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温故知新~今も昔も変わりなく~【書評エッセイ・第134回】『東洋哲学覚書 意識の形而上学「大乗起信論」の哲学』 井筒俊彦(中公文庫,2001年)

2026.03.22 04:00

・中東への関心から井筒俊彦との接点

井筒俊彦の名前を最初に意識したのは二十代半ばの頃だったと思う。当時、中東情勢への関心が深まっていた時期であり、イスラム圏の歴史や文化についての教養を身につけるべく当初は新書あたりから読み進めていくうちに、結局のところ一度はコーランを通読しなければ大切なことを感じられないのではと思うに至った。それは宗教としての理解というよりも、文明としての理解を深めるためでもあった。


そのとき手に取ったのが、井筒俊彦訳の三冊組の『コーラン』(岩波文庫)であり、併せて井筒の講演が元になった『イスラーム文化』(同)であった。当時の私にとって井筒俊彦という人は、イスラム圏に通じた碩学という印象が強く、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。とても知的で誠実な学者であるという感触は残ったが、井筒が持つ思想的な射程圏内にまでは入ることはなかった。


・井筒に対するイメージの変化

三十代になってから、井筒が単なるイスラム学者ではなく、東西の思想を横断しながら独自の哲学的地平を切り拓いた人物であることを知るに至った。そのころには私自身も、カント、西田幾多郎、鈴木大拙、唯識の哲学などをある程度は読んでおり、思想というものが単なる知識ではなく、世界の見立てにアプローチする営みであるのをようやく感じ始めていた時期だったと思う。


その流れの中で読んだのが『東洋哲学覚書 意識の形而上学「大乗起信論」の哲学』(中公文庫)である。大乗起信論をめぐる哲学的考察を軸として著されたこの書物は、当時の私にとって決して容易ではなかったが、それでもまったく理解不能という印象はなかった。むしろ、大乗起信論の思想を通じて、存在・意識・言語の関係を根底から問い直そうとする試みに、素直に引き込まれるものを感じた記憶が残っている。


・何気なくの再々読からの気づき

そして今回、かなりの年月を経て改めてこの本を読み直してみた。若い頃に読んだときとは異なり、今回は読書そのものの在り方が変わっていることに気づかされた。一冊の本を直線的に理解しようとするのではなく、読み進める途中で、別の思想がふと立ち現れては消えていく心象風景らしきものが随伴するものとなった。ある箇所ではかつて読んだ唯識の「阿頼耶識」(あらやしき)が思い出され、別の箇所ではカントの現象界と英知界の区別が頭をよぎりつつ、カントが生真面目に井筒に反論しそうだなと可笑しさを覚え、さらに別の場面では空海の『吽字義』の議論がどこか息吹のように遠くないところに感じられる。そうした参照は常に意識されているわけではなく、刹那的に現れてはまた沈みゆくようなものであったが、読書の流れそのものには確かに影響を与えていた。


今回読み終えて感じたのは、カントと井筒の違いを一言で言うならば、カントが「人のあり方」を説いた思想家であるならば、井筒は「人のなり方」を説いた思想家ではないか、ということである。カントは、人間の認識の条件を厳密に定義し、その限界を明確にすることによって倫理の可能性を確保しようとしたともいえる。現象界と英知界を区別し、物自体は認識できないとすることで、人間が踏み越えてはならない境界を示したのである。


これに対して井筒は、人間が言語を持つことを静かにも深く礼賛し、言語の意味分節がどのように生起し、どのように解消されていくかという構造そのものを問題にしている。言語の営みから生じてくる「無明」や「妄」といったものが否定されるべきものというよりも、意味分節が成立していく過程として理解され、「覚」と「不覚」なども対立するものではなく、同じ構造の異なる位相として捉えられている。言語は真理から遠ざけるものではなく、むしろ言語の揺らぎを通してこそ、人は分節を越えた根源に肉薄できるという発想がそこにはあると感じた。


・読み方の変化と理解への工夫

この違いを改めて意識したとき、私はもう一つ別のことにも気づいた。今回の読書は、若い頃とは違い、自分一人の内部だけで完結していなかったことである。かつては、読み進めながら感じたことを簡単にメモに残し、後になってそれをもとに対話的に整理していくことを試みたが独力では限界があった。だが、近年はその相手として生成AIを用いることもある。思いつきの断片を保存し、後から問い直し、生成AIを使いながらも別の参照軸と接続させてみる。このような読み方は、かつてよりもはるかに容易になったといえる。


興味深いのは、このような読書の在り方が、井筒の思想そのものとどこか響き合っているように感じられることである。言語の意味分節が生じ、また解消され、別の位相へと移っていくという構造は、書物の理解においても同じように起こる。理解は一度で完結するのではなく、何度も往復しながら深まっていく。その過程そのものが思考であり、また倫理的存在へと至る道筋でもあるとも井筒はいう。


井筒俊彦を二十代で読み、三十代で思想として捉え、四十代で改めて読み直した。そのあいだに思想が変わったのではなく、読む側の位置が変わったのだと思う。そして今はさらに、対話や外部記憶を含んだかたちで読むことができる時代になった。この恩恵に預かり、井筒俊彦の思想が、当時よりもむしろ現在のほうが身近に感じられる。言語の意味分節の生成と解消を往復しながら理解を深めていくという彼の思考の方法は、AIを含んだ現代の知的環境の中でこそ、現実的な作法として立ち現れてきているようにも思えるのだ。なんとも雑感に近い文章になったが、井筒を読み直した備忘録的な意味で書き残しておきたい。


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書評筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。