東日本大震災から8年、あの時の横浜を振り返る
3月11日、その日付を聞いてあの衝撃の出来事を思い出さない方はいないでしょう。
それほどに東日本大震災が日本人に与えた影響は大きく、天災を忘れていた首都圏の人間の意識を改めされるに十分なものでした。
と、東日本大震災について、私が多くを語るまでもないので、今回はあの日の体験を振り返ってみようと思います。
地震発生の瞬間
3月11日14時46分、私は湘南台駅にいました。
沢山のアパートやマンションに囲まれた地で、地震が発生しました。
近くの工事現場の人々は手を止め、屋外にわらわらと出てきて、近隣の方々も不安そうに上空を見ながら、少し大きめの地震が過ぎるのを待っていました。
ところが、そう簡単に事態は収まりませんでした。
震度4~5程度の地震が1分以上続き、近くの住宅からは「キャー!!」という悲鳴があがり始めます。
マンションはグニャグニャと視認できる程揺れ始め、これは普通の地震ではないと皆が体感したことと思います。
日没
日暮れ時になって、辺りが暗くなり始めたのに、街灯が全くついていませんでした。
電力会社の区分けによって、点灯エリアと停電エリアが分かれたようで、さっきまでついてたのに!?という覚えがあった気がします。
その時間には戸塚駅にいたのですが、真っ暗の中に家路につく人々が溢れ、車のヘッドライトのみが人々を照らすという、異世界でした。
当然のことながら信号も沈黙しており、交差点では皆が譲り合って走行していました。
国道一号線という大幹線道路でもそういった精神が働くあたり、日本人はすごいと思います。
また、当時、帰路についている間に、コンビニ強盗などは一切発生しませんでした。
その時の横浜市民は、まさか原子力発電所があんなことになっているとは知る由もありませんでした。
夜
携帯電話も不通、ときたまメールが入る程度です。
ひと昔前の大晦日のあけおめメール送信時と同じです。
twitterなど、インターネットを介した連絡手段は生きていたようで、これによって日本でtwitterユーザーが多少増加したとかなんとか。
東京に住んでいる友人から、帰れなくなったので家に泊めてほしいと連絡があり、横浜駅に迎えに行きました。
いつもなら10分かからない距離なのに、車や人で道が塞がっていたのを覚えています。
携帯が繋がりにくい中、どこでその友達と合流できたかもう覚えていませんが。
2人で大変だったという体験を語り合った気がします。
震災発生の翌朝
道路がガラガラで、信号は動いていなかったような気がします。
友達と腹ごしらえをしようとファミレスへ入ったのですが、物資が届いていないということでほとんどのメニューが食べれませんでした。
また、その時にニュースをみて初めて東北地方の惨劇を知りました。
津波に飲み込まれていく人、濁流に消える建物、とても日本で起きているものとは思えませんでした。
20年生きていて、昨晩の停電やら地震を初体験したので、ただ事でないとは頭で理解していましたが、故郷の福島も大変なことになっていたのに言葉を失いました。
また、横浜駅西口のダイエー前の地面が地割れが起きていたのは、学生時代よく行っていただけにびっくり。
それからの横浜市
生活は多少の物資不足がありながらも動き出しました。
地震の影響による建物の修繕が多かったのを覚えています。
開業したばかりのハマボールイアスのボーリング場天井が落下して、いつ使えるのか分からないという事態になり、当時の横浜のボーリング場はラウンドワンの一人勝ちでした。
ガソリンが入ってこないために、スタンドにガソリンを求めていつも車が渋滞していました。
きっとオイルショック時のスーパーもこんな感じだったのでしょう。
テレビコマーシャルでACジャパンが延々と流れ続けるので、クレームが出たという笑い話も。
見つかったのでリンク貼っておきます。
懐かしいですね、ほんとにこれしか流れなかったんですよ。
東日本大震災が日本に与えた影響
日本の人情味というか互助精神が大いに現れたのがこの震災ではないでしょうか。
他国ではありえないような規律と思いやりが発揮された気がします。
また、地方行政機関の努力を踏みにじるような中央政府や、復興を隠れミノに利権に群がる蛮行も散見されました。
福島原発の避難民、補助金、避難先でのトラブル、被災地の人口減少など、今でもその爪痕は大きく国民生活に影響を与えています。