東京都現代美術館「ミッション∞インフィニティ|宇宙+量子+芸術」を見て。
宇宙を「わかる」のではなく、少し身近に感じ直す
会場に入って最初に出会ったのは、縦長の光る装置だった。
蛍光灯のような細い光が三本、静かに立っている。ただ光っているだけに見えるのに、瞬きをしたり、少し視線を動かしたりすると、そこに日本語が浮かび上がってくる。
好奇心を刺激する。きっと訪れた人は、ここで自然とこの展覧会の引力に導かれる設計なのだろうか。光の残像の中に、言葉が現れてきた。
その瞬間、もうこの展覧会は始まっていた。
見えていないものが、ふと見える。そこにあるはずのないものが、見え方によって立ち上がる。宇宙や量子というテーマへの入口として、これ以上ない導入だった。
宇宙や量子と聞くと、どうしても遠いものに感じる。理系の人、研究者、数学が得意な人の世界。自分の日常とは接点のない、はるか彼方の領域。
正直に言えば、今回も深い知識があるわけではない。量子力学を説明できるわけでも、展示の背景にある理論をきちんと理解できたとも言えない。それでも、面白く見られた。
この展示は、「理解した人だけが楽しめる展示」ではなかったのだと思う。わからないまま歩いていても、少しずつ認知のほうが動いていく。宇宙が、遠いものから、少し身近なものへと置き換わっていく。そんな時間だった。
印象的だったのは、宇宙をサイエンスの対象としてだけではなく、アートとして応答しようとしていたことだった。
宇宙の構造や量子のふるまいを、そのまま説明するのではなく、映像やインスタレーションや言葉や空間に置き換えていく。観測された信号を文字へ変換する作品もあれば、波が岩に砕ける運動の中に重力やリズムや時間の流れを感じさせる映像もあった。宇宙に住むことになったら何を着るのか、という発想からファッションに展開しているものもあった。
宇宙は、ただ研究される対象としてそこにあるのではなく、人間が応答しうるものとして現れていた。
宇宙を「解説」されるのではなく、宇宙をめぐって人がどう想像し、どう感じ、どう形にしようとしてきたか。その試みのほうが前に出ていた。
会場を歩きながら、何度か思った。宇宙というのは、サイエンスだけのものではないのだなと。
もちろん、研究の領域には圧倒される。黒板いっぱいの数式、量子力学やブラックホールを扱う研究者たちの思考は、日常で使う頭とはまるで別の層にある。数学が得意かどうかという話でもなく、普通の生活感覚からははるか遠いところで、人間が世界を理解しようとしている。その途方もなさに触れると、ただ驚く。
けれど不思議なのは、その遠さに触れながら、逆に宇宙が近く感じられてくることだった。
私たちは宇宙の外にいるわけではない。宇宙の中で生きていて、宇宙の中で時間を過ごしている。重力の中で立ち、リズムの中で眠り、光の中で一日を送り、見えない粒子に貫かれながら生きている。そう考えると、宇宙は急に「遠い研究対象」ではなくなる。
会場では、スマートフォンで作品の写真を撮り、AIと対話しながら見ていた。
量子技術の年表、ニュートリノの信号を言葉に変換していく作品、ブラックホールと量子もつれのパネル、宇宙線を光の点滅として感じさせる展示、数式が書き連ねられた黒板。ひとつひとつについて、これは何をしている作品なのか、なぜこう見えるのか、何が共通しているのかを言葉にしていった。
そのやりとりを通して見えてきたのは、この展覧会が「宇宙のことを教える展示」ではなく、見えないものを見える形にしようとする人間の試みを並べた展示でもある、ということだった。
宇宙線を光にする。観測信号を文字にする。物理現象を映像やファッションや空間体験へと移す。どれも、見えないものに輪郭を与えようとしている。
科学者もアーティストも、やっていることは少し似ているのかもしれない。方法は違う。けれどどちらも、「まだ見えていないもの」に対して手を伸ばしている。理解したい、近づきたい、応答したい。そういう人間の強い欲求のようなものが、会場全体に流れていた。
理解は難しい。けれど、難しいから遠ざかるのではなく、難しいままでも、何かが少し変わることがある。
宇宙が少し身近に感じられた。重力やリズムや見えない粒子が、自分の外の出来事ではなくなった。認知が少し変わる、というのは大げさではなく、たしかにそういう感じだった。見えないものを見えるようにしようとする営みに触れたこと自体が、有意義だったと思う。
宇宙は遠い。けれど同時に、ずっとここにある。
この展示は、そのあたりの感覚を、静かに、でも確実に変えてくる。