塩と桜
鹽竈神社と御釜神社を訪れた宮城のライトワークの情報をまとめるのに時間がかかっております。
まずは自分自身の中に在るものを整理するために書いていきます。
仙台から東北本線に乗り、塩釜駅というところで下車。
駅に着いたあたりから、外気温10℃に満たないのに、身体が火照り始めました。
私は冷え性で、どんなに着込んでも暖かいという感覚はそんなにないので、仙台行きも寒い場所だしとかなり構えておりました。
しかし、その時は寒さはみじんも感じることがなく、不思議と体が燃えるように熱く、魂の喜びのようなものは、こんな感覚なんだろうか?と感じました。
身体は魂と連動していると聞きますが、ライトワークで意識して体感したのは初めてかもしれません。(忘れているだけかもしれませんが)
書いていて思い出しましたが、自分で気功鍼を初めてハートに打った時と、黄金の花の秘法を受けた時、体の中心が燃えたような体感がありましたね。魂と体が共振するという体感。
さて、話は戻り、塩釜から徒歩で約15分ほどのところに鹽竈神社があります。
旧参拝道の七曲り坂から境内に入っていこうと決めていました。
急な坂道を登っていくと、大きな杉や檜がたくさん生えていて、歓迎してくれました。
七曲坂を上っている時、庭師時代に山師の仕事をしたことを思い出しました。
山ののり面の林の若い杉の下枝を落としていくという作業。林や森は手入れが行き届いていないと、下まで日があたらず下草が生えずに土壌がやせたり、また、枯れた枝同士がこすれあったりして山火事が起きたりする原因にもなりえます。
山師のお仕事、それは、下枝を落とすことで、木の育成を促し、木の根元まで風通し良く、日当りを確保し、林が機能するための、人間の自然環境を整える、地球とのコミュニケーションでもあります。
また、枝をその場に落とすことで土壌の育成も促します。
この作業は、自身が経験してわかることですが、肉体的には結構過酷であり、塩というものが人間の労働力を支えていたのだとも推測できます。今でこそ、夏には塩をと言われますが、昔は塩は貴重品だったに違いなく、非常に貴重なミネラル分だったのでしょう。
そんな私の過去の経験から、鹽竈神社の林は昔から人の手によって整備されてきたのだなという印象を受けました。
森や林に出会うとき、元庭師という視点で見ている自分がいるのだなということに、今回改めて気付かされました。
手入れが行き届いた森林は見ていても気持ちがいいです。
この鹽竈神社は仙台から電車で15分ほどの場所にあります。
仙台は杜の都と呼ばれますが、「杜」という意味は、手入れが行き届いた森を指すそうです。
この言葉がいつからあるのかはわかりませんが、
この神社に来て、森林というものは人の手が加わって美しいということの当たり前なことを感じました。
また、人が森に手を加えるということで、人が、自然に対する意識、自然との向き合い方などを学んでいくのかもしれないと。
破壊をすることもできるけど、維持もできる。
人や何かが森を破壊をしてしまったとしても、再生を試みることもできる。
ここは、東日本大震災で自然の脅威と向き合ってきた人々がそれを乗り越え、今なお生活をしている場所だからこそ、より感じるものだったのかもしれません。
鹽竈神社の近くに御釜神社と言って、シオツチを御祭神とした神社があります。
鹽竈神社に訪れることを決めた時、ほかにも行くところがあると思って御釜神社を見付けました。
この御釜神社は塩を精製する鉄釜が神釜として祀られています。
この窯が4つあるのですが、「日本三奇」の一つに数えられており、釜の中の水は枯れることもあふれることもないとされて、変事の際は前兆として水の色が変わると言われているそうです。
私も拝観させていただいたのですが、水の色が事前に写真で見た色ではなかったです。
写真はNGでしたので、ありませんが。写真より水の色は青く綺麗に見えました。
そこを参拝した後、何故か、また鹽竈神社に行かなければいけないような気がして、裏坂(東参道)から境内へ。
長い階段を上っていくのですが、不思議と息も切れずに楽々と登っていくことができました。
航海の安全を見守るような、塩釜港が見渡せる小高い丘の上に鎮座するこの神社は、丘というより、小さな山の風貌です。
とにかく体が熱く、何か飲みたいと思い、境内の茶屋で一休み。
コーヒーと共にいただいたお団子がおいしくて感動しました。
境内は何種類か桜が咲いていて、綺麗だなと思っていたのですが、ご神紋が鹽竈桜という桜だということに気付いて、なんだか変に腑に落ちました。
桜は儚いような代名詞としても有名ですが、サクラサクというように、何かを成し遂げるという意味合いにもとることができます。
塩を精製するというのは、海水(水)の中から結晶を取り出すこと。
その人の重要な結晶の部分が見えた時、それは、サクラサクではなかろうか。
それは、神の力でもない、人間が成しえた功績の一部が目に見える光として見えた時。
それは、その人の、桜が咲き、また、塩を精製できた時、とも言えるのではないかな、と。
ライトワーク的には、杉檜の作る水脈を伝って富士山、出羽三山からの龍脈を作っていくようなお仕事ではありましたが、その末端に龍脈を繋ぐことで、
末端ではなく、主になるというようなイメージを受けました。
繋がると、一部分もまた、部分でありながらメインである。
それは、人間は人間だけでも生きることができないし、森や林、生態系もまた、人間があってこそ、発展の可能性を秘めているとも言えるのではないかと感じた日でもありました。
余談ですが、この神社で食べたお団子がおいしくて、忘れられません、笑
これを書いていて、桜の塩漬けというのは、かなり神聖な食べ物ではないかな?とも思っています。
お読みいただきありがとうございます。