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西宮市山口町郷土資料館

有馬軽便鉄道(有馬鉄道株式会社)(国鉄有馬線)

2026.04.07 05:30

  大正4年、福知山線三田駅~有馬(12.2キロ)の間、この山口村に蒸気機関車(汽車)が走っていました。(1日開設当初は6往復、後に7往復)所要時間は約35~40分余り、3つある(塩田、新道場、有馬口)停車場(駅)のうち下山口村字吉田(光明寺の下)に有馬口駅がありました。駅前橋が現在も残っている。

 会社側より駅舎建設に対する応分の寄付金の要請があり千円を拠出し会社側に手渡した。駅名が山口に命名されることを期待したものであったが、有馬口と呼ぶ駅が設けられた。

(村長が有馬鉄道株式会社へ山口駅実現のための要望書を提出していた。)

   大正8年3月31日政府が買収し国鉄有馬線となった。

 機関車は、当初は3050型蒸気機関車、後にC12形 C12164が走っていた。(いずれも過熱式のタンク式蒸気機関車)蒸気機関車の一種で水、石炭を機関車本体に積載する形態の機関車を指す。

 全線単線で、有馬方面へは機関車が先頭で前向き、三田方面へは機関車だけが先頭で後ろ向きに走っていた。

(逆機(ぎゃくき)とは、蒸気機関車のような片運転台の機関車が、転車台のない線区において、逆向きで列車を牽引することである。バック運転とも言う。)

 有馬口、有馬間は当時国鉄の建設基準の最高値、千分の三十三の登り勾配が随所にあって、雨天の日などはよく機関車の車輪が空転して、機関士の腕の見せ所であった。

 太平洋戦争が深刻化し始めた昭和18年、軍部は軍需物資輸送の為、篠山地方に鉄道建設が必要で、有馬線の資材を使用することになり、昭和18年6月30日、国策により遂に有馬線の廃線が強行されました。(28年間運行)残念ながら、廃線をやめてほしいと言う反対運動ができる状態ではなかったようです。

 このことにより、山口村の損失は大きく、昭和26年西宮市との合併まで人口の伸びは全く見られませんでした。

 平成23年までは、山口町から有馬に行く途中(山口町中野十八丁川)に線路の橋脚や橋台が残っていましたが、有馬山口線バイパスを作る為に取り壊されました。

【写真】

公智神社前風景  昭和初期の公智神社前風景。国鉄有馬線線路と腕木式信号機が見える。

(山口町史 資料編)

中野 十八丁川の橋粱建設工事 (山口町史 P266)(やまぐちの里 P16)

有馬口駅の全景(昭和14年頃) 下山口光明寺下 (山口町史 P269)

中野十八丁川に残っている旧・有馬線の橋脚 (山口町史 P271)(やまぐちの里 P13)

夫婦松より丸山を望む風景 国鉄有馬線が開通していたころ撮影 (山口村誌 P4)

橋脚を走る機関車、後ろ向きに走る機関車など5枚 当会事務所保有

【ビデオ】

  失われた鉄道を求めて~国鉄有馬線~ 10分 当会事務所保有