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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.188「上杉謙信 VS 後北条氏」について

2026.04.24 20:30

戦国時代に上杉家を追い出して関東の覇者となった後北条氏であるが、追い出された上杉家も当然そのまま黙っちゃおりませんでな。のちに史上最強の武将と謳われる男にリベンジを依頼。いつになったら戦のない世に戻れることやら。家康様〜、早く天下泰平にしてくだされ〜!




● 最強武将「上杉謙信」のすごさ


・15歳で初陣を飾り、49歳で亡くなるまでの間に合計70回の戦を行い、そのうち負けたのは2回だけ、という100%に近い勝率(しかも敗北扱いの戦いも、損害の程度からして敗北として良いのかどうか疑問)


戦術・戦略に型がない。戦うごとにパターンが変わるので、相手からすると動きが予測できない


・常に自分で敵対する相手の陣の様子を観察し、相手に勝つための最善の策を考える軍事的能力の天才


・勝利と扱って良い戦いの相手が「武田信玄」「北条氏康」のような当時一流の名将たち


・「川中島の戦い」で5回対決した宿敵「武田信玄」は、上杉謙信のあまりの強さに恐れをなし、5回目の戦いでは野戦で決戦を挑もうとする謙信との直接対決を露骨に避けているほど


・戦場の最前線へ踊り出ることもしばしばあった謙信だが、49歳で病死するまで生き延びた


「68勝2敗」というのがどれだけすごいことなのか。スポーツの試合で置き換えて考えると、とんでもない勝率だということがわかりやすい。上杉謙信の強さの秘密は、幼い頃に「林泉寺の住職から学問や兵学」を授けられ、さらに「武芸」にも励み、持って生まれた「戦闘センス」が磨かれたことにある。


そのうえ、上杉軍の強さは、元々は越後の田んぼで農作業をする農民によって構成された、足腰と持久力にもあり、その部隊を車輪のように配置し、車輪が回転するように攻撃を仕掛けていった。この陣形は「車懸りの陣」と呼ばれ、2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』でも「第四次川中島の戦い」で描かれた。


「とんでもない戦闘センスのリーダー」が「足腰を鍛錬した持久力のある部隊」を率い、次から次へと波状攻撃をしかけてくるのだから、敵兵はたまったものではない。これには他のどんな武将も太刀打ちできなかったようだ。





● そんな上杉謙信が関東に攻めて来た!


永禄3年(1560)5月、みんな驚きの事件が起こる。「桶狭間の戦い」によって「今川義元」が討ち死にしたのだ。これは、甲相駿三国同盟のひとつである今川氏が崩れたことになる。上杉謙信は、すぐさま相模の「サード北条氏康」を討伐することを決断し、上杉軍は関東へ向けて侵攻した。(ちなみにまだこのころ謙信は「長尾景虎」といたい名であったが、ややこしいのでここでは上杉謙信で統一して記載するよ)


三国峠を越えて、上野国に入った上杉謙信は、小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城など、北条方の諸城を次々と攻略。関東に拠点を作り、徐々に北条軍を追い詰めていった。


そのまま機を伺いながら年を越し、その間に北条討伐に向け関東諸将らの協力を仰いで、ついに武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県北東部)へ進軍を開始。武蔵国の各城を配下に治めつつ、小田原城を目指して10万もの軍勢で小田原城を含めた諸城を包囲、攻撃を開始。上杉謙信の猛攻により、北条氏康が籠城を決断するまで追い込むことに成功した。


しかし、勝利を目前にした状況で、長期出兵を維持できない軍が無断で陣を引き払い、結果的に戦力は減少。さらに、武田信玄が動きを見せることで、上杉軍は背後への牽制も余儀なくされ、戦況は膠着状態へと一転する。1ヵ月に亘る包囲も実を結ばず、上杉軍は鎌倉へ撤退を決意。


その際なにを思ったのか、謙信は突如「小田原城」の門前に座り込み、悠然と盃に酒を注ぎ、飲み始めた。当初は弓・鉄砲で矢弾を降らせた北条軍でしたが、なにかに守られたかのように、謙信には当たらなかったのだとか


「何かの罠かもしれない」と感じた北条氏康は、攻撃中止を命令。その直後、上杉軍は撤退を開始する。この「小田原城・門前で酒をあおった」行為は、自らの異様さを北条軍に見せつけることで「撤退する際の追撃を諦めさせた」という説もある。


矢弾が当たらない、、という神がかった様子は、さぞ北条軍を驚愕させたことであろう。運が悪ければここで死んでもおかしくなかったが、こんな命知らずなことをしてもなお、謙信が戦場で死ぬことはなかった


そして、謙信はその足で武田軍との「第四次川中島の戦い」に臨み、見事な不意打ち突撃で武田信玄を震え上がらせたというのは有名な話である。


以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると関東に侵攻し、北条氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることなる。




● 仲間のはずの武田信玄まで敵に、、どうする北条!?


義元没後の今川氏の衰退を受けて、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。今川軍は武田軍に敗北、さらに徳川軍の侵攻を受けて掛川城に追い詰められる。北条家は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め「フォース氏政」が駿河に出兵、薩多峠にて武田軍と対峙する。氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとった。


さらに「富士信忠」が大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断、一旦駿河国から軍を退き甲斐国へと退却した。北条氏が興国寺城、葛山城、深沢城など東駿河を奪取したことで、氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻した


氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、東に里見氏と3方向を敵勢力に囲まれる危機的状況に陥る。この苦境を乗り切るべく駿河出兵を決めると同時に、上杉氏との同盟交渉を開始。謙信は当初、討伐対象であった北条氏との同盟に乗り気でなかったが、家臣の説得もあり態度を軟化させ、永禄12年(1569)に越相同盟を結んだ


これにより、謙信は氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方として、また氏康・氏政は、謙信を公方の執事たる関東管領職であるとお互いに認め、上野・武蔵北辺の一部の上杉氏領有を認める代わりに、謙信に北条氏による相模・武蔵大半の領有を認めさせた。北条方は氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、上杉方は謙信の家臣・柿崎景家の実子・晴家が人質とされた。




えー、これ以降はですね、なんかずっと戦いっぱなしで、しかも同盟組んだり破棄したりで、よう分からんから飛ばします。上杉の最後も、武田のその後も、あんま江戸周辺とは関わりないのでね。そうこうしてるうちに織田信長が台頭してきて、戦国バトルのメイン舞台があっち方面に移ってくれたおかげで、後北条家わりとラッキーw


よしよし、ではちょいとひと寝入りしながら時代が進むのを待つとしますか。

せいぜい勝手に潰し合ってくれたまえ〜。


https://ja.wikipedia.org/wiki/上杉謙信https://www.touken-world.jp/tips/33844/

https://rekishiru.site/archives/7456