継続する人の構造|見える景色は、何度も更新されていく
昨日、Etsyショップのクリムトのバッグのリスティングを見直していた。
モックアップを作って、モデル画像を入れて、白背景の画像も入れる。
全体の統一感も、それなりに整っているつもりだった。
でも、ふと気づいた。
ベージュのハンドルの見せ方は多いのに、黒は少ない。
表面は見えているのに、裏面の見せ方が弱い。
このバッグはダブルサイドで、ハンドルも二色ある。
だとしたら、お客さんが最後に迷うのは、きっとそこだ。
ベージュのハンドルなら、表も裏も。
黒のハンドルなら、表も裏も。
そうやって並べたほうが、見る側の頭の中は整理しやすい。
そのことに、昨日やっと気づいた。
最初から見えていたわけではない。
そこまで来たから、見えたのだと思う。
逆に言うと、私は最初から細かいところを見すぎないようにしているところがある。
まず全体をつかまないと、細部はうまく見えてこないからだ。
ああ、これが、継続している人の構造なのかもしれないと思った。
ひとつのことを、ただ長く続けているわけではない。
いくつかのことを並行して続けながら、そのたびに、同じ変化を何度も経験している。
最初は、全体の感じをつかむ。
どれくらい分かるのか、どこまで行けるのかを見ていく。
そこから少しずつ、微に入り際に渡るように進んでいく。
英語も、AI活用も、たぶん同じだった。
映画も、美術も、音楽鑑賞も、きっとそうだと思う。
最初は、なんとなく好き、から始まる。
でも、触れている時間が長くなると、前には見えていなかったものが見えてくる。
センスが良くなるというのも、たぶんこういうことなのだと思う。
何か特別なものを手に入れるというより、
触れ続けることで、見える単位が変わっていく。
先日、あるコンサートのレポートを書いた。
理論を詳しく知っていたわけではなかったけれど、この場で何が起きていたのか、どんな体験が手渡されていたのかを考えながら書いた。
すると、ある読者の方からコメントをもらった。
理論をたくさん入れて聴いたけれど、あなたのように、もう少し体感で聴けばよかったと思った、と。
地図を持ちすぎると、景色を見損ねることがある。
たぶん、それは誰にでもある。
私にも、そういう時期があった。
だからこそ、音楽を聴き続ける中で、理論を少し脇に置いてみたとき、こういう入り方もあるのだと気づけた。
今では、音楽鑑賞もまた、体験の場になっている。
こういうことには名前があるのだろうと思って、以前AIに聞いたことがある。
すると、「暗黙知」や「知覚学習」という言葉に行き当たった。
継続していると、ひとつのことが落ち着いたあとで、また次のものが見えてくる。
それは「見つける」というより、
「見え始める」に近い。
探しに行くというより、ある日ふと、視界のほうが変わっている。
最初からパーフェクトを目指すより、まずは「なんとなく完成している」ところまで持っていく。
すると、その段階になって初めて、次に整えるべきものが見えてくる。
そして、その夜。
クリムトのバッグを整えたあと、ロンドンから同じバッグが二つ注文された。
整えた先で、現実のほうが動いたようにも見えた。
継続力というと、粘り強さのように語られることが多い。
でも、自分の実感は少し違う。
継続すると、見える景色が変わる。
最初は大枠しか見えなかったのに、続けていると細部が見えてくる。
見えるようになったところを整えると、また次のものが見えてくる。
継続力がある人というのは、
ただ同じことを続けているのではなく、
こうして、見える単位を変えながら進んでいるのかもしれない。