Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.190「家康の関東移封」について

2026.05.04 20:40


危うく「関東にかつてあった城の跡めぐり」をさせられそうになったが、振り切ってようやく家康様の関東移封にまで漕ぎ着けた。ではでは、呼び戻されたりしないうちに、さっさと本題に入ってしまおう。




● 家康は豊臣家中から警戒されていた


小田原北条征伐では家康は、山中城の攻撃軍に加わり、3万の軍勢で西の丸を攻め、城は1日で陥落している。徳川別働隊は、鷹ノ巣城・足柄城を攻め落とし、韮山城・下田城・玉縄城・松井田城攻略にも参加。家康以下、最終的には小田原城の包囲陣に加わった。豊臣軍のサポートの域を出ない働きではあるが、兵力的には諸侯の中で最大の兵力で貢献度は高かった


実は、家康は北条氏の降伏前にすでに秀吉から関東移封を打診されていたらしく、前年末には「関東八州遣はさるべき」と秀吉からの言葉があったという(「乙骨太郎左衛門覚書」)。このため、家康は関東を与えられるにふさわしい存在感を示す必要があったのだ。

 

一方で、小田原陣の最中にはこんなエピソードも伝えられている。箱根の諸陣に「家康と織田信雄が共謀して北条氏へ内通し、秀吉の本陣ほか諸陣をことごとく焼き討ちする日時に、小田原城内からも出撃して豊臣軍を追い落とす手筈となっているらしい」との噂が流れたというものだ。


秀吉はこれを聞いて家康の陣所を訪れ、夜まで賑やかに過ごし、将兵の疑念を打ち消してみせた(『落穂集』)、というのは史実かどうかは分からないが、新参で外様の大大名である家康を怖れ、警戒する空気が豊臣軍の中に広く漂っていたのは当然だろう。




● 関東の連れ小便

「関東の連れ小便」とは、小田原征伐の際に、豊臣秀吉が徳川家康に関東移封を告げた場面に由来するとされる逸話である。小田原城を見下ろす高台において、秀吉と家康が並んで小便をしながら会話したことが語源とされ、後世の軍記物や逸話集に伝えられている。


秀吉は、陣所の高台(笠懸山石垣山城)に家康を伴い、城下を望みながら並んで小便をし、家康に対して関八州の統治を頼んだ。この逸話は後世の『関八州古戦録』や『新撰太閤記』などに見え、いわゆる「連れション」の語源としても紹介されることがある。


家康にとってこの申し出は寝耳に水であった。彼自身は後北条氏の滅亡後、隣接する伊豆一国の加増を予想していたとされ、実際に家臣へ伊豆支配の指示を出していた記録もある。しかし秀吉は、家康が5カ国(三河・駿河・遠江・甲斐・信濃)を安定的に支配していることを警戒し、あえて地縁の薄い関東八州への移封を命じたと解釈されている。


この逸話は後世、慣用句としても転用された。『関八州古戦録』には「今の世までも東国の児女相謂て関東の連小便と申す事は此吉兆を伝へたり」と記されており、関東の人々は一人が小便をすると同行者もならって小便をするという気風に結びつけられた。のちには地域名を入れ替えて各地の気質を表す言葉としても用いられた。




● 命じた秀吉の思惑

家康から営々と築き上げた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を取り上げ、相模・武蔵・伊豆・上野・上総・下総の関東6カ国を与えた秀吉の狙いは何か。善意に解釈すれば、北条氏なきあとの関東をうまく統治するのは家康くらいの大物でなければ務まらない、ということもあったかも知れない。


しかし、秀吉にとっては北条氏の影響の残る関東に家康を封じれば、何よりもまず東海地方で培った土地とのつながりを断ち切る事となり、その力を削ぐ事ができる。新領地の統治に手こずってさらに力を減衰するだろう。そうなれば如何様にも料理できる。うまく行けば国内に反乱が起こり、それを名目に家康を取りつぶせるかもしれない。これには前例があり、肥後を与えられた「佐々成政」が内乱の責任を問われ2年前に切腹させられている。

 

それが駄目でも、中央から僻地に追いやって、その周囲に監視の大名を配置しておけば手も足も出せないだろう。信濃上田には真田昌幸、会津には蒲生氏郷、遠江掛川には山内一豊、遠江浜松城には堀尾吉晴、駿河駿府には中村一氏など、その目論見は現実に実行された。


徳川の所領である三河・遠江・駿河・信濃・甲斐は、五ヶ国で150万石だったが、関東移封後の所領は240万石が見込まれている事から、一見「栄転」に思える。しかし、これは結果論。当時そこまでの石高を見込んでいたのかは疑問である。


また、豊臣政権の中枢にいながら政治の中心である近畿地方から離れる形で、しかも発展した小田原より更に東の閑散とした江戸を本拠地とさせたわけであるから「左遷」とも受け取れる。


江戸は古くから東国の水上・陸上交通の要所。相模・鎌倉・中原街道でつながり、さらに東北地方の奥州街道にもつながっている。秀吉は、後に東北平定も考えていたので、奥州街道を確保するためにも江戸は重要な拠点であった。


こうした戦略拠点の江戸を任せる事で、豊臣政権内で家康を最大限に評価しつつ、合法的に政権中枢から地理的に引き離せることが出来るのが江戸だったのである。


北条が滅びたことで豊臣家に次ぐ実力を徳川家康が持ち、彼が謀反を起こせば豊臣政権も無事では済まない。秀吉の親友「前田利家」も同じ危機感をもっていたようで、家康がいつ豊臣家に敵対するかを警戒していたと家臣の残した史料に書かれている。


小田原の立地は東国の喉仏である箱根に隣接しており、箱根峠は陸上交通の要所で、ここを家康が治めれば豊臣政権にとっては都合が悪く、秀吉は小田原を家康の家臣「大久保忠世」に入るように指示。これも家康の謀反を想定して、豊臣方に有利な動きをしそうな人選をしたと言われている。




● 受け入れた家康の思惑

いざ転勤が決まると、家康は江戸に家臣たちを現地に派遣して様子を探らせた。一般的には当時の江戸は寒村であったと言われてきたが、先述した交通の要所でもあったことから、ある程度発展をした地域であったと史料に記されている。そうしたことから、当時の江戸は北条氏の下で整備が進み、重要拠点として発展しつつあったと思われる。


家康は、こうした情報も北条氏との婚姻関係で秀吉以上に持っていたのであろう。そもそも、小田原では関東を支配するのに不便だったので、関東平野を一望できる江戸の方が地の利がある。秀吉による天下統一事業が完成され、大名間の領土的争いがなくなれば、この広い関東平野を含む江戸の発展に力を入れられる。家康自身も、京都・大坂を拠点とする豊臣政権と距離を保ちつつ、秀吉に対抗しうる大きな力を蓄えやすい江戸は、最適な場所だったのだ。


小田原城が落城すると、家康は秀吉の指示通りに江戸へと入るのだが、わずか2か月で領地替えを完了し、あまりの速さに豊臣秀吉も「早いにもほどがあるだろ」と突っ込みを入れたとか入れないとか。


しかし、家康についていく三河武士たちの心境は微妙であった。今より高給取りにはなれるものの、故郷と個人の財産を失い、親族とも生き別れることから、関東移封は徳川家中で反対者が多かったようだ。一方で家康は「三河を失うのは悲しい」と言っておきながら、土豪出身の三河武士たちを地元から切り離すチャンス!と心では大歓迎だった。


この時代の大名家は、領国の中央集権化に苦労しており、特に厄介なのが先祖代々の土地を支配していた土豪達。彼らが地元にいる限り主従関係を作るのが難しかった。それは徳川家でも同じであったが、秀吉による関東への転勤命令をキッカケに、家臣たちの序列改革を変えようと考える。


秀吉が家臣達の知行や配置まで介入したのを利用し、仕方なく従った風に三河衆たちの知行を決めた。例えば、新参者の「井伊直政」を12万石と優遇する一方で、家臣団筆頭格の「酒井忠次(この時にはもう引退していた)」の息子には、3万石しか所領を与えなかったりと、三河時代では考えられない割り振りとなった。




● ちなみに、家臣団の所領配置は

家臣団の所領配分には、いくつかの特徴がみられることが明らかになっている。徳川関東領国の配分を以下の3つの特徴と共に記しておこう。


①「直轄領」には頭脳派を採用

直轄領の地域は、武蔵南半国・相模東半国・伊豆国。家康直轄領は、地方巧者である「伊奈忠次」「大久保長安」などを「代官頭」に取り立て、領国運営を行なった。伊奈忠次は、家康大ピンチの伊賀越えを助けた功労者であり、こののち五街道の整備や、利根川治水などで大活躍。元、武田家家臣の大久保長安は、行政と鉱山経営を任され期待に応えることとなる。


② 直轄領北部と東部の「一門領」は身内エリア

北部には武蔵国忍に家康四男の「松平忠吉」。下総国小金(こがね)のち同国佐倉には穴山武田氏を継承した家康五男の「武田信吉」。また、縁戚の重臣「酒井家次」を下総国臼井に配置して信吉の補佐役とした。ついで、家康の異父弟の「松平康元」を下総国関宿に配置。


③「重臣領」は猛者たちでガード

主に重臣領は徳川関東領国の外縁部に設けられた。具体的には相模国小田原の「大久保忠世」、上野国の「井伊直政」「榊原康政」、下総国東部の「鳥居元忠」、上総国の「本多忠勝」などが挙げられる。


小田原の大久保忠世は、徳川領国の西側の防衛の役割を、上野国の井伊直政と榊原康政は北関東・奥州地方につながる東山道を掌握・防衛する役割を帯びていたと考えられる。続いて下総国東部の鳥居元忠は、徳川関東領国東北部の防衛を担当し、上総国の本多忠勝は安房の里見氏に対する備えと江戸湾の制海権の維持という役割があった。北条氏と里見氏は江戸湾の制海権をめぐって長年合戦を繰り広げていたため、江戸湾の制海権を徳川勢力で固めるのが、本多忠勝の役割であったみられる。


なお、井伊直政・榊原康政・本多忠勝の所領配置については、秀吉の意向・承諾があったことが明らかになっており、近年の研究によれば、3人の所領配置先(井伊直政の箕輪・榊原康政の館林・本多忠勝の大多喜)が徳川領国のみならず、豊臣政権においても重要地であったためと指摘されている。


こうして、関東に移った徳川家康は、東海道時代に培った領国経営のノウハウを関東においても実践し、大きな改革を施して年貢の安定と軍事力の強化を図りながら、旧北条家臣団も家康に定着させることに成功。そして、政治の中心である大阪から離れていた事が幸いし、朝鮮出兵の際の国力低下を避けたられたことで関東一帯の絶大なる支配者となり、後の江戸幕府の礎を築いていくのであった。



よしよし。江戸時代まであと少しだ。もう寄り道なしでこのままゴールへと向かってくれ! まあ、ゴールというより再スタートラインなのだが。



参考
https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100010/ht040020
http://rekisiuntiku.blog.fc2.com/blog-entry-306.html
https://www.rekishijin.com/31754
https://ja.wikipedia.org/wiki/関東の連れ小便

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4ef6d0173f512bdc2dde0bb8e27b71ad18c78884

https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-16.html