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3/21 越後谷 満たされなさ

2026.03.22 08:44

お疲れ様です。中距離2年の越後谷です。

C4中距離飲みによる夜更かしを経て帰宅・仮眠後、ぼんやりとした頭でダラダラ執筆していたら、いつの間にか夕方になっていました。練習の疲労や大人数(といっても10人もいませんでしたが)での飲みが苦手なこともあって、全体を通してあまり飲めずに三次会以降もずっとダウンしていました。申しない。Aがたくんが言うように、私も脊髄反射で会話できるようになって飲みの場で疲れないようになりたいと思います。


今回のメニューは

300×3×3 or (400+800+300)×2

でした。

私は300の方をやりました。設定は800mの目標レースペースということで、51-52でできたらいいなと思っていました。実際はave53.5で、目標からは程遠いタイムだったのですが、これはPBと同じくらいのペースなので、爆風のなかではギリ及第点だと思いたいです。

最近はスピードを出そうとすると、無理して身体を動かしている感じがします。レース序盤により余裕をもちたいので、ショートダッシュやプライオでスピードの最大値を上げたり、ランニングエコノミーを高めたりして、この点何とかしないといけませんね。


飲みの帰り、冷たい夜風に当たりながら一人で歩いていると、次第に頭が冴えてきていつも以上に思考に耽ることができました。今回はその時に考えたことでも書こうと思います。


最近、ずっと満たされなさや劣等感を抱えて生きていると感じています。

その原因として、簡単に

 ①複数の役割を生きているということ

 ②完全な他者理解が不可能であるということ

 ③納得できなさ

の3つがあるのかなと思いました。この原因は私だけのものなのか、皆さんにも当てはまるかどうかはわかりません。



①複数の役割を生きているということ

「役割」という言葉を使いましたが、「◯◯としての自分」が複数存在し、その在り方が矛盾しているということを言いたいです。

部活動として陸上競技をやっている人のなかでは、100%チームのことを考えて動けている人はほとんどいないのではないでしょうか。誰にでも、「陸上部員としての自分」と「一人の選手としての自分」が存在していると思います。このように複数の役割の自分が存在しているだけならまだいいのですが、それが矛盾すると厄介なことになります。例えば、チーム全体として良い結果を残せたとしても、自分の手で直接結果に貢献できなかった場合、「一人の選手としての自分」が強い人にとっては素直にその結果を享受することは難しいかもしれません。

さらに、複数存在する役割の向かっていく先が異なる場合もあります。部活の例でいえば、個人とチームどちらかを犠牲にしなければいけない場合です。具体的には、個人種目に専念したいけどリレーや駅伝に出なければいけない、逆にチーム競技はやりたいけど、自分が出ることで実力や戦略的にチームのためにならない、みたいな感じです(一瞬話が逸れますが、このような個人↔集団の揺れをテーマにして、市内の高校の陸上部を研究対象にして卒論書きたいなと思っています。本当にそうなったら仲介してくれる人募集中です)。

ここまで、部員 / 選手という2つの役割を挙げて書いてきましたが、当然私たちには部活以外にもたくさん世界があるわけで、学生としての自分、◯◯の友人 / 恋人としての自分、先輩 / 後輩としての自分、子としての自分、兄弟姉妹としての自分etc. コミュニティや相手によっていくらでも役割が増えていきます。これらが矛盾なく存在する人なんて、ほぼいないに等しいのではないでしょうか。


社会学者のゴフマンは、人が状況に応じて役割を演じ分けていることを指摘しています。また、その役割に完全には同一化せず、どこか距離を取ろうとする「役割距離」という概念もあります。私自身も、ある役割を演じながらも、それに完全には乗り切れない感覚や、少し引いた目で自分を見ているような感覚を持つことがあります。

このように複数の役割のあいだで引き裂かれると、どの役割も中途半端にしか果たせていないような感覚に陥ることがあります。どこかで何かを選べば、別のどこかで何かを諦めているような感覚が残り続ける。その積み重ねが、満たされなさにつながっているのではないかと思います。


また、役割の矛盾は外側の関係だけでなく、自分の内側にも存在していると思います。自分のなかで「こうありたい」と思い描いている理想の自分や、他者に見せたい「キャラ」のようなものと、実際の自分とのあいだにもズレがあります。自分を他者に示すとき、私たちはある種、物語を編集するように経験を取捨選択し、見せたい形に整えて差し出すことができます。実際、それによって理想に近い自分が他者に伝わることもあります。

ですが、そのようにして作られた像と現実の自分とのあいだにズレがあるほど、本当はまだそこにいないという感覚が強くなり、かえって自分で自分の首を絞めてしまっているようにも感じます。外側の役割にも、内側の理想、あるいは他の役割にも完全には一致できないまま、そのどちらにも応えようとし続けることが、満たされなさの一因になっているのだと思います。



②完全な他者理解が不可能であること

文化人類学に、パースペクティヴィズムという考え方があります(ここらへん私の期末レポートを引用したり参考にしたりしているので、わかりにくいかもしれません)。

文化人類学は、異なる文化や生活世界に生きる他者を理解し、記述することを目的としてきました。従来の文化人類学においては、“from the native’s point of view”という言葉が示すように、調査対象者の視点から世界を描くことが重視されてました。しかし実際には、観察者が調査対象者とまったく同じ視点から世界を見ることは不可能であり、他者理解は常に観察者側の理論や枠組みを通じて行われてきたといえます。このような問題意識のもとで提唱されたのが、パースペクティヴィズムです。これは、異文化間の差異を単なる見方の違いとして捉える認識論的立場ではなく、世界そのものが複数存在するという存在論的立場を前提としています。大きくかみ砕いていうと、他者を完全に理解することは不可能だということです。

そして、この考え方の何が問題なのかというと、他者を完全に理解することは不可能であるという前提が、「それはその人(文化)の考え方だから」という言葉によって理解しようとする努力そのものを停止させてしまう可能性です。他者を尊重しているように見えながら、実際には差異を遠くに置き、関わりを回避してしまっているのではないでしょうか。

他者を完全に理解することができないからといって、理解しようとする努力までが無意味になるわけではありません。むしろ、完全な理解が不可能であることを自覚したうえで他者の話に耳を傾け、自己の理解の枠組みを問い直し続ける姿勢が重要であると思っています。


それでも、他者に共感することはできても、その人の世界をそのまま生きることはできないと思っています(それにもかかわらず、私たちは他者を自分の価値基準や理解の枠組みの中に取り込み、理解したつもりになってしまいます)。立場も状況も、もっているものも、価値観、考え方も違う。だからこそ、どれだけ言葉を尽くしても「本当にわかってもらえた」と感じきることは難しく、どこかに常にズレが残り続けます。そのズレが、私の中の満たされなさや孤独感につながっているのではないかと思います。

また、私自身も人から完全に理解されることはないとどこかでわかっているからこそ、最初から壁を作ってしまったり、簡単に理解されたくないと思ったりすることがあります。どの立場でそれを言ってんの!?みたいな笑 理解されないことへの諦めと、理解されたいという気持ちのあいだで揺れ続けることも、満たされなさの一因となっているのだと思います。



③納得できなさ

納得できるかどうかというのは、陸上競技をしている中で、何度も向き合うことになる問題だと思います。


私たちは自分の過去や経験を語るとき、一人称で語っているようでいて、実際には今の自分が過去の出来事に意味を与えながら語っています。つまり、「経験していた自分」と「今それを語っている自分」は同じではありません。過去の自分はただその出来事の中にいただけですが、今の自分はそれを振り返り、解釈し、意味づけることができます。そのため、過去の出来事の意味は固定されたものではなく、現在の自分の状態によっていくらでも書き換えられてしまいます。実際に、競技において納得できる結果を出せたと感じた瞬間があっても、その後の結果や状況によって、その意味づけは簡単に揺らいでしまいます。振り返ったときに、あれは本当に意味のあるものだったのかと思ってしまうこともあるでしょう。

また、納得できなさは、自己をどのように物語るかという問題とも関係していると思います。哲学者のリクールは、自己を固定的なものとしてではなく、「語りによって解釈されるもの」として捉えました。つまり、私たちは自分について語る物語を通じて、「自分が誰であるか」を理解しているということです。人は本来、変化し続ける存在であるにもかかわらず、それでも「同じ自分」として生きていられるのは、人生を一つの物語としてまとめあげているからなのかもしれません。

しかし、この物語は決して固定されたものではありません。これまで書いてきたように、過去の出来事の意味は、今の自分の立場や状況によって簡単に書き換えられてしまいます。また、その物語は自分一人で完結するものではなく、他者との関係の中でも形づくられていきます。そうだとすると、「私は誰なのか」という問いは、「私は自分の物語をどのように語るのか」という問いでもあるはずです。そしてその語り方が定まらず、過去の出来事の意味づけが揺れ続けるとき、私たちは自分自身に対してさえ、納得することができなくなってしまうのではないでしょうか。


一方で、自己がすべて物語によって決まるのかというと、そうとも言い切れないように感じています。そもそも自分について語るためには、すでに「私」という視点が存在しているはずであり、物語だけで自己のすべてを説明することはできないのではないかとも思います。先ほどの役割・キャラの話にも通じますが、人に伝えたり提示したりできるのは、自分のほんの一部だけにすぎません。

それでもなお、私たちは物語を通じてしか自分を理解することができません。その不完全さを抱えたまま自己を語り続けなければならないこと自体が、納得しきれなさや、満たされなさにつながっているのだと思います。


納得するためには、過去の経験をある程度「語り直す」必要があると思います。しかし、それを都合の良い解釈のように感じてしまい、どこか逃げや甘えのように思えてしまう自分もいます。だからこそ、最終的には結果で証明するしかないのではないか、とも考えてしまいます。その時納得できるような結果を出し続けることでしか、自分の物語を支えられないのではないかと。その意味で、未熟な今の私にできることは、淡々と経験を積み重ねていくことだけなのかもしれません。ただ、本当にそれだけで納得にたどり着けるのかという疑問は、まだ残り続けています。



今、話の着地点が見つからなくてしばらく手が止まってます



まあ、ここまで考えてきても、結局はっきりとした答えが出るわけではありませんよね。満たされなさをなくすことはできないのかもしれませんが、今は不安定な現状を受け入れて、それでも前に進むしかないのだと思っています。


ここ2ヶ月くらい、追いコンも含めて卒業される先輩方と話す機会が何回かありました。先輩方の話を聞くたびに、私自身もブレない軸や地に足がついたような思考をもつことができたらいいなと思ってきましたが、まだまだ遠く及びませんね。この時期の年齢差って内面的には大きいらしく、少し歳が違うだけで考え方はだいぶ変わるらしいです。私も卒業する頃には先輩方みたいになっていたらいいなと思っています(少し早いですがご卒業おめでとうございます!)。


最後に、陸上の話に戻って終わりたいと思います。


まず思うことは、もう3年生になって大学陸上の半分が終わってしまったということです。私は、本気で陸上をやるのは学部4年で終わりにしたいと考えています。就職か院進かというのは未だに決め切れていませんが、仮に院進したとしても、もう競技に打ち込むような熱はないだろうと思っています。

3年次後期からは研究室のカリキュラム上、実習として大学を離れてフィールドワークに行ったり、さらに就活するとなったら、次の後半シーズンや冬季は練習の継続が難しくなりそうです。そのため、次のシーズンで私の陸上人生の9割くらいケリをつけるくらいの気持ちでいます。

練習後にはミーティングがあり、そこで一人ずつ目標を言う機会をいただきました。私は、一選手としての目標として800m全中標準切り(2’16”前半)、部員としての目標として、七大戦に800mで出場し3位以内をとることを掲げました。あと、女子中距離の3人目のエースになるとも言いました。エースってチームに何人も存在するものなのかどうか後から疑問に思いましたが。

昨シーズンはPB+10”の2’33”で終わったこともあり、私の目標を無謀に思う人もいると思います。ですが、ここまで競技を継続してきた以上、引き返せない気持ちが強く、最後まで欲しいものは全力で獲りに行くというスタンスは崩さずに進んでいくしかないと考えています。

今年も挑戦者として、満たされなさも抱えたまま、陸上にも自分にも向き合っていきます。