ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』
なぜ彼女は
そこまで庭に執着するのか
786時限目◎映画
堀間ロクなな
人間とは一体、どんな生きものなのだろう? ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』(2023年)を前にして、そんな疑問を抱くのはわたしだけではないはずだ。
映画の舞台は、第二次世界大戦の末期、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所に隣接する二階建ての瀟洒な官舎だ。所長のルドルフ・ヘス少佐(クリスティアン・フリーデル)は毎朝、ここから馬に乗って通勤して、ひっきりなしに汽車で運び込まれてくる「荷」の処理の監督にあたり、いっそう効率的に進めるため焼却炉メーカーの技術者と新しく循環式施設の導入を計画している。そして、その「荷」が残したおびただしい宝石や調度に飾られた邸宅へ帰ると、気さくな父親として5人の子どもたちに絵本を読み聞かせたり、休日には川遊びに連れていったりするのだ。
こうしたナチス・ドイツの軍人の「悪の凡庸さ」(ハンナ・アーレント)以上に、われわれの神経を逆撫でするのが妻のヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)の立ち居振る舞いだろう。夫から「アウシュヴィッツの女王」と呼ばれる彼女は、地元の娘に家事をやらせて、自分はもっぱらガーデニングにいそしんでいた。有刺鉄線を這わせたコンクリート塀の向こうには煙突が林立して煙と臭いを放つのをものともせず、庭いっぱいに自慢のバラをはじめ色とりどりの草花や野菜を栽培し、また、蜂を飼育して蜂蜜の採取も行って悦に入っていた。そこにあったのは現実に対する無知というより、積極的な無関心というべきものだったろう。
それだけにとどまらない。やがてルドルフの副監察官への昇進によりオラニエンブルクに転居することを聞かされると、ヘートヴィヒは断固として言い放つのだった。
「いやよ、ひとりで行けばいい。そう、あなたはひとりでオラニエンブルクへ、私はここに残って子どもたちを育てる。もし行けというなら、私を無理に引きずって連れていくしかない。ルドルフ、見て、あれが私たちの家よ。夢に見た暮らしだわ。17歳のころからの夢、それ以上よ。やっと都会を離れて、望むものはすべて目の前にある。子どもたちはみんな健康で幸せ。まさに総統のおっしゃる『東方生存圏』の生き方だわ、ここが私たちの生存圏なのよ!」
子どもは新しい家に引っ越したって育つのだから、彼女の主張の核心がどうしても移すことができないもの、すなわち、みずから手塩にかけてつくりあげた庭にあるのは明白だろう。結局、夫にヒットラー総統への談判を強いて単身赴任させることに成功するのだ。この異常なまでの執心をもたらしたものは何か?
わたしはそれを解き明かすヒントが、カレル・チャペックの著作『園芸家の一年』(1929年)にあるように思う。小説『山椒魚戦争』や戯曲『R.U.R(ロボット)』で知られるこのチェコの作家は、兄のヨゼフとともに玄人はだしの園芸家としての顔も持ち、プラハ近郊の別荘で寒さのなか長時間におよんだ屋外作業が寿命を縮めたとまでいわれている。そうした心情をあからさまに書き綴ったのが上記のエッセイで、そこにはつぎのような一節を見出すことができるのだ。飯島周訳。
庭をもっている人間は、言わば、私有財産の所有者になっている。つまり、その庭に育つのは、ただのバラではなく、彼のバラである。また、庭を眺めながら口をついて出るのは、サクランボの花が咲いていることではなく、彼のサクランボの花が咲いていることである。所有者になると、人間は、近隣の人たちと一定の相互友好関係をもつようになる。〔中略〕
しかし同様にたしかなのは、おそろしく強い、利己的、個人事業者的、所有者的本能を目覚めさせることである。人間が真理のために戦いにおもむくことは、疑いもない。だが、自分の庭のためなら、もっと自発的に、もっと猛烈に戦うことだろう。
チャペックは反ファシズムの立場からナチス・ドイツを批判してヒットラーの憤激を買うほどの、およそヘートヴィヒとは相反する精神の持ち主だったが、こと園芸に関する情熱にかぎっては共通する面があったといえるのではないか。彼女が栄えある昇進を果たした夫につきしたがわず、アウシュヴィッツ強制収容所とコンクリート塀一枚を隔てただけの官舎の庭から離れられなかったのも、おそらく「彼のサクランボの花が咲いている」ゆえだったろう。
そして、このことはまた、今日、世界各地で悲惨な流血の事態が起きているなかで、われわれの「関心領域」が実のところヘートヴィヒと似たり寄ったりの事情を説明するものでもあるに違いない。まったくもって、人間とは一体、どんな生きものなのだろう?