ジョージ・ロイ・ヒル監督『明日に向って撃て!』
何が未来だ、
ボロ自転車め!
780時限目◎映画
堀間ロクなな
わたしは年明けに受けた人間ドックで、初めて血液検査の腫瘍マーカー「PSA」が基準値を上まわり、前立腺がんの疑いに直面した。10年来のクリニックの主治医は、ただちに血液の再検査と患部のMRI(磁気共鳴画像)検査を手配してくれたのだが、その際、思いもよらない質問をされた。
「あなたは自転車に乗りますか?」
なんでも、それが前立腺に炎症をもたらしてPSA値を上げる場合があるらしい。そういわれて、わたしは人間ドックの前日に市営のスポーツセンターで、エアロバイクの有酸素運動を30分ばかり行ったことを思い出した。そのあと、しばらくのあいだ股間に痺れを感じたことも……。かくして、再検査までは同運動をやめるように指示された結果、血液のPSA値は基準値に戻り、MRI検査でもがんの所見はないとの診断が下されて、ことは自転車による一時的な現象だったと判明した。主治医からはエアロバイクの禁止を解かれたものの、これが前立腺に炎症を生じさせるのを知ってしまった以上、わたしとしてはもはや無心にペダルを漕ぐことができなかった。結局、小学2年のとき自転車に乗れるようになって以来60年間におよんだ関係に終止符を打ったのである。
そこで、燦然と頭によみがえったのはジョージ・ロイ・ヒル監督の西部劇『明日に向って撃て!』(1969年)の、あの伝説的なシーンだ。
実在のアウトロー、ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は、「壁の穴」強盗団を率いて銀行や列車の襲撃に明け暮れていた。そんなふたりの束の間の休暇(?)に、キッドは愛人の学校教師エッタ・プレイス(キャサリン・ロス)の家に出かけて一夜を過ごす。翌朝、ブッチがアメリカで売り出されたばかりの自転車を漕いでやってきて、「未来の乗り物」と吹聴すると、寝間着姿のエッタを乗せてまばゆい木漏れ日のなかを無邪気に走りまわるのだった、バート・バカラック作曲の主題歌『雨にぬれても』をバックにして。
頭に雨が降りかかる
でも俺は泣かないぜ
涙なんて似合わない
雨を恨んだりするものか
何が起ころうと平気さ
そして、家に残してきたキッドを尻目に、ふたりは真面目くさった表情でこんなやりとりを交わすのだ。
「ブッチ、もし先にあなたと会っていたら私に恋した?」
「いまだって離れられない仲さ。俺の自転車に乗ったら結婚したのと同じなんだよ」
それは、まさに青春の輝きを象徴するシーンだった。わたしは高校に毎日自転車で通っていたころ、このシーンを初めて目にして、全身が熱く火照ってきたのに戸惑ったことをありあり憶えている。やがてたび重なる強盗に業を煮やした鉄道会社が莫大な報酬で雇った「ピンカートン探偵社」の精鋭メンバーの執拗な追跡がはじまり、3人は南米ボリビアへと逃げていく運命に見舞われる。エッタの家から慌ただしく旅立つとき、地面に横たわった自転車に目をやってブッチが口にしたセリフは、かれらの青春の季節の終わりを告げるものだったろう。
「何が未来だ、ボロ自転車め!」
わたし自身、この年齢で自転車との訣別を迎えようとは考えもしなかった。いまはエアロバイクに代わる有酸素運動として近くの遊歩道でジョギングをはじめ、新たな筋肉痛と格闘している次第である。
【追記】
映画の自転車にまつわるシーンで、わたしの記憶に刻み込まれているものがあとふたつあります。ひとつは『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督 1948年)で、失業中の男(ランベルト・マジョラーニ)がようやくありついた仕事に使う自転車を盗まれて、探しあぐねたあげく、幼い息子の目の前で自分も他人の自転車を盗もうとして取り押さえられてしまうシーン。もうひとつは『大脱走』(ジョン・スタージェス監督 1963年)で、ドイツの捕虜収容所から集団脱走した連合国軍将兵たちがゲシュタポによって片端から捕まっていくなか、オーストラリア将校(ジェームズ・コバーン)が街中で盗んだ自転車を漕いで悠々と逃げのびるシーンです。わたしには今後、哀しみのもとで自転車を盗むことも、その盗んだ自転車でどこかへ逃げることも起きないのでしょう。