、後鳥羽上皇の求める結果にはならないことを見抜いていたのだ。
北条義時に対する悪評は多々あるが、独裁者という悪評だけは見当違いの悪評となる。北条義時という人は徹底して独裁と呼ばれるようなことを避けてきた人であるし、そもそも、これまでの鎌倉幕府は将軍以外の人物が独裁者として振る舞うことが許されない組織構造になっていたのだ。確かに多くの御家人が粛清されつつ、北条家の面々が鎌倉幕府で一大勢力を築いているのは認めなければならないし、鎌倉幕府における北条義時の存在の大きさもまた否定できるものではない。しかし、ここで北条義時を追討したとしても、鎌倉幕府としては有力御家人の一人がいなくなっただけという結果に終わり、鎌倉幕府という組織そのものが後鳥羽院のもとに組み込まれることは考えづらいのだ。北条義時がいなくなったとしても北条時房や北条泰時がいる。あるいは三浦一族もいるし、大江広元をはじめとする文人官僚もいる。そして何より北条政子がいる。鎌倉幕府の最重要キーパーソンが北条義時であることは否定できないが、北条義時がいなくなったところで北条義時の代わりを務める人物は多々いるし、北条義時がいなくなったところで鎌倉幕府は存続し続けるという組織構造になっているのだ。
それに、そもそも鎌倉幕府とは東国武士団の集合体であり、源平合戦期における鎌倉方を母体とした組織である。平家との戦いにおいて勢力を築き上げ権力と財力を手にした組織であり、彼らは血を流して現在の地位と財産を手にしたのだ。ここでどうして後鳥羽院のもとに全てを差し出さねばならないのか。北条義時討伐までは許容できたとしても、鎌倉幕府の持つ権威や権勢の放棄は断じて受け入れられないのである。
しかも、以上は全て北条義時討伐が成功した場合の話である。ここで北条義時討伐に失敗したならば、待っているのは後鳥羽院の破滅だ。平家政権による治承三年の政変は記憶に新しいところであり、北条義時討伐に失敗したときに待っている運命は、歴史を繰り返したものに、あるいは、前例にないものになる可能性もある。平家政権の悪夢を知る人には、あの頃の地獄が再現されるなど断じて許されない話になる。
軍事力を総動員して鎌倉幕府をこの世から消滅させれば平家政権の悪夢の再来とはならいと考えることもできるが、それこそ妄想の世界である。後鳥羽院の用意できる軍事力で鎌倉幕府の軍事力に太刀打ちするなど不可能である。鎌倉幕府の軍事力と正面衝突となったとき、後鳥羽院の武力は多少であれば抵抗できるかもしれないが、壊滅までにはそこまでの時間を有さない。全面対決となった場合、後鳥羽院の迎える運命は、多少の抵抗の後の無条件降伏しかない。先に後鳥羽上皇が一千余騎を集めたと記したが、この規模の軍勢は、京都ならば圧倒的な集団であっても、鎌倉幕府にとっては簡単に殲滅できる程度の軍勢なのである。
近衛基通も、大炊御門頼実も、平家政権の時代を知っているし、鎌倉幕府の軍事力も知っている。知っているからこそ、平家政権の時代を繰り返してはならないことを知っているし、鎌倉幕府の軍事力を侮ってはならないことを知っている。
だから反対したのだ。
鎌倉幕府につながりのある貴族の反対までは予期できても、そうではない貴族の反発は予期していなかった後鳥羽上皇であるが、それでも後鳥羽上皇は動き始めた。
まずは承久三(一二二一)年五月一四日のうちに西園寺公経が息子の西園寺実氏とともに弓場段に幽閉されたのである。西園寺公経が三寅の関東下向に尽力し、鎌倉幕府との関係が深いことも周知の事実であり、鎌倉幕府に内通していると見做されたためだ。なお、西園寺公経は緊急事態が発生したことを鎌倉に送り届けるよう家司である三善長衡に命令したことで、鎌倉へと向かう使者が京都を出発した。これが京都から鎌倉に向かった最初の使者となる。
翌五月一五日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発するだけでなく、仲恭天皇の名での官宣旨も発した。
この瞬間、承久の乱が始まった。
実は、仲恭天皇の名で発せられた官宣旨の原文は残っておらず、承久記にある文書は、内容に大きな違いが無いことまでは判明しているものの、抄略となっている。
承久記における、仲恭天皇の名で発せられた官宣旨を現代語訳すると以下の通りとなる。
無論、この時点で四歳の仲恭天皇が発したのではなく、蔵人の誰かが起草し、上卿内大臣源通光のチェックを経て右大弁藤原資頼が文章を書き記し、右大史三善信直が清書をしたのちに発給したことが確認できている。
一方、後鳥羽院の発した院宣も承久記に掲載されているが、こちらは原文の通りであるという。その原文と現代語訳を載せると以下の通りとなる。なお、院宣の起草は葉室光親であることが判明しており、後鳥羽上皇の裁可を経た文書ではあるものの、こちらもまた後鳥羽上皇の直筆の文章というわけではない。
北条義時追討の院宣に加え、仲恭天皇の官宣旨を所持した密使として、歴史資料では「押松」と名の記されている密使を鎌倉に向けて出発させると同時に、日本全国に向けても発令した。鎌倉への密使は早急な密使であり、その他の地域に向けての院宣公布は通常の指令である。つまり、時間差が生じることを前提とした情報発信である。現在のように電波やネットを利用して遠隔地に向けて同時に、一瞬にして情報が伝えられる時代ならばともかく、この時代のように情報のスピードを時計ではなくカレンダーで測らなければならない時代は、こうした時間差を用いた情報発信を駆使することがある。その点でも後鳥羽上皇の情報発信のタイミングは完璧であったといえよう。
ただし、鎌倉幕府という組織は公的な情報網を上回る情報路を有する組織であり、また、西園寺公経が前日の段階で既に使者を鎌倉に向けて出発させていることは忘れてはならない。いかに情報のやり取りに日数のかかる時代であろうと、一日のアドバンテージは大きなものがある。
このことを後鳥羽上皇が知っていたのかどうかの確証はないが、おそらくは知っていたであろう。ただし、逆転可能であるという条件付きで。
何しろ後鳥羽上皇は鎌倉幕府殲滅ではなく北条義時討伐を訴えているのである。ターゲットが鎌倉幕府ではなく北条義時一人であるという情報が伝わったならば、一日ないしは数日のタイムラグがあろうと、挽回できると考えたのであろう。
さらに後鳥羽上皇は院宣発給と同時に平安京内外の武士達を後鳥羽院に招聘した。この招聘の中心となったのが藤原秀康である。承久記にも後鳥羽院の側の軍事面でのリーダーと描かれ、また、当時の人達からも後鳥羽院の武門におけるトップと見なされていた藤原秀康は、これまで北面武士や西面武士として京都で活躍してきた武士であり、鎌倉幕府の御家人ではない武士の中ではかなり有力な武士として名を馳せていた。また、院に長く仕えてきたことも手伝って、下野守、河内守、備前守、能登守、上総介といった国司を歴任し、鎌倉幕府と一線を画しながら武士から貴族へとステップアップすると同時に、国司を歴任してきたことも手伝ってかなりの富裕層へと上り詰めていた。
ただし、この人物の素性は怪しいところがある。藤原秀郷の子孫を自称しているので藤原北家の一員でもある武士なはずなのだが、藤原秀康の父の存在は確認できても、祖父の存在は確認できない。祖父の名は残っているのだが、藤原氏の系図に該当する人物が存在しないのである。そのため尊卑分脈では、藤原氏ではない生まれの者が藤原氏の養子となって藤原姓を相続したとしている。
後鳥羽上皇が武士としての藤原秀康を頼りにしていたことは間違いなく、五月一五日に武士を招聘するよう藤原秀康に命じたのも、これから始めようとしていることのキーパーソンの一人として藤原秀康を認識していたからであると言える。
多くの武士は後鳥羽院から発せられた命令に従った。
その中には京都駐在である鎌倉幕府の御家人の姿もあった。
しかし、後鳥羽院の命令に従わなかった武士もいた。
その中の一人が伊賀光季である。伊賀光季は二年前から京都守護であった。
伊賀光季は、実の妹である伊賀方が北条義時の継室であるため、伊賀光季は北条義時と義兄弟ということになる。こうした個人的なつながりがあるために後鳥羽院に従わなかった可能性は否定できないが、伊賀光季のこの後の行動を考えた場合、彼もまた鎌倉武士の一人として後鳥羽院が何を求めているかを理解し、後鳥羽院の求めが成就した場合に何が起こるのかも理解し、そして、後鳥羽院の要求が鎌倉武士に何を求めているのかも理解した。ゆえに、後鳥羽院に逆らったと言えるのだ。
伊賀光季は当初、自分の任務は京都の護衛であり、天皇や後鳥羽院からの直接の命令があったならば出動も考えるが、藤原秀康からの命令に従って職務を放棄することはできないとして拒否の姿勢を見せた。ここまでは法的に問題ない行動である。
伊賀光季の出動拒否の連絡を受けた後鳥羽上皇は再び勅したものの、伊賀光季は二度目の指令についても拒否。この瞬間に伊賀光季は後鳥羽院の命令に背く国家反逆者となり、伊賀光季が住まいを構える京極高辻の宿所は襲撃を受けることとなった。それも、同じ鎌倉幕府の御家人である大内惟信や三浦胤義ら総勢八〇〇騎もの軍勢の襲撃を受けたのである。もともと伊賀光季のもとには京都守護としての武力が鎌倉幕府から与えられていたが、その軍勢は八五騎と、平時の治安維持であれば問題なくとも戦時の襲撃に耐えられる規模ではなかった。この段階でも絶望的な兵力差があるが、さらに問題であったのが、その八五騎の武士達の多くが後鳥羽上皇の命令に従うとして伊賀光季のもとを離れ、襲撃時はわずか三一騎しか残っていなかったことである。しかも三一騎という数字には、伊賀光季自身と、息子の伊賀光綱が含まれていた。伊賀光綱はこのとき数えで一四歳、満年齢で一三歳。現在の感覚でいくと先月中学に入学したばかりの中学一年生である。
伊賀光季らは奮戦し、八〇〇騎もの京都方の軍勢のうち三五騎を倒したものの、それでも多勢に無勢の状況を覆すことはできず、伊賀光季は下人を伝令として鎌倉に向かわせて状況を報告させると同時に、屋敷に火を放ち、息子とともに自害した。なお、伊賀光季の派遣した伝令は伊賀光季の最期の様子を知っているが、公的にはまだ知らないこととされた。
鎌倉武士の一人であり続けるために自害まで選んだ伊賀光季は、京都駐在の御家人たちの中ではむしろ例外であり、多くの武士は後鳥羽上皇の命令に従って軍勢を結集させていた。
ただし、そこにいたのは必ずしも後鳥羽上皇の思惑に従う武士ばかりではなかった。彼らの多くは信念に基づいて鎌倉幕府に楯突くために後鳥羽上皇のもとに参上したのではなく、後鳥羽上皇の院宣が発せられ、さらに仲恭天皇の宣旨まで出ていることから、職務に従って軍勢を結集させたという認識であり、自分たちがこれから鎌倉幕府に楯突くことになると考えていなかった者も多かった。
たしかに院宣のターゲットとなっているのは鎌倉幕府全体ではなく北条義時個人であり、これはあくまでも北条義時討伐のための軍勢結集であると考えることができていた。そして何より、京都における鎌倉幕府の指揮官ともいうべき二人の京都守護のうち、大江親弘は後鳥羽上皇の命令に従って後鳥羽上皇の元に馳せ参じている。これで、少なくとも京都守護のうちの一人が自分たちのトップとして後鳥羽上皇のもとに従った、すなわち、自分たちと鎌倉幕府との関係はなおも続いていると安心したのである。
ところが、その安心を打ち砕くかのようなタイミングで京都在住の御家人達にショッキングなニュースが届いた。大江親弘と違ってあくまでも鎌倉幕府の一員たることを選び続けていた京都守護伊賀光季の最期である。伊賀光季が迎えた運命を知り、後鳥羽上皇のもとに集った御家人たちの中には動揺が広がった。
大内惟信にしても、三浦胤義にしても、自分たちは官軍であるとして行動しており、伊賀光季が自害に追い込まれたのも官軍に抵抗したからであるということになっている。日本国の武人としてならば、大内惟信や三浦胤義の行動の方が正しいのだ。何しろこちらは朝廷のために軍勢を結集させたのであり、自分たち京都方は官軍なのである。だが、伊賀光季のように、あくまで鎌倉幕府の一員であり続けることに徹するのもまた、鎌倉幕府の御家人としてあるべき姿なのである。たとえ北条義時と義兄弟であったとしても、それは関係ない。
武人として後鳥羽上皇の元に馳せ参じた者が大勢いるのは、そもそもここが京都だからであって、はたして鎌倉でも後鳥羽上皇の元に馳せ参じる武士はいるであろうかと彼らは考えた。あくまでも北条義時討伐が目的であり鎌倉幕府殲滅が目的ではないと考えるのは、かなり危険な希望的観測である。鎌倉では伊賀光季のように官軍に刃(やいば)を向ける武士だって珍しくないであろうし、そうした武士が鎌倉に集結して決起したならば、どう足掻いても今の京都の軍勢でどうにかできる話ではなくなる。伊賀光季が迎えた最期の情景を知ったことで、鎌倉幕府の御家人相手に自分達は官軍であり鎌倉方は賊軍であると訴えても意味がないことが判明してしまったのだ。
伊賀光季が多勢に無勢で敗れたように、今後は自分たち京都方が兵力の少なさから兵力差で敗れる未来が見えてしまった。かといって、ここで鎌倉幕府に対して刃(やいば)を向けてしまった以上、鎌倉幕府は自分達を殲滅させに来るであろう。これまでの鎌倉幕府の御家人同士の粛清がどうであったかを考えたとき、それはかなりの可能性で死を意味する。
既に動き出してしまった以上、どうやって勝つか、ではなく、どうやって抵抗するかという問題になってしまったのだ。
さらに、彼らの上に立って京都方全体を指揮するのが鎌倉幕府の御家人ではない藤原秀康である。これまでは御家人として鎌倉幕府の一員として活動してきたのが、一瞬にして鎌倉幕府と決別することとなってしまったのだ。
承久三(一二二一)年五月一四日から五月一五日にかけて、京都から鎌倉へと三名の使者が出発している。厳密には四名であるが、うち一名は私的なやりとりであるため、京都の情報を鎌倉に伝えるという意味では使者であるものの公的な人員としてカウントされるか否かと問うならば否という回答になり、京都から正式に派遣された使者としては三名とカウントされる。
さて、この三名の使者は以下の通りである。
一人目は五月一四日に西園寺公経が弓場段に幽閉される直前に出発させた使者。
二人目は五月一五日に発給された後鳥羽上皇の院宣と、仲恭天皇の名の宣旨を伝える使者。この密使は「押松」という名が記録に残っている。また、押松は一人で行動していたのではなく、押松の他にもう一人の密使がいて、この二人で東海道を西から東へと行動していたことも記録に残っている。この、押松と同行した使者が前述の私的なやりとりとしての使者である。
三人目は同じく五月一五日に伊賀光季が自害する前に鎌倉へと送り出した使者。
吾妻鏡に従うと、京都を出発した三名の使者が鎌倉に到着したのはいずれも五月一九日のこととなっている。ただし、吾妻鏡では使者の京都出発を三名とも五月一五日としているので、ここに記録の齟齬が生じている。
単なる日付相違と考えてもよいが、ここは意図的な情報操作を疑うべきであろう。
あまりにもタイミングが良すぎる上に、鎌倉に到着した順番も鎌倉幕府にとって都合良すぎるのだ。
吾妻鏡に従うと、最初に到着したのは伊賀光季が送り出した使者であり、次いで西園寺公経が送り出した使者、最後に到着したのが後鳥羽院の院宣を伝える使者の押松である。
ただ、これでは順番がおかしい。普通に考えれば出発した順番に鎌倉に到着していなければならない。それなのに最初に到着したのは最後に京都を出発した伊賀光季の使者である。
この時代の最速の情報伝達方法は、馬の乗り継ぎである。乗った馬の個体差を考えれば差が縮まったり開いたりすることはあるだろう。だが、いかに鎌倉幕府の情報路が既存の情報網より優れていようと、最後に出発した使者が一日のタイムラグをひっくり返して鎌倉に到着するほどとは思えない。もっと言えば、後鳥羽上皇の送り出した使者はともかく、西園寺公経が送り出した使者は鎌倉幕府の情報路を利用できる。
そこでこのように考えることができる。
吾妻鏡では二番目に到着したことになっている西園寺公経が送り出した使者は五月一九日より前に鎌倉へ到着しており、鎌倉幕府はまず西園寺公経の送り出した使者からの第一報を受けて少人数での協議を重ねていた。そこに第二報である伊賀光季からの使者が到着し、この使者からの報告を第一報とし、緊急事態発生のために御家人達を集結させた上で西園寺公経が送り出した使者が到着したという体裁にした。西園寺公経からの報告内容によると、後鳥羽上皇を中心に朝廷が軍勢を結集させ北条義時を討伐することとなったという内容になる。西園寺公経と西園寺実氏の親子が幽閉されてはいるものの、この段階で鎌倉幕府の側に死傷者は出ていない。また、二人の京都守護のうち、一人は鎌倉幕府を捨てて後鳥羽院の側を選び、もう一人は賊軍として討ち取られたことも、この段階ではまだ伝わっていない。つまり、異常事態ではあるものの反対派の貴族を幽閉しただけで命にかかわる話には発展していない。
ここまでであれば、鎌倉幕府としては何らかの対処が必要となるのは誰もが認めるところである。そして、鎌倉幕府の対処の選択肢の中には北条義時失脚も含まれる。
無論、北条義時がそれを許容するとは思えない。
いや、北条義時だけでなく鎌倉幕府の首脳部の誰もが北条義時失脚という妥協案を受け入れるなどできないという意見の一致を示している。後鳥羽上皇が狙っているのは北条義時の失脚ではなく鎌倉幕府そのものであり、源平合戦以降の長きに亘って鎌倉方の武士たちが築き上げてきた成果の全てを、後鳥羽上皇は白紙撤回するよう求めているのである。その中には自分達が血を流して築き上げてきた地位の向上の白紙撤回も含まれている。
とは言え相手は官軍だ。朝廷の正式な指令に背くことは自分達が賊軍となることを意味する。日本国の歴史を振り返ったとき、賊軍となって命を長らえた者などいないし、命を賭して官軍と戦うことで自らが築き上げた組織を永続させることに成功した者もいない。賊軍となったときに待っている運命はただひとつ、破滅しかないのだ。それも、本人の身の破滅だけでは済まず、組織全体の破滅である。ここで後鳥羽院に逆らって全てが消え去るぐらいなら、北条義時失脚を引き換えに自己と組織の永続を考えても不合理な選択肢ではなくなる。
だが、伊賀光季からの知らせが来たなら話は別だ。この人は自らの運命を鎌倉幕府に捧げ、息子を道連れにして自ら命を捨てる決心をしたのだ。北条義時と義兄弟であることを差し引いても、伊賀光季が迎えた最期の情景は鎌倉方の面々を決断させるに十分であった。なお、既に記したように伊賀光季が伝令を派遣したのは自らの死のタイミングであり、伝令は当然ながら伊賀光季の最期の様子を知っている。だが、その様子は知らないこととされた。伊賀光季が伝令を鎌倉に派遣した時点で、伊賀光季はまだ京都方に対して奮闘中であり、敗色濃厚ではあってもまだ決まったわけではないということにされたのである。それでも、鎌倉幕府のために戦っている、それも元服を迎えて間もない息子とともに戦っているという知らせのもたらすインパクトは大きい。この知らせを受けてどうして北条義時失脚という妥協案で納得できようか。合理的な判断ではないと認めようと、自分達のために命を捨てる覚悟で戦っている仲間がいる以上、仲間のために血を流す覚悟を見せなければ、それは武士ではない。
ここで承久三(一二二一)年五月一九日の公的な時間軸を記すと以下の通りとなる。
時刻は不明であるが、まず伊賀光季からの知らせが鎌倉に到着した。ここではじめて、後鳥羽上皇が軍を集めていること、そのターゲットが鎌倉幕府であること、二人の京都守護のうち大江親広は鎌倉幕府を見限って後鳥羽院の側を選んだこと、もう一人の京都守護である伊賀光季が鎌倉幕府を選んだために京都方の襲撃を受けていることが公表された。既に記している通り、伊賀光季はこのあとで屋敷に火を放ち息子らと共に自害しているが、その知らせはまだ鎌倉に届いていないということになっている。
それでも、京都での官軍結成の知らせ、そして、伊賀光季の奮闘の知らせはただちに鎌倉中に伝わり、御家人たちは我先に大倉御所へと集結した。
未刻、現在の時制にして午後二時頃、第二報が鎌倉に到着した、ということにされた。
詰めかけた御家人たちの前に進み出た使者は、西園寺公経と西園寺実氏の親子が幽閉されたこと、そして、伊賀光季が京都方の前に敗れ去り、息子を道連れにして命を落としたことを鎌倉武士達に伝えた。これで御家人たちは怒りと動揺の双方の感情をみせた。仲間の死を悲しむ姿勢と、自分達が賊軍となりかねないという動揺の二つの感情である。本来は西園寺公経らの幽閉を伝える使者が、伊賀光季の奮闘と最期を伝える使者とされたのだ。
このタイミングで三浦義村が駆けつけた。三浦義村のもとに弟から密使がやって来たというのである。密使の書状には、勅命に従い北条義時を誅殺すること、勲功の恩賞は望みのままであるという内容が記されていた。先に、後鳥羽院からの密使である押松が一人で行動していたわけではないことを記したが、押松と行動を共にしていた密使とは、京都の三浦胤義から鎌倉の三浦義村のもとに書状を届ける密使であったのだ。
そしてここで、後鳥羽院から鎌倉に向けて密使が派遣されたことが鎌倉幕府に伝わった。密使の名である押松の記録の初出はこのタイミングである。なお、この時点での密使押松の所在は行方不明となっている。
鎌倉幕府首脳部はただちに、宣旨が仲恭天皇の名で、院宣が後鳥羽上皇の名で発せられたこと、その内容は未確認であるものの鎌倉幕府討伐を命じたものである可能性が高いこと、宣旨と院宣は公表されたものではなく秘密裏に鎌倉へと届けられたものであること、密使として押松という名の者が京都から鎌倉へと派遣されたこと、押松の所在が不明であることを告げ、押松の捜索を命令したことで、鎌倉中が騒然となった。記録には「谷(やつ)七郷に騒がぬ所はなかりけり」とある。
押松は間も無く葛西谷(かさいがやつ)の山里殿辺に潜んでいたところを見つけられ、ここで後鳥羽上皇の院宣と、仲恭天皇の名の宣旨を伝える使者が、送り出した側が想定していなかった形で鎌倉に届くこととなった。なお、後鳥羽院からの密使は鎌倉幕府の御家人達に向けて派遣された密使であり、宛先として八名の名が記されていた。武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八名である。宛先となっている御家人の全員が密使とまだ接しておらず、密使の伝える内容と接するのはこのときが最初であることも証明された。何しろ全員が密使の到着する前に御所に詰めかけていたのだ。これでは密使と接する時間など存在しない。
押松は正式な情報伝達のための使者であるはずで、本来であれば朝廷からの使者として敬意をもって扱われるはず使者であるが、吾妻鏡によると隠れていたところを捕らえられて連れてこられたとある。
なお、この使者の伝える知らせは公的な知らせであり、後鳥羽上皇の院宣だけでなく、仲恭天皇の名で発給された宣旨も存在するのだからぞんざいに扱っていいわけはないのであるが、押松に対する扱いは明らかに朝廷からの正式な使者を饗(もてな)す扱いではない。なにしろ密使なのだ。公的な知らせを密使として届けようとしたというまさにそのことが鎌倉幕府の御家人たちにさらなる動揺を生み出す知らせとなり、ぞんざいな扱いとなる理由となったのだ。
押松の伝えた知らせの中に、使者が京都を出発した時点での京都方、すなわち官軍の一覧があったことも大きかった。一覧の中には数多くの御家人の名があり、大倉御所に詰めかけた御家人の中には、自分の親が、兄弟が、息子が京都方の一員として名を連ねている者もいた。これでどうして動揺を隠さずにいられようか。
この動揺を鎮静化させたのが三浦義村である。三浦義村は弟を捨てて鎌倉方の一員として戦うことを宣言したのである。これで多くの御家人は決意を定めた。
さらに御家人たちの決意を強めたのが北条政子である。ドラマなどでは御家人たちの前に歩み出て演説をしたとなっているが、実際には御簾の向こうのままにいた。
日本という国は演説がさほど着目される国ではない。ただ長々と発せられる騒音を聞かされ続ける退屈な時間というのが日本国における演説だ。
だが、例外はある。
その例外のうちの一つがこのときの北条政子の演説であり、以下に現代語訳を記す。
「みな、心を一つして聞きなさい。これが最後の言葉です。亡き源頼朝が朝敵を成敗し、鎌倉に幕府を創ってからこれまで、朝廷より与えられた官職や位階、報奨としての領地といった恩は山よりも高く海よりも深いものがあります。感謝の気持ちもまた、浅いものではありません。しかし、いま我々は、我々の裏切り者の誤った訴えのために、道理の通らぬ命令を朝廷から出されました。武士としての名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義を討ち取り、源氏三代将軍の残した鎌倉を守りなさい。ただし、後鳥羽院に付き従う者がいるなら宣言しなさい」
北条政子のこの言葉を受けて、鎌倉幕府の御家人たちの意思は固まった。
鎌倉幕府は押松に対し、宣旨にも院宣にも従わないことを告げる返信を持たせ、京都へと送り返した。
賊軍と呼ばれようと後鳥羽院と戦うと決定したのである。
ただし、ここで一つ問題が起こった。
どこで、どうやって戦うのか?
後鳥羽院は北条義時討伐を命令し、そのための軍勢を集めたが、その軍勢がいるのは京都である。
一方、北条義時がいるのは鎌倉であり、賊軍と呼ばれようと官軍たる京都方と戦うことを決めた武士たちが結集しているのも鎌倉である。
北条義時討伐を宣言しているのだから、普通に考えれば京都方が鎌倉までやってきて北条義時を討とうとする。ゆえに、鎌倉幕府としては攻めてくる京都方を鎌倉で待ち構えるのが戦闘の構図となるところだ。
しかし、その構図を否定した者がいた。大江広元である。
鎌倉に至る途中を封鎖するのは、一時的には効果を発揮しても長期戦には向かない。それよりもこちらから京都に向かって軍を進めるべきとしたのである。
大江広元の意見に賛成したのが北条政子である。北条政子もまた、京都まで出向いて京都方を打ち破るべきと主張したのだ。
一方、この意見に反対したのは実際に戦闘の矢面に立つこととなる武士たちである。彼らの多くは鎌倉に待ち構えての持久戦を主張した。鎌倉そのものが天然の要塞であるだけでなく、鎌倉の西側を封鎖して陣を構えれば京都方と渡り合えるし、足柄峠や箱根山を封鎖すれば鎌倉と距離のある場所で優位に戦闘を進めることが可能だ。また、京都方は京都から離れれば離れるほど補給路が伸びるために前線の兵たちが困窮するのに対し、鎌倉は西側のみを封鎖する代わりに東と北を開放しておけば、関東や東北からの補給を問題なく受けられる。こうなれば優位になるのは鎌倉だ。
実際に戦場に立つ者が時間は掛かろうと戦いを優位に進める持久戦を主張するのに対し、戦わずにいる者が打って出ることを主張するのは世の常であり、多くは戦争の素人が戦争のプロに対して無茶を命じるという構図になるものであるが、このときは、戦争の素人が戦争のプロに正しい判断を下すという、歴史的に珍しい構図が成立した。
忘れてはならないのは、大江広元も、北条政子も、武人として戦場に立った経験はなくても、政治家として庶民生活を守ってきた経験は豊富だということである。御家人たちの主張した持久戦は民間人の負担が大きいのだ。特に補給路に当たってしまった地域や前線に近い地域では、兵糧確保のための物資の供出や兵員補充のための人員の参加が命じられる。物資供出や人員の参加といえば聞こえはいいが、要は略奪と拉致だ。御家人たちの主張する持久性が実現した場合、生きていくために必要な食糧などを朝廷が派遣した京都方の兵士たちによって略奪されるだけでなく、一家の働き手が兵士として拉致され、働き出を失った家庭は生活を破壊され、耕す者の減った農地は荒れ果てて凶作となり、飢えに苦しむ者が続出するという悲劇が全国各所で展開されることとなる。これは許される話ではない。略奪や拉致や起こらないようにするには、それらが起こる前に事態を解決させればいい。そのためには一刻も早く戦乱を終結させる、それも勝利で終結させることが重要なのだ。
このときは北条政子の意見が通り、遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の各国に対して軍勢派遣要請の書状を発給すると同時に、北条時房、北条泰時、北条朝時の三名を指揮官とする軍勢を派遣することを決めた。北条時房と北条泰時の両名は京都方を迎え撃つべく東海道を東から西へ進み、北条朝時は別動隊として北陸経由で京都へと向かうこととなったのである。
ただし、この時点ではまだ出発していない。
承久三(一二二一)年五月二一日、一人の貴族が鎌倉までやってきた。
一条頼氏である。
一条頼氏の父である一条高能は源頼朝の甥であり、一条頼氏の妻は北条時房の娘である。京都における鎌倉幕府の代弁者の一人でもある有力貴族の一人であったことから後鳥羽上皇の院宣が発せられて時間を置かずに鎌倉幕府の協力者とみなされて捕縛対象となっている。なお、叔父である一条信能と一条尊長の両名も鎌倉幕府の協力者とみなされていたが、この二人は早々に鎌倉方と袂を分かち、後鳥羽院の側についている。
一条頼氏が鎌倉までやってきたことは鎌倉幕府の面々に二つの感情を呼び起こした。
一つはこの情勢下で鎌倉を頼ってくれる貴族がいること。
もう一つは、武士ではなく、ましてや武人としての訓練を積んでいるわけでもない貴族が、この短期間で京都から鎌倉までやってきたことである。
貴族の中には身体の鍛錬を趣味としてきた者も多く、現代人が想像するよりアウトドアを愉しんでいた。その中でも後鳥羽上皇の鍛錬は当時の朝廷の中で群を抜いており、後鳥羽上皇の周囲に侍る一員になるには和歌と武芸鍛錬の双方で後鳥羽上皇に認められなければならなかった。一条頼氏は建保五(一二一七)年に二〇歳で侍従に任じられたことから当時の順徳天皇に仕える下級貴族の一員となることはできたものの、それはあくまで下級貴族のステップアップの一環であり、天皇の側近となったわけでもなければ、ましてや後鳥羽上皇の周囲の一員となったわけでもない。ちなみに順徳天皇の退位に伴って侍従職を解かれていることから、この時点では職務に煩わされることなく、ある程度自由に行動できたと考えられる。
一条頼氏自身が鎌倉までやってくることの動機は問題なかった。鎌倉で把握できる京都の最新の情勢を伝えてくれたことはありがたい話でもあった。
問題なのは、武芸鍛錬の評判を聞かない一条頼氏ですら京都から鎌倉に到着したこと、すなわち、京都が軍勢を派遣したならば、鎌倉方の面々が想像するよりも短時間で鎌倉まで到着することである。
大江広元は一条頼氏の到着を知り、このままでは鎌倉だけでなく関東全域で動揺が広がってしまい、軍勢の結集は時間が経てば経つほど困難になると主張し、三善康信は今日になってもまだ軍勢が出発していないことは怠慢であるとした上で、指揮官だけでも早々に出発すべきであると主張した。なお、このときの三善康信は八一歳、現在でも十分に高齢者だが、この時代では例外的な高齢者であり、また、病に苦しむ身体であった。その三善康信が病を押して立ち上がり、自らの言葉を発したことで、鎌倉幕府の御家人達の意見は固まった。
承久三(一二二一)年五月二二日早朝、小雨が降る中をわずか一八騎の軍勢が出発した。総大将は北条泰時。総大将に従うのは、北条泰時の息子の北条時氏、北条泰時の弟で北条義時の息子の北条有時と北条実義の兄弟のほか、尾藤景綱、平山弥三郎、綿貫次郎三郎、関実忠、平盛綱、南条時員、安東藤内左衛門尉、伊具盛重、武村次郎兵衛尉、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、横川中務丞、内島三郎といった北条家とその家臣達である。なお、ここで北条泰時がいったん引き返し、相手の軍勢の中に後鳥羽上皇をはじめとする皇族の方々がいたらどのようにすべきかと父の北条義時に質問し、北条義時からは敵の陣営の中に後鳥羽上皇がいたならばただちに武装解除をして恭順せよという回答があったというエピソードがあるが、このエピソードは南北朝時代に成立した「増鏡」になって登場するエピソードであり、当時の記録にこの話は存在しない。
同日、少し遅れて北条時房、足利義氏、三浦義村、三浦泰村らが出発し北条泰時のあとを追いかけ東海道を西へと向かっていった。
また、北条朝時は「北陸道の大将軍」として、北条泰時らとは別方面から京都に向かって軍を進めた。
鎌倉に残るは北条義時、大江広元、三善康信、中原季時、二階堂行村、葛西清重、加藤景廉、小山朝政、宇都宮頼綱、八田知家、二階堂行盛、加藤景廉、二階堂基行、三善康清、大井実春、中条家長らである。その多くが高齢であったり、また、既に出家した身であることを理由とした鎌倉待機であり、吾妻鏡によると鎌倉待機組の面々は戦勝祈願に専念したという。
吾妻鏡によると、五月二二日から五月二五日の早朝にかけて、東国武士の多くが京都に向けて軍勢を進め、また、鎌倉方の軍勢に参加したことを伝える使者を鎌倉へと送り届けたとある。数字の誇張は吾妻鏡の常道であるから信用できないところもあるが、それでも吾妻鏡に従うと、北条泰時以下、北条時房、北条時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱ら東海道軍が十万余騎、武田信光、小笠原長清、小山朝政、結城朝光ら東山道軍が五万余騎、北条朝時、結城朝広、佐々木信実ら北陸道軍が四万余騎の総勢十九万騎であったという。
なお、この時点では北条泰時が武蔵守、北条時房が相模守、北条朝時は式部丞であり、各々の軍事行動は律令に基づく正当な軍事行動でもあった。相手が官軍であるという一点を除いては。
彼らは軍を進めながら現地の武士達を吸収して軍勢を作り上げ、京都に向かっていった。軍勢を集めてから出発するのではない。出発してから軍勢を集めるのである。数の誇張がある可能性が高いが、それでもこの時代においては、源頼朝による奥州遠征に匹敵、あるいはそのときを越える大規模な軍勢である、それだけの軍勢をわずか三日で出撃させることができたのは、この時代の東国武士達の間に時流に取り残されることの恐怖があったからと言えよう。出撃しようかどうか悩んでいるときに周囲の武士達が出撃しているのだから、自分もここで出撃しなければ取り残されてしまう。宣旨や院宣に従って北条義時を討ったとしても、ここで鎌倉幕府に逆らうということは、一〇万を軽く超える軍勢を敵に回すことを意味する。そうなったときに勝ち残れる者など誰もいない。それならばいっそのこと、官軍たる京都方を敵に回そうと、賊軍と呼ばれようと、鎌倉方の一員として軍勢に参加する方が大きなメリットとなる。おまけに、鎌倉幕府の一員として出撃して軍功を残せば褒賞が期待できるのだ。
結果として大軍となったが、通常であれば大軍となればなるほど行軍に支障が生じるものであり、大軍となったことを手放しで喜べるというのは能天気な話となる。北条泰時がいかに優れた指揮官であったとしても、大軍を無事に行軍させるには、指揮官の能力だけではないプラスアルファが必要となるのだ。
そのプラスアルファがこのときの鎌倉方に働いた。天候が鎌倉方の味方をしたのである。現在の静岡県には太平洋に流れ込む河川が複数あるが、これらの河川は現在でこそ堅牢な橋が架かっているが、かつては橋を架けても増水すると流されてしまうこともあって、橋のなかったまま放置されてきた期間が長いという共通点を持っている。特に大井川は江戸時代に意図的に橋を架けさせなかったことで名を残しているが、意図的でないにしろ天竜川や富士川もまた橋のない河川であることが多かった。また、橋が架かっていても河川の増水で橋が流されたり、橋があっても通行不可になったりすることも珍しくなく、馬に乗った使者が渡河するなら橋がなくとも小舟でどうにかなっても、大軍の渡河となると問題となってしまうことはよくあった。だが、承久三(一二二一)年五月は気候の安定もあって増水は起こらず、大軍が問題なく駿河国や遠江国を行軍できていた。記録を読むと、北条泰時らは橋を渡らず河川を歩いて横切ったとある。
東海道を東から西へと向かう鎌倉方の行軍はあまりにも順調に進んだ。それこそ順調すぎるために後世の手本とすることができないレベルで。
後鳥羽上皇の発した院宣を改めて読み返すと、院宣で北条義時討伐を宣言し、また、実際に武士を集めておきながら、院宣の文章の中に軍勢出動の文言がどこにもなく、また、北条義時を討伐する軍勢の指揮官を誰とするかの記載もない。つまり、軍勢が勝手に結集され、勝手に北条義時が討伐されることを考えていたと見られている。
それはあまりにもムシの良すぎる話である。いかに楽観的な考えであろうと、また、宣旨や院宣の効力が絶大なものであるとの自負があろうと、後鳥羽上皇は源平合戦の流れを知っているはずである。いかに源平合戦期は幼児であったといっても、平家がどのように朝廷を利用し、鎌倉方がいかに平家に立ち向かったかを知っていなければならない。その上で、平家が源平合戦期に安徳天皇を利用して宣旨を発給していたこと、その宣旨の効力を以てしても平家は敗れ去ったことは知っていなければならない。それも、平家の圧力で発給させた宣旨とは、源平合戦勃発直後、すなわち、平家の勢力が日本最大の軍事勢力であった治承四(一一八〇)年に発給させた宣旨なのだ。その宣旨で平家は人員をかき集めながら、富士川の戦いで総崩れとなり敗れ去ったのである。
京都の有力者が鎌倉にいる集団を討伐しようとしているという構図を考えたとき、治承四(一一八〇)年の平家と、承久三(一二二一)年の後鳥羽院は似ている。ただし、用意できる軍勢には大きな違いがある。平家のほうが圧倒的に優勢であり、後鳥羽院は院の権勢を以てしても、さらには朝廷権力をフル活用してもなお、源平合戦時に平家が動員できた軍勢には及ばないのだ。
このことは京都で後鳥羽院のもとに集った武士達が何より強く理解していた。京都で一千騎もの軍勢を集めれば大規模な軍勢だが、それでも鎌倉方が総力を結集させたならば足元にも及ばない程度の数字になる。また、京都から鎌倉は遠すぎる。京都で軍勢を結集させて京都から鎌倉を討伐させる軍勢を派遣するのは非現実的であり、実際に後鳥羽院はこのとき、集めた軍勢を鎌倉討伐ではなく京都護衛のために用いている。
その上で後鳥羽上皇が狙ったのは、第二軍の結成である。具体的には、最初に集めた一千騎の軍勢を京都の護衛に残して第一軍とし、北条義時討伐の命令に従う武士達をさらに京都に集めて第二軍を結成し、新たに組織した第二軍を鎌倉へと派遣させるという構想である。第二軍の派遣前に、あるいは第二軍が鎌倉側とぶつかる前に鎌倉の中で北条義時が討伐されればそれでよし、討伐されなくても第二軍と鎌倉方とを向かい合わせ、戦場で勝敗をつければそれでよしという姿勢である。北条義時を討伐した武士に十分な褒賞を与えると宣言しており、武士の名誉欲を刺激したとも言えよう。
その上で、宣旨と院宣という二段構えの命令を五畿七道に亘って布告している。それも、宣旨は日本全国を対象とした命令文である反面、どうしても情報通達に時間を要する。一方、院宣は北条義時討伐を成し遂げた者に褒賞を与えるとした書状であり、そこまで強力な拘束力は有さない。二通の布告を受け取る側に立つと、先に後鳥羽院からの院宣が届き、後になって仲恭天皇の名で発せられた宣旨が届くこととなる。つまり、先に要望が来て、次に命令が来るという図式だ。
後鳥羽院からの指令は北条義時討伐について二段構えになっており、それは政治面でも軍事面でも非合理的で都合良いものと断じるのは難しい。むしろ、計画的で合理的なものであったとも言えるのである。
ただし、机上の計算であるという問題からは離脱できない。
後鳥羽院の机上の計算は早々に崩れた。
承久三(一二二一)年五月二六日、美濃国に派遣していた藤原秀澄から、関東の武士が京都方と対決するために東海道を東から西へ向かっているとの報告が届いた。ただし、この時点ではあくまでも軍勢が向かっているとの報告のみであり、軍勢がどこにいるのか、その軍勢はどれほどの規模であるか、誰が指揮を執っているのかの情報は不明である。一縷の望みとして、後鳥羽院からの院宣が効果を発揮して北条義時の討伐に成功したものの、ごく一部の残党が破れかぶれになって小規模な軍勢が東から西へ向かっているという見方もあった。
その一縷の望みは三日後の五月二九日に潰えた。
北条泰時と北条時房の率いる大軍が京都に向けて押し寄せてきているとの急報が届いたのである。
これで全面対決は免れぬものとなり、京都では動揺が広まった。
さらに京都の動揺を強めたのが、鎌倉から送り返されてきた密使押松である。押松の伝える鎌倉幕府からの返信は、後鳥羽院の院宣のみならず、仲恭天皇の名の宣旨ですら拒否する、すなわち、賊軍となってでも朝廷と戦うことを伝える内容であったのだ。しかも、承久記によるとかなり挑発的な内容であったという。「東山道、東海道、北陸道より十九万騎の若き東国武士達を上洛させますので、西国武士をお召しになって、合戦をさせて、御簾の隙間より御覧になってください」というのだから、後鳥羽上皇としては、怒りを隠しようがなかったものの、十九万という軍勢に恐(おそ)れ慄(おのの)き、藤原秀康に急いで軍勢を揃えて鎌倉方と戦うよう命じるしかできなかった。このままいくと、平家政権や木曾義仲のときのような惨状を迎えてしまうと考えたのだ。
また、この五月二九日という日は鎌倉を出発した軍勢がはじめて京都方と激突した日でもあった。この日、北陸道軍が越後国加治庄、現在の新潟県新発田市の願文山に立て籠もっていた酒匂家賢の軍勢を襲撃して願文山を制圧したのである。後鳥羽上皇の側近の一人であり、武芸をたしなむ貴族の一人であった藤原信成は、家臣の酒匂家賢に命じて北陸道を進む鎌倉方の軍勢を阻もうとしていたのであるが、酒匂家賢の用意できた軍勢は本人を含めてわずかに六〇騎。用意できる軍勢の差は北陸道でも既に如実に示されていた。
軍勢を食い止めるのではなく、軍勢を結集させながら上洛を目指しているという鎌倉方の軍勢構成を活かした陰謀も計画した。結集しつつある軍勢の中に京都方の武士を混ぜて軍勢を翻弄させ、統率を乱す、あるいは軍勢そのものを鎌倉方から京都方へと寝返りさせるといった計画も立てて実行した。また、一度は鎌倉方の軍勢に加わりながらも、官軍たる京都方に行こうと考える武士を見つけ出して京都方に引き入れようとすることも見られた。五月三〇日、東海道軍の北条時房の軍勢が浜名湖のあたりに着いた頃、北条時房の家臣の一人である内田四郎が怪しい十数名の武士を見つけ出した。この十数名は夜闇に乗じて意図的に北条時房の軍勢の先頭に立ったため、怪しさを感じた内田四郎がこの軍勢に問いただしたところ、筑井高重らが京都側から送り込まれたスパイであり、うまくいけば軍勢全体を京都方に、だめでも自分達だけは京都方に戻るつもりであったことが判明した。同調者を探して陰謀を遂行しようとしていたようで、彼らは内田四郎もそうした同調者に加えようとしていたのであるが、内田四郎はその陰謀を許さないとして筑井高重ら十数名の武士を殺害した。
六月三日、陰謀が失敗しただけでなく、鎌倉方の軍勢が無事に遠江国府に到着したとの報告が届いたことで、いよいよ後鳥羽院の側も事態は緊急を要していることを察知した。それも、北陸道、東山道、そして東海道の三つのルートから軍勢が京都に向かっている以上、迎え打つ側としても軍勢を三つに分けた上で防御陣営を構築しなければならないのである。なお、この段階ではまだ越後国で酒匂家賢が敗れ去ったという知らせは京都に届いていない。
北陸道で京都方の奮闘が期待できるし、期待できなくても距離を考えれば、北陸道軍と残る二つの軍勢というように、軍勢を三分割ではなく二分割でどうにかなる可能性がある。本来の東海道は尾張国の西隣は伊勢国であり、美濃国は通らない。ただし、それはそういうルールがあるというだけで、戦時においてそのようなルールを守る必要はない。尾張国から伊勢国を経て伊賀国、大和国を経て京都に向かう本来の東海道のルートは大軍の移動に適しているとはいえない。大軍を移動させるならば、時間も距離も要するだけでなく道路整備の観点からも、大軍の移動に困難なルートではなく、時間も距離も道路整備も優れているルート、すなわち、尾張国から美濃国を経て近江国へと出る短絡路を通るのは戦時において一般的であるとさえいえた。これを現在で考えるのならば、名古屋から京都に向かうのに近鉄ではなく東海道新幹線を、一般道ではなく名神高速道路を利用すると考えると近い。
多くの人が考える短絡路であるために、美濃国と近江国との間を封鎖する仕組みは既に存在している。そもそもが天然の楼門である上に、軍勢配置を駆使することで、近江国と美濃国との間を封鎖するのは軍勢規模の劣る京都方でも実行可能だ。これは壬申の乱でも選ばれた戦術であり、のちに関ヶ原の戦いの舞台となったことからも推測できよう。
ところがここで、京都方は戦術ミスをする。
北陸道に向けて、宮崎定範、糟谷有久、仁科盛朝、大江能範らが率いる軍勢を派遣する。ここまではいい。三つの軍勢に分かれた鎌倉方のうちの一つは北陸道を移動していることが判明しているのであるから、北陸道で鎌倉方を迎え撃つのは戦術的にもあっている。
問題はここから先、承久三(一二二一)年六月三日の公卿僉議で人員配置に失敗したのだ。
東山道と東海道を進む二つの軍勢が美濃国で合流して一つの軍勢となり、一斉に近江国に進んでくることは想像できることから、戦力を近江国と美濃国のあたりに集結させるところまでは納得できても、戦力を分散させてしまったのだ。
吾妻鏡や承久記にはこのときの京都方の軍勢配置が記されている。
阿井渡に、蜂屋入道。
大井戸渡に、大内惟信、五条有長、槽屋久季。
鵜沼渡に、斎藤親頼、神地頼経。
板橋に、荻野次郎左衛門、山田重継。
火御子に、内海、御料、寺本。
池瀬に、朝日頼清、関左衛門尉、土岐判官代国衡、開田重知、懸橋、上田。
摩免戸に、藤原秀康、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義。ここが京都方の軍勢の中心となると同時に、ここまでの軍勢が東山道軍を迎え撃つこととなる。なぜなら、東山道軍と東海道軍とが合流するためには木曽川を渡らねばならず、木曽川を渡る場所となると限られるからである。木曽川を大軍が渡河するとしたら、最短距離ではなくなるものの、安全面を考えれば摩免戸が最善ということになる。
ただしそれは、東山道軍が木曽川を渡河して東海道軍に合流するという前提の話であり、木曽川の左岸を東山道軍が、木曽川の右岸を東海道軍が進み、東海道軍が木曽川を渡河して東山道軍に合流することも考えられる。その場合の渡河地点は摩免戸より下流ということになり、必然的に京都方の陣容配置も摩免戸より下流で東海道軍が木曽川を渡河した場合を考えての陣容配置となる。
食渡に、山田左衛門尉、臼井太郎入道、惟宗孝親、下条、加藤判官。
上瀬に、滋原左衛間、渡辺翔。
墨俣に、藤原秀澄、山田重忠。
市脇に、加藤光員。
後鳥羽院のもとで無理して集めた軍勢の総数は、史料によると一万九三二六騎と、鎌倉方のおよそ十分の一である。数字を大袈裟に書くことの多い吾妻鏡を信じるからそれだけの軍勢規模の差になり、実際にはもっと差が小さかったと推測できるが、それでも京都方の劣勢は否定できない。
これだけでも問題であるのに、劣勢である京都方が軍勢を分散させてしまっている。これでは各個撃破してくれと頼み込んでいるようなものだ。
なお、兵力差については後鳥羽院も理解しており、より多くの軍勢を集めるべく、かなり無茶な指令を発している。京都在住の武士だけでなく京都近隣の武士や、貴族に仕える武士、さらには寺社に対して僧兵の供出を命令したのがそれである。ただし、後鳥羽院からの命令に対する回答は後鳥羽上皇を納得させるものではなかった。参陣拒否が相次ぎ、命令に従って参陣したはいいものの明らかにやる気がなく、気づいたら軍勢を早々に引き上げさせているケースすら頻発した。
さらに京都方の武士の意欲をそぐ事実が判明した。
後鳥羽上皇は京都方の一員として戦う武士に対して報償を示すとしたが、その報償というのが院庁への参上と上奏の許可なのである。位階や官職を用意するわけでも、ましてや土地を用意するわけでもなく、既にその許可を得ている者にとっては意味が無く、許可をまだ得ていない者のうち京都とその周辺に住む武士にとっては願っていた報償があまりにも軽くなってしまい、そうでない武士にとっては特にメリットのない報償となってしまうのだ。そもそも院庁への参上にしても、上奏にしても、希少価値を有するからこそ意味のある話なのであり、生涯を掛けてきたことが評価されて許可が得られたというのであれば人生の見返りとして意味を持つ。貴族ではなく位階も有さない武士にとって、院庁への参上や上奏の許可というのは、一生を捧げた代わりに手に入れることのできる特別な栄誉なのだ。その特別な栄誉が、それまで一度も京都のことに、院のことに関心を示してこなかった武士が、ただ一度の戦いで得られる許可となってしまうと、人生を院に尽くしてきた者にとって人生の全否定となる。古参の家臣はこれまでの自分が全否定されたことに失望し、新参の家臣はメリットのない報償が提示されたことで失望するという、意欲が全く生まれない結果となったのだ。
兵力差が冗談では済まないレベルになっている上に戦術ミスも存在していることを、京都方の武士達は早々に把握していた。
そもそも京都方は後鳥羽上皇がトップに君臨するトップダウンの組織であり、誰であろうと後鳥羽上皇の意見に逆らうことはできない。たとえば、院宣を鎌倉に送り届ける経緯を追いかけても、その過程で誰かが指摘しなかったのかと言いたくなる失態である。押松を鎌倉に派遣したことまではいい。しかし、押松は後鳥羽上皇にとって安心できる人物であっても、京都から鎌倉までの道程に詳しいわけでも、鎌倉市街に詳しい訳でも、鎌倉幕府の面々に詳しいわけでもないという問題がある。押松が鎌倉に向かうときに一人で行動せず、三浦胤義から兄の三浦義村に向けて送り出した使者と同行したことを踏まえても、使者として相応しいとは言えない。これだけでも問題なのに、後鳥羽上皇からは院宣を鎌倉幕府に届けるのでなく鎌倉幕府の重要御家人達にピンポイントで院宣を送り届けるように命令が出ている。顔も知らず、邸宅がどこにあるかも知らない者のもとに秘密裏に院宣を届けることを考えると押松を使者として鎌倉に送り出すのは適切とは言えなかった。その結果が鎌倉方の一斉挙兵だ。誰か一人でも後鳥羽上皇に異を唱えていたならばこうはならなかったであろう。
しかも、現在の苦境の理由を誰もがわかっているのに、誰もが口にできずにいる。口にできないまま苦境のままでなければならない。それが京都方の武士達の心情であった。
一方、鎌倉方は誰かがトップにいるわけではない。北条義時なのか、北条政子なのか、あるいはこれから将軍になろうとしている三寅なのか、トップがはっきりしていない。裏を返せば、鎌倉方は何であれ合議制である。しかも、武士として前線の経験を積んでいない大江広元や三善康信も合議に参加できて指令を送り出せる。ただし、指令を送り出す代わりに後方からの支援を欠かさず、指令を逸脱しない限り細かなことまで指図しない。北条泰時ら指令を受け取った側は鎌倉に逐次状況を報告するが、基本的に前線では自己裁量で行動できるし、鎌倉からの指令が現実に背いていないとなったら鎌倉からの指令に背くこともある。事後報告ではあるが鎌倉にあるがままを報告し、その報告の内容が指令と反する内容であったとしても、結果が鎌倉の意に沿うものであるならば鎌倉からは特に何ら指摘されることはない。このあたりの仕組みは治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵したときから変わることない鎌倉方の仕組みであり、源頼朝が生きていた頃は源頼朝がトップとして君臨してその周囲を有力御家人が固めた上層部を構成した上で、前線との情報連絡を維持しながらも前線にはそれなりの自由裁量が与えられていた。源義経が討たれたのは自由裁量で許されている範囲を逸脱したからである。源頼朝の死後はトップがいなくなり、名目上のトップとして二代将軍源頼家、三代将軍源実朝が君臨していたが、この兄弟は父のように絶対的なトップとなってはおらず、鎌倉方のトップは複数名からなる合議制が事実上の最重要権力機構として君臨しているという構図であった。この構図は源実朝が亡くなった後も変わらず正常に機能している。
鎌倉幕府の歴史を追いかけると御家人同士の殺し合いが繰り返されてきてはいたものの、それでも誰か一人が圧倒的なトップとして君臨しているという構図は成立しておらず、合議制と権限付与という自己修復機能を持った軍事組織であり続けていたのであるが、このタイミングでこうした軍事組織であることが鎌倉方に優位な面となって機能した。
さらに差が付いたのだ実戦経験の差である。こればかりはいかに訓練を積み重ねても未経験と経験済との間では大きな違いがある。京都でいかに武士が活躍したとしても、それは盗賊や僧兵が相手のことであって戦場での実戦経験というわけではない。戦場での経験を遡るとすれば三分の一世紀は遡ってのさかのぼっての源平合戦やそのあとの奥州遠征まで遡らねばならず、その経験を積んだ武士の多くはこの世の人でなくなっているか、隠居しているか、現役だとしても鎌倉方の一員となっている。一方、鎌倉方の武士は和田合戦に遡れば実戦経験にたどり着く。しかも、和田合戦は市街地での戦いであり、鎌倉と京都という違いはあるものの、都市での戦いが起こるとしたら、経験の程度は鎌倉方に軍配が上がる。無論、鎌倉幕府の一員として京都に派遣され、その流れのまま京都方の一員となった武士の中には和田合戦での実戦経験をした武士もいるが、その人数はあまりにも少ない。
鎌倉方のうち東海道軍が遠江国を経て三河国に入り、先遣隊が尾張国府に到着したとの知らせを受けたことで動揺が広がり、持ち場を離れる者や今からでも鎌倉方に寝返ろうとする者も続出し、官軍たる京都方に留まることを誓った者の中でも現状では敗北必至であると悟る者が現れた。
中でも、墨俣に拠点を置くよう命じられた山田重忠は戦術のミスと戦力差を指摘した上で、現状で取りうる有効戦術を提言した。
その戦術とは、京都方のうち北陸道に派遣した軍勢を除く全てを一箇所にまとめ、墨俣から長良川を経て木曽川に向かい、尾張国府にまで出向いて、尾張国府を占拠した鎌倉方の先遣隊を打ち破った後、三河国を経て遠江国に渡って鎌倉方の東海道軍を破り、そのまま勢いに任せて鎌倉に進軍して北条義時を討ち、帰路は東海道ではなく北陸道を選んで北条朝時が指揮する鎌倉方の北陸軍を殲滅するという戦術である。
しかし、山田重忠と同じく墨俣に陣を構える藤原秀澄は山田重忠の提案を拒否し、改めて墨俣に留まって鎌倉方を迎え入れることを宣告した。
承久記では山田重忠の提唱したこの戦術を勇猛果敢な戦術と称えている一方、提案された戦術を拒否した藤原秀澄を臆病者と一刀両断しているが、これは拒否した藤原秀澄の方が正しい。山田重忠の戦術はあまりにも都合が良すぎ、現実をあまりにも無視しているのである。
そもそも全軍を集めても兵力差が甚だしいのに鎌倉方の本隊である東海道軍に真正面から向かいあったところで勝てる可能性など低い。仮に戦勝を手にしたとしても、今度は鎌倉までの進軍に問題がある。鎌倉方が大軍を組織できたのは、鎌倉で大軍を組織したからではなく、鎌倉から京都に向かう過程で次々と軍勢を集めてきたからである。軍勢を養う食糧や戦闘に使う弓矢などの武具や馬も、参陣した武士達が自前で用意したものだ。一方、山田重忠の案を採用するとしたら、一万騎を超える軍勢をどうやって養っていくのかという問題が出てくる。既に鎌倉方が通り過ぎた後であり、道中の村々は既に鎌倉方に対する物資の供給や人員の提供をしている。つまり、一度なら耐えられても二度目は無理という情勢になっている。京都方が東海道を西から東に向かうということは、途中の村々に二度目の負担を強いることを意味する。当然ながら、満足いく供出を受けられる可能性は低い。略奪してどうにかなるか、あるいは、略奪してもどうにもならないかのどちらかだ。
蛮行に染まった軍勢がどういう行動を見せるかは木曽義仲の例が示している。それを同じことを繰り返してはならない。
承久三(一二二一)年六月五日、東山道軍と京都方が激突した。
木曽川沿いに北東から南西に軍を進めていた東山道軍に対し、尾張国一宮に到着していた北条時房が使者を送り出している。
その書状には、東山道軍を指揮する武田信光と小笠原長清に対し、大井戸と河合の渡河作戦を成功させたなら、美濃国、尾張国、甲斐国、信濃国、常陸国、下野国の六ヶ国の守護職を保証すると記されていた。承久記によると、北条時房からの使者が到着する前に武田信光が小笠原長清に対し、鎌倉方が勝ったならば鎌倉に付き、京方が勝ったならば京都に付くことにするとした上で、それこそが弓矢の道に生きる武士の習わしだと告げたという。そのタイミングで北条時房から六ヵ国の守護職について記した書状をもった使者がやって来たので武田信光も小笠原長清も目の色を変えて渡河作戦を断行したという。守護職を示したかどうかはわからないが、北条時房が遠く離れた仲間の状況を常に把握し続けてきたからこそ、行軍中に仲間を加え続けるという異例な形式の軍勢を構築しながら、東山道軍と東海道軍という二つの軍勢に分かれていても、事実上一つの軍勢として機能的に行動できたのは確実である。それにしても、電波を使ってのリアルタイムのやりとりができる現在と違い、この時代の情報のやりとりは人の行き来だけである。人のやりとりだけしかできないのに歩調を合わせただけでなく、軍勢の中の一人一人の状況に目を見張らせていたのは驚異とするしかない。
気の毒なのは東山道軍を迎え撃つこととなった京都方の面々である。
大内惟信は奮闘したものの息子である帯刀左衛門惟忠の戦死に強いショックを受けて退却し、蜂屋入道は負傷して自ら命を断ち、蜂屋入道の子の蜂屋三郎も討たれたことで京都方のほとんどは退却することとなった。
一方、初戦を制した武田信光と小笠原長清の率いる東山道軍の軍勢は下流の鵜沼に向けて軍を進めた。これにより神地頼経率いる鵜沼の京都方は、一方は東山道軍、もう一方は東海道軍から派遣された毛利季光率いる軍勢と挟み撃ちとなり、鵜沼渡を守っていた神地頼経は情勢不利を悟って降伏を選んだ。ただし、神地頼経の行動については別々の資料が存在する。承久記によると自ら降伏して北条泰時のもとに出向いたところ、北条泰時は、京都方が官軍であろうとなかろうと、一度でも京都方についたならば最後まで京都方の一員として戦うべきであり、ここで鎌倉方に付くというのは武士として許されないことであるとして、降伏してきた神地頼経とその子ら九騎を梟首(きょうしゅ)にしたという。一方、吾妻鏡にそのような記載はなく、神地頼経が奮闘したものの生け捕りとなり北条泰時の元に連れてこられたところで記載が終わっており、神地頼経の運命がどうなったかを記していない。
確実なのは、大井戸だけでなく鵜沼でも京都方は敗北し、鎌倉方の東山道軍と東海道軍が合流するのは避けられない情勢になったということである。ただし、この時点で東山道軍と東海道軍の合流地点は秘匿されており、京都方は合流地点を探ろうとし、鎌倉方は合流直前まで合流地点が悟られぬよう隠蔽に隠蔽を重ねている。
さらに鎌倉方は京都方の各陣地に対して各個撃破を図るべく、池瀬に足利義氏を、板橋に狩野宗茂を派遣すると同時に、残りの軍勢を二手に分けて東海道軍を進めた。
京都方が第一の要衝と見た摩免戸については北条泰時が指揮をし、三浦義村をはじめ侍所に祗候する者が集中攻撃する。墨俣は北条時房が指揮をし、安達景盛をはじめ、豊島、足立、江戸、川越といった武士団が攻撃を仕掛ける。この両拠点を鎌倉方が制圧できれば鎌倉から美濃国に至る全域を鎌倉方が完全に掌握できることとなり、いつでも京都に進撃できることとなる。
この動きに対し、迎え撃つ京都方は奮闘を重ねた。板橋では荻野左衛門と、山田重忠の子の山田重継が、伊義渡では開田、 懸橋、上田が、火御子では内海、御料、寺本が懸命に防戦をしたことで鎌倉方に少なからぬ損害を与えたものの、最後は力尽きて京都方の面々は戦死し、生き残った者も逃亡した。
北条泰時が指揮する東海道軍の主力と正面衝突することとなった摩免戸でも、防衛する藤原秀康や三浦胤義が奮闘して鎌倉方に対してダメージを与えることに成功したものの、京都方は最後には退却を選ぶこととなった。ただし、六月五日の時点ではまだ摩免戸が陥落してはおらず、残存部隊が鎌倉方に対して抵抗を続けているほか、墨俣を守っていた山田重忠が摩免戸へと移動して京都方の支援にあたっていた。
一方、食渡の惟宗孝親と下条は、鎌倉方の狩野宗茂と大和入道らが渡河しているのを目の当たりにし、戦わずして逃亡した。
京都方の中で最も奮闘したのが上瀬を守る渡辺翔こと源翔である。鎌倉方の軍勢の中に馬で駆け込んで戦いに挑み、狂気に満ちた振る舞いの前に討ち取られる者が続出した。しかし、渡辺翔の奮闘も多勢に無勢であり、渡辺翔は退却せざるを得なくなった。
承久三(一二二一)年六月六日、摩免戸陥落。
二十歳の北条時氏と十九歳の北条有時の二人の若者に率いられ、大江佐房、阿曽沼親綱、小鹿島公成、波多野経朝、三善康知、安保実光といった武士たちが、京都方のうち摩免戸に留まって奮闘する山田重忠や、佐々木広綱の甥の鏡久綱らに攻撃を続け、山田重忠は退却、鏡久綱は自害を選んだ。
さらに、山田重忠は自分が陣を構えていた墨俣に戻ってみると、藤原秀澄が墨俣を捨てて退却していたことを知り、ここで美濃国の防衛は失敗に終わったことを悟った。ただし、ここで一矢報いることを考えた山田重忠は、東海道軍と東山道軍の合流地点が杭瀬川であることをようやく突き止め、合流地点に向かって鎌倉方の指揮官や幹部を打ち取るべく突撃を繰り広げた。
承久記によると山田重忠は三〇〇騎の軍勢を指揮して合流地点に総攻撃を仕掛けたとある。この山田重忠に向かい合ったのが鎌倉方の主力の一つである児玉党で、武蔵七党の一画を為す児玉党はこのとき三〇〇〇騎を擁していたという。三〇〇対三〇〇〇という戦力差一〇倍の相手に向かい合っていったのであるから本来であれば瞬殺されるところであろうが、このときの山田重忠の指揮が素晴らしかったのか、児玉党数百騎がただちに打ち取られただけでなく、劣勢であるはずの山田重忠が児玉党を手玉に取る情景が展開された。
しかし、兵力差は如何ともしがたく、山田重忠は戦場を捨てて京都へと逃走し、ここに美濃国も完全に陥落した。京都方の分散配置は、個々で見れば奮闘が見られた箇所があったものの、全体的には劣勢に次ぐ劣勢であり、わずか二日で美濃国を失ったこととなるだけでなく、東海道軍と東山道軍の完全合流も実現させてしまったのである。
翌六月七日、美濃国府近くの垂井と野上に陣を築いた鎌倉方は、北陸道軍の扱いをどのようにすべきかで軍議を重ねた。北陸道軍の到着を待つか、それとも、東山道軍と東海道軍だけで京都に進軍すべきかである。
ここで三浦義村はある提案をした。
確かに美濃国を制したものの、京都までの間には近江国があり、また、山城国に入ってもそれだけでは京都を制したことにはならない。北陸道軍の到着までに京都を包囲するように要衝の各所を制することで、三軍揃っての京都制圧をより容易にするべきとした提案である。
この提案に鎌倉方の面々は賛同し、京都を取り囲む前提で五ヶ所の要衝の制圧を計画した。
瀬田は北条時房。
手上は安達景盛と武田信光。
芋洗は毛利季光。
淀渡は結城朝光と三浦義村。
そして、北条泰時率いる主力部隊は、最重要要衝である宇治を制圧する。
なお、直ちに軍勢を向かわせるのではなく、兵士に少しの間の休息をとらせている。兵士は機械ではなく、これまでの戦闘で傷ついた者も数多くいる。また、このタイミングでの休息は相手にとって脅威ともなる。戦場で勝利を刻み込むだけでなく、相手に余裕を示すのも軍略において重要なポイントだ。
これにより鎌倉方は北陸道軍到着までの時間を稼ぐと同時に、京都制圧をより完全なものとできる可能性が高まった。
承久三(一二二一)年六月八日、北陸道軍と京都方と激突のうち最大の激戦が起こった。北条朝時、結城朝広、佐々木信実らの率いる鎌倉方の軍勢が、越中国の在国武士達を率いた宮崎定範、糟屋有長、仁科盛朝、友野遠久らの京都方と激突し勝利したとの記録が残っている。ただし、この時点ではまだ北陸道軍の居場所が越中国であり、東海道軍と東山道軍の合流にさらに加わるとすれば、加賀国、越前国を経て近江国に入らなければならない。これは一日や二日でどうこうなる話ではない。もっとも、鎌倉を出発した後の距離を考えれば順当か、あるいは順当以上にスピーディーな動きである。
一方、同じ六月八日の京都は混乱を極めた。この日、藤原秀康と五条有長が負傷した姿で京都に到着し、摩免戸をはじめとする美濃国の各地で京都方がことごとく敗れ、ある者は戦場に散り、ある者は逃亡し、京都に戻る者がいてもそれは自分達のように負傷した姿であることを伝えたのである。
彼らの姿と伝える言葉に院中は騒然となり、坊門忠信、土御門定通、土御門有雅、高倉範茂といったら院近臣の公卿を、宇治、瀬田、田原方面の防衛に派遣することが決まった。彼らは武士ではなく貴族であるが、趣味の一環として武芸鍛錬はしている。鍛錬はしてはいるが、いかんせん、本職の武士ではない。名はあるが実はない者を武装させて前線に立たせようというのであるから、後鳥羽上皇もかなり追い詰められていたのであろう。
さらに後鳥羽上皇は、土御門上皇、順徳上皇、雅成親王、頼仁親王らを院近臣二位法印である僧侶の尊長の邸宅に招いて評議を重ね、比叡山延暦寺に加勢を求めることとした。そのためには後鳥羽上皇自身が比叡山延暦寺に向かわねばならないという結論に至ったことから、同日夕刻、甲冑を身につけた源通光、藤原定輔 、藤原親兼、藤原信成、藤原隆親といった公卿や殿上人に加え、評議の場を提供した僧侶の尊長も同行させ、西園寺公経と西園寺実氏の父子をあたかも囚人であるかのように引き連れ、さらには幼い仲恭天皇まで行幸させるという、この時点の朝廷ができる最上級の対応で後鳥羽上皇は延暦寺に向かったのである。
しかし、比叡山延暦寺に向かう途中の後鳥羽上皇のもとに届いた比叡山延暦寺からの返答は後鳥羽上皇を落胆させるものであった。延暦寺は僧兵の派遣を拒否したのである。衆徒の微力では東士の脅威を防ぎ難いというのが延暦寺からの回答であり、六月一〇日、後鳥羽上皇らは虚しさを隠せぬまま高陽院殿に還御した。なお、この間に京都で北条義時が誅殺されたとの風聞が広まり後鳥羽上皇らの周囲では安堵の声が広まり、また、西園寺公経とその息子に死罪を命じるべしとの意見が出たが、北条義時誅殺が誤報であると知れ渡ったことで空気は一変し、それまで囚人同様の扱いをしていた西園寺公経と西園寺実氏の親子に対する勅勘を解き、西園寺親子に鎌倉幕府との和平交渉を測るよう命じた。命じたが、これは遅すぎた。
一日置いた六月一二日、後鳥羽上皇は自分たちの最後の軍勢を配備して鎌倉方に向かい合うことを命じた。
三穂崎に、美濃竪者観厳ら一千騎。
瀬田に、山田重忠、伊藤左衛門尉、山僧ら三千騎。
食渡に、大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義ら二千騎。
鵜飼瀬に、藤原秀澄、長瀬判官代ら一千余騎。
真木島に、安達親長。兵数不明。
芋洗に、 一条信能、尊長。兵数不明。
淀渡に、坊門忠信。兵数不明。
そして、軍勢の大部分を宇治に配備することとした。ここで宇治防衛を命じられたのは、源有雅、高倉範茂、藤原朝俊、伊勢清定、佐々木広綱、佐々木高重、快実らであるが、その兵力は二万余騎である。
無理に無理を重ねて兵力を動員しても三万騎に届かない。これがこのときの京都の限界であった。
一方の鎌倉方は余裕を見せていた。
東海道の宿駅である野路駅付近に鎌倉方の軍勢は陣を敷き、しばしの休息を取り、また、酒宴を開催していた。北条泰時や北条時房が野路駅付近で陣を敷いて休息を取っていることは周囲に広まっており、情勢不明瞭として様子見であった武士の多くがこのタイミングで鎌倉方への帰順を申し出た。吾妻鏡はここで、北条泰時を慕う幸島行時が参陣したこと、北条泰時のために命を落とすのは武士の本望であると述べたことで北条泰時が幸島行時を歓待したことを書き記している。北条泰時の思い遣りを見て鎌倉方の武士達がさらに勇気を奮い起こしたというのが吾妻鏡の記載だ。
承久三(一一二一)年六月一三日、休息を終えた鎌倉方が一気に動き出した。
北条時房率いる軍勢が瀬田へ、北条泰時率いる軍勢が宇治へ、毛利季光と三浦義村がそれぞれ淀と芋洗へ向けて出陣した。
最初に戦闘が繰り広げられたのは瀬田である。瀬田は琵琶湖の付け根の土地であり、大阪湾へと流れる瀬田川の始まりの土地でもある。東海道や東山道から陸路で京都に向かうには瀬田の橋を渡るのが一般的であり、京都方は瀬田の西岸に陣を構えると同時に瀬田橋の板を外すことで渡らせなくさせていた。
この瀬田を守っていたのが、美濃国で奮闘するも敗れ去った山田重忠と、比叡山の僧兵達である。後鳥羽上皇の応援要請に対して僧兵派遣を拒否したはずの比叡山延暦寺であるが、瀬田は延暦寺の近くの土地であり、また、交通の要衝でもあるため、瀬田を制圧されると延暦寺にとって大ダメージとなる。後鳥羽上皇の支援に乗ることはできなくても、自分たちを守るためならば僧兵の派遣には躊躇しないということか。
瀬田まで軍を進めた北条時房ら鎌倉方は、当初は橋を渡って攻め込もうとしたものの橋板が外されているので瀬田川を渡ることはできないと悟っただけでなく、橋板を落とした橋桁の上で暴れ回る延暦寺の僧兵達に苦戦していた。
この局面を打開したのが、瀬田橋の上流およそ一町、メートル法に直すと一一〇メートルほど離れたあたりに陣を敷いていた宇都宮頼業である。宇都宮頼業は弓矢での攻撃を続けていたのであるが、高低差のない土地での弓矢での戦いは、こちらの矢が相手に届くことと、相手の矢がこちらに届くことが同じ意味を持つ。あとは弓矢の技量の差だ。
最初は京都方の矢が宇都宮頼業のすぐ近くに届いた。京方にとっては弓矢の威力を相手に見せつける飛距離と正確さとなるはずであったが、宇都宮頼業は違った。自分で弓矢を手にし、山田重忠のすぐ近くにまで矢を放ったのである。その距離およそ三町、メートル法で三三〇メートルもの距離である。しかも、単に矢が届いたのではなく矢が威力を伴って突き刺さったのだ。これに山田重忠は恐れ慄きただちに軍勢を引き返した。
さらに宇都宮頼業は瀬田川を船で航行し、鎌倉方に弓矢を向けてきた美濃堅者観厳率いる軍勢にも矢を放ち、僧兵を二人倒したことで美濃堅者観厳も慌てて引き返した。
これにより瀬田の京都方は総退却となり、近江国の要衝も鎌倉方の手に落ちた。
宇治に向かった北条泰時らは当初、まずは宇治に向かう途中で陣を張り、翌朝に宇治に向かって行軍して戦闘を開始する予定であった。そして、実際に全軍に対して陣を敷くよう命令した。なお、北条泰時らがどこで陣を張ったのかの記録は一定ではない。吾妻鏡によると栗小山であるとしている一方、承久記では岩橋に陣を張ったとしている。どちらも翌朝の宇治への攻撃を考えれば適切な地点だ。また、この日は雨が降っており、行軍に必ずしも適した天候であるとは言えなかったことから陣を張って夜が明けるのを待つのは定石と言える。
しかし、三浦泰村と足利義氏の二人は違った。北条泰時に告げることなく陣を抜け出し、手勢を率いて勝手に宇治橋に攻め寄せたのである。
宇治橋の北岸には二万騎もの京都方の軍勢が集結している。しかも、後鳥羽上皇の求めに応じて軍勢を派遣した奈良や熊野の僧兵達まで加わっている。全軍で見れば鎌倉方の方が圧倒的人数であるが、個々で見ればむしろ京都方の方が圧倒しているのがこのときの宇治であった。
京都方からの弓矢の攻撃は三浦泰村と足利義氏の率いる軍勢に大ダメージを与え、先駆けして手柄を手にするどころか、鎌倉方の計画を破綻させる失態ですらあった。
宇治橋で戦闘が始まっているとの報告を受けた北条泰時は豪雨の中を宇治橋まで駆けつけ、始まってしまった戦闘を勝利で終わらせるべく奮闘しようと試みるも、ここでも瀬田橋と同様に橋板がはずされて宇治橋が渡れなくなっているだけでなく、ここでも瀬田橋と同様に橋桁に僧兵が陣取って暴れ回っている。
鎌倉方の武士達は名乗りを上げて攻撃をするも京都方に一蹴され、ある者は矢で、ある者は僧兵の操る太刀で、またある者は橋から宇治川に突き落とされて命を落とした。豪雨も手伝って宇治川の水量は増している。普段なら泳いで渡れる川幅や水深であっても、この日の宇治橋は泳ぐのに不適切であった。おまけに夜とあってはさらに渡河が不可能になる。
北条泰時は一旦攻撃中止を命じると同時に、宇治橋以外に川を渡れるポイントはないかを探し出すこととした。
北条泰時に命じられたのは芝田兼義である。芝田兼義は水練の達人であり、このときの宇治川のように天候のために増水している川であろうと渡れるポイントを探し出すのが得意であった。
そして、芝田兼義は北条泰時の求めに応じて宇治川を渡れるポイントを見つけ出した。それは宇治橋の下流の真木島で、宇治川が増水しているのに真木島は川の中洲として増水した川の流れにあっても沈まずにいた。芝田兼義は実際に真木島まで泳いでみたところ、軍勢を渡らせることが可能な浅瀬があること、ただし、対岸に京都方が陣を張っていることを見つけ、結果を北条泰時に報告した。
なお、芝田兼義はこのとき一つの残虐な行為をしている。浅瀬がどこにあるかを地元の老人に尋ねたのであるが、その老人に尋ねたのも脅迫に似た強引なやり方であっただけでなく、情報を聞き出して実際に浅瀬があることを知ると、芝田兼義はその老人を切り殺したという。情報漏洩を防ぐためである。似たような話は平家物語にもあり、それが当時の当たり前であったのかと言ってしまえばそれまでであるが、これを仕方ないと言い切って割り切れるほど、人間の復讐心というものは軽くはない。
承久三(一二二一)年六月一四日早朝、北条泰時は攻撃開始を命じた。芝田兼義、春日貞幸らにまずは宇治川を渡らせ、佐々木信綱、中山重継、安東忠家らがそれに続く。
鎌倉方が宇治川の中洲を見つけたと知った京都方は矢を射かけて防戦し、さらにここに増水した宇治川の水流が加わる。渡河しようとする鎌倉方の少なくない者が宇治川の流れに流されて命を落とした。
これを見た北条泰時は、息子の北条時氏を呼び寄せて渡河を命じ、北条時氏は佐久間家盛、南条時員ら六騎を率いて川を渡った。また、三浦泰村も主従五騎で川を渡った。なお、北条泰時も川を渡ろうとしたが、このときは春日貞幸によって止められている。
京都方とて鎌倉方が渡河作戦を強行することは理解できていた。そのため、二重、三重の罠を仕掛けていた。河岸から弓矢で攻撃を仕掛けるのもその罠の一つであるが、弓矢のターゲットは武士とは限らない。馬に乗って渡河する武士を倒すには、武士ではなく馬を射るほうが効果的だ。矢でやられた馬に乗った武士は武装したまま増水した宇治川に投げ出されることとなる。普段なら泳げても武装していては泳ぐのに困難だ。溺れずに済んでも弓矢のターゲット、弓矢のターゲットにならずに済んだら溺れ死ぬ運命。運が良くなければ渡河できなくなっていた。これにより、関左衛門入道、幸島行時、伊佐大進太郎、三善康知、長江小四郎、安保刑部丞実光ら鎌倉方で計九六騎の死者が出ている。
さらに京都方は宇治川の河川途中にロープを張って渡河を妨害していた。増水していることもあって宇治川の水は泥で濁っている。普段ならロープを目にできるであろうが、濁っていては判別など不可能だ。矢を射られなかった馬も、足をロープに取られての転倒が頻繁に起こり、馬が転倒したあとで馬に乗っていた武士が待っているのは、馬を矢で射られたときと同じく、弓矢のターゲットになるか溺れ死ぬかのどちらかである。
ここでさらに鎌倉方で九八騎が負傷し戦線を離脱している。
この情景を観た尾藤景綱は、平出弥三郎に命じて周囲の民家を取り壊して筏(いかだ)を作らせた。浅瀬を教えた老人を殺害したのも野蛮な話であるが、民家を解体するのもまた野蛮な話である。もっとも、それらの行為は戦場においてやむを得ないことであると判断されたのか、北条泰時や足利義氏は躊躇いを見せずに筏(いかだ)に乗って宇治川を渡っている。
この頃になると京都方は次々と渡河してくる鎌倉方に取り囲まれるようになり、ある者は討ち取られ、ある者は戦場から逃走した。
なお、このときの戦闘で興味深い記録がある。
百錬抄の六月一三日の記録によると、京都方の兵士達が兵糧を守ろうとし、鎌倉方の武士達が京都方の兵糧を奪おうとし、それが戦闘の勝敗を決めたというのである。おそらく鎌倉方の兵糧はギリギリなところであり、ここで京都方の兵糧を奪わなければ戦いは継続できなくなっていたであろうこと、それは京都方も同じで、ここで兵糧を奪われたならばもはや抵抗はできなくなったであろうことを示している。
劣勢となっただけでなく兵糧を奪われた京都方は総崩れとなり、ある者は討ち取られ、ある者は馬にも乗らず走って戦場から逃げていった。後鳥羽上皇から戦場へと派遣されていた貴族である源有雅と高倉範茂もまた戦わずに戦場から逃げ去り、戦場に残された八田知尚、佐々木惟綱、小野成時といった京都方の武士達は、右衛門佐藤原朝俊をこの戦場における大将軍に立てて鎌倉方に対して奮闘したものの力尽き、一人、また一人と戦場に散っていった。
戦場を離脱した京都方の兵士達も安心はできなかった。北条時氏は敗残兵を追いかけており、宇治川北辺の民家に逃げ込んだ京都方の残党は、民家に火を付けられたことであぶり出され、生け捕りになるか戦死するかのどちらかとなった。
京都方の大部分を割いて配備した宇治で鎌倉方に敗れたことは京都方にとって大きな損失であったが、もっと大きな損失であったのは、宇治以外の場所でもことごとく敗れ去ったこと、すなわち、もはや京都に攻め込もうとしている鎌倉方を武力で食い止める方法など何一つ存在しないと明らかとなったことであった。
瀬田で北条時房率いる鎌倉方の前に敗れ去った大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らが陣を棄てて帰京する道を選んだ。
淀と芋洗に人を構えた京都方は毛利季光と三浦義村によって撃破され、多くの者が淀川沿いを北に進んで京都へと逃れていった。
宇治を突破した北条泰時らは、鵜飼瀬、木幡、伏見を経て深草河原に陣を敷いた。もはや京都は目と鼻の先である。
鎌倉方が間近に迫っていることを知った京都方は、西園寺公経を通じて北条泰時のもとに三善長衡を使者として送り込むこととした。捕縛状態にあった西園寺公経を解き放つことでようやく後鳥羽上皇と北条泰時との間にコンタクトを取る手段が確立されたわけであるが、それはあまりにも遅すぎた。情勢は決着していたのである。
北条泰時から三善長衡への返答は二点に集約できた。
明日、入京する。
南条時員に命じ、西園寺公経の屋敷を守らせる。
以上である。
これで意味するところは判明した。
鎌倉方は京都に攻め込むのだ。
西園寺公経は鎌倉幕府のために奮闘し、捕縛されもしたのだから、その安全は守る。しかし、その他については何ら保証されるものではない。
鎌倉方が攻めてくるとの知らせを受けて騒然としている京都にやってきたのは、戦場で敗れ去った京都方の将兵達であった。藤原秀康や三浦胤義らは四辻殿に参上して、宇治と瀬田の合戦で敗北したこと、鎌倉方の武士たちが大挙して入京する形勢にあることを上奏した。また、大江親広は京都に戻らず、山城国と近江国の国境である逢坂関の東にある関寺付近で行方をくらましたために不在となっていた。
指揮官だけでなく一般の兵士達も京都に戻ってきていたが、戦場から生きて京都に帰ってくることのできたとしても、彼らをもう一度戦場に立たせるなど無理な話になっていた。捲土重来など期待していない。リベンジも期待していない。今となってはいかにして鎌倉方の目をかいくぐって生きていくか、あるいは、最後の抵抗を見せて命を落とすかのどちらかしか考えられなくなっており、その中に京都を守るために戦うという選択肢はなくなっていた。
なお、承久記によると、後鳥羽上皇は彼らを見捨てたとある。
たとえば、後鳥羽上皇の命令で戦い、戦場で敗れて京都まで逃れてきた三浦胤義は、六月一四日の夜中に後鳥羽上皇を頼ろうと後鳥羽上皇のいる高陽院にまで出向いたが、高陽院の後鳥羽上皇からの返答は、敗残兵が高陽院にいると鎌倉方が高陽院に攻め込んでくるから早々にここから立ち去れというものであった。この一言で三浦胤義は自らの選択の過ちを悟り、せめて最期は兄の手でこの生涯を終えようと覚悟して、平安京南部にある東寺に立て籠もり鎌倉方に抵抗することを決めた。勝つためではない。生き残るためではない。京都を守るためでもない。自分が死ぬために抵抗するのである。
一方、淀と芋洗を制圧して南西から京都へと向かっていた三浦義村は、弟が東寺に籠もっていることを当初は知らず、知った後も東寺に向かわなかった。「愚か者と渡り合っても無駄なこと」という冷たい態度は三浦胤義に現実を悟らせるに十分であったのだ。ここではじめて三浦胤義は和田合戦と比較することで自らの過ちを悟る言葉を述べたと承久記にある。それでも何とか兄の手で自らの最期を決めてもらおうと東寺から出て三浦義村率いる軍勢に襲いかかろうとするも、三浦義村のもとへ辿り着けず、三浦一族の佐原氏の軍勢と戦いを繰り広げるのが精一杯であった。
その戦いでも命を落とすことができず、三浦胤義は京都南西の木島里に逃れ、その地で息子の三浦重連とともに自害した。吾妻鏡によると三浦胤義の首はいったん太秦にある三浦胤義の郎従の家に置かれた後、兄の三浦義村に差し出され、北条泰時のもとに届けられたという。
後鳥羽上皇に門前払いを受けた武士は三浦胤義だけではなかった。そして、門前払いがどのような意味を持つかを悟った武士も三浦胤義だけではなかった。
門前払いを受けた武士の一人である渡辺翔こと源翔は、手勢を率いて入京してくる鎌倉方と戦って最後の抵抗を見せた後、大江山へと逃れていった。伝承によると大江山で自ら命を絶ったとあるが、公式記録における渡辺翔のその後の動静は不明である。
山田重忠もまた、渡辺翔と同様に名乗りをあげて鎌倉方と激しく戦い、実際に鎌倉方の武士を一五騎討ち取ったものの、山田重忠の軍勢の被害はより大きく、嵯峨まで逃れることはできたものの、追いかけてきた天野左衛門の軍勢と戦い、敗れ、自害を選んだ。
これから鎌倉武士がやってくる。
京都を守る武士はもういない。
北条泰時は、後鳥羽上皇らによって捕縛されていた西園寺公経の邸宅については守ると布告したものの、その他については何も記していない。
戦々恐々とした情勢の中、朝廷にできるのは鎌倉方に対して、限界まで譲歩を重ねた上で講和条件を結ぶことだけであった。
承久三(一二二一)年六月一五日の辰刻、現在の時制に直して午前七時から八時頃に、朝廷からの勅使の小槻国宗が、官掌二名、使部二〇名などの下級役人を伴い、仲恭天皇の名で発給された勅定を携えて、六条河原まで派遣されてきた。鎌倉方に対して朝廷からの条件を示すためである。この一団の中にはその中には源実朝の家司であった中原俊職も含まれていた。
北条泰時も北条時房も朝廷からの正式な使節であるため下馬の礼で小槻国宗を迎え入れ、小槻国宗の携えてきた勅定を承った。
勅定に記されていたのは三点。
北条義時追討宣旨の撤回。
都での乱暴狼藉禁止。
その他のことは鎌倉方からの要望に応じて聖断を下す。
以上の三点である。
北条泰時らは朝廷からの勅定を承諾し、鎌倉方の武士達に対して内裏への出入を禁止すると発表。また、三浦義村がこのタイミングで、宮中を守るためとして源頼重らを派遣した。源頼重の父の源頼茂は大内守護、すなわち内裏警護を務めていたキャリアがあり、源頼重自身も右近将監の官職を得ている。そのため、あくまでも経験のある者が官職に基づく職務を遂行するという前提で、宮中を守るために派遣されることとなった。
承久三(一二二一)年六月一五日の巳刻、現在の時制に直して午前一〇時頃に北条泰時らの軍勢が六波羅に到着。この時点ではまだ北陸道軍が到着しておらず、北陸道軍が到着したのは、六月一七日とする記録と六月二〇日とする記録とがある。記録のあやふやさはともかく、北陸道軍の到着が北条泰時らの六波羅入りより数日遅れたことは確実である。
なお、吾妻鏡にはこのときのエピソードとして、小槻国宗が携えてきたのは仲恭天皇の名で発給された勅定だけでなく、後鳥羽上皇から発せられた院宣もあったとしており、北条泰時以下五千騎余の武士の中から院宣を読むことのできる者として藤田能国が選ばれたというエピソードを載せている。後鳥羽上皇はこの院宣で、北条泰時に対して洛中で狼藉を行わないよう配下の武士たちに命令せよと述べており、御随身の秦頼武が、院中への武士の参入は既に禁じたという後鳥羽上皇の決定を伝えている。この二点については北条泰時も同意したというのが吾妻鏡の記載だ。なお、吾妻鏡はこの院宣の中に記された内容、すなわち、この戦いは後鳥羽上皇の「叡慮」で発生したものではなく「謀臣」が起こしたものであるという内容を記すことで後鳥羽上皇の責任転嫁を記しており、後鳥羽上皇の無責任さと他責思考を示すエピソードとして捉えさせようとしている。
なお、鎌倉方に対する乱暴狼藉の禁止については、かなり高いレベルで守られていたことは確認できているものの、問題発生はゼロではなく、六月一五日の夕刻に京都方の宿所のうち数カ所が放火されて焼失するという事件が発生している。また、当時の貴族の日記によると、鎌倉方の武士が京都方の敗残兵を探し出して次々に首を刎ねていたという。
そして、このように書き記している。
神武天皇より代々続いてきた皇室が間もなく終わりを迎えるのではないか、と。
結論から言うと、皇室は存続している。鎌倉方も皇統断絶など毛頭考えていない。ただし、対処は考えている。
翌日、北条泰時は鎌倉に向けて戦勝報告の書状を送った。
この瞬間、承久の乱の戦闘は正式に終了した。
北条泰時は戦勝者として京都と目と鼻の先の六波羅に入った。現在の六波羅は京都の一部であるが、この時代の六波羅は平安京の外であるために厳密に言うと京都ではない。そのため、平安京内の武装は正式な武官や検非違使のみに許されるというルールを北条泰時は守っていることになる。
ただ、今後も平安京の中に軍隊が攻め寄せないことを意味するものではない。鴨川を渡った六波羅に詰めかけている大軍がいつでも平安京の中に突入できる状態が続いているため、戦いで敗れた者の命運は北条泰時ら鎌倉方の手に握られることとなったのである。
北条泰時は合議の席で、疑わしい者の刑は軽くすることを主張し、温情措置とすることで合意を形成した。たとえば高倉範茂に従って宇治川の戦いに赴いた清水寺の僧の敬月は、常陸房、美濃房の二人の弟子とともに捕縛され斬首となるところであったが、和歌を泰時に献じたことから遠流への減刑となっている。
ただし、勝者の赦しは敗者のプライドを壊すことがある。勝者が敗者を残虐に扱えば扱うほど敗者は死後の名誉回復をより強く期待できるようになるし、敗者の親族や子孫は勝者に対する怨嗟を正当化できるようになる。それなのに、敗者を赦そうものなら怒りのぶつける先がなくなるのだ。鴨川東岸の鷲尾、現在の円山公園音楽堂のあたりに身を潜めていた佐々木経高に対して北条泰時は使者を派遣し、鎌倉に書状を送って恩赦を申請すると伝えたのであるが、佐々木経高はこの温情でプライドが壊され、自ら死を選ぶこととなった。
吾妻鏡は北条泰時のこのような温情措置を、そして、温情措置を受け入れる、もしくは拒否する鎌倉武士達の姿勢を書き記す。しかし、同時代の貴族の日記によると鎌倉方の手による敗残兵の掃討作戦は苛烈を極めたという記録もあり、承久三(一二二一)年六月一九日に藤原秀康以下を追討せよという仲恭天皇の名で発せられた宣旨が京畿諸国に布告されたことで、残党討伐は朝廷の正式な指令に基づく行為となった。
宣旨が発給された六月一九日に錦織義継が佐野太郎らによって六波羅で捕縛され、翌六月二〇日には神地頼経が貴船付近で生け捕りにされた。
さらに逃走した者の本拠地が平安京から遠くにある者に対しては、その本拠地に対して、承久の乱で京都方の一員として参戦した者が帰郷したならば討伐するよう指令が飛び、平安京近隣に潜んでいると話が出た者は捜索隊が派遣された。この討伐は長く続き、六年後の嘉禄三(一二二七)年六月まで討伐により捕縛したことの記録が確認できる。
北条泰時には残党討伐と並行して進めなければならないことがあった。なお、北条義時の一存ではなく北条時房との共同作業である。
それは、功績を残した武士に対する評価である。
ほぼ全ての武士が自らの勲功を訴え出て、功績に見合った所領を求めたのである。吾妻鏡によると、承久三(一二二一)年六月一七日に宇治川の戦いの先陣を巡って芝田兼義と佐々木信綱とが争ったという。一番乗りの功績をめぐっての争いである。先に宇治川を入っていったのは芝田兼義であるが、先に宇治川を渡りきったのは佐々木信綱である。芝田兼義にしてみれば自分が宇治川の浅瀬についての情報を手に入れたから宇治川を渡り切れたのであるが、先に敵陣にたどり着いたことのほうがより高く評価されるべきことであるという判決が出て、軍配は佐々木信綱に上がった。この判断に対し芝田兼義は不満を隠せなかったという。
評価そのものについては北条泰時や北条時房が下したが、下した評価や戦闘のとりまとめ記録である交名(きょうみょう)は、後藤基綱が中心となり、関実忠や、金持兵衛尉の協力のもと作成され、まずは北条泰時に提出し、六月一八日に恩賞審理のために鎌倉へと送られた。
この交名(きょうみょう)を吾妻鏡は詳細に書き記す。
鎌倉へ書状を送ったのは、第一報が承久三(一二二一)年六月一六日、第二報、すなわち交名(きょうみょう)が六月一八日である。できる限り早急に鎌倉に届けるとしても、鎌倉からの返信が来るのは早くても月末、順当に行ったとしても七月初頭である。
つまり、鎌倉から戦後処分についての指令を記した書状が来る前に、北条泰時と北条時房は、京都でできる範囲について動き始めなければならなかった。残党討伐は当然であるが、鎌倉方の支配下に置かれることとなった面々についての処遇も決めなければならない。
これが普通の戦いであれば何ら問題ない。しかし、今回は皇族の面々を敵に回した戦いであり、しかもその戦いに勝利したのである。上皇も、親王も、六波羅に駐在している鎌倉方の武士達の支配下ということになってしまったのだ。
鎌倉からの回答が来るまでの間、北条泰時らは前例のない行動を選ばねばならなかったのである。
まず、六月一九日に後鳥羽上皇を四辻殿に移して武士達の監視下に置くと同時に、土御門上皇、順徳上皇、雅成親王、頼仁親王を本来の御所に戻した。四辻殿を含むそれらの御所の警備は、名目上は検非違使とその部下である武士達が務めるということになっているが、実際には鎌倉方の武士達に見張られているのと同じである。
後鳥羽上皇を四辻殿に移したことで、院御所である高陽院殿は無主の邸宅となり、高陽院殿に武士がいるならばそれは敗残兵ということになった。敗残兵が待っている運命は斬首だ。しかも、高陽院殿の周囲は鎌倉方の武士が警護をするが中には入らない、ということになっている。中には不届き者がいて、高陽院殿に忍び込んで略奪に手を染めようと考えた者がいるかもしれないが、そうした者がいたならば、単なる盗賊ではなく敗残兵として直ちに首を切られることとなる。その者がいかに承久の乱で功績を残そうと関係ない。犯行に走った瞬間に敵の残存勢力と見做され首を切られるのである。これで誰が犯罪に手を染めようか。
六月二〇日、仲恭天皇が閑院内裏に還御したことで、実質的にはともかく理論上は通常の政務が再開可能となった。ただし、内裏に参内できる貴族は極めて限られた。後鳥羽院の側に立たなかった貴族でなければ参内できず、後鳥羽院の側に立った貴族は鎌倉方の武士達の監視下に置かれ続けたのである。
六月二四日、藤原光親、源有雅、中御門宗行、高倉範茂の四名の貴族が六波羅へ移送された。後鳥羽院の側に立って積極的に発言し行動していた四名である。
六月二五日、坊門忠信、一条信能、僧侶の長厳、同じく僧侶の観厳らが、前日に移送された四名の次に後鳥羽院の側の中心を担っていたとして六波羅へと移送されることとなった。
こうして六波羅へと移送された貴族達は、武田信光、小笠原長清、小山朝長、北条朝時、千葉胤綱、結城朝光、遠山景朝といった鎌倉幕府の有力御家人のもとに預けられる身となった。
北条泰時から鎌倉に送られた戦勝報告が鎌倉に到着したのは、承久三(一二二一)年六月二三日の未明、丑刻というから今で言うと夜中の二時頃である。
息子から届けられた戦勝報告を読んだ北条義時は喜びを爆発させたという。五月二二日に北条泰時らを派遣させてからの北条義時は、戦勝と平穏を祈る祈祷を、鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、大慈寺で開催させており、六月八日には北条義時の邸宅の建物の一つに雷が落ちて、その建物で働いていた者が一人亡くなったという事故が起こっており、これを凶事と考えた北条義時に対して大江広元が、源頼朝の奥州遠征時にも陣営に雷が落ちたことがあったが、奥州遠征は勝利に終わったことを例に挙げて、このたびの落雷は凶事ではなくむしろ吉事であるとしただけでなく、陰陽師達に占いをさせて「最吉」であるという占い結果を伝えさせている。動揺を隠せない一ヶ月を過ごしていた北条義時に対して届いたこれ以上ない吉報は、北条義時を狂喜乱舞させてもおかしくない。
なお、吾妻鏡にはこの時に北条義時が喜びを爆発させたことが書いてあるのみで具体的な姿を描写してはいないが、承久記には北条義時がこれまでの鬱憤を晴らすかのように、「今は義時、何も思うことがない。義時の果報は王の果報より優れていたのだ。この世に生まれる前の前世の行いに足らないところがあったから武士のような低い身分に生まれたに過ぎなかったのだ」と述べたという。これが本当なら無礼極まりない発言であり、これを聞いた人は北条義時の驕りを感じることがあっても、これで新しく北条義時への支持を決めた者などいないであろう。
承久記は喜びを爆発させたあまりにとんでもない発言をしたと書いてあるが、吾妻鏡には喜びを爆発させたのちに、敗者となった京都の面々をどのように扱うかの会議を開いたとある。北条義時のこれまでの行動を考えたならば、喜びの爆発まではあってもそこまで無礼な内容ではなく、その後の会議招集を最優先に考え、会議に専念したであろう。
前例踏襲の時代であり、この時代に承久の乱の勝者の取りうる先例となると、源平合戦終結後の文治元(一一八五)年のこととなる。大江広元は源平合戦の前例をもとに京都に対する処遇を提唱し、この処遇を鎌倉幕府の首脳部の面々が了承したことで、ただちに鎌倉から京都へと使者が派遣されることとなった。
この時点での内容は以下の通りである。
まず、後鳥羽院政は終わりとし、後鳥羽上皇の兄である持明院宮守貞親王を新たな院として院政を開始させること。
また、仲恭天皇は退位させ、守貞親王の子である三郎宮茂仁親王を新たな天皇として即位させること。
本院後鳥羽上皇は隠岐国へ流罪とすること。
雅成親王と頼仁親王も流罪とするが、流罪先は北条泰時に決定させること。
後鳥羽院の側に立った者のうち、公卿ならびに殿上人は関東地方へ向かわせ、それより下の身分の者は全て斬首とすること。
一方、後鳥羽院の側に立たなかった者は手厚く保護し、特に近衛家実、九条道家、七条院殖子、六条院、仁和寺宮道助法親王、徳大寺公継、中山頼実、そして鎌倉方に通じているとして捕縛された西園寺公経の邸宅とその周辺は厳重に警備すること。
鎌倉方の武士達にはいかなる乱暴狼藉も禁じ、略奪や暴行をやらかした者がいるなら問答無用で斬首とすること。
北条時房は京都に駐在させ、北条泰時と北条朝時の両名は鎌倉へと帰還すること。その際、源平合戦期の養和の飢饉を繰り返さぬよう、北条朝時は北陸道七ヵ国の支配を固め、京都への物資搬入路を維持し、平安京内外での食糧難を起こさせないこと。
なお、北条朝時は鎌倉からの指示に従い北陸道へと向かったが、北条泰時についてはこののちも京都に滞在し続けていたことが記録より確認されている。北条泰時は鎌倉からの命令のうちの一つを無視したわけであるが、それによって北条泰時が何かしらの処罰を受けたということはなく、何事もなかったかのように京都に留まって淡々と実務を処理し続けたことで京都の平穏を作り出したので、このあたりの現場裁量の自由度と、命令を無視したとしても結果を出したなら何ら問わないという姿勢も、鎌倉方の勝利の一因ともいえよう。
鎌倉を出発した使者が京都に到着したのは承久三(一二二一)年六月二九日である。使者の携えた書状をもとに、北条泰時、北条時房、三浦義村、毛利季光らが評議を行い、鎌倉からの指令を実行することとなった。
七月一日、六波羅に預けられていた貴族らが鎌倉へと護送されることが決まった。
翌七月二日、鎌倉幕府の御家人でありながら京都方の一員となっていた、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範らが梟首(きょうしゅ)となった。
七月五日、鎌倉へ護送される途中であった一条信能が、鎌倉へ向かう途中の美濃国遠山荘で斬首となった。なお、一条信能の甥の一条信継は鎌倉への護送ではなく配流となっており、丹波国芦田で斬首されている。
七月六日、後鳥羽上皇の身柄が平安京内の四辻殿から平安京の南の鳥羽離宮へと移された。このときの後鳥羽上皇を乗せた牛車の後ろには、西園寺実氏、藤原信成、藤原能茂の三名が騎馬で付き従っている。これまで何度も鳥羽離宮を訪れたことのある後鳥羽上皇も、これまでのような遊興としての御幸ではなく、軟禁のための御幸であることを理解して陰鬱な様相であったという。
七月八日、持明院宮守貞親王に太政天皇号を奉り、守貞親王、いや、後高倉法皇を新たな治天の君とする新たな院政をスタートさせた。不登極帝(ふとうぎょくてい)、すなわち、帝位経験のない皇族が上皇として治天の君となる異例の院政、後高倉院政のスタートである。後高倉法皇は寿永二(一一八三)年に平家の手によって兄の安徳天皇とともに西へと連れていかれ、安徳天皇と違って無事に帰京できたものの、皇位に就く機会を失い、出家して持明院を御所とし持明院入道行助と名乗っていた。その人物に対して鎌倉幕府は、帝位に就いた経験を持たぬまま太政天皇号を奉り院政を取り仕切らせることとしたのである。後の後醍醐天皇のように院政は不要で、天皇親政こそこの国のあるべき統治スタイルであるとは誰も考えなかったのであろう。この後高倉法皇は現在に至るまで史上唯一の帝位に就いたことのない上皇として名を残すこととなる。
同日、鳥羽離宮で後鳥羽上皇の肖像画が描かれた。描いたのはこの時代の似絵(にせえ)の名手として名を馳せていた藤原信実である。現在も大阪の水無瀬神宮に所蔵されている後鳥羽上皇の肖像画はこのときに描かれたものである。なお、肖像画の後鳥羽上皇は僧体でないが、後鳥羽上皇はまさにこのタイミングで息子である仁和寺宮道助法親王を戒師として出家しており、僧体でない肖像画ができあがった頃は、後鳥羽上皇、いや、出家したのであるから後鳥羽法皇はもう俗人ではなくなっていた。歴史資料によると、この日に鳥羽離宮を訪れた後鳥羽法皇の母の七条院殖子は、息子が出家したことを知り、また、出家しようと世俗の身であろうと、これから間も無く迎える運命は決まっていることを悟り、涙を懸命に堪えて帰っていったという。
承久三(一二二一)年七月九日、仲恭天皇が退位し、後高倉院の息子である茂仁親王が天皇に即位した。後堀河天皇の治世の開始である。このとき、後堀河天皇一〇歳。仲恭天皇の退位に併せて摂政九条道家も摂政を罷免となり、前関白近衛家実が後堀河天皇の摂政に就任した。
仲恭天皇は即位から退位までわずか七八日と、現時点でもっとも治世の短い天皇であり、また、明治維新まででは史上唯一、在位期間が一年に満たない天皇とされていた。史上唯一ではなくなったのは、明治三(一八七〇)年に大友皇子を正式に即位していた天皇であるとし、漢風諡号である弘文天皇の諡号が贈られるのを待たねばならない。
さらに言えば、仲恭天皇は即位礼も大嘗祭を執り行わなかったことから正式な諡号が贈られることはなく、現在に生きる我々は仲恭天皇と呼んでいるものの、当時の人はそう呼ばなかった。「九条廃帝」「承久廃帝」「半帝」「後廃帝」が仲恭天皇に対する呼びかたであり、仲恭天皇の諡号が贈られたのは、前述の弘文天皇と同じく明治維新後である。ただし、即位していたかどうかの議論まで起こり結論は明治維新まで待たねばならなかった弘文天皇と違い、仲恭天皇は正式に即位していたことは誰もが認めており、ただ単に、諡号が贈られていないだけという認識であった。
仲恭天皇の退位については多くの人が反発した。たしかに後鳥羽上皇の策略によって帝位に就いたのは事実である。そして、北条義時追討の宣旨も仲恭天皇の名で交付されている。責任を全くのゼロであるとするのはできない。それが為政者に課された責務であると言えばその通りである。だが、仲恭天皇はまだ四歳の幼児だ。まだ四歳の幼児が自発的に何かできようか。
仲恭天皇の退位について強い反発を見せたのが、愚管抄の作者でもある慈円である。慈円は後鳥羽上皇の挙兵を激しく非難し、鎌倉方の勝利を喜んでもいたが、ここで仲恭天皇を退位させるというのは納得がいかず、ただちに帝位に復すことを求める願文を鎌倉に送り届けている。
だが、慈円の書状も鎌倉幕府を動かす効果はなく、仲恭天皇は退位したのち、自分の摂政を務めていた九条道家の邸宅に引き渡され、その地で残りの人生を過ごすこととなった。
承久三(一二二一)年七月一〇日、北条泰時の息子の北条時氏が鳥羽離宮を訪問し、後鳥羽法皇に対して隠岐への流罪を正式に告げた。承久記によると、後鳥羽法皇が出家したのは七月八日ではなく七月一〇日であるとしており、一度目の流罪告知を後鳥羽上皇は理解せず、二度目でようやく理解し、ここでせめて最後に会いたい人がいるとして伊王左衛門能茂こと藤原能茂を呼び寄せたところ、後鳥羽上皇の願いを聞き入れた北条泰時が藤原能茂を呼び寄せた上で藤原能茂を出家させ、僧体で鳥羽離宮へと向かわせたという。藤原能茂と対面した後鳥羽上皇は、藤原能茂が出家したことを目の当たりにして自分も運命を迎える時が来たと実感し、息子の仁和寺宮道助法親王を戒師として出家したという。その際に切り落とした髻(もとどり)は母の七条院殖子に届けられ、ここで七条院殖子は息子の迎えた運命を悟って嘆き苦しんだとある。ただ、このあたりは承久記の創作の可能性が高く、日付が不整合を起こしているのも承久記の特徴といえよう。
七月一三日、後鳥羽法皇の隠岐への移送が始まった。
後鳥羽法皇の身柄は伊東祐時に預けられ、伊東祐時は後鳥羽法皇を四方(よも)の逆輿(さかごし)に乗せた。四方(よも)の逆輿(さかごし)とは輿を進行方向と逆にする罪人護送時の輿の使い方であり、後鳥羽法皇を四方(よも)の逆輿(さかごし)で移送することは、後鳥羽院が完膚なきまでに敗れ去ったこと、時代は鎌倉幕府のものになったと見せつけるこれ以上ないアピールになった。
また、御鳥羽法皇の周囲につき従う人の少なさも時代の移り変わりを実感させた。供奉(ぐぶ)したのは、出家して僧体となっていた藤原能茂、同じく出家して僧体となっていた高倉清範、坊門信清の娘で頼仁親王の母である西ノ御方(にしのおんかた)をはじめ、名の伝わっていない二名の女性の計五名であったという。なお、隠岐への護送途中で後鳥羽法皇が命を落とした場合に備えて聖(ひじり)が二名付き従っていたとの記録もあるが、その人達を含めても合計七名である。なお、吾妻鏡によると藤原能茂は従っておらず、高倉清範は途中で京都への帰還を命じられ、代わりに和気長成と藤原能茂がやってきて後鳥羽上皇に付き従うこととなったという。ちなみに、藤原能茂と同様、和気長成も出家した身であるため、このときは僧体である。
七月一四日、中御門宗行が駿河国藍沢原で斬首された。
七月一八日、高倉範氏が相模国早河で伏漬(ふしづけ)にされた。これは、身体を拘束して重石(おもし)をつけ、水中に沈めるという処刑方法である。
鎌倉へと護送せよと命じられた人の多くは鎌倉までたどり着く前に鎌倉武士達の手によって運命を迎えさせられていたのである。
これらの知らせは多くの貴族や僧侶を絶望させたが、たった一つだけ希望があった。北条政子をはじめとする鎌倉幕府の重要人物に慈悲を乞う手紙を送るのである。うまくいけば命が助かる可能性があるのだ。
こうして助かった者も中にはいたが、無事に京都に戻ることのできた者だけではない。死ではなく流罪となった者もいたし、慈悲を乞う手紙を送り届け、その返信がまさに送られている途中であるのに、返信が届く前に死を強要された者もいた。
それが承久の乱の敗者の運命である。
鎌倉幕府の慈悲を期待できない者が選んだのは、徹底した逃避行であった。
流罪となったのは後鳥羽法皇だけではない。
七月二〇日、順徳上皇が佐渡へと配流になった。順徳上皇には一条能氏、藤原範経、源康光の三名のほか、名が伝わっていない二人の女性が同行したとある。ただし、一条能氏は佐渡へ向かう途中で病気になり京都へ戻され、藤原範経も途中で重病となり越後国寺泊に留め置かれることとなった。
七月二四日、六条宮雅成親王が但馬国へ、翌七月二五日には冷泉宮頼仁親王が備前国へ配流となった。
なお、三人の上皇のうち土御門上皇については承久三(一二二一)年七月時点で鎌倉幕府は何ら処断していない。さらに言えば、そもそも土御門上皇については有罪としない方針でいた。しかし、後鳥羽法皇も順徳上皇も配流となったのに自分一人だけが無罪でいることは許容できないとして、土御門上皇自身が配流を希望したという。吾妻鏡によれば、鎌倉幕府として関知せぬという前提で土御門上皇が自分の意思で土佐国へと渡り、のちに阿波国へと自分で自分を配流したというのが吾妻鏡の記載である。
時代は後高倉院政を迎えるようになっていたが、その背後には六波羅に駐留し続けていた鎌倉方があった。北条泰時は三年後、北条時房も四年後まで六波羅に滞在し続け朝廷に目を光らせるようになっていたのである。
その後も北条家の誰かが六波羅に常駐し、京都を監視すると同時に西日本各地に目を光らせる体制が構築された。京都守護はその役職を終え、新たな役職である六波羅探題が誕生したのである。
白河法皇以後、朝廷で生きるために必要なのは院とのつながりと藤原摂関家とのつながりのどちらか、あるいはその両方であったが、承久の乱の後は、そのどちらも重要ではなく、鎌倉幕府とのつながりこそが幅を効かせるようになった。鎌倉幕府に親しいという理由で乱の勃発直後に捕縛された西園寺公経は、承久の乱を終えると鎌倉幕府の権勢を背景に朝廷権力を上り詰めていくこととなる。内大臣を経て従一位太政大臣へと上り詰め、ついには西園寺公経個人の持っていた鎌倉幕府とのつながりが朝廷の正式な職務である関東申次となっただけでなく、西園寺家が関東申次を世襲することで、藤氏長者の地位を争っていた近衛家と九条家に匹敵する権勢を手にすることとなる。
鎌倉幕府誕生から二九年、鎌倉幕府は東国の政治勢力から、日本全体を掌握する巨大勢力へとのしあがり、平安時代は終わりを迎え鎌倉時代が始まることとなる。
それから七世紀半、日本国は武士が統治する時代を経験することとなる。
― 完 ―