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Okinawa 沖縄 #2 Day 300 (31/03/26) 石垣市 旧宮良間切 (5) Hirakubo Village 平久保村

2026.04.02 05:22

旧宮良間切 平久保村 (ペーブグ、ひらくぼ)

小字 平久保牧 (ペーブグマキィ)

小字 平久保 (ペーブグ)

小字 平久保牧 (ペーブグマキィ)

小字 大地離(フーイシパナリ)


小字 平久保牧 (ペーブグマキィ)


字 伊原間から石垣島の北の端の字 平久保の平野に向かって、県道206号線を北に進む。戦前までは、白保から平久保半島先端までは道らしい道はなかったという。道ができたのは戦後で、その道が県道208号線として整備されている。


旧宮良間切 平久保村 (ペーブグ、ひらくぼ)

石垣島の北端は字 平久保 (ベーブグ) で、平久保半島の二中 (フタナカ) 以北の全域になる。

琉球王府時代、平久保は隔絶された陸の孤島で、四箇村 (登野城、大川、石垣、新川)から同地へ旅行に行く時には水杯を交わしたという。また、「死んでしまった」ことを「ペーブグカイドゥイキネーン (平久保に行ってしまった)」 などと表現していた。あの世と同じ位遠い所という意があり、交通不便の地で、ペーブグフーキィ(平久保風気。風気とは、主に マラリアを指している)というフーキィジィマ(風気島 マラリアの猖獗地)としても恐れられていた。

平久保半島は慶長検地(1610年)当時、川平間切に属し、平久保半島の先端、ムトゥペーブグ(元平久保) の地付近にあったと推測される「きやか村」が一村あるのみだった。「宮古八重山両島絵図帳」 には、地名として、「ひらくふ」、「平窪」等の記載がある。

平久保村の名は、1629年に三間切制となった際に、初めて大浜間切の所属村としてその名が現れ る。当時は半島全体が平久保村の管轄区域だったと思われる。

平久保村は当初、喜屋名 (キヤカ) にあったが、風水が悪いとのことで1703年に堀川野 (プルカヌー) に村敷替えが行なわれた。さらに、1724年には、花城村と平久保村は合併し、平久保村は花城村の場所に移って村名は平久保村となった。かくて、半島先端の旧地を、元平久保 (ムトゥペーブグ) と呼ぶようになった。

1734年に平久保村から二中 (フタナカ ) を境として、その南側は伊原間村として分離独立している。

集落は平久保半島西海岸にあり、中央山系以東の東海岸は、琉球国時代以来、ほとんど牧場となっている。

琉球国時代には、平久保には、平久保村、安良村、久志真村があり、ある程度栄えていた。1771年には1207人の人口を抱えていたが、この年に明和の大津波が起こり、東海岸にあった安良村は当時の96%にあたる461人が亡くなっている。

西海岸にあった平久保村はほとんど被害はなかったが、その後、マラリアと風土病の影響で急速に衰退して、戦前の1945年 (昭和20年) には僅か33人 (9戸) の状態だった。戦後、政府計画移民政策で1956年 (昭和31年) に久宇良集落と吉野集落、1957年 (昭和32年) に平野集落が創建され、また自由移民も増え、パイナップル景気もあって1964年には人口は992人 (175戸) に増えている。その後、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には450人 (108戸) まで減少している。その後も人口減少は続き、2023年末では字平久保の人口は112人 (69戸) になっている。今後の予測では人口は減少に向かうとされている。

石垣市農村環境計画 (2018年) には、この北部地区の対策としては、

とあるが、具体的なアクションプランは記載なく、またそれ以降に作成実行された様には思えない。

石垣市都市計画マスタープラン (2022年) にも石垣市農村環境計画とほぼ同じ様な内容で、現状説明、課題に大半が費やされ、対策については具体性がなく、実行計画などはない。多分、政府からの指導のマスタープランテンプレートを埋めた感が否めない。地元の人と何人かと話すと、石垣市にへの期待は失われ、見捨てられたという感情もあると言っている人もいた。琉球国時代、戦後には1000人もの人が入植し、一定期間は栄えていた。衰退は津波とマラリアだが、現在では克服されている。再度、復興が行える資源はあると思うのだが…..


小字 平久保牧 (ペーブグマキィ)

久宇良岳以北に連なる山岳および、久宇良、平野の集落を含む一帯では、古くから牧場が経営されてきたところから、平久保牧 (ペーブグマキィ) と呼ばれ、そのまま小字名となっている。


アイナマ石

字 伊原間から字平久保に入ってしばらく進み、県道から東側の山への道に入り、登っていくと、森の中に、アイナマ石と呼ばれる岩がある。アイナマとは可愛い花嫁のことで、この石がアイナマ石と呼ばれる様になった話が伝わっている。

昔、川平村の美しい娘が平久保村に嫁に行くことになりました。
平久保村と川平村は遠く離れており、行き来するにはジャングルのけもの道や干潮時に海浜沿いに歩かねばならず、二日がかりでした。
親の勤めで、仕方なく承諾したものの、相手の顔も知らず、しかも、島の果ての「あの世」ともいわれるほど遠くて厳しい生活がまっている平久保村への嫁入りは気の進まぬ結婚で、娘に大きな不安をいだいていました。
嫁入りのため平久保村に向かう途中、赤石を過ぎ、小浦田 (クーラダー) を過ぎて、いよいよ平久保村へと近づいている山道で、急に花嫁は用足しにといって茂みのなかへ入っていったが、なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はなく、昼なお暗い山奥には花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。娘を探しに行った供の者たちの間では、意に添わない結婚を苦に娘は石になってしまったのだとの話になり、その話が広まって、人びとは、その石を「アイナマ石」と呼ぶようになったそうです。

この様な娘が悲嘆のあまり石化した伝説は石垣島も各地にある。


久宇良集落 (クウラ)、伝 久志真村 (クシィマムラ)

アイナマ石から県道に戻り、道は下り坂になる。坂道の途中、海岸への道の先に久宇良 (クウラ) 集落がある。平久保半島の西岸に位置するダディフザキィ(ダディフ崎)付近のこの地には、琉球国時代、18世紀には久志真村 (クスマ、くしま) があった。1737年の人口記録に、平久保村に所属する村として、86人程の小さな集落で、あまり繁栄することなく人口減少が続き、1874年 (明治7年) に平久保村に吸収されて廃村になっている。

久志真村でには久志真御嶽 (クシィマオン) があり、その遺構が残っているそうだが、所在地などの情報がなく見る事はできなかった。その他にも久志真村の拝所として字平久保195番地と字平久保88番地の二カ所にあるとなっているが、195番地は欠番になっており、88番地は現在の平久保集落の東の外れにあたる。久志真村が平久保村と合併した後に置かれた拝所だろう。88番地は広い地域で、詳しい所在地や写真などは見つからなかったので、探すのは断念した。

旧久志真村の場所には、戦後、1956年 (昭和31年) に政府計画移民として、沖縄本島の大宜味村、玉城村、北谷村、具志頭村等各地から、254人 (53戸) が入植し、新たな開拓集落をつくり、近くの小浦 (クウラ、こうら) から宇良 (クウラ) と命名している。

入植当初は、芋、陸稲、玉ネギ、馬鈴薯、落花生などを栽培していた。当時は南に行く道は車が通れる程整備されてなく、生産物の輸送には船を利用していたそうだ。 1958年 (昭和33年) に簡易水道が敷設される迄は、廃村となった久志真村の井戸や、かなり離れた小川の水を利用していた。

1956年 (昭和31年) に254人 (53戸) で入植し、その後に家族を呼び寄せ1964年 (昭和43年) には336人になったが、その年頃から、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には89人まで激減している。入植時の半数以上の家族が脱落している。その後も人口減少は続き、2023年末では久宇良集落人口は22人 (14戸) にまで減り限界集落となっている。今後の予測では人口は減少に向かい廃村の危機にある。


久宇良公民館、入植記念碑、開拓碑

久宇良バス停の場所に久宇良公民館がある。

公民館前の広場の隅に入植10周年を記念して碑が建立されている。

その隣にも、入植40周年記念事業として開拓碑が建てられ、開拓団の氏名が記されている。


吉野集落

久宇良から県道208号線に戻り、道を少し進むと平久保ビーチがある。この辺りには吉野集落と呼ばれる開拓集落が存在していた。戦後、1956年 (昭和31年) に、沖縄本島の東風平村、那覇、糸満町、玉城村、北中城村、北谷村、具志川村、与那城村、竹富島などから政府識移民として108人 (23戸) が入植してつくられた。吉野の移民団は当初、西表島の古見に入植した後、間もなく古見から少し離れた城建という集落を形成していたが、その後、この地に移ってきている。この辺りはには全く民家は見当たらず、吉野集落人口を調べると、2023年末時点で1人となっている。事実上の廃村状態となっている。

ビーチは岩場の丘に囲まれている。この両側の琉球石灰岩海岸段丘では瓦川原 (カーラマタ) 岩窟遺跡 (ヤマト墓の上方部遺物散布地 [写真左上]、ヤマト墓の北方遺物散布地[写真右上]) が発見されている。一帯には石積み遺構があり、岩陰を利用した外葬墓もあり、平家の落武者の大和墓と呼ばれている。外装墓びは墓口が開けられ、中には頭骨などの人骨と共に副葬品として中国製の福釉陶器や16世紀頃の染付、木棺に使われたと思われる板切れが見つかっている。



小字 平久保 (ペーブグ)

小字 平久保牧 (ペーブグマキィ) の真ん中、小字 平久保 (ペーブグ) が西海岸沿いにあり、小字 平久保牧に囲まれている。この地が字 平久保 (ペーブグ) の中心地の平久保集落がある。


平久保村 (伝 花城村)

平久保半島は1610年の慶長検地の記録では川平間切に属し、平久保集落は、現在の平野付近の喜屋名 (キヤカ) にあったとされている。1629年に三間切制となった際に平久保は大浜間切の所属村となっている。

その後、久米村 (クニンダ) の風水師外間親雲上の検分で喜屋名は風水が悪いとのことで、1703年に堀川野(プルィカヌー、現在の平久保集落の南)に村敷替えが行なわれた。さらに、1724年には、花城集落 (存在したかは明確でない) と平久保集落は合併し花城村の場所に移り村名は平久保村となった。

花城集落については資料では、琉球国時代の1713年に、この地に花城村を創立し、宮平長延が初代花城与人を拝命している。宮平長延は上手くこの新村を治め、納税成績も良く、余分は貯蓄させるなど督励がいきとどき、尚敬王から表彰されている。12年後の1724年 (享保9年) に花城村は平久保村に合併吸収されている。とあるのだが、宮平長延が初代花城与人を拝命しており、与人は各村に置かれる制度だった事から花城村が創立された根拠としているが、この花城村と解釈されているのが、移ってきた平久保村ではないかというものもある。

その後、1734年に平久保村から二中 (フタナカ ) を境として、その南側は伊原間村として分離独立している。

1651年の人口記録に「ふかい (桴海)、中筋、ひらくふ (平久保) 三村73人」とあり、小さな集落だった。その後、1737年451人に増加し、1771年の明和の大津波当時は、725人迄増加していた。約100年後の1873年 (明治12年) には60人 (10戸) にまで衰退している。マラリアなどの風土病の影響と考えられている。

戦後、1956年 (昭和31年) に宮古島や本島の国頭から政府計画移民として151人 (30戸) が入植している。1965年 (昭和40年) には257人 (41戸) まで増加したが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1977年 (昭和52年) には373人まで減少している。その後も徐々に人口減少は続き、2023年末では平久保集落の人口は52人 (28戸) になっている。今後も人口は減少に向かうと思われる。


平久保公民館、不発弾の鐘

1968年 (昭和41年) に入植10周年記念事業として建てられている。公民館の脇には、この地で見つかった処理済の不発弾を平和の願いを込めて、連絡用の鐘として吊るし使用していた。


平久保小学校

公民館と県道を挟んで平久保小学校があるが、校門はロープと植木鉢で閉鎖されている。過疎化や少子化の影響で2021年 (令和3年) 4月から休校となり、今後も児童在籍の見込みがな、ついに2024年 (令和6年) 3月末に閉校になっている。1949年 (昭和24年) に白保小学校平久保分校として開校してから75年の歴史に幕を閉じている。


平久保地区農地開発事業完了之碑

1981年 (昭和62年) から1997年 (平成10年) にかけて行われた平久保地区の農地開発事業が完了した記念碑が1997年 (平成10年) 11月に建立されている。


ヤエヤマシタンの碑

平久保地区農地開発事業完了之碑から東の山に向かって農道が伸びており、その道を行く。畑地帯の中に林があり、東の山裾に向かって伸びている。この林はヤエヤマシタン (八重山紫檀) の群生地で、ヤエヤマシタンの碑が置かれている。ヤエヤマシタンは、マメ科の植物で、中国南部、インドから東南アジアまで広く分布しているが、国内では石垣島のみに自生しており、1972年 (昭和47年) に国の天然記念物に指定されている。石垣島でも、かつては各地に多く生育していたが、家具材や建築用材として乱伐され、急激に減少してしまった。


徳底御嶽 (トゥクスクオン)

ヤエヤマシタンの碑の西側に徳底御嶽 (トゥクスクオン) がある。(神名は徳底御嶽、御イベ名はてんつきてんかね) 元村御嶽 (ムトゥムラオン) とも呼ばれている。合併前の花城村の御嶽 (オン) だが、平久保村と合併後は平久保村の御嶽 (オン) として崇敬されるようになっている。


平久保川 (ペーブグガーラ)、サガリバナの自生地

県道208号線に戻り、道を進み、平久保川の平久保橋を渡る。

平久保川の上流にはおよそ300本のサガリバナの自生地が広がっている。サガリバナは沖縄本島でも各地で見られ、7月上旬から中旬には、花見で多くの人が訪れている。ただ、この地ほどサガリバナが密集している所はなく、開花時期には、島内外から多くの鑑賞者が来場するそうだ。まだ、その時期ではなく、その時期に再訪する事があれば、訪れてみたいものだ。



小字 平久保牧

小字 平久保を過ぎると、再び小字 平久保牧に入る。


平久保崎灯台

県道208号線は上り坂になり峠越えになる。峠を越えると石垣島の最北端になる。峠を越えた所から平久保崎への道が通り、道を下る。この先に平久保崎灯台が建っており、そこを目指す。ここで雨が降り始めた。周りには建物などはなく、木々の下で雨宿りをするが、豪雨に変わり、雨ガッパを着込んで雨が止むまで我慢。半時間程して小降りとなり、自転車を木陰に停めて、徒歩にて平久保崎灯台に向かう。灯台は丘陵の崖上にある。1965年 (昭和40年) に、琉球政府により建設、初点灯され、1972年 (昭和47年) に本土復帰に伴い海上保安庁に移管されている。灯台からは右手に太平洋、左手に東シナ海が広がっている。晴れた日には多良間島まで一望することができるそうだが、あいにく雨で島は見えなかった。


平久保遠見台 (火番盛 ヒバンムイ)

平久保灯台の場所には琉球王朝時代、海上交通の監視や通報機能を担った遠見台 (火番盛 ヒバンムイ) が残っている。1644年に烽火の制度がつくられ、船が見えた時に烽火の回数で船の種類を首里王府に情報を伝えていた。ここで船影を確認後、平久保であげた烽火は川平火番盛で確認され、その情報を馬で蔵元へ伝えていた。当時は異国船が現れ始め、江戸幕府の鎖国政策や、琉球に進駐していた薩摩の要請により設置されたという。石垣島では、主要な遠見台 (火番盛) はこの地の他に川平と白保のカラ岳に置かれていた。以前は遠見台 (火番盛) に登れたのだが、現在では立ち入り禁止になっていた。


小字 大地離(フーイシパナリ)

平久保半島の突端、平久保崎の北方にある断崖に囲まれた珊瑚礁の小さな島が大地離 (フーイシパナリ) でこの島自体が小字となっている。何故、ここが小字として行政区とした理由が気になったのだが、わからず。



小字 平久保牧

再び小字 平久保牧内を巡る。


平野集落 (旧平久保村)

字 平久保の北端には平野集落がある。この集落も戦後の政府計画移民の開拓集落になる。1957年 (昭和32年) に沖縄本島、伊江島、久米島、南大島、宮古島など各地から80人 (60戸) が入植し、芋、パイナップル、サトウキビ、落花生の生産を始めた。

開拓集落ができる前、琉球国時代には、この地には平久保集落があったが、風水により、1703年に堀川野(プルィカヌー、現在の平久保集落の南)に移動し、その後、1724年に花城集落と合併し平久保村となった。この様な経緯で、この地は元平久保 (ムトゥペーブグ) と呼ばれている。

戦後1957年 (昭和32年) に先遣隊が入植し始まった平野集落は家族を呼び寄せ、1964年 (昭和39年) には309人となったが、これ以降、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で脱落者が頻発し、1975年 (昭和50年) には41戸 (160人) までに減少している。1980年代後半から、戸数、人口共に減少が続き、2023年末では37人 (26戸) と大きく減少している。今後の予測では人口は更に減少に向かうとされている。


平野公民館、開拓の碑

県道208号線終点近くに平野公民館がある。1971年 (昭和46 年) の入植15周年記念事業として建設されたもの。公民館の広場には開拓の碑が建てられている。この碑は1987年 (昭和62年) に入植30周年記念事業として建設され、裏面には入植者氏名が刻まれている。


平野後方第二遺跡、平野後方第一遺跡

平野集落の南、海岸との間に森がある。この森では12世紀から17世紀の平野後方第二遺跡が見つかり、石積みなどが確認され、土器片、青磁片などが散布していたそうだ。また、平久保村が花城村と合併する前の平久保村の御嶽 (オン) もこの遺跡内にあるそうだ。

また、海岸沿いの林周辺でも平野後方第一遺跡が見つかっている。この遺跡も12世紀から17世紀とされている。

前述の平野後方第二遺跡は15世紀末頃に、この地を治めていた加那按司の居館跡という説がある。遠弥計赤蜂堀川原 (オヤケアカハチホンガワラ) と同盟関係にあったが、慶来慶田城用緒 (ケライケダグスクヨウチョ) によって討伐されたと伝わる。この後、暫くしてオヤケアカハチの乱が起こる。

加那按司の討伐についての言い伝えがある。

平久保の有力豪族の加那按司が、平久保村の村々の者を集めて脅しつけ、自分に従わせ下人のように召し使っていた。稲や栗を作り400~500石ほど貯え、牛馬は300~400頭も飼い、威勢を振るっていた。この事を聞いた西表島を治めていた慶来慶田城用緒 (ケライケダグスクヨウチョ) はひとりでくり舟に乗って、平久保へ渡り、加那按司に面会を申し入れところ、「ただ米の洗汁を呑ませて追い返せ」 と断られた。しかたなく宿に戻り、宿の亭主に、このことを語ったところ、亭主は加那按司の悪政を詳しく語り、加那按司の討伐を懇願された。「加那あじの下女ひとりにさえ取り入って、ひそかに通じたならば、思いどおりになると思いますので、下女を呼び寄せ、お目にかけたい」と言い、下女を呼び寄せ、この次第を詳細に語ったところ、下女も加那按司に召し使われ、夜も昼も寝むらせず、牛馬のように使われていると言い、加那按司討伐を願った。そこで、下女の手引きで屋敷に忍び入って打ち果たす計画を相談した。数日後、下女から、今夜がよいと告げられ、慶来慶田城用緒はその様に屋敷に忍び込み、加那按司を妻子とも残らず打ち果たした。村人はことのほか喜び、近辺の小村の人々も聞き及び、皆で慶来慶田城用緒へお礼を申し上げた。慶来慶田城用緒は西表島への帰り道に石垣に立ち寄り、長田大主の家を訪ね、平久保の加那按司を打ち果たした次第を伝え、二人は兄弟の契りを結び、西表島の外離島へ帰っていった。

当初の予定では、ここからは平久保半島の東海岸を縦断している平久保エコロードで、安良村跡を見て帰ろうと思っており、その道について、平野村の人に尋ねたところ、行かない方が良いという。未舗装の道で、メンテナンスもあまりされておらず、ここのところの雨で泥濘んでいる箇所もあるだろう。時々、自動車が動かせなくなり救助している。携帯電話の電波も届かない箇所もあり、遭難すると大変だ。村の人は通らない。と言っていた。

ここからキャンプ場までは25km程あり、平久保エコロード途中で引き返すとキャンプ場到着は夜中になってしまう。ここまでの道はアップダウンが多くあり、体力もかなり消耗している。という事で、未舗装の平久保エコロードで帰る事は断念して、来た道の県道208号線で帰ることにした。安良村の見学は、別の日の早い時間帯に明石集落から平久保エコロードを北方向に向かうルートで行くことにしようと思う。

帰路の県道208号線のアップダウン往路よりきつかった。やはり体力が消耗していたのだろう。


伊野田キャンプ場に帰ると、予想もしていなかった事態を告げられた。明日から、このキャンプ場が暫く閉鎖になるという。石垣市から管理を委託されている伊野田公民館も今日の午後に知らされたそうで、大いに怒っていた。元々の話は明日から管理委託先が民家の会社に変わるだけとされていたが、その会社がキャンプ場を閉鎖して、改装工事を行うそうだ。明日以降も予約が入っているにもかかわらず、石垣市の対応は横暴というしかないだろう。石垣市はこの事を事前に知っているはずで、事前連絡をすると反発が起こり、対応を要求されるややこしい事態を避ける為、直前に通知し、キャンプ客の泣き寝入りを狙ったのだろう。その対応を伊野田公民館に丸投げした。民間会社では許されない行為だが、石垣市は未だに親方日の丸の感覚で業務をしているのだろう。

この事で、管理人の川満さんは、キャンプ客にお別れ夕食会をアレンジしており、私にも参加させてくれた。この川満さんとは夕食会で長く喋る機会があった。何事にも前向きでチャレンジ精神のある方で、色々なプロジェクトを企画していると言ってもいた。聞いた事などは訪問レポートの中でその都度、触れて置く。川満さんのアドバイスもあり、翌朝はキャンプ場の外の伊野田海岸にテントを移動した。キャンプ場入口は既に閉鎖されていた。この日(4月1日) は安良集落訪問も考えていたが、テント移動もしなくてはならず、前日の3月31日はきばり過ぎて、足に疲労感があるので、休養日とした。

後日、キャンプ場のサイトを見ると新しい管理会社が運営を再開していた。料金は倍以上に跳ね上がっていた。多分、石垣市のキャンプ場収入も増えたのだろう。それが管理会社を変えた理由と思える。伊野田公民館の川満さんは泊まり客などに伊野田でのイベントやアクティビティも企画しているようで、伊野田集落のイメージアップ等で集落と客との交流を積極的に行っていた。石垣市が収益優先でその様な機会を奪ってしまったのは残念だ。


参考資料