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Okinawa 沖縄 #2 Day 297 (18/02/26) 石垣市 旧大浜間切 (5) Hirae Village 平得村

2026.02.19 14:55

旧大浜間切 平得村 ( ピィサイ、ひらえ)

小字 中村 (ナカムラ)

小字 平得 (ピィサイ)

小字 田原 (タバル)

小字 西原 (イーバル)

小字 西上原 (イーリィウィバル)、中上原 (ナカウィバル)、東上原 (アーリィウィバル)

小字 地底 (ギシュク、ジスク)

小字 大俣 (フーマタ)

小字 山田 (サンダ)


大浜間切 平得村 (ピィサイ、ひらえ)

平得村 (ピィサイ、ひらえ) は登野城村 (トゥヌスク) の東に位置し、南北に細長い村域をなし、北は於茂登岳 (ウムトゥ) の南に連なる山地で、南端にある集落は道路を挟んで真栄里村 (マイザトゥ) と接する。

伝承では村落発祥の地は宮良川 (メーラガー) と支流底原川 (スクバルガー) の合流地の南側、平喜名原 (ヘーギナーバル) の平喜名遺跡で、そこから南の新城原 (アラスクバル) の平得新城村遺跡、ナカンドゥ原の仲本御嶽 (ナカモトオン) 遺跡などを経て現在地に定着したという。

一時期には石垣間切登野城村の管轄下にあったが、1692年に黒島ふしいま、保里ぷり二ヵ村から220人を寄百姓して独立している。

その後人口は急激に増加し、1737年には1,539人となり、当時では、石垣村、登野城村に次いで三番目に多い村だったが、1900年代前半では石垣四字 (石垣、新川、登野城、大川) 地域で人口が著しく増加していたが、平得、真栄里では微増する程度だった。1972年前後のドル高、オイルショック等の不況で石垣島を離れる人が増加し、人口は減少、その後平得、真栄里は開発され、人口は増加に転じている。その人口増加は真栄里では堅調に続いていたが、平得では1980年以降には鈍化し、1998年には真栄里に人口は抜かれ、現在では7番目にまで落ちている。

1771年の明和大津波で村は跡形もなく波に洗われ、当時の人口1,178人の内560人が溺死している。死亡率は47.5%で生存者数は618人だった。八重山蔵元はこの生存者数であれば村の再建が可能として、離島からの寄百姓の強制移住はなく、そのままの人口で村の再建が行われた。



小字 中村 (ナカムラ)

平得集落の南域一帯で、字 真栄里と隣接している。平得と真栄里の間に位置していることから一帯はナカムラと呼ばれ、これが小字名となっている。この地域は地図を含んだ資料や真栄里の東ヌ井戸(アーンヌカー) の場所に建てられている真栄里節歌碑にはこの中村は腰当て (ユキサディ、クサティ) と詠っている事から、かつての真栄里集落の一部だった様にも思える。かつては真栄里と平得は一つの村だったので、境界は便宜上決められたのかも知れない。


南風之井戸 (パイナーカー)

小字 中村の中程に南風之井戸 (パイナーカー) が残っている。この井戸は平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで利用されたウリカー (降り井戸) で琉球石灰岩の岩盤を削って作られた石段を降りた所に井戸がある。掘られた年代は明らかではないが、宇里家 (ウーリヤー) の七兄弟が村民の為に、この井戸と新本井戸 (アラントゥカー) を掘ったという。昼間に宇里家 (ウーリヤー) の七兄弟が掘り、夜は神が掘り、この井戸が完成したという伝承がある。このパイナーカーの名の由来は、ムラの 「南 (パイ) 」 に位置することから、急勾配で 「這って」 登ったから、急勾配で 「張縄」 を使って登ったからなどと言われている。

また、井戸の周辺からは多くの鉄津や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られている。

昔は毎年九月の節祭の四日後、定期的に村民による井戸崇べ (カータカビー) と井戸浚え (カーサライ) が行われていた。


福山御嶽 (イナシキオン)

小字 中村の東端、平得交差点の西側に一段低くなっている木立の中に福山御嶽 (イナシキオン) が置かれている。この御嶽 (オン) は平得村の浦本家一族の氏御嶽になる。昔、浦本家の祖が不思議な火を三日間続けて見たことから、神のいる霊地であるに違いないと思い、イビを建てて拝むようになったという。神司 (カンツカサ、チィカサ) は現在に至るまで、代々、浦本家から出ている。


蔵原御嶽 (クラバルオン)

小字 中村から東の字真栄里の小字 撫原 (ナディバル) に蔵原御嶽 (クラバルオン) があり、真栄里集落訪問記で触れているが、この御嶽 (オン) は平得村の拝所なので、ここでも記載しておく。蔵原御嶽 (クラバルオン) は平得村の蔵盛、浜元、高嶺の三家の先祖が一緒に多田浜の海で潮干狩りをしていたところ、そこに海から不思議な石が流れてきた。その石は神が宿る霊石であると思い運んできたところ、その地で重くなり動かなくなったことからそこに石を置き御嶽として拝むようになったと伝わっている。


小字 平得 (ピィサイ)

小字 中村 (ナカムラ) の北が小字 平得 (ピィサイ) で、昔の平得村の大部分がこの地域に広がって入り、村の中心部だった。


東ヌ井戸 (アーンヌカー)

福山御嶽 (イナシキオン) から国道390号線の平得交差点を北に渡ると小字 平得でかつての平得村が広がっていた地域になる。ここはその平得村の東の端にあたり、村を抜けた所で東ヌ井戸 (アーンヌカー) があった。カーバンヤヌカーとも呼ばれ、村に四つあった共同井戸だった。水道が敷設される迄は日常生活に利用され、毎年九月の節祭の四日後、定期的に村民による井戸崇べ (カータカビー) が催されて、祈願と井戸とその周辺清掃が行なわれていた。 沖縄本島の井戸御願 (カーウガン)、井戸浚え (カーサライ) に相当する。道路沿いにある井戸は埋められて形式保存されている。


番所跡 (オーセ)、平得公民館

東ヌ井戸 (アーンヌカー)の前の国道390号線を少し西に進み、北へ入った所に平得公民館が建てられている。公民館のある場所には琉球国時代の番所 (オーセ) が建てられていたが、1897年 (明治30年) に蔵元が廃庁となった際に村番所も廃止となっている。この公民館では豊年祭、旧盆獅子舞、種取祭などが行われている。


平得火の神 (ピサイピィナカン)

平得公民館の広場の南東端に祠が建てられて、中には竈をかたどった3個の石を村番所 (オーセー)の火ヌ神 (ピィナカン) として祀っている。


大阿母御嶽 (ホーツザーオン、オオアモオ)

公民館のすぐ北側に大阿母御嶽 (ホーツザーオン、オオアモオ) がある。ここには多田屋遠那理 (タダヤブナリ) の墓だったが、後に御嶽 (オン) として信仰される様になった。多田屋遠那理 (タダヤブナリ) は平得村の生まれで、1500年の遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) の乱では長田大主の妹の真乙婆 (マイツバ) とともに王府軍についている。乱平定後王府軍が本島に渡航する際に、美崎山中で航海の無事を断食祈願し衰弱した真乙婆 (マイツバ) を祈りで真乙婆を救ったという。この時の様子の言い伝えがある。

多田屋遠那理は豆腐作り用の潮水を汲むために、美崎山の小道を通って行った。そして失神状態にあった真乙地を発見、生米の汁を与えてこれを助け、この功績で、1502年に尚真王から八重山初代の大阿母 (ホーツザー、オオアム) に任命されている。

また、首里への上国の際に遭難し安南 (ベトナム) に漂流し、米種子 (マイダニ) と粟種子 (アーダニ) を持ち帰ったとされている。その際に船が着いたのが真栄里の多田大浜 (ターダホーマ) で、そこにある大岩は多田御嶽 (ターダオン) として拝まれている。この事で、多田屋遠那理は安南大阿母 (アンナンホーツザー) とも呼ばれていた。平得村に伝わっている話では

昔、多田ヲナリという神が、沖縄本島に行き、八重山に戻る時に安南に流されて、そこに二十日間滞在している間に、親切な人に会い、「あなたたちが島に帰る時に、お土産を持たそうと思っているが、何が欲しいか」 と聞かれ、「私たちの島には、栗も米も麦も無く、ここではそれらが豊かに稔り食べているのを大変羨ましく思っている」と答えた。「それなら、米種子、粟種子、麦種子を持たせるので、島に持って帰り栽培しなさい」 と言い持たせてくれた。更に「四箇村の龍宮の神前方に、馬艦船の浮け所があり、そこに」 と言って去っていった。その場所が良くわからなかったために、真栄里の多田浜に着いた際に、この多田浜が 「そこ」言っていた所と思った。それ以降、多田浜から担いで村に行き、種子取りをする様になった。それから村では稲作して米を食べるようになった。

この大阿母御嶽は平得村の年中祭祀の中心をなしており、豊年祭 (プール)、結願祭、種子取祭などが行われている。種子取祭では、一日目に大阿母御嶽で夜籠りを行い、二日目の早朝に多田浜の多田嶽で五穀豊穣と無病息災の祈願を済ませた後、大阿母御嶽に戻り、その前庭で奉納芸能が行われる。御嶽の前の道路では、あでやかな 「スディナ」 と 「カカン」という衣を着て、花笠をかぶった女性が馬に乗って健脚を競う潟原馬 (カタバルンマ) の疾走も演じらられている。


大阿母御嶽之井戸 (ホーツザーオンヌカー)

大阿母御嶽の南側には大阿母御嶽之井戸 (ホーツザーオンヌカー) が残っている。マイヌオンヌカーとも呼ばれ、大阿母御嶽への産水 (シィディミジィ) や神ヌ手水 (カンヌチョージィミジィ) を捧げる井戸であったと思われる。


月夜浜節歌碑

大阿母御嶽東側は広場になっており、祭祀行事などでお祭りが行われる。この広場の一画に月夜浜節歌碑が建てられている。月夜浜節の創作者とされる新本家祖先の遺徳を偲び、平得の繁栄を祈念して 2006年に建立されたもの。新本家の祖先が大野岳麓を開拓して綿を栽培していた時、綿の花が満開しているのが満月の夜の浜辺に似ていると感じ「月夜浜ユンタ」を詠んだという。その後、1758年に平得村与人 (村長) の黒島当応がこの月夜浜ユンタをもとに「月夜浜」に改作改曲し、八重山の古典音楽として広く唄い継がれる事になった。

月夜濱だぎに (月夜の浜のように真っ白い)
岸ぬ浦ぬ木綿 (岸の浦の木綿畑)
木綿花 作くてぃ (木綿の花を作って )
木綿かしかきら (木綿糸を作りましょう)
くりかえし 返し (繰り返し 返し)
指はぢき 見あぎりば (指で解いてみたら)
筋むつぃぬ 美らさ (糸筋も美しく)
ゆみ美らさあむぬ (ゆみ糸もよく揃って美しい)
吹かば飛ぶ手巾 (吹けば飛んでしまうような 最上品の手巾を)
しゅて待ちゅら (織って里前[恋人]が来るのを待ちましょう)


古見ヌ主御嶽 (クンヌシューオン)

大阿母御嶽のすぐ東側には西表島の古見の役人で身分の高い人を葬った墓が拝所となっている。古見ヌ主御嶽 (クンヌシューオン) と呼ばれている。氏名、経歴等詳細は不明だが、登野城の多田家子孫が祭祀を行っている事から、多田家系統の人の墓と推測されているる。多田家では、旧暦の毎月一日、十五日、豊年祭・種子取祝、八月願等の祭祀を行っている。


藍盛御嶽 (アイムリオン)、迎里御嶽 (ンカイザトゥオン)

古見ヌ主御嶽 (クンヌシューオン) の1ブロック北、大阿母御嶽の道路隔てた東側にも拝所がある。藍盛御嶽 (アイムリオン) と迎里御嶽 (ンカイザトゥオン) になる。藍盛御嶽 (アイムリオン) は、琉球国時代に、平得村の南風立家が、人頭税上納用織物染用の藍担当者となった際に、宇部御嶽北方地帯にあった藍畑での藍の生産が順調にいくようにと、南風立家の氏御嶽 (ウジオン) として創建されたという。この御嶽では神遊びの祭祀行事を行い、村の各御嶽の神司が集まり一週間寝泊りして上質な藍の製造成就を祈願していたという。

迎里御嶽 (ンカイザトゥオン) は平得村の仲屋家と迎里家の合同の氏御嶽 (ウジオン) として、藍盛御嶽と同じ石垣囲いの境内に創建された。

元々は、拝殿とイビも同一境内に別々にあったが、明治時代に両者が協議し拝殿を一つにして共通にした。藍盛御嶽のイビは拝殿の北側奥 (写真右下)、迎里御嶽のイビは拝殿の西隣 (写真左下)に置かれている。


中ヌ井戸(ナカヌカー)

小字 平得 (ピィサイ) の真ん中から少し東寄りには、かつては中ヌ井戸(ナカヌカー) があり、白保屋の井戸 (ザブヤースカー) とも呼ばれていた。現在は埋められ消滅しているが、井戸跡付近には平線香も見られる事もあり、この井戸を拝んでいる人もいる様だ。


西ヌ井戸 (インヌカー)

小字 平得 (ピィサイ) の西側、小字 西原 (イーバル) との境にかつては平得村の共同井戸だった西ヌ井戸 (インヌカー) があった。現在では、円形コンクリート井筒が置かれ、中に土砂が盛られ、中心にエスロンパイプが設置されている。



小字 田原 (タバル)

小字 平得 (ピィサイ) 北側は小字 田原 (タバル) で、文字通りこの地域殆どは耕作地になっている。この田原の西側は字 登野城にまたがって中央運動公園が整備されている。


宇部御嶽 (ウブオン)

小字 平得 (ピィサイ) から境界線となっている産業道路を渡り、小字 田原 (タバル) に入った所に道路沿いに宇部御嶽 (ウブオン)がある。八重山島由来記では、をほ御嶽と記載され、神名: 中尾盛照月、イビ名:月のまんかわら とある。その由来は不明だが、15世紀半ばに創建されたと推測されている。

琉球国時代は平得村を北に外れた場所だった。他の御嶽 (オン) と同じ様に、鳥居が置かれ、境内に入ると拝殿があり、その奥に長い通路の先にイビ殿が置かれている。

昔、宇里 (ウーリ) 家から西宇部家に嫁いだ娘が、大浜に嫁入りした唐家の娘に分けてもらった石を拝んだところ豊作になり、人々も拝むようになったことから、子孫繁盛や豊作をもたらす御利益があるとして宇部御嶽として拝まれる様になったと伝わっている。別の資料では、この霊石を既に存在していた宇部御嶽に安置したとなっている。また、別の伝承では、すぐ北にある新本井戸を掘った宇里 (ウーリ) 家の租に当る七人兄弟の屋敷跡が霊処として崇敬される様になったと言われている。


アラントゥカー (新求め井戸)、新本井戸 (ニンブーガー)頌徳碑

宇部御嶽 (ウブオン) の西側にはアラントゥカー (新求め井戸) がある。新本井戸 (ニンブーガー)、ツンナーカー (釣井戸) とも呼ばれていた。ここの少し北にあった平得村の前身の仲本村 (ナカンドゥムラ) に住んでいた新求めの玉皿 (船屋義舎 フナヤギシャー 宇里家長男) が神のお告げで、その屋鋪の一画に宇里家 (ウーリヤー) の七人の兄弟で力を合わせて掘抜き井戸を掘ったのがこの井戸という。井戸の水は美味しく、その水を求めて15世紀半ば頃に仲本村 (ナカンドゥムラ) から人々が移り住み、新本村と呼ばれ、その後 (時期不詳)、現在地に移動して平得村誕生したと伝わっている。

井戸の側には、この地域の生活に重要な役割を果たした新本井戸(ニンブーガー)を掘った船屋義舎と宇里家七人兄弟、更にこの井戸の管理・維持に尽力した人々の功績を讃えて、1950年 (昭和25年) に頌徳碑が建てられている。往昔は9月の節祭り四日後に井戸浚いえ(カーサライ) の清掃が行われていた。

この周辺には、これから見ていくのだが、宇里家 (ウーリヤー) の七人兄弟縁の史跡が幾つかあり、平得村には 「宇里家 (ウーリヤー) の七人武士」 として言い伝えが残っている。

昔、宇里家 (オーリャー) に、オーリャーの七人兄弟という武士たちがいた。その兄弟でガナフツ女傑は、宇部御嶽の神様として、ウミトゥ女傑はまたパイヌフチィ嶽の神として、マジル女傑はニシィヌフチィの神様として祀られている。新本 (アラント) の義舎 (ギシャー) は長男の船屋義舎で船大工で、平得村の創始者と言われている。次男の嵩田豊見親 (タキダトゥイミャー) も平得村の創始者の一人で名は保久利 (プクリー) と言った。船屋義舎が、仲本村 (ナカンドウムラ) からこの地へ、皆を寄せ集めるためにチィンナーカーという井戸を掘った。「ここは水も豊富で、土地も肥沃なので、村作りすれば繁栄するので、来て下さい」 と言って、仲本村 (ナカンドウムラ) の人を誘った。
仲本村からはこの村へ来る間は、鬱蒼とした森林で昼間でも蛍が飛び交う石ころだらけの道で、ハブが多く生息していて歩いて行くには危険だった。そんなことを言ってはおれないと、竹馬を作って、竹馬に乗って新しい村に辿り着いたという。


舟屋岡御嶽 (フナヤムリィオン)

新本井戸 (ニンブーガー) の北側には新本井戸 (ニンブーガー) を掘った宇里屋 (ウーリヤー) の七人兄弟の長男の舟屋儀佐真 (フナヤギサマ = 船屋義舎) の墓と言われ、祖先神として崇められている。舟屋儀佐真 (フナヤギサマ = 船屋義舎)は、別に玉皿ともよばれており、琉球国時代、人頭税の貢物を舟屋に集結し、それを盗難から守って、舟に積出すまでの責任者であったとか、新本井戸 (アラムトウミカー) を掘ったとき、舟蔵 (フナウラ) を作り、多良間嶺 (タランマニ) 下の水元の神水を舟蔵に入れて、夜中に人目につかないよう、ひそかに牛に引かせ井戸掘りの竣工祈願水としたという事から舟屋と呼ばれる様になったと伝わっている。


トウメスカ御嶽

新本井戸頌徳碑の北、総合体育館駐車場の東側道路沿いにトウメスカ御嶽ある。新本井戸 (アラントゥカー) を掘った宇里屋 (ウーリヤー) の七人兄弟の次男 嵩田豊見親 (タキダトゥイミャー) の墓と伝わり、御嶽として信仰される様になったという。嵩田豊見親 (タキダトゥイミャー) は名蔵の東方にある嵩田の地を開理したとの伝承が残っている。墓の傍らに100kg程の大きな花崗岩が置かれているが、これは、力持ちの次男が開拓した名蔵から本パイ (本製の鍬) の柄で担いできたと伝わっている。


南之入口御嶽 (パイヌフツィオン)

舟屋岡御嶽 (フナヤムリィオン) の東方の畑の中に南之入口御嶽 (パイヌフツィオン) がある。元々は、宇里屋 (ウーリヤー) の七人兄弟のひとりの墓なのだが誰を埋葬したのかは分かっていない。ウミトゥ女傑は葬られた墓だったとの伝承もある。その後、御嶽として信仰されるようになった。パイヌフツィとは南の入口という意味で、ここは昔の仲本村 (ナカンドゥムラ) の南端だった。この一帯は1975年 (昭和50年) に発掘調査が行われ、15 ~ 16世紀の村跡の平得仲本御嶽遺跡とされている。

仲本村 (ナカンドゥムラ) の北の端には北之入口御嶽 (ニシィヌフチィオン) もあったそうで、そこでは宇里屋 (ウーリヤー) の七人兄弟のひとりのマジル女傑の墓だったとに言い伝えがある。この御嶽は、ニシィヌフツィ御嶽は、仲本村の北入口にあったので、この名があると推測される。このお嶽は沖縄戦の前に行われた海軍平得飛行場建設の時に、取り壊され消滅し、神体を南之入口御嶽 (パイヌフツィオン) に合祀している。



小字 西原 (イーバル)

小字 田原 (タバル) と小字 平得 (ピィサイ) の西に隣接している地域は西原 (イーバル) と呼ばれており、その名が小字 西原 (イーバル) となっている。文字通り、字平得の西にあたる。


平真小学校 (4月5日訪問)

平真小学校の歴史は1890年 (明治23年) に開校した大川平得簡易小学校の開校に始まる。幾度の校名変更や校舎地移転を経て、現在地に落ち着いている。当初は農地が広がっていた平得と真栄里の児童が通っていたが、本土復帰後、国家公務員宿舎や県営住宅などの建設で人口は増え、登野城の一部も校区に含まれ、児童数は増加し、石垣市では最も生徒数が多い小学校となっている。校門を入った所に顕彰碑 (写真左下) が置かれている。戦後は仮校舎で授業を行なっていたが、1948年 (昭和23年) 当時、仮校舎からの移転先を巡り、住民を二分する論争が巻き起こっていた。この敷地問題が行き詰まった際に、住民の近代農業の指導者だった辻野氏が一族の土地を無償で提供することで決着し現在地に移転している。この辻野氏一族の英断を讃え碑が建てられたという。


中央運動公園、感謝の碑

石垣市中央運動公園は字 登野城と字 平得にまたがっているが、字 平得の小字 西原地域の屋内練習場の南側に多良間島住民から石垣市住民への感謝の碑が2014年 (平成26年) に置かれている。碑文にその背景が書かれている。

多良間島は1771年 (明和8年) に大津波と二度にわたる暴風によって大きな被害を受け飢餓状況に陥り多数の餓死者を出していた。そのような状況の中で二百人余の住民は食糧を求めて宮古島に渡る途中時化に遭い石垣島に漂着した。またくり舟で石垣島に渡り救助を求めたりした。当時石垣島も被害は甚大で食糧事情も厳しいものがあったと言われている。それでも石垣島の皆さんは人命尊重の思いから多くの人々を手厚く保護された上、島に残っている住民への食糧支援までして頂いた。こうした言葉に言い尽くせないご厚情を受け多良間島の住民は生きる力と勇気を得てその後の歩みを切り拓くことができた。そこで多良間村制施行百周年の佳節に碑を建立し感謝の意を表すものである。
2014年 (平成26年) 3月吉日
 多良間村長 伊良皆光夫
 多良間村民一同
    八重山在多良間郷友会


小字 西上原 (イーリィウィバル)、中上原 (ナカウィバル)、東 (アーリィウィバル)、西中上原 (イーリィナカウィバル)

小字 田原 (タバル) の北方に続く高台一帯は上原 (ウィバル) と呼ばれ、小字 西上原 (イーリィウィバル)、中上原 (ナカウィバル)、東 (アーリィウィバル)、西中上原 (イーリィナカウィバル)の小字に分けられている。


ここまでで平得村にある主要な史跡は巡り終えたが、これより北には平得村に至るまでに何度も移動を繰り返した平得村の前身となった村跡がある。当時の面影は残っていないのだが、どの様な所なのかに興味があり、その村が存在していた所を辿る事にした。

仲本村 (ナカンドゥムラ) があった場所から、北に進み、シードー線を越える。このシードー線の北は土地の殆どが畑になっている。その中に牧場があり、牛がのどかに草を食んでいる。

戦前迄は、上原の北の小字 地底は東の白保から続く牧場があり、畜産が盛んな地域だった。


上筋村跡 (ウイヌスズムラ)

上原には平得村が仲本村 (ナカンドゥムラ) に移動する前に定住していた上筋村 (ウイヌスズムラ) があったとされている。ここは1984年に発掘調査が行われたウイヌスズ遺跡で、出土物から14 ~ 15世紀頃の村跡と推定されている。上筋村には以前はウイスズヌカーや鍛冶屋跡も残されていたという。近辺には共に移動した真栄里村の前身のカジャフチムラ跡もあったという。(資料によってはこの時期には真栄里村と平得村は既に合併し、それがカジャフチムラとされている)


多良間郷友会墓

上筋村跡付近、マフタに平得村共同墓地が東西に広がって、その中に多良間郷友会墓があった。石垣島に多くある郷友会墓の一つだ。石垣島には周辺離島から多くの人が移住してきており、それぞれが郷友会を結成している。その活動の一つに郷友会墓を備えて、郷友会会員に少ない費用で墓を提供している。


平得新城 (アラスク) 村遺跡 (4月4日訪問)

中上原 (ナカウィバル) には上筋村 (ウイヌスズムラ) に村が移ってくる前に集落があった場所が新城原 (アラスクバル) で、平喜名 (ペーギナー) 村からこの地に移住したとされている。 真栄里村の八重山家畜市場のすぐ西側にあった。

1984年に発掘調査が行われて、八重山編年第三期 (15・16世紀) にあった新城村跡 (アラスクムラ) とされている。ここでは土器や石器、14-15世紀の中国製陶磁器、沖縄産陶器、勾玉、食料残滓 (貝殻、動物骨) などが出土している。当遺跡は本来土塊を含む石垣等を有し、かなりの規模を誇っていたが、近隣の圃場整備により

中心部のみが残っている。また、この場所にあった当時利用されていたウリカー (降り井戸) の新城原井戸は、戦時中には避難壕として使用されていたが、現在では井戸は埋められている。



小字 地底 (ギシュク、ジスク)

中上原 (ナカウィバル) の北方に続く一帯は地底 (ギシュク、ジスク) と呼ばれ、小字 地底となっている。


地城御嶽 (ギシュクオン)、地城御嶽ヌ井戸 (ギシュクオンヌカー)

中上原 (ナカウィバル) から小字 地底 (ギシュク) に入った所、畑地帯に林があり、その中に、石垣島で最も大きい御嶽の地城御嶽 (ギシュクオン、ジスクオン)がある。この平得村の来夏世の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭のオン (御嶽) プーリィ等祭祀行事が行われる。この地城御嶽は他の御嶽とは違う高い社格をもっており、琉球国時代には王府とも関係が深く、祭祀は大阿母の司祭により、琉球王府の安泰祈願や在番等の着任時には、最初にこの地城御嶽で祭祀が行われていた。

大和や唐国への祈願のイベも建てられ、四柱の祭神を祀るようになったといわれている。神名はケンサ・ウシバルアジ、イベは公の御嶽にフウヌウ・ミチヌバル、龍宮願いにはびんぬ御嶽ウヤビン加那志ヌ前、大和願いには大和ヌ大神加那志ヌ前、唐願いには唐ヌ大神加那志ヌ前水本又御神が祀られている。

八重山島大阿母由来記に地城御嶽の由来が記載されている。

神代に首里の弁ケ嶽にあった三体のイビ石のうち一体が見えなくなった際に、イビは八重山の白鷺が群れているところに移り、八重山を守護しているとあった。この地城には白鷺が群れがおり、イビも見つかり、これを霊地として崇敬したという。

昔、地城御嶽の南方に真栄里村の前身の嘉謝内村があり、この地城御嶽を腰当て (クサティー、聖地) として崇拝していた。その後、平得村と真栄里村が合併した際に、地城御嶽は平得村の管轄となっている。その後、真栄里村は現在地に移ったが、1771年の明和の大津波で真栄里村が壊滅した際に、黒島から寄百姓を強制移住させ、かつての嘉謝内村の場所に再建している。この時に、地城御嶽は再度、真栄里村の御嶽を変更されている。その後、真栄里村が現在地に戻った際に、地城御嶽は平得村の御嶽に変わり、黒島に縁の深い糸数御嶽が真栄里村管轄となっている。

農道から林の中へ長い参道が伸びており、参道に鳥居が建てられている。鳥居をくぐった先には燈籠が置かれ、奥に拝殿が置かれている。

拝殿の近く、境内には集落の共同井戸として利用された地城御嶽ヌ井戸 (ギシュクオンヌカー 写真左下) がある。境内から林に道 (写真右下) が何本か伸びている。のぞいてみると、道の先に祠が見えた。ここに鎮座している四つのイベの拝所と思う。イベは男性は勿論の事、女性の神司しか入ることは許されないというしきたりが現在も続いているので、道に入る事は遠慮した。

拝殿の北のイベは水元の神にあたる於茂登岳の大本照らすの神 (ウムトゥティラスヌカン) へのお通し、北西のイベは首里の弁ヌ嶽にいた三体の神の一体が移って来てここに祀られている。西のイベは二ヶ所あり、北側のものは京都の七坂 (ナナヒラ) 神社へのお通しで、西側のものは唐のフサンヌ城 (シュル)へのお通しで、双方ともに航海安全を祈願する拝所という。西南のイベは竜宮神を祀っており、航海安全と豊漁を祈願する。


平喜名遺跡 (ペーギナー)、平喜名村跡 (ヘーギナームラ) (4月4日訪問)

平得村は新城村 (アラスクムラ) に移動する前には平喜名村 (ヘーギナームラ)にあったとされる。宮良川の平池周辺にあったとされている。この平池の西側で見つかった平喜名遺跡が当時の村跡と推測されている。宮良川に架かる平喜名橋の川沿いの平喜名遺跡は現在ではほとんどが破壊されているが、土器や中国製陶磁器が見つかっており、14世紀から16世紀頃に村が営まれていたと考えられている。

この平喜名村創建の神話の様な伝承もある。

昔、石垣島に大きな地震があり、島人のほとんどが亡くなってしまった。二人の兄妹が災厄を逃れ、平池と呼ばれる池のほとりに住み着いた。やがて、妹は神託によって処女懐胎しました。次第に子孫は繁栄し、ヘーギナー村(平喜名村)を形成していったという。

また、別の伝承では、平得村の発祥地は石垣島北東の海岸近く、玉取崎西隣にある金武岳の南方の南の浦 (パイノーラ) で、この地から平喜名村 (ヘーギナームラ) に移動してきたという。



小字 大俣 (フーマタ)

小字 地底 (ギシュク、ジスク) の北側の於茂登岳南麓を含む一帯は大俣 (フーマタ) と呼ばれていた事が、小字 大俣 (フーマタ) の名の由来となっている。


暁之塔、第3野戦病院本部跡

県道87号線と211号線が合流する場所近くに暁之塔と刻まれた石碑が置かれている。沖縄戦ではこの場所に第28師団第3野戦病院本部が置かれていた。旧日本軍は1944年に石垣国民学校に病院を開設し、八重山高等女学校や八重山農学校の生徒をはじめ住民数十人を看護要員として臨時召集した。その後、空爆や艦砲射撃が激しくなり、病院機能を国民学校、開南、於茂登の三カ所に分散して負傷兵士やマラリア患者の手当てを行っていた。同病院での戦没者は11人で、准看護婦として看護に当っていた16歳の八重高女子生徒もマラリアで死亡している。

この病院跡地に1975年に病院での戦没者の慰霊碑の暁之塔が建立された。碑文には

第二十八師団第三野戦病院跡
第二次世界大戦中昭和十九年十月我が第二十八師団第三野戦病院々長陸軍々医大尉横井忠男指揮石垣国民学校に病院業務開設間もなく八重山高女並に八重山農業学校生徒を始め八重山在住の老若男女数十名を臨時召集内外共筆舌に盡し難き恊力を得て業務続行中戦況は昼夜を分たぬ空爆艦砲射撃の苛烈を極め上旨に依り一部同校に残り主力を此の地開南部落に一部を於茂登山腹に分散し事実上三ケ所業務の止むなきに至り本土との航行通信は遮断され糧秣は愈々無く伝染病と栄養失調を克服しつつ在島各部隊の傷病将兵を収容看護の任に当る間敵弾に倒れ又己の疾病もかえりみずついに不帰の人となりし霊並びに軍民をとはず八重山の地に於て戦禍に倒れし諸霊を合祀せる塔にして当病院生存者の会(石垣会)有志並に在島有志各位の浄財と多大なる奉仕によって建立し祖国永遠の平和の礎と成し諸霊の尊き功績をたたえ特に戦中倒れし我が病院勤務の将兵準看護婦をここに記す。

とある。

沖縄戦では、旧日本軍による命令で、マラリア有病地域の武名田原に強制疎開させられ、その湿気の高い地域で避難後、数日にしてマラリアが発生し、またたく間に感染が広まっている。平得住民の87.2%が罹患している。マラリアの特効薬であるキニーネは旧日本軍上級兵士にのみ支給されず、疎開住民には行け渡らず、食糧不足と相まって罹患者の43.%の264人 (平得人口の37.6%) が亡くなっている。

ここからは、北に於茂登岳が見えている。この於茂登岳の南麓までが小字 平得になる。



小字 山田 (サンダ)

小字 大俣 (フーマタ) の東は小字 山田 (サンダ)になる。サンダはこの地域にあった田地を指しており、この地に流れる川 (宮良川の中流域) は、山田川 (サンダカーラ) と呼ばれている。

1938年 (昭和13年) に平得や真栄里、川平に住んでいた本土出身の御木本真珠の養殖事業関係者者ら17世帯が入植し創建された開南集落がある。しかし、マラリアで大半が引き揚げ、本島の本部町や泡瀬などから12戸が2次移住したが定着せず豊見城などからの入れ替わりも行われた。本土復帰後に道路網が整備されたが、1888年に人口が減っている。世帯数は減っていないので、これは成人となった村民が大学、就職で集落から離れたのではないかと思える。2000年には市営団地も建設され一時期は世帯数、人口は増加したが、2007年をピークに再び人口減少が続き過疎化の解消迄は至らなかった、2023年末では65人 (35戸) となっている。住民の反対運動はあったが、2023年3月に陸上自衛隊石垣駐屯地 (約570名) が開設され、近隣の集落 (開南、於茂登、嵩田) 住民の中では、子供がいある世帯が増えることに期待をする人もいるが、2024年以降の人口データがまだ公開されていないので、その後どうなっているのかは不明。


八重山群島ミバエ根絶之碑

暁之塔から県道87号線を北に進むと道沿いに、八重山群島ミバエ根絶之碑が建っている。沖縄県では復帰後、マラリア、ミバエ、オウシマダニの三大撲滅事業が進められ、これはそのミバエの根絶を記念して1995年 (平成7年) に建立された碑だ。八重山では1919年 (大正8年) にミバエ類の発生が確認され、農作物に大きな被害を与えていた。この事で、植物防疫法により拡散防止のため農産物の移動が禁止や制限され、地元の農業振興の障害となっていた。本土復帰の1972年から特殊病害虫特別防除事業が始まり、ウリミバエに対しては雄除去法、ミカンコミバエには不妊虫放飼法を実施し、74年にわたり約39億円と延べ93,000人の労力が投じて根絶に成功している。


大本小学校 (4月2日訪問)

2月18日には平得北部までは足を運ばなかったが、第二回石垣島訪問時の4月2日に桴海から於茂登トンネルを通って登野城に向かう途中に立ち寄った。

県道87号線沿いに大本小学校がある。開南集落の児童の為、1958年 (昭和32年) に川原小中学校真栄里山仮教場 (小学校のみ、中学生は川原小中学校に通学) として開校し、1961年 (昭和36年) に分校へ格上げし、同年に設立された於茂登集落の児童も通学を始める。1962年 (昭和37年) に現在地に移転、1972年 (昭和47) に大本小学校として独立校となって現在に至っている。今年3年ぶりに新入生が入学して全校生徒数は3名という。


陸上自衛隊 石垣駐屯地 (4月2日訪問)

県道87号線沿いから陸上自衛隊 石垣駐屯地に向かう道があった。ここからは駐屯地は見えない様になっている。この石垣駐屯地は台湾有事や朝鮮半島有事などの軍事的脅威に対する日本の離島防衛態勢強化を目的として2023年 (令和5年) に開庁し、警備部隊、地対艦ミサイルおよび地対空ミサイル部隊等が配置され、約570名の自衛隊員が駐屯している。この駐屯地開設にあたっては2015年に開設計画が発表されて以降、苦労して開拓をした農地を奪われる住民を中心に反対運動が行われている。ミサイルが配備されている事から、台湾有事の際には、真っ先に攻撃目標となり、近隣住民への被害が想定される。これに対して石垣市は補助金の効果が市民生活の向上に大きく寄与するとして駐屯地開設を認めたという経緯がある。現在でも弾薬の搬入時には市民団体によるデモが行われているそうだ。一方、道沿いには駐屯地賛成派による「ありがとう自衛隊」と書かれたのぼりも見受けられた。


開南集落 (4月2日訪問)

陸上自衛隊 石垣駐屯地から県道87号線を少し南に行って所に民家が集まっている地域がある。ここは開南集落という戦前の開拓集落で、1938年 (昭和13年) に平得や真栄里、川平に住んでいた本土出身の御木本真珠の養殖事業関係者者ら17世帯が入植し創建された開南集落がある。その後、マラリアで大半が引き揚げ、本島の本部町や泡瀬などから12戸が2次移住したが定着せず豊見城などからの入れ替わりも行われた。本土復帰後に道路網が整備され、市営団地も建設されたが過疎化の解消迄は至っておらず、2023年末では65人 (35戸) となっている。石垣駐屯地には最も近い集落で、住民の不安は未だに根強く、県道87号からすぐの場所にグラウンドが昨年建設開始され、87号線にグラウンドへのゲート建設の計画があったが、開南集落住民が中心となり反対運動を起こし、ゲート設置は中止となっている。

集落内には古い共同簡易水道が残っている。



これで平得村の史跡巡りは終了。まだ、数ヶ所見たい所はあるのだが、それは次回石垣島を訪問する際に予定している。今回の石垣島滞在は今日で7日目で、明日夕方のフライトで那覇に戻る。明日は宮良村を巡る予定。



参考資料