「すでに在る」に気づき始めた時、起きたこと
以前の私は、ずっと「変わること」を前提に生きていました。
頭の中の思考は、
もっと良くならなければ、
もっと整わなければ、と先に進むことだけ。
この感覚は、あまりにも自然で、疑ったことすらなかったように思います。
目にする情報も、今より良くなるためのノウハウばかりで、気づけばいつも少し先を見ている。
今の自分ではない、どこか別の場所。
もっとすごい私。
もっと自由な私。
もっと強い私。
そうやって身体はずっと、“まだここではない場所”へ向かい続けていました。
実際、変わろうとすることで、人生は前に進んできました。
学びも増えたし、理解も深まったし、以前より楽になった部分もたくさんあります。
けれどその一方で、「今ここ」で自分が何を感じているか、何に感動して、何に喜びを感じているのか、その感覚はどこかにずっと置き忘れたまま。
そうやって「まだ足りない」 という、静かな緊張を抱えたまま、次の行動、次の行動。
そんなふうにどれだけ行動しても、また揺れる。
安心したはずなのに、また揺れる。
そしてその揺れを、なんとかする。
その頃の私は、“変わりたい”というより、“変わらなければいけない”と思っていたのだと思います。
”今のままでは安心できなかった”のだと思います。
今振り返ると、その「変わらなければ」という感覚は、自我や神経系が、生き延びるために働いていた自然な反応でもありました。
それは、自己否定をしているか否か、思考の問題ではなく。
もはや、生命の反応に近い感じ。
もっと確かなほうへ。
もっと認められるほうへ。
もっと傷つかないところへ。
私たちの内側は、そうやってずっと動き続けています。
むしろ、それはこれまで自分を守ってきた、大切な働きでもあったのだと思います。
事実、そうした働きがなければ、幼少期、不安定な家族関係の中で自分を保つことはできなかったでしょうし、今こうして大人になれてもいないかもしれません。
けれどあるとき、ふと違う感覚が生まれ始めました。
変わろうとしている、その動き自体が見え始めたのです。
もっと良くなろうとしている自分。
安心を探している自分。
必死に整おうとしている自分。
それまでは、懸命に生命を維持してきた、それら神経系の防衛反応そのものが、「私」でした。
「私はこういうタイプだから」
それは、アダルトチルドレンという名称だったかもしれないし、HSPという名称だったかもしれない。
以前は、その動きそのものが“私”でしたが、ある瞬間から、それらを少し離れた場所から見ている感覚が生まれてきました。
そのとき初めて、「変わらなければ」という感覚そのものが、恐れをベースに動いていたことに気づきました。
そして、その恐れを握ったままでは、どこまで行っても安心できない仕組みになっていたことにも。
これらの構造が透けるように見えてきて、それと同時に、「変わるか変わらないか」 という問いそのものが、絶対ではなくなっていきました。
“気づき”というと、新しい何かを理解することのように思われるかもしれません。
でも実際には、これまで前提として握っていたものが、静かにほどけていくような感覚でした。
「変わらなければならない」 その前提だけが、少しずつゆるんでいく。
不思議だったのは、その頃から、むしろ自然な変化が起き始めたことでした。
これまでに必死に追い求めていたものが、それほど必要ではないことに気づく。
以前より、身体がゆるみ、安心できる瞬間が増える。
人の欲望がよく見えるようになる。
その反面、
風の気持ちよさ。
光のやわらかさ。
日常の小さな感覚が、以前より深く身体に入ってくる。
変化を起こそうとしていた頃より、ずっと自然に。
以前の私は、「変化」は努力して起こすものだと思っていました。
頑張って、整えて、乗り越えて、ようやく辿り着けるもの。
でも今は、違う感覚があります。
本当に深い変化は、“変わろう”とする力が少しゆるんだときに、自然に起きていくことがある。
そういう場所がある。
身体が安全を思い出したとき。
「今のままではダメだ」という緊張がほどけたとき。
生命は、もっと自然なかたちで動き始めるのかもしれません。
“変わり続けなければ存在できない”と思っていた自分が、少しずつ安心を取り戻していくとき。
変わってもいいし、変わらなくてもいい。
揺れても、整っていなくても、私は私のまま、崩れない。
私は、そのまま、ここに居ていい。
そうやって身体が安心し始めたとき。
私たちはようやく、本来の生命のきらめきを取り戻し始めるのかもしれません。