私と山結び ~参加者K.Uさんの声~
山結びとの出会い
「ねえちょっと」
助手席でスマホを覗き込んでいた妻が声をこちらに向けた。
「理屈っぽいあなたのことだから、多分このワークショップの方が合うと思うんだよね。明日開催みたいだから、申し込みしておくから、行ってね。」
突然のことだったが、妻が何のことを言っているかは大体想像できた。
その頃、私たち夫婦は「土中環境を整える」と言われる「ナニカ」を、熊本、または九州内で学ぶことができないか、ネット、リアルを問わず、探していた最中だったからだ。
しかし、言うに事欠いて「理屈っぽい」とは何事だ。
確かに、それまで妻が私にもたらした情報といえば、
「庭に穴を空けると、植物が元気になるらしい」
「草刈りは、風のように鎌で刈ると、雑草の繁茂を抑えられるらしい」
などといった、「何かのまじないか?」とも思えるような情報が多かったからだ。
「何故、そういう結果がもたらされるのか」
という文脈、ロジックがないままもたらされるそれらの情報に対して、私は、半ば眉を顰めながら、空気の震えを右の耳から左の耳へと通過させているだけだった。
もちろん、話している妻本人も理屈がわからないままこちらに伝えているので、私の疑念は増すばかりであった。
「でも、これは違うみたい」
妻が言うには、アメリカのアイビーリーグに属する大学で研究していた学士様(この場合は博士様か)が、福岡の山の中で、論理的にまじないの種明かしをしてくれるらしい。
「ね、理屈っぽいあなたにピッタリでしょ」
前日に突然、しかも、週末に早起きを強制させられる不測のイベントのカットインに、渋々ではあったが、無課金のままダンジョンに乗り込むことを約束させられたのであった。
「場違い」を乗り切る
初めまして、の瞬間はどんな人でも緊張する、はずだ。
主宰者が立つを正面に、参加者の円陣の10時の位置にいた私は、知っている限りの単語を紡いだ。
「◎◎の再生や、風の〇〇ということを学びに云々・・・」
(後日、さまざまな宗派が存在することを知る)
自分でも薄っぺらい参加動機だとは感じていた。
しかし、他に言葉を繰り出す術もなく、できるだけ、「おおっ・・・」と思われたい承認欲求を満たさんがための自己紹介。
しかし、それが何であるか、それが何に寄与するか、そして、どのようなシステムで「それ」が機能するか、
が、皆目わからないままであった。
が、何となく切り抜けたような気がする。
が、主宰者の一人(女性。のちに轟まことという曲者だと知る)が、右下30度の角度に目線を送って口の端に微笑みとも嘲笑とも苦笑ともつかぬ表情を浮かべていたのを覚えている。
が、
で、あるが、澱まず弁舌なめらかに話せた(?)ことに、ひとまずは、一定の満足感を得た。
コミュ力?で半径を縮める
クライマックスはすぐに訪れた。
山への道すがら、箇所箇所の状態、景色を指しながら、それが今どんな状況に陥っているのかという、ガイドの最中。
「この土が渇いているから」
地表が露出している箇所。
その下は、3面貼りの側溝、U字溝。
「ここに水が溜まって云々」
水が溜まっているなら、水が「じゅんじゅん」しているはずだろう。
なぜに、渇いている?
「ここね、前に石を刺したところだけど、触ってみると・・・。あ、団粒化しているね」
「ダンリュウ?」
表す漢字がわからない。
「ええい、ままよ!」
知らぬはいっときの恥、
「乾いているって?」
「ダンリュウって?」
と次から次に質問を投げかけた。
裸の王様は哀しすぎるが、自らひとえひとえ脱ぐ「裸になるのが好きな王様」なら、参加者も、「この人よりも」と会の能動的な参加意識を上げるための、ある種ハードルを下げる一機能になることができるのではないか?
そんな高い意識はなかったにしろ、積極的に、もろ肌を脱ぐ行為に終始した参加初日であった。
歯磨きのようなもの
月に一度とはいえ、なんだかんだと「山結び」への参加はもう一年以上継続している。
毎月第三土曜日に高速を飛ばし、集合時間の9:30、宮地嶽神社の駐車場にほぼオンタイムで滑り込むと、馴染みの顔が見える。
春先、GWなどになると、子供連れ家族の参加者も増え、
「おお、今日は多いねえ」
と、微笑みながら独りごちて、まるで主催者気取り。
山に入れば、前月の作業の跡から、自らの造作、技術、理解度の未熟さや、2ミリ程ではあるが、体に刻まれつつある作業習得の進捗、一ヶ月経てこそわかる前月の課題への解答などに気づくことができる。
継続して参加しているからこその学びがそこにはある。
黙々と、時に参加者と近況を話しながらの作業はとても心地よい。
ともにゴールに向かって汗を流すことは、参加者同士の繋がりを強くし、会への帰属意識が芽生え、ますます「山結び」から離れ難くなる。
一言で言えば、「クセになる」のである。
参加が叶わない月などは、
「今月の山はどんな状態だろうか」と、気になってしょうがない。
「山結び」から得たもの
「山結び」とは
山の復活、自然の復興力の回復、自然への回帰、地球規模の環境変化への配慮、エトセトラエトセトラという、崇高な目的を達成せんがために参集した人々の「やる気」みなぎる労働力を搾取して登山道を整備する活動である。(引用:ウィキペディアコモンズ)
(ではない)
そもそもの参加のきっかけは、稼業である造園プロデュース業において、土中環境改善の手法や考え方を取り入れる必要があった、ためである。
矢野智徳氏の「大地の再生」も高田宏臣氏の「土中環境」などの書籍も読んだ。
ネットなどで、各氏の動画やレポート、活動も逐一追って情報収集に努めた。
各団体が企画するワークショップにも参加してみた。
しかしながら、である。
しかしながら、私にはこの「山結び」という活動が一番しっくりくるようだ。
しっくりくる、というか「水があう」というべきか。
瀬戸氏から得られる、アカデミックな解説や視野。
轟氏から発せられる、私の埋没しかかった本能、感覚、センサーへの刺激。
もちろん、JUNさん、RYOさん、参加者の考え方や感覚が近しいのも、参加し続けられる要素なのだろう。
稼業に即応用できる、実践的な視野や技術、手法を身につけられること、
環境改善に取り組む人々とのコネクション、人間関係の構築と拡大ができたこと、
など、実利に直結する様々を得られたことは、本当にありがたいと思っている。
しかし、それだけではない。
山を「山」としてみるだけではなく、
土を「土」としてみるだけではなく、
水を、風を、虫を、菌を、草を木を石を、
ただそれだけのものとして「みる」感覚以上に、そのものの立場、機能、目線で思考するようになりつつあることが、私自身の一番の変化であり、「山結び」から得た「ギフト」ではないかな、と感じている。
この開きかけた「センサー」(または「チャクラ」と呼ぶべきか)は、磨き続けないと再び閉じ、再び埋没していくだろう。
つまり、私は「山結び」に参加し続けなければならない「カルマ」を負ってしまったのだ
(主催者は迷惑だろうが、知ったことではない)
笑顔ではつらつと、仲間たちとともに汗をかき、自然への造詣を深めつつ、新たな参加者へこの活動の楽しさと意義を「カジュアル」に伝えていくこと。
そして、いつか自分の地元で「山結び 〜スピンオフ〜 K.U、段切りする」を展開すること。
これが「山結び」からいただいた「ギフト」への、私なりの恩返しなのかもしれない。
結びに
つらつらと、駄文を重ねてしまった。
しかし、このくだらない文章は、私自身の「山結び」への敬意と愛情の発露に他ならない。
(と思ってください)
9月の第三土曜。
ふた月の期間を経て再開される「山結び」で、仲間に再開し、新しい参加者と出会うことが楽しみだ。
それまでに、新しいTシャツを買っておこうと思う。
2025.8.20
K.U