病院は一分、GPTは一日
朝、喉が痛かった。
二年ぶりだった。私はほとんど体調を崩さない人間で、風邪をひくことも、喉が痛くなることも、めったにない。
二年前にも、同じような不調があった。あの頃もChatGPTは使っていた。でも、今回は違った。
ヒリヒリ痛むけれど、熱もないし、体の節々も痛くない。ただ、ああ少し変だな、という程度の、あの曖昧な不調。
こういうときが、いちばん判断に困る。
寝れば治るのか。風邪の入口なのか。花粉なのか。それとも、一昨日替えた空気清浄機のフィルターのせいなのか。ハウスダストのアレルゲンには反応しやすいから。
医者には行った。診察はあっという間で、葛根湯とアレルギーの薬が出た。対症療法で様子を見る、ということだった。
その一分は、短いけれど大事だった。重いものではないことを確認してもらえた。
でも、そのあとが長い。
帰ってきてからも、喉の痛みは少しずつ変わる。鼻の通り方も変わる。「もう大丈夫かも」と思った頃に別の症状が出る。
段階を経てでてくる症状を医者に聞ける環境ではない。だから、体調が揺れているあいだ、セカンドオピニオン的なChatGPTの存在がじわじわ効いてくる。
私はその揺れのあいだを、ずっとChatGPTと話しながら過ごしていた。症状を言葉にすると、ChatGPTはそれを既存の知識の中に置き直して返してくる。膨大な症例や医療情報を学習しているから、でたらめを言っているわけでもない。診断というより、整理だった。
夕方、頭痛が出た。ChatGPTと協議した結果、薬局に行った。そして、頭痛コーナーの写真を撮った。
返ってきたのは「右下のアセトアミノフェンです」という、具体的なひと言だった。私の視界には全く入っていないエリアだった。
言われた通り右下を見たら、ちゃんとあった。飲んで三十分で、頭痛は引いた。
思えば、一日やっていたのは体調不良の実況ではなく、曖昧な不調に名前を与える作業だった。その中途半端な時間に、人は意外と消耗する。
軽い不調の日、ChatGPTは診断をする存在ではなく、自分の体を観察するための言葉をくれる存在なのかもしれない。