無知の知
かつて、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、『無知の知』について述べている。
つまり、ソクラテスいわく、
『自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。』
ということ。
人は誰しも、生まれたときは無知である。『なにも知らない。』
だから子どもは純粋なのである。
しかし、学校教育や他者とのコミュニケーション、学習により、年を追うごとに、無知ではなくなっていく。
しかし、その子どもを取り巻く環境や保護者によって、身につける知識や教養には歴然とした差が生まれる。
ここ最近、幼い子への虐待に関するニュースが後を絶たない。
もしも、その子が教育熱心な家庭に生まれていたら…?
もしも、その子が理解のある保護者の元に、生まれていたら?
聴覚障害のある子どもたちは、『聞こえない』というだけで、世の中の情報から遮断されがちで、一般常識を知らないとか、空気が読めないとか言われてしまいがちである。
しかしそれは、聞こえないその子たちの立場からすれば、わからなくて当然なのである。
それが無知であると言われてしまいがちだが、『自分が無知のであること』に気づき、もっと知識を得たいと追いつこうとする子もいる。
しかしその数自体は、少ない。そのことに気づける聴覚障害のある子どもは、本当にかしこのである。
無知であることを恥じるのではなく、無知である自分に気づき、賢くなろうと知識や情報をたくさん得て、果敢に学びに貪欲になってほしい。
それは聴覚障害がある子どもでも、健康な子どもでも、どんな子どもでも同じである。
今、学校では、『いろいろな体験をし、貪欲に学び続けたい。たくさん教養を得たい』と思うような子どもを、育てるために、頭を抱えている。
ソクラテスの言う無知の知は、その子どもの環境次第なのだと、痛感させられる日々である。