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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

CHOPIN、ショパン、ロンドンの困難な旅から戻り、そしてマリアへの終止符

2019.03.12 01:27

ショパンの健康状態は決して良好とは言えなかった、それでも、彼は、ロンドンの旅へ行か

なくてはならなかったのは、カルクブレンナーの指令によって断ることもできず、カミーユ

と共にプレイエルピアノ製造技術の開発の一環として極秘でドーバー海峡を渡り、ロンドン

の有名メイカーのブロードウッド・アンド・サンズへ視察へ行ったのであった。

ショパンは、当時発展途上の外輪蒸気船でロンドンへ渡った。

1837年のロンドン石炭、石油、天然ガスを含む炭化水素燃料の使用の増加により技術の進歩

とは反対に深刻な大気汚染が人々の健康を蝕んでいた。ショパンはロンドンの印象を「私は

ため息をついている。 すべての地獄は、ここの泥があなたに乾いたように見えたと言ってあ

なたを地獄へ連れて行きます。 素敵(ブラックジョーク)な灰色の泥!

ショパンはドーバー海峡をイタリアという名の船で渡ったときの印象を語った

「私はあなたに(フォンタナ)賛成意見と反対意見の両方を伝えます。

海から私に与えられた感覚は、そしてまたこの煤によって私の鼻に与えられた印象

は、この船の煙突から出る灰色の空気を柱はほとんど支えることができないほど凄まじいの

だ。それはまた帰ってから話すことにしよう。それでも私はまずまずの時間を過ごしてい

る。それは、短期間の滞在で注意して過ごすならば楽しいであろう。

すごいことがあるんですね!

イギリス人女性用の巨大な小便器ですがどこに行ってもありますが、ちゃんとした紙がどこ

にもないのですよ。

私が宿泊しているホテルは、サブロニエールとプロビンスホテルで、レスタースクエアの角にあります。

クランバーン通りの南側にレストランとバーが敷地内にあります。私は、ショパン・テリー

という偽名で宿泊しています。高級ホテルです。

馬、宮殿、馬車、富、輝き、空間、木、石鹸からカミソリまで全てが素晴らしいです。

どれもみな均一で、どれもとてもきちんとしていて、どれもよく洗ってありますが、紳士の

お尻みたいに真っ黒(大気汚染で石炭の煤で黒い)です! 

さあ、顔にキスしましょう(ブラックジョークか。こんな風に煤で汚い顔にあなたはキスで

挨拶できますか?という意味)」

子供のころから感性が強かったショパンはパリに来たばかりの時も鋭くパリの印象を語った

が、1837年のロンドンへの初めての旅もこのように産業革命で便利になる反面、環境は危機的状況であることを直ぐに悟ったショパンであった。

ショパンをロンドンで案内してくれたコズミアンは、ロンドンには「お尻」という意味の看板

が多いと話した。それは、お腹の調子が大気汚染で悪い人が多かったのではなかろうか。

当時、ロンドンは機械化製造を特徴とする工場を運営するために伝統的な風力と水道供給が

電源需要上回っていた。河川の迂回、貯水池の建設、上下水道計画の開発のための設備投資

が工業化への影響を木炭から石炭への転換が上回っていた。

そして、ロンドンの空は灰色で、それは工業用煙と自然の霧の地理的条件との両方が原因であった。

19世紀の終わりになると、1年のうちの60日近くはロンドンの街はスモッグの霧で灰色であっ

た。ロンドンは周囲のイギリスの町よりも40%少ない日照時間しかなく、ロンドンでは18世

紀初頭から19世紀後半にかけて雷雨の数が倍増したという。

ショパンの健康状態からはこのロンドンの状況はとても酷であったことがわかる。

1837年8月中旬、ショパンは地獄のロンドンの旅を約一か月近くで終えて、パリのアパルトマ

ンに無事に帰って来ていた。

8月になると、ショパンはほっとする間もなくロンドンで受け取ったヴォジンスキ夫人からの

手紙の返事を書かなくてはならなかった。

ヴォジンスキ夫人は、ショパンに頼んであった息子のアント二イがスペインの戦争に巻き込

まれ負傷したというのに未だにポーランドの実家に帰ってこないのはショパンがちゃんと息

子の世話をしないからだと思っていることがショパンにはわかるからである。

ショパンは、パリに戻ったアント二イにポーランドに帰るように会うたびに説得はしていた

のだ。

しかし、アント二イがショパンに言うには、家族からは自分が帰って来るようにという言葉

はひとつもないというのだ。つまり、アント二イには家族の愛情が感じられないヴォジンス

キ家など帰りたくもないのである。ショパンはそれをアント二イの口から聞いていたため、

ショパンとしてはアント二イをそれ以上は説得が出来ないのである。

そのことをヴォジンスキ夫人にそれとなく伝えなくてはならなかったショパンであった。

ヴォジンスキ夫人の意に添うように返事を書いたショパは、マリアの事も最初から結婚話な

どあるわけがないこともわかっていた。ヴォジンスキ夫人が気になるのは名門貴族として

のヴォジンスキ家の世間体と評判だけであり、その様子伺いと社交界に出入りしている下僕

ショパンを使いヴォジンスキ家はうまく立ち回りたいと思っていることもショパンはお見通

しであったため、ヴォジンスキ夫人が気にしていることだけを書くに留めたショパンだっ

た。そこにはショパンの何も感情も思い入れもないのである。

マリアの事もヴォジンスキ夫人の一人芝居なのであるが、ある意味、心の貧しい哀れな女に

ショパンには見えたのであろう。ヴォジンスキ夫人は何事も人のせいにすることも下僕ショ

パンは先がみえていたのだ。

「マリアさまの事は、私は妹のように思っています」…

ショパンの方からヴォジンスキ家の偽造婚約話についに終わりを告げたのであった。

ヴォジンスキ夫人は、そろそろマリアとショパンが結婚するなどあり得ない貴族のステイタ

スの見栄の張り合いのゲームは終わりにして、いつも暇で困っているとショパンに愚痴にを

こぼしていた夫人は、次なる暇つぶしに向かいたいとおもっているところだったため、ショ

パンの方からそう言われてヴォジンスキ夫人は安堵したであろう。

そして、次にたとえヴォジンスキ夫人に手紙を書いたとしても、「夫人が一番気にしている

アント二イのことしか私は書きませんよ」という意思表示をはっきり書き、ヴォジンスキ夫

人との不倫ごっこも終わりですよと言いたいショパンだった。

ユリウシュ・スウォヴァツキと1834年から毎年のようにスイス旅行を楽しんでいるとパリの

社交界で噂になっていたヴォジンスキ家だったが、この年の1837年の夏はスイスのジュネー

ブへは行かなかった。ユリウシュ・スウォヴァツキは活動の拠点をイタリアに移したからで

あった。

ショパンは1836年8月ロンドンからオランダを経由してドイツへ行こうかと考えたのだが、こ

の夏は何処からも招きがなくパリのアパルトマンで静かに過ごしたのであった。

ヴォジンスキ家との付き合いが本当の意味で途絶えたのであった。

当時は社交界は恋愛のうわさ話も人気者であることの箔を付ける競争の一つであった。

マリアはショパンとユリウシュ・スウォヴァツキ以外は浮いた恋愛話はないのだ、二人とも

ヴォジンスキ家から見たら下僕の立場なのだ。本当にマリアがモテたのならもっと他に恋愛

話があったはずである。

マリアの肖像画は事実とはかなり異なる、画家先生の手直しが入っているのであろう。また

はマリアの自己申告の妄想でもあろう。ショパンがマリアを見て美しいと言った事実はない

のだ。マリアは美人ではなかったとポーランドに言い伝えがある。当時、貴婦人や令嬢の美

貌の競争は激しかったのだ。ショパンとマリアの恋愛の自慢話しも社交界のご夫人方が本気

に聞いたことはまずはなかったであろう。

19世紀、蒸気船の登場はそれまで大型船舶の主要な地位を占めていた帆船を最終的には実用船することになる。蒸気船も外輪船時代は帆船と優劣をまだ争っていた。この間に、蒸気機関を備えた帆船(汽帆船)が多く造られた。

やがてはスクリュープロペラが開発され蒸気船は実用船として普及した。

ロバート・フルトンは、外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発した、1807年8月17日にハドソン川で乗客を乗せた試運転に成功した。

地獄の街ロンドン 19世紀頃 風刺画