3/29 「イエスの十字架」 三浦 遙牧師 聖句:マルコ15:21-47
冒頭に登場するキレネ人シモンは、その日の畑仕事を終えてたまたまその場に居合わせたところを、ローマ帝国の制度によって徴用され、イエスの十字架を共に担うことになった人物といわれています。この少し唐突な登場には、私たちもまた、誰かが担っている十字架を共に担う場所へと招かれているというメッセージが込められているように思います。
イエスは十字架に掛けられ、兵士たちや通行人、祭司長たち、そして共に磔にされた人たちからも罵られました。十字架刑というのは、長時間の苦しみによって死に至らせるものであり、イエスは3時間以上もその苦しみの中に置かれたのです。弟子たちは逃げ、誰一人寄り添う者のない孤独の中で、イエスは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。詩編22編のこの言葉は、神が最も遠い場所に感じられる絶望の叫びです。それでも兵士たちの侮辱は続き、イエスはあらゆる痛みと孤独を一身に受けながら息を引き取られました。
なぜここまでの苦しみがイエスに与えられたのでしょうか。それは、神でありながら人となられたイエスが、私たち人間の痛みや悲しみ、そして弱さを共に引き受けるためだったのではないでしょうか。「あなたに私の痛みが分かるか」という問いに、違う存在である神は本来答えられないはずです。でもイエスは、理不尽への痛み、孤独の痛み、祈りが叶えられない痛みを、私たちと同じように経験してくださったのです。
そして、イエスが息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。神と人との間にあった大きな隔たりが、取り払われた瞬間です。マルコ福音書では、人間としてのイエスの叫びと苦しみがとても生々しく描かれていますが、その死によってこそ、神と人との溝が埋められたことが伝わってきます。
受難週を迎えるこの時、イエスの痛みと苦しみ、そして今この地上にある全ての痛みと悲しみを覚えて祈りながら、共に十字架を担う者として、この一週間を歩んでいけたらと願っています。