富永峻さんのピアノリサイタル「謎めく響き」で、音に連れていかれた夜
白寿ホールで富永峻さんのピアノリサイタルを聴いた。
富永さんの演奏を聴くようになったきっかけは、もう12年ほど前になる。クライアントさんの紹介で、富永さんが私のセッションを受けてくださっていたことがあり、そこから私はこの方のリサイタルに通うようになった。
もともと私は、ピアノ鑑賞をしてきた人ではなかった。
けれど、富永さんをきっかけに、少しずつピアノのコンサートに足を運ぶようになった。辻井伸行さん、フジコ・ヘミングさん、反田恭平さん。いまではそうしたピアニストたちの演奏も聴きに行くようになった。
白寿ホールでの年に一度のリサイタルは、いつもどこか集大成のような空気がある。
椅子はふかふかで、空間の居心地もよく、これから長い時間、音の中に身を置くための準備が、会場の側ですでに整えられている感じがする。
今回のプログラムは、前半がバッハ。
後半にはブラームス、ヒンデミット、スクリャービン、リスト、ワーグナー=リストが並んでいた。
いわゆる有名曲を気持ちよく並べたコンサートではない。むしろ、富永さんのリサイタルらしく、知らない曲、あるいは知っていても、ふつうの文脈ではなかなか出会わない曲が多い。
そこが、この人の面白さだと思う。
聴き手を「知っている安心」の中に置かない。
代わりに、今日はどこへ連れていかれるのだろう、という期待を差し出してくる。
今回は事前に、このプログラムの構成についてChatGPTに少し整理してもらっていた。知識としてではなく、どう受け取ると面白いか、どこに耳を澄ませるとこの夜の流れが見えてくるか、という観点で。
一緒にいた方にその話をシェアしたら、「それを聞いただけで満足」と言うくらい、プログラムへの期待が高まっていた。
でも実際には、やはり知識そのものよりも、音楽は体感するものなのだと思う。
ピアノリサイタルは、分かるための場所というより、経験するための場所なのかもしれない。
音に連れていかれて、自分の感覚のほうがあとから追いついていく。
最近は、そんな聴き方がますます面白くなってきた。
今日はどんな体験に連れていってくれるのだろう、と待つ感じは、少し映画にも似ている。
前半のバッハは、やはり整う。
《フランス組曲第5番》と《パルティータ第6番》。
舞曲の流れを持つものと、より大きな建築物のようなもの。
始まってしばらくすると、こちらの呼吸もリズムも、少しずつ整っていく。
音に合わせて、自分の内側の配置が静かに変わっていく感じがあった。
そして後半。
タイトルは「BALLAD」だったけれど、私にとってはかなりロックだった。
最初に強く印象に残ったのは、ヒンデミットだった。
ヒンデミットの《Suite 1922》は、私にはずっとロックに聞こえた。
ごつごつして、鋭くて、ぶつかっているのに崩れない。
音が前へ前へ出てくる感じがあって、かなり惹きつけられた。
不協和音という言葉だけでは足りない。
荒れているのに、整っている。
暴れているようで、ちゃんと設計されている。
そんな感じがした。
ああ、私、こういう響きが好きなんだなと思ったのも、ここだった。
そのあとに聴いたブラームスは、少しちがう方向に深かった。
ブラームスの《4つのバラード》は、若い時期の作品だという。
けれど若さというより、むしろ内側の濃さを感じた。
重いのに、叫ばない。
外から見ると静かなのに、内面ではずっと何かが揺れている。
その感じが、とてもブラームスらしく思えた。
スクリャービンも面白かった。
《ピアノ・ソナタ第4番》は、短い曲の中で世界が切り替わる。
事前に、前半は地面にいて、後半で重力が消える、と聞いていたので、その変化点はどこだろうと耳を澄ませていた。
そしたら、本当にあった。
あ、ここで飛んだ、という瞬間が。
ふわっと、音が地面から離れる。
あれは面白かった。
演奏している富永さん自身も、どこか微かに笑みがこぼれるような表情をしていて、弾いている本人が体験しているものが、こちらにも伝わってくるようだった。
そのあとに続いたリストと、ワーグナー=リスト。
リストというと、どうしても超絶技巧の華やかさが先に立つけれど、この夜に聴いた《バラード第2番》は、それだけではなかった。
ピアノ一台の中で、何か物語の影が揺れているような感じがあった。
明るく晴れるというより、何かが姿を変えながら続いていく。
翌日になって細部は薄れているのに、「すごかった」という輪郭だけが残っているのは、こういう曲のせいかもしれない。
そして、《イゾルデの愛の死》。
終わるというより、解けていく感じがあった。
満ちて終わるのではなく、どこかへ溶けていくように終わる。
そういう終わり方が、この夜にはとてもよく似合っていた。
でも、たぶん音楽鑑賞というのはそういうものなのだろう。
翌日に残るのは、全部の感想ではない。
ロックだった、とか。
内面に沈んだ、とか。
飛んだ、とか。
解けるように終わった、とか。
富永さんが、最後の余韻が完全に落ちるまで動かずに待っていた、その時間とか。
一緒に行ったクライアントさんと母も、「誘ってくれてありがとう」「すごくいい体験だった」「今日は贅沢な日だった」と言っていた。
そこも印象に残っている。
うまく説明できなくても、体験として届く夜だったのだと思う。
今回あらためて感じたのは、富永さんのリサイタルは、単にピアノを聴く場ではなく、かなり丁寧に設計された体験の場なのだということだった。
前半のバッハで整え、後半で角度の違う響きの世界をいくつも通り、最後は大きく解けて終わる。
こんなふうに、聴き手にいくつもの感覚を通らせるピアノリサイタルは、そう多くない気がする。
有名なピアニストのコンサートでは、有名な曲を聴きに行く喜びがある。
それはそれで、もちろん素晴らしい。
でも富永さんのリサイタルには、別の種類の贅沢がある。
ピアニスト自身が探求しているものを、そのまま聴かせてもらえること。
まだ整理されきらない、でも確かにそこにある世界を、一緒に体験させてもらえること。
こういうピアノリサイタルの存在は、もっと知られてほしいと思う。
聴き終わったあとに「よかった」だけではなく、
「何かを体験した」と感じるような夜を作れるピアニストは、そんなに多くない。
毎回、富永さんは進化している。
正直、どこがどう進化しているのか、私は専門的には分からない。
でも、聴くたびにこちらの受け取り方が変わり、自分の聴き方のほうが進化している気がする。
たくさんの作曲家が詰め込まれていたのに、全体としてはなぜか整っていた。
不思議な夜だった。