体験が「通る」とき、そこに目覚めがある
私たちは日々、さまざまな体験をしています。
感情が動き、
思考が巡り、
身体に反応が起きる。
その一つひとつは自然なものであり、
止めることのできない流れでもあります。
ただ、その体験に触れたとき、
私たちはしばしばそこに巻き込まれます。
強く揺れたり、
逆に固めてしまったり、
あるいは距離を取ってやり過ごそうとしたり
体験に対して、何かしらの関わり方をしています。
本記事では、一般的に
目覚めや覚醒と呼ばれる状態が
私たちの日々の「体験」と
どのように関わり、
どのように処理されるか、
を言語化しながら、
それを妨げる現象について
紐解いていきたいと思います。
体験とは、本来ただ「通っていくもの」
私たちは、日常生活から
仕事、人間関係を含めて
日々さまざまな「体験」をします。
もし、体験に対して何も加えなければ、
それはただ起きて、
そのまま通っていきます。
感情も、思考も、身体の反応も
本来は一時的な現象として
とどまることなく流れてい。
その流れの連続の中にあるものです。
しかし私たちは多くの場合、
その体験に意味を与えたり
判断を加えたり
抵抗したり
さまざまな「関わり」を持つことで
流れは途中で留まり、
反復されるようになります。
自己の構造を対象化する
体験が留まるとき、
そこには共通した構造があります。
怒りが起きたとき、
「怒りがある」ではなく
「私は怒っている」となる。
不安が起きたとき、
「不安がある」ではなく
「私は不安な人間だ」となる。
つまり、体験=わたし
体験そのものと、
自分自身が重なり合い、
区別がつかなくなる状態。
このとき、体験は通過するものではなく、
“自分の一部”として留まり続けます。
これが同一化です。
しかし、その同一化に
やがて耐えられなくなる時が来ます。
自我の崩壊、アイデンティティクライシスです。
このときはじめて、
「その体験は”わたし”ではない」
という脱同一化、
自己構造の対象化がはじまります。
このとき大切になるのが、
体験に対して過剰に介入しないこと。
変えようとせず
抑えようとせず
解釈を重ねすぎず
ただ、起きているものとして触れていく。
これは放置することでも、
無関心になることでもありません。
むしろ、より繊細に、
起きていることに触れ続ける関わり方です。
気づきが起きるとき
このような関わりの中で、
ある変化が起き始めます。
それは、体験そのものが変わるのではなく、
体験との関係が変わるという変化です。
同一化していたものが、
少しずつ「起きているもの」として見え始める。
怒りの中にいた状態から、
怒りが起きていることに気づいている状態へ。
不安に飲み込まれていた状態から、
不安が通っていることに触れている状態へ。
ここで何かをコントロールしているわけではありません。
ただ、見え方が変わっている状態です。
通っていくという現象
体験との関係が変わるとき、
それまで留まり続けていたものが、
少しずつ流れ始めます。
感情は起きるが、滞り続けない。
思考は浮かぶが、固定されない。
反応は起きるが、積み重ならない。
それらは、
そのまま通っていく現象として現れます。
目覚めとは何か
目覚めとは、
こうした自分の内側の構造の変化により、
思考や感情に飲み込まれることがなくなり、
自動反応を自分だと思う必要がなくなり
やがて自分と世界が同時に自由になっていくこと。
その変化の過程で獲得する
視座の変化や心身の自由は
甘美にも思えますが、
統合の過程で暗闇を感じる人も少なくありません。
目覚めとは、
何も起きなくなることでも、
常に静かでいることでもありません。
同一化によって留め続けていたものが、
自然な流れの中に戻っていくこと。
私たちはこれまで、
どうすればうまく対処できるか
どうすれば乗り越えられるか
体験をどう扱うかばかりを学んできました。
しかし、
体験は本来、
乗り越えるものでも、
解決するものでもなく、
ただ通っていくもの、
そのことを許容できたとき、
そこに、目覚めと呼ばれる質が
静かに現れています。