2026年 3月22日
お彼岸を迎え、まだ冬景色の様相の山々だけど、花や新芽の色彩が現れてきた。ここまではゆっくりとした変化だったけれど、彼岸をすぎると目まぐるしく変わって行く。桜も、早咲きのものは咲き始めている。
山の木々の花で、地味で小ぶりのものは既に咲き始めているけれど、目立つ花の開花と言ったら、ハクモクレンが始めかもしれない。遠くからでもよく目立つし、花の形も大きくて美しい。ただこのハクモクレン、藤野の気候では散っていく最後まで綺麗な白を留める事はあまりない。咲いている途中で霜があたるような寒さに出会うと、茶色くしおれてしまう。
まあでも、ここ数年は温暖化の結果なのか、茶色く変色する事も無く、白いまま散っていく事も増えてきた。こんなところにも気候の変化を感じる。
連休とあって、行楽の人たちが多い。道志川沿いのキャンプ場も、川沿いに多くのテントが張られていた。
前回の文章の終わりに、欲望や競争にも、ブラックとホワイトがあるのではないか、と書いた。これは言い換えれば、「強さ」にもブラックとホワイトがあるのではないか、という話になる。
強さという言葉はなかなか難しい。強さという言葉は、弱肉強食という言葉も連想させる。強い者の欲望の為なら弱いものは犠牲になってもかまわないという印象がまといつく。この印象のままだと、強さは悪徳にもなりうる。
ただ、落ち着いて考えれば、強さは人にとって必要で、目指すべき境地なのは間違いない。例えば、弱肉強食があり得ない場面を考えてみる。人は皆、力は同じで誰も弱者に陥らない世界を想像してみる。悪徳の存在しない理想郷だとしよう。
それでも、夏の暑さ冬の寒さ、地震や風水害、怪我や病気、人々に試練が無くなるわけではない。それに、仕事を成功させたいとか、夢をかなえたいとか、問題を解決したいと望めば、そこには諦めずに努力を続け、知恵を身に付けて行く強さが必要になる。
強さは何も戦って相手を打ち負かす力だけではない。難題を解決して、より困苦の少ない世界を目指すのなら、人は強さを必要とするだろう。でも一方で確かに、自分の欲望の為なら他人を犠牲にしてもかまわないという強さも存在し、その強さは今も大手を振っている。ここで、ホワイトな強さとブラックな強さについて考えて置く必要がある。ただ、ちょっとここでは、ホワイトな強さとブラックな強さについて考えるのは置いておく。
よく、高校野球の部活動などで暴力事件が起きることがある。
先輩が後輩をいじめたとか、指導の先生が部員をいじめたとか。かつては、そのような部活の中の暴力も、部員とチームを強くする力になりうるという考え方もあった。人は暴力的に追い詰められてこそ、特別の力を発揮しうるものだと。
さて、どうなのだろう。暴力が横行する部活はブラックな部活と言うべきだろうし、ホワイトな部活なら、参加者は和気あいあいと仲良く、明るく目標を目指している部活だろう。
実際問題として、強いのはブラックな部活だろうか、ホワイトな部活だろうか。
昔だったら、そんなのは、少々荒っぽくても力ずくで鞭を打つくらいの部活の方が、強くなるに決まっている、という意見が主流だったと思う。でも現実問題として、どうもそうでもないらしい。力で追い詰めると人間は結局のところ、心も体も委縮してしまいがちで、本来の力を発揮できない事も多いようだ。
私は現代的なスポーツ理論に詳しいわけではないけれど、選手に最高の力を発揮してもらうためには、かなりの精神的な成熟が必要らしい。スポーツ心理学という言葉もあり、体力的に最高の力を発揮しようとすれば、心の状態も最高にしておくことが不可欠というのが、現代のスポーツの主流のようだ。
これは、少々暴力を使ってでも、選手を追い詰めれば強くなる、なんて発想からは最も遠い。
ここで私が言いたいのは、もしかして「強さ」においても、真に強いのは暴力を伴った強さではなく、精神的な成熟を伴った強さの方ではないか、という事。
スポーツの世界では既にその方向で動いているが、この世界全体の全ての事象で、その方向に動く可能性はあるのだろうか。
例えば、企業のような組織も、基本的にはブラックな所よりもホワイトな所の方が、力を発揮できて強い、とか。