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一号館一○一教室

国木田独歩 著『武蔵野』

2026.03.17 01:23

富士の嶺かすむ
武蔵野に


778時限目◎本



堀間ロクなな


 光あかるく降りそそぎ

 富士の嶺(ね)かすむ武蔵野に



 わたしの母校、東京・小平市の第七小学校の校歌(古関吉雄作詞)の冒頭部分だ。この歌詞にあるとおり武蔵野を郷土とする自分にとって、明治時代の不遇の作家、国木田独歩が著した『武蔵野』(1901年)にひときわ親しみを覚えるのは当然だろう。その書き出しにはつぎのような文章が見られる。



 昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしてゐたやうに言ひ伝へてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といつて宜(よ)い。則ち木は重(おも)に楢(なら)の類で冬は悉(ことごと)く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出づるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行はれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨(しぐれ)に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するその妙はちよつと西国地方また東北の者には解し兼ねるのである。元来日本人はこれまで楢の類の落葉林の美を余り知らなかつたやうである。



 独歩は千葉県に生まれ、家庭の事情で広島県・山口県で育ち、東京専門学校(現・早稲田大学)で学ぶため上京して、学友の感化によりキリスト教の洗礼を受ける。その後、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者として日清戦争の従軍記を発表するなどしたのち、結婚生活の失敗を経て、1896年(明治29年)、25歳の年に東京府豊多摩郡渋谷村(現・渋谷区)に居を定めて作家活動に取り組んだ。そんなかれの目に映った武蔵野とは、第一に落葉林を特色とするものだったというのだ。



 わたしも心から同意する。小平第七小学校にあがったのは1965年(昭和40年)、前年に開催された東京オリンピックが引き金となって渋谷をはじめ山の手は都市化が進んだものの、校外の多摩地区にはまだ武蔵野のたたずまいが濃厚に残っていた。小学校を取り巻く界隈でもあちらこちらに雑木林が生い茂り、独歩の筆がしたためように四季折々の表情を見せながら、子どもたちに格好の遊び場所を提供したものだ。



 それだけではない。雑木林を抜けると、その向こうにはときとして別天地が開けるのだった。独歩もよほど強い印象を受けたようで、夏の盛りの一日、小平と隣りあう小金井の堤に立った遠望した光景をこんなふうに描いた。『武蔵野』のなかでわたしが最も気に入っている文章だ。



 空は蒸暑い雲が湧きいでゝ、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲の間の底に蒼空が現はれ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬(たと)へがたき純白な透明な、それで何となく穏かな淡々しい色を帯びてゐる。そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。たゞこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁(にごっ)た色の霞のやうなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差(しんし)、任放(にんぽう)、錯雑の有様となし、雲を劈(つんざ)く光線と雲より放つ陰翳とが彼方(かなた)此方(こなた)に交叉して、不羈奔逸の気がどこともなく空中に微動してゐる。林といふ林、梢といふ梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔てゐる。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える。野良一面、糸遊(いとゆう)上騰(じょうとう)して永くは見つめてゐられない。



 幼いわたしも確かに目にしたはずだ。怖いほどに青く澄み切った空と、関東ローム層の赤茶けた地面がえんえん広がる光景を。その天地を裁断するように西武新宿線の鉄路が貫いて、定期的に赤のツートンカラーに塗られた車両の列が通り過ぎるなか、わたしは畑の畦道をわけもなく往復してみたり、クワの木に登って野生のカイコが葉っぱを貪るのを眺めたり。あるときは、初めて出くわした池で子どもにとっては悪役スターの水中生物、タガメ(カエルやフナをつかまえて血を吸う)を手に入れ、その場所は仲のいい友だちにも決して教えなかったことも……。なんと懐かしい思い出、それともあれは夢か幻だったのか?



 独歩は『武蔵野』を執筆するにあたって、二葉亭四迷が翻訳したロシアの文豪ツルゲーネフの『あひゞき』の自然描写を下敷きにしたと記している。その意味では、たんに武蔵野を「観察」したのではなく、むしろ近代文学の力によって武蔵野を「発見」したといったほうが近いのだろう。記録によると小平第七小学校が開校したのはそれから60年余が経った1967年(昭和37年)のことで、もし独歩の存在がなかったなら校歌は違う歌詞になっていたのかもしれない、とわたしはいまにして思いめぐらしている。