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Core Field Coaching

高度に発達した自我は、セルフのふりをする

2026.04.27 09:00

ある時期まで、私は「観察している自分」に、強い信頼を置いていました。 

・感情に巻き込まれず、 

・出来事に過剰反応せず、 

・少し引いたところから全体を見ることができる。 


そんな自分は、思考や感情に巻き込まれてしまう、それまでの自分とは違う。

私は、自分の人生をコントロールできている。

そんな感覚でいました。


当時の私にとって、それは必要な力でした。 

関係性も、選択も、それによってずいぶん安定したと思います。


けれどあるとき、思ってもみない出来事が起こりました。

ある日突然、前触れもなく、身体がいうことを聞かなくなってしまったのです。


たいていのことにはうまく対処できるようになっていたのに。

人生を操縦しているつもりでいたのに。

負荷がかかっていたとは言え、自分の身体ひとつもコントロールできないなんて。


私はこの出来事に、とてもショックを受けました。

同時に、自分への信頼も、大きく損ねました。


しかし、こうした突然のできごとは、自分のコントロールの範囲外で、十分起こりうることです。


たとえば、自分や大切な人の病気、思わぬ不幸。自然災害。

何が起きるか、どんな苦労をするか、その結末はどうなるか。


人生で起こるのは、コントロールできることばかりではありません。


そのたびに、自分に矢印を向け、

「これは自分が未熟だからだ」

「自分に足りない部分があるからだ」と、

自分を裁いていては、心の底から安心することは一生できないだろう、と思いました。


ではどうしたらいいのか。


私たちは、コントロールできない現実に、振り回されるしかないのでしょうか。


◆高度に発達した「観察自我」

ここで一つ、見落とされやすいことがあります。 

 それは、「観察できている自分」もまた、完全に自由な存在ではない、ということです。


私たちの自我は、外的な出来事に対処するためだけでなく、内側の揺れや不安から自分を守るためにも、精緻に発達していきます。

その結果、ある段階にくると、自我は“未熟な反応”としてではなく、

「気づいている自分」

「俯瞰している自分」

「手放している自分」 

として現れるようになります。 


 つまり高度に発達した自我は、セルフのように振る舞い始めるのです。


これまで幾度となく自分を見つめ、自己理解が深い人ほど、この傾向は顕著になります。


セルフにいるはずなのに、「今ここ」に安住できない。

未来のために走り続けなければならない感覚が、どこか拭えない。


それはとても静かで、一見すると「整っている状態」の中にある違和感です。 

うまく言葉にするなら、 「静かだけど、どこか固い」 

そんな感覚でした。 


そのときの私は、 

・落ち着いていて 

・俯瞰できていて 

・理解も進んでいる 


でも同時に、身体はどこかゆるんではいけない緊張を漂わせ、胸の奥はひらかない。


高度に発達した自我は、 とても精巧です。 

 未熟な形で現れることはほとんどなく、 むしろ 

・気づいている 

・手放している 

・俯瞰している 

・在ることに委ねている 

といった、 いわゆる「目覚めの言葉」をまとって現れます。 


だからこそ、それは見破りにくい。


けれどその本質は、「これ以上深く感じたら壊れる」という判断から生まれた、防衛でもあります。

つまりこれは、未熟さではなく、 むしろ“優秀すぎる守り”です。


私の中にいたそれも、 決して悪意があったわけではありません。 

むしろ逆で、 「これ以上、深く感じたら壊れる」 そう判断した、とても優秀な防衛でした。


今振り返ると、 それはずっと前から存在していたのだと思います。 

 ただ、自己理解を深め、思考や感情との同一化が外れ、自分の中心が少しずつ移動するにつれて、そうした自我が巧妙に作られていたと思います。


そして厄介なことに、これは思考では見分けがつきません。

なぜなら、思考そのものが、その自我の中に含まれているからです。

セルフを、思考で捉えることはできない。 


ここで違いを教えてくれるのが、身体です。

自我の中にいるときの身体は、 


・静かだけど、わずかに緊張している 

・整っているけど、どこか閉じている 

・安全ではあるが、あたたかくはない 


一方で、セルフが前景化すると、 

 ・ゆるむ 

・ひらく 

・流れる 

・理由なく涙が出る 

・慈愛が湧く 


 そこには「正しさ」ではなく、 ただ通っていく感覚があります。 


この身体感覚なしに、 その違いを見抜くことは難しい。

身体が最後まで握っている防衛は、生存システムと結びついています。 

だからこそ、それは壊すべきものではありません。 


壊すのではなく、抱きしめる。 

排除するのではなく、許容する。 


その存在に気づき、 あたたかなまなざしを向けられたとき、身体とともに、統合が起こります。 

そしてそのとき、 不可逆な「位置の変容」が起きていきます。


もし今、 

・もう整っている気がする 

・十分に俯瞰できている 


それなのに、今ここにゆるむことができない、どこか向かわなければならない感覚があるなら、その静けさの中にある、 ほんのわずかな「固さ」に触れてみてください。 


それは間違いではなく、 ただ、とてもよくできた守りが、そこにあるだけです。 

否定せず、排除せず、 ただ、その質感に気づく。 


そこからしか、先には進めません。