「自分らしさ」だと思っていたものが、ただの習慣だったとしたら
自分らしさだと思っていたものが、
ただ長年くり返してきた反応だったとしたら。
そう考えてみると、少し見え方が変わることがあります。
たとえば、
- ちゃんとしようとする。
- 先回りして動く。
- 必要以上に説明する。
- 止まるのが落ち着かない。
- 何かあると、すぐに自分がやったほうがいい気がする。
こういうことは、よくあります。
しかも本人にとっては自然すぎて、
それが“習慣”だとは思っていないことが多い。
「私はこういうタイプだから」
「昔からこういう性格だから」
「これが自分らしさだから」
そんなふうに思っていることも少なくありません。
でも、本当にそうなのでしょうか。
たとえば、頼まれていないのに気を回してしまう。
説明しなくてもいいところまで説明してしまう。
何か問題が起きる前に、先に埋めておきたくなる。
休んでいても、どこか落ち着かない。
こういう反応は、性格というより、
長いあいだ身につけてきた“生き方の癖”なのかもしれません。
- 誤解されないように。
- 迷惑をかけないように。
- 嫌われないように。
- 問題を起こさないように。
- ちゃんとしていないと思われないように。
そうやって何度も何度も反応しているうちに、
それが当たり前になっていく。
当たり前になりすぎると、
もうそれを“選んでいる”感覚もなくなります。
気づけば、
「これが私だから」
という顔をして、そこに居座る。
でも実際には、
“自分そのもの” というより、
くり返してきた反応が定着しただけ、ということもあるのだと思います。
たとえば、
* 人の機嫌を先に読んでしまう
* 相手が困る前に動いてしまう
* 何かを頼むのが苦手
* 「大丈夫」と言いながら、内側ではずっと緊張している
* 何もしていないと、価値がないような気がする
* うまくいかないと、自分のどこかが足りない気がする
こういうものも、
“性格” と言ってしまえばそこで終わります。
でも、もしそれが
その人なりのサバイバルの仕方だったとしたら。
どこかの時点で身につけて、
ずっとそれでやってきた反応だったとしたら。
見え方は少し変わります。
大事なのは、
そこで「だから私はダメなんだ」とならないことです。
そうではなくて、
ああ、これが私の“いつもの習慣”だったのかもしれない
と気づくこと。
それだけでも、少しほどけるものがあります。
気づいた瞬間に全部が消えるわけではありません。
次の日もまた、同じように先回りするかもしれないし、
また説明しすぎるかもしれないし、
また止まれなくなるかもしれない。
でも、前とは少し違います。
前はそれを“自分”だと思っていた。
今はそれを“習慣”かもしれないと見られる。
この違いは大きい。
“自分そのもの”だと思っているものは変えにくいけれど、
“習慣”だと見えたものは、少しずつ扱えるようになっていくからです。
変化というのは「もっと頑張って別人になること」ではなく、
自分だと思っていた反応の中に、ただの習慣が混ざっていたと気づくこと
から始まるのかもしれません。
毎日の中で、
今日は何を当然だと思って動いていたか。
今日は何を先回りしていたか。
今日の反応は安心からだったか、不安からだったか。
今日は何を守ろうとしていたか。
そんなふうに見ていくと、
今まで性格だと思っていたものの中に、
ただくり返してきただけの反応が見つかることがあります。
そして、それはある意味で救いでもあります。
なぜなら、
性格だと思っていたときには出口がなかったものに、
習慣だと気づいた瞬間、少し余白が生まれるからです。
「私はこういう人」で終わらなくなる。
「これは私が長年やってきた反応かもしれない」と見えたところから、
少しずつ別の動き方も選べるようになっていく。
たぶん変化というのは、
いきなりまったく別の自分になることではなく、
こういうところから始まるのだと思います。
自分らしさだと思っていたものの中に、
ただの習慣が混ざっていることに気づく。
そして、
その習慣を責めるのではなく、
見つけて、少しずつ下ろしていく。
もし最近、
同じ反応を何度もくり返している気がする人、
ちゃんとしているのにどこか苦しい人、
これが自分らしさなのか、ただの習慣なのかわからなくなっている人がいたら。
一度、
「これは性格ではなく、習慣かもしれない」
という見方をしてみてもいいのかもしれません。
それだけで、少し呼吸がしやすくなることがあるので。
それを21日間かけて見ていくのが、1D1U LANDです。
答は、体験の中で。