偉人『森鴎外と母』
今回はこの『森鴎外と母』というテーマで記事を書くことにする。森鴎外といえば数多くの小説・翻訳・評論などの作品を残した明治の文豪であり、軍医である。あまり知られてはいないが我が国の年号について「正しいかどうかを資料や証拠に基づき詳しく調べて確かめる」考証を行い、また知識人として奈良の正倉院宝物の価値を研究・発信し、文化財保護の意識向上に寄与したことから宝物の「虫干し(曝涼)」に立ち会うなど面白い経歴を持つ人物でもある。
そんな鴎外の人生をそして彼の作品を紐解いてみると、母峰子との関係があまりも密であることが読み取れる。今回は鴎外と母峰子の精神的繋がりを紐解きながら、子供の人生にどこまで親が関わるべきか、口を出すべきかを考えてみようではないか。
1862年2月17日森鴎外こと森 林太郎は現在の島根県津和野町の代々藩医を務める家に生まれ、祖父と父を婿養子として迎えているため久々の跡継ぎ誕生で家のものは喜びを隠せないほど喜んだ。この世に生まれ落ちた瞬間に期待され大切に育てられた。林太郎は5歳で論語、6歳で孟子などの漢学や当時の医学に必要な蘭学を学び、厳格で学問中心の環境で育っている。鴎外は家の後継としての期待を裏切ることなく、非常に成績優秀で年齢を2歳誤魔化し12歳で東京医学校医学本科(現在の東京医学部)に入学し、一説によると9歳ですでに15歳程度の学力を有していたとも言われている。しかし彼が神童と呼ばれることも事実であるが、その裏で鴎外以上に努力をしている人物がいた。それが母の峰子である。
母峰子は藩医の娘として誕生するも明治時代の女子教育は現代の学校教育とは大きく異なり、制度化された学校ではなく家庭中心の中で、武家社会に相応しい厳格な礼儀を重んじた教育がなされ、個人より家、女性より男性、感情より義務という倫理観が重んじられ、女性は学問よりも良き妻・母・家の守り手になることが求められ、峰子も家事や裁縫ができればよく、学問は必ずしも学ばなくてよいものとされた。峰子は藩医として忙しく働く夫に代わりに長男林太郎を育てるため、自らの母(林太郎の祖母)に学問の学び直しを願い出た。峰子の学び直しは「いろはにほへと文字」を学ぶことから始まり、林太郎が学ぶ学問を息子が床に着いた後、夜更けから翌日の朝方まで予習を行い翌日の林太郎の学習に備えた。こうした日々が長年続いたそうである。
私自身も同じ経験をしてきたが、それはある程度の知識の上に成り立つ学び直しで労を要すことには至らなかったが、峰子の学び直しは大変辛かったようで鴎外の弟にその辛さや大変さを語っていたとの記録が残っている。では母として妻としての日々の家事や子育てをしながら睡眠を削ってまで鴎外の学びに付き合うことができたのはなぜなのか。これは単に峰子の辛抱強くことを成し遂げるという性格が一因にである。つまり当時の社会的風潮が女性に齎したものの最たるものは辛抱強さである。そして峰子には家を守るために鴎外を医者に育てなければならないという重責が課せられていたことはいうまでもない。
このようなことを書くといかに母峰子が息子のために自分の時間を割くことを厭わなかったことがわかる。それと同時にバイタリーに溢れていたこともお分かりだろう。言葉を変えて表現すると母峰子は強い性格の持ち主であり、とても意志の強い人物であったことも容易に想像がつく。そして彼女には息子を立派に育てるという覚悟を持って教育を施した。もう一方の見方を加えるとするならば教育熱心で支配力が強いという見方もできる。つまり息子鴎外にエリートとしての成功を求めることを望み、その路線を歩むようにお膳立てしたとも言える。そしてその母の思いを裏切らないようにしっかりと応えたのが鴎外である。当時の家の格式や体面を重視する考え方は母峰子を通して鴎外に強く影響を与え、鴎外は母に対して非常に強い敬愛の念を抱いていた。鴎外は母の期待を裏切らないように行動するようになっていくが、後々それは従属とも捉えることができる関係性に陥ってもいる。鴎外の作品『舞姫』にも母息子の関係性が描かれている。そこに描かれている恋人エリスは、森鴎外がドイツ留学中に関係を持った女性がモデルとされているが、その恋人エリーゼが鴎外を追いかけ日本に来た時、母峰子はエリーゼをいかに母国に戻すかなどの策を考え奔走している。また母の意向で鴎外に嫁いだ最初の妻である赤松登志子との離婚もまた母峰子と嫁登志子との関係悪化によ流もので、息子夫婦の関係性に強く介入したが母峰子だ。
私はここに大きな疑問を感じる。成人した息子の人生に口を出さずにはいられない強い母の性格は、成人した息子をまだ子供扱いした錯覚が起こしたものであり、その発端は息子を構いすぎたことによる過ちだと確信している。また森鴎外にとって母は単なる精神的支柱だけではなく、人生を規定する大きな存在になり過ぎて自由に逆らえない縛られた親子関係であり、自分自身で物事を決める前に母に伺いを立てる、結論を出してもらうという服従いや依存という形になったのではないだろうか。
では親はどこまで子供の人生に口を出すべきか考える必要があ利、私もこのことについては主人に強く指摘を受けたことがある。「お膳立てに乗っかることは一見効率的で事が良い方向に運んでいるように見えるが、本当に落とし穴はないのか」「効率の中に自分自身で選択すべき技量を身につけるべきなのではないか」と。その投げ掛けに核心部分が存在することを子供が幼少期に気付けたことで、子供の人生選択に口を出さずには済んでいる。しかし放任したわけではなく、転ばぬ先の杖を持たせ、その杖をどう使うかを子供に託した。その杖の使い方を間違ったとしても、そこで得た間違いは気づきをもたらし、失敗は必ず成功の糧にし自分自身が考え立ち上がり、その先の人生を歩むための布石にするに違いないと考えている。
しかし私も最初から子供の失敗を見守れたわけではない。助けたい気持ちを押し殺しながら、そしてついつい手助けをした自身を諌めたり、過干渉になり過ぎて再度子供を崖の下に落としてしまった反省を踏まえ軌道修正をしてきたわけである。最初から全てが上手くいく親はいないのである。しかし過干渉と過保護は違い、その違いに親が気づけるか否かが子供の自立に影響を与える。
皆さんにしっかりと理解しておいてほしいこと、それは子供が自分の足で歩くためには、子供自身が自ら考えて行動することである。誰かが決めて誰かの指示のもと行動することの先に子供本当の幸せはあるだろうか。そのことを今一度考えるべきである。もし親の敷いたレールの上を子供が歩むことを拒むのであれば、いくつか新しい線路を引く準備をしてもいいのではないだろうか。つまり人生にはいくつもの分岐点があり、その分岐点を上手く軌道修正しその子に合う道筋を見い出せるように導くことが親の役目かもしれない。子供がそうしたいと自らの道を決めようとしているのならば、それは幼い子供の決断ではなく、自立した一歩である。中学二年生がアメリカに単独留学したいと決めたらそうさせれば良い、幼稚園生が今までの習い事を辞め新たなものをしたいと言えばさせてみればいい。大学6年間を全うし新たに6年の大学生活に臨みたいといえばさせてみればいい。親はその子供が自発的にそれらの申し出をしてきた場合に安全と経済的確保を行い、その後の人生に待ち受けているであろう良きことも悪きことも子供に伝えた上で子供に任せても良いのではないだろうか。
最後に鷗外の文学的資質は峰子の文人的嗜好からきている。精神科医クレッチマーの「天才は女性を通じて男性に現れる」という仮説を鷗外に当てはめると、文学的感受性は母性の系譜から来ている。母峰子は幼少から人形遊びよりも太平記などを読むことを好んだ。長じて趣味は読書と観劇で『平家物語』『徒然草』などが傍にいてあり、『和漢朗詠集』なども繰り返し見ていたと孫の於菟が書き残している。鷗外は翻訳の代表作であるアンデルセン『即興詩人』を高齢の母峰子が読めるよう通常より大きい活字体で編集している。母に依存している関係ではあったが最後まで母思いの息子鴎外であった。親が子供の人生にしゃしゃり出て子供の人生を奈落の底に貶めるような関係ではなかった。つまり私が口を出すような親子関係ではなかったということである。鴎外と峰子の間には確実に過干渉と依存は存在していたが、そこにはもう一つの側面である親子の愛情と信頼が存在していたのである。そう考えて森鴎外作品を読み漁ってもいいだろう。ちなみに私は『高瀬舟』で白黒はっきりつけられない問題の中に存在する核心部分を探すのが好きである。