わたしたちの内側で自然な「観察」が起きるとき
自己理解が進むと、私たちは自分の内側をよく「観察」できるようになります。
「今不安を感じているから、整えよう」
「今怒りが湧いたけど、もしかしてトラウマのせいだろうか」
こんなふうに内側で起きていることを感じ取り、同時にそれをどう「処理」するか。
そんなふうに思考を巡らせることも、少なくないかもしれません。
しかし、真の安心とは、こうした「観察」が意図的に行われない時に生まれます。
内側で起きたことを「処理」しようとする動きも”起こす必要がない”時にはじめて、身体は芯から安心することができます。
私たちが「ちゃんと観察しよう」 そう思った瞬間に、そこにすでに何かを”整えよう”とする働きが生まれるのです。
だから大切なのは、 “どうやって観察するか”ではなく、観察が“どんな条件で自然に起きるか”という視点で見ることなのです。
では、「観察」が自然に起きる条件とは、なんでしょうか。
それは、大きく三つあります。
●安全
まずひとつめは、安全です。
私たちの神経系が、安全ではないと感じているとき、内側で起きていることに、そのままとどまることが難しくなります。
・何かを変えようとする。
・あるいは、そこから離れようとする。
動こうとするか、止まろうとするか。
どちらに見えても、起きているのは「安全ではない」という前提での反応です。
この状態では、観察しようとしても、どこかに緊張が残ります。
だから観察は、安全が確保されたときに、自然と開かれてくるものです。
●身体
ふたつめは、身体です。
観察は、思考の中では起きません。
考えているとき、私たちはすでに何かを処理しようとしています。
それに対して、身体に触れているとき、起きていることは、そのまま通っていきます。
不安がある。
緊張がある。
ざわつきがある。
それをどうにかしようとする前に、ただ感じられている状態。
このとき、 観察は「しようとしなくても」起きています。
●非介入の関わり
そして三つめは、非介入の関わりです。
・何かを変えようとしないこと
・整えようとしないこと
・意味づけしようとしないこと
・結論を出そうとしないこと
それでも今、「ここにいていい」という深い安心で繋がる関わり。
その関わりは、 何もしないということではありません。
何かが起きていることを、信頼をもってそのままにしておく、という在り方です。
ここには、観察しようとする思考も含まれます。
「ちゃんと観察しようとしているな」
「整えようとしているな」
その動きすらも、 そのまま現れていていい。
そうなったとき、 観察は“やるもの”ではなく、すでに起きているものとして見えてきます。
●観察は、結果として起きる
安全があり、 身体に触れていて、 介入がないとき。
観察は自然に起きます。
それは、何かを達成した結果ではなく、条件が整ったときに現れるものです。
だから、うまく観察できていなくてもいい。
もし今、何かをどうにかしようとしているなら、その動きも含めて、ここに置いておくことができます。
なにかが起きていても起きなくても。
今あることを、信頼をもってそのままにしておくことができた時、そこに本来からそこにあった「静けさ」が戻ってきます。
観察は、 そこからすでに始まっています。